雨の中の支え
雨は容赦なく降り続いている。三人の服は完全に肌に張り付き、身体の芯まで冷え切っていた。靴の中はすでに水たまりと化し、一歩踏み出すたびにぐしゃり、ぐしゃりと嫌な音を立てる。霧がふと足を止めると、震える沙羅の唇が薄く色を失っているのに気づいた。
「白鷺、大丈夫か?」
霧が声をかけると、彼女は無理に微笑みながら首を振った。
「うん、私は平気だよ。でも……早く宿泊所に行かないと、暗くなったらもっと危なくなっちゃうし……」
沙羅はかじかむ手でスマホを握りしめ、地図を見つめた。その手の震えは、寒さのせいだけではない気がした。
「大丈夫だって」
霧が不敵に笑いながら肩をすくめる。
「俺たちなら何とかなるからさ」
その無根拠な言葉に、沙羅は戸惑いと安心の入り混じった表情を浮かべた。けれど、瑠璃は違う。霧の言葉を冷めた目で見つめ、低い声で呟く。
「言うのは簡単よね」
「簡単なことくらい言わせてくれよ、こういう時くらいさ」
濡れた前髪を無造作に払いながら見せる霧の軽い態度。それは表面的には無責任にも思えるが、そこには計算された「軽さ」があった。
霧は知っていたのだ。この状況で深刻な顔をしてみせたところで、何の助けにもならないことを。冷たい雨が容赦なく体力を奪い、不安が心を蝕む中、空気を重くしないことこそが二人を支える最善の手段だと信じていた。
「でも……桐原君がそう言うと、なんとなくそんな気がするかも」
沙羅が恐る恐る口にすると、霧は得意げに胸を張った。
「ほら、白鷺は俺を信じてるってさ!」
一方、瑠璃は「本当にお気楽ね」と呆れたように呟くが、その口元はわずかに緩んでいる。
瑠璃自身は気づいていない。霧の楽天的な言葉が、彼女の張り詰めた糸を静かに解きほぐしていることに。強さだけでは乗り越えられない現実の中で、その言葉は彼女の心に小さな灯火をともしていた。
宿泊所までの道がそう遠くないことを身体が感じ取っていた。霧と雨に閉ざされた山道を、三人は疲労を押し殺しながら進み続ける。雨音と共に、心の中で繰り返される「もう少し」という願いが彼らを前へと駆り立てていた。
しかし、その期待を打ち砕くように、大地が突然響き渡るような音を立てた。
「危ない!」
霧の声が咄嗟に響いた。
前方の山肌が崩れ、土砂が濁流となって押し寄せる。その中から、大きな岩が流され、まっすぐ沙羅の頭上へと迫っていた。
その瞬間、霧は何も考えることなく身体を動かしていた。雨の中で滲む視界の中、彼は迷いもなく駆け出した。
霧は一瞬の判断も躊躇うことなく、土砂の中で沙羅に向かって駆け出した。荒れ狂う雨と泥が視界を遮る中、彼女の肩を掴むと、その小さな体を力任せに突き飛ばした。
「きゃっ!」
沙羅の悲鳴が雨音にかき消される。次の瞬間、霧の足元が滑り、彼の体が岩と土砂の中に埋もれていった。激しい衝撃が全身を貫き、岩が霧の体を押しつけるように岩壁に食い込ませ、彼の動きを封じ込めた。
霧が岩に挟まれた瞬間、瑠璃と沙羅は言葉を失った。大雨が土砂を洗い流す中、二人はすぐに駆け寄る。
瑠璃は岩に両手を押し当て、全身の力を込めて押し出そうとした。隣では沙羅が涙目になりながら瑠璃の横で懸命に押している。しかし、滑る泥と雨が足元を不安定にし体重をかけても力が逃げてしまうせいか、岩はびくともしない。
手のひらに土砂が食い込むような痛みが広がるが、それでも瑠璃は諦めようとしなかった。
「いいよ、二人とも。無理すんな。俺なら平気だよ。白鷺が無事なら、こんなもん全然――」
「黙りなさい!」
瑠璃の声は雨音さえ切り裂くように鋭かった。
霧は目を丸くし、次にふっと笑った。「大丈夫だよ。俺、意外と頑丈だから」
「……そんなこと言われて、放っとけるわけないでしょ!」
瑠璃の声が震えた。その言葉に、彼女自身の心が揺れているのが滲み出ていた。
沙羅は震える手でスマホを取り出した。手の震えが止まらないまま、緊急通報の画面を開き、すぐに発信ボタンを押した。だが、耳を当てたスマホから聞こえてくるのは、いつまで経っても繋がらない無音。焦って画面を確認すると、通話の接続中の表示が出たまま進まない。
「どうして……さっきまでは普通に使えてたのに……」
画面右上のアンテナは、わずかに1本立っては消え、また点滅を繰り返している。
沙羅は雨で滑る手を何度も拭って操作しようとするが、反応は変わらなかった。
「一時的に電波が乱れてるだけかもしれない。でも、待ってる暇なんてない。私たちで動かすしかないわ」
瑠璃の声には焦りと決意が入り混じっていた。
瑠璃は冷たい雨に打たれながら、目の前の岩をじっと観察していた。全身に重い疲労がのしかかる中でも、彼女の瞳は鋭く何かを捉えようとしている。
「……よく見たらこの岩、完全に地面に密着しているわけじゃないわね」
瑠璃は静かに言葉を紡いだ。雨水が流れ込む隙間が、岩の下にほんのわずかだが見える。
「それって……どういうこと?」
沙羅が息を切らしながら瑠璃を見上げる。
「まだ動かせる可能性があるってことよ」
瑠璃の声には確かな決意が宿っていた。
「でも、支点をしっかり作らないと意味がないわ。それと、足元が滑るのも問題ね……」
瑠璃は冷たい雨で濡れた髪をかき上げ、鋭い目つきで周囲を見回す。
「支点になる石と、てこ棒として使える枝が必要ね。どっちも安定してて丈夫なものじゃないと意味がない。沙羅、一緒に探しましょう」
沙羅は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに頷いた。
「うん、わかった!どんなものがいいの?」
「石ならある程度の大きさがあって、雨や泥で滑らないもの。枝はできるだけ長くて太いやつ。折れそうなものは絶対ダメ」
瑠璃は短く説明すると、すぐに地面を探し始める。
霧が苦笑しながら、弱々しく口を開いた。
「なあ、もういいって。二人とも、先に戻れよ――」
「黙ってなさい!」
霧が言い終わる前に、瑠璃の怒声が雨音を突き破った。
「私たちがどれだけ必死か分かってるの?無駄口叩いてる暇があるなら、抜け出せるタイミングを見逃さないで!」
鋭い言葉が響く中、霧は思わず息を飲み、沙羅も小さく肩をすくめる。降りしきる雨の中、瑠璃の手は泥にまみれながらも、決して止まることはなかった。
瑠璃は荒い息を吐きながら、泥に埋もれた地面をかき分けた。指先が冷え切って感覚が鈍くなりつつも、使えそうな石を探し続ける。
雨で濡れた髪が頬に張り付き、視界が遮られるたびにイライラとそれを払った。
「瑠璃ちゃん、これ……どうかな?」
沙羅が両手でしっかりと抱え込むようにして、大きめの石を差し出した。彼女の手も泥だらけで、小さく震えている。
瑠璃は石をじっと見つめ、短く頷いた。
「いいわ。これなら使えそうね」
「よかった……!」
沙羅は安堵の表情を見せるが、そのまま座り込んでしまいそうなほどの疲労が滲んでいた。
「次は棒ね。私はあっちを探すから、沙羅はこの辺りを見てて」
瑠璃は足元の泥に気をつけながら、使えそうな枝を探して歩いた。雨は降り続き、全身が疲弊している。それでも、指先に感じる冷えや疲労に構っている暇はなかった。
「……これならいけるかも」
彼女の視線の先、倒木の一部が地面に半ば埋もれていた。長さも十分あり、太さもしっかりしている。瑠璃は迷わず泥に膝をつき、手を伸ばした。
指が触れた瞬間、冷たくぬるりとした感触が伝わり、一瞬だけ身体が強張る。雨と泥が混ざったそれは不快だったが、そんなことを気にしている余裕はない。
「瑠璃ちゃん……そっち、見つかった?」
少し離れた場所から、沙羅の不安げな声が聞こえた。
「見つかったわ。ちょっと太いけど……これなら折れる心配はなさそう」
沙羅とともに枝を引きずりながら戻ってくる様子を、霧は静かに見つめていた。
瑠璃は霧の視線を意に介することなく、無駄のない動きで石と枝を慎重に配置する。支点となる石をしっかりと固定し、太い枝を岩の隙間に押し込んだ。
「これで支点は大丈夫。あとは棒を適切な角度で差し込んで、うまく力をかけられるようにするだけ」
瑠璃は泥だらけの指先で棒の位置を微調整しながら、冷静に作業を進める。
「これで準備は整ったわ」
静かにそう言うと、瑠璃は棒の端を軽く押してみた。ぐらつかないか、支点がしっかり機能するかを確認する。わずかに手ごたえを感じ、彼女の目が鋭く光った。
「……いける」
「動かせそう?」
沙羅が心配そうに覗き込む。
「ええ、でも力の入れ方を間違えたら逆効果になるかもしれない。支点をずらさないように、慎重に押し込むわ」
瑠璃は深く息を吸い込むと、泥の上に足をしっかりと踏み固め、棒を握り直した。その横で沙羅も小さく頷き、彼女の動きに合わせる。
「……いい? 沙羅、息を合わせるわよ」
「うん……!」
沙羅は緊張した面持ちで頷き、瑠璃の掛け声を待つ。
雨が激しく地面を打つ音が響く中、瑠璃は静かにカウントを始めた。
「いくわよ。せーの――」
そして、二人は棒に全力で体重をかけた。
棒が軋む音が、雨音にかき消されることなく響いた。瑠璃と沙羅は全身の力を込めて棒の端を押し下げる。しかし、期待したほどの手応えはなく、岩はわずかに揺れたものの、ほとんど動かなかった。
「くっ……動かない……!」
瑠璃が歯を食いしばりながら、棒にさらに体重をかける。
「もう一回……!」
沙羅も泥まみれの手で棒を押しながら、必死に声を上げた。
「せーのっ!」
二人が再び全力を込めると、支点の石が微かにずれ、岩が数ミリだが傾いた。その瞬間、霧がかすかに声を漏らした。
「……ちょっと、動いた……!」
「なら……もう一押し!」
瑠璃は荒い息を吐きながら、棒を握る手にさらに力を込める。
しかし、足元の泥が彼女の体を不安定にし、滑りそうになる。それでも、彼女は踏ん張った。
「沙羅、もう少し……耐えられる?」
「うん……! でも……足が……滑りそう……!」
沙羅の声は震えていた。雨でぬかるんだ地面が、彼女の小さな足を確実に奪おうとしていた。
「ダメよ、絶対に離さないで!」
瑠璃が必死に支えるが、沙羅の体がぐらつく。
「……やれるなら……もう少し……!」
霧の声が、かすれながらも力強く響いた。
「俺、動けるかもしれない……だから……あと少しだけ、岩を……!」
瑠璃は決意を込めて、棒を握り直す。
「……もう一回!」
「うん……!」沙羅が最後の力を振り絞り、棒に全力を込めた。
「せーのっ!」
二人が叫ぶと同時に、岩がわずかに浮き上がる。その瞬間、霧は奥歯を噛みしめ、痛む体を奮い立たせるようにして力を込める。
「っ……くそ……!」
岩の圧迫がほんのわずかに緩んだのを感じ、彼は必死に腕を突っ張らせた。だが、まだ動けるほどの余裕はない。体を揺らすたびに鈍い痛みが走り、泥が足に絡みつく。
「桐崎君、今よ!」
瑠璃の鋭い声が雷鳴にかき消されそうになるが、それでも霧の耳にははっきりと届いた。
「……ッ、分かってる……!」
息を詰め、歯を食いしばる。足を泥の中でじわりとずらし、膝を動かそうとする。だが、思うように動かない。圧迫されていたせいで感覚が鈍くなり、力が入らないのだ。
「くそ……!」
霧は拳を握りしめ、腕に力を込めて地面を押す。少しでも隙間を広げようと、腰をひねり、肩をねじ込むようにして体をずらそうとする。
岩の下に沈んでいた足がじわりと動き始めた。まだ完全には抜けない。それでも、今なら――
「もう一押し!いける!」
瑠璃と沙羅が限界ぎりぎりの力を振り絞り、更に棒に全体重をかける。
「っ……!」
その一瞬、圧迫がさらにわずかに緩む。霧はその機を逃さず、全力で腕を突っ張り、体をひねり――
「っ……ぐっ……!!」
泥が跳ねる。石がずれる音が響く。
そして、ずるりと霧の体が岩の下から抜け出した。
「っ……はぁ……はぁ……」
霧は肩で息をしながら、泥だらけのまま地面に座り込んでいた。
「……出れた……?」
沙羅の震える声が、雨音の中でそっと零れた。
「……ああ……出れた……」
霧は荒い息を吐きながら、泥の中にへたり込んだ。全身が痛みで軋み、手足は痺れたように動かしづらい。
それでも、確かに自由を取り戻していた。
沙羅が崩れ落ちるように泥の上に座り込み、目に涙を滲ませながら霧を見つめた。
「よかった……本当に、よかった……!」
彼女の声は震えていて、少しでも気を緩めたら涙が溢れそうだった。
瑠璃はそんな霧を一瞥すると、乱れた息のまま泥を払った。
「……やっと、抜け出せたわね。……桐崎君、立てる?」
霧は肩で息をしながら、泥まみれの手を地面につき、ゆっくりと体を起こそうとした。しかし、足に力を入れようとした途端、鋭い痛みが走る。
「っ……くそ……」
膝が笑い、バランスを崩しそうになる。思わず手を突いて耐えたが、しびれた手足は思うように動かない。
「圧迫されていたんだから、いきなり立とうとしない方がいいわね。少し休みましょう」
「いや、これ以上座ってたら動けなくなりそうだし……」
霧は苦笑しながらもう一度立ち上がるが、膝に力が入らず泥の中へと再び崩れそうになる。
その瞬間、ぐっと腕を引かれる感触がした。
「……っ!」
驚いて視線を上げると、沙羅が必死に霧の腕を掴んでいた。
「……悪い」
霧は息を整えながら、沙羅の支えを借りてなんとか体勢を立て直す。
「助かった」
霧は何気なく沙羅の顔を見ると、一瞬だけ息をのんだ。
彼女の顔は、雨に濡れて涙と混じり、頬を伝う雫がどれなのかもわからない。それでも、その目は真っ直ぐに自分を見ていて、いつもよりずっと近く感じた。
「もう……無茶しないで……」
霧は何かを言おうとしたが、ふと別の視線を感じ、瑠璃の方を見た。
瑠璃は腕を組んだまま、じっと二人を見ていた。その表情は冷静そのものだが、どこか感情を押し殺しているように見える。
「沙羅、桐崎君を支えるのはいいけど、あんまり無理しないで」
「うん……でも、私、大丈夫だから」沙羅はそう言いながら、霧を支え続ける。瑠璃は少しだけ目を伏せると、静かに息を吐いた。
「……桐崎君、歩けそう?」
霧は沙羅の支えを感じながら、もう一度自分の足に力を入れてみる。痛みはまだ残るが、何とか立っていられそうだった。
「……まあ、なんとか」
「…そう。ゆっくりでいいから、向かいましょう」
瑠璃の声は冷静だったが、どこか静かな気遣いが滲んでいた。霧はそれに気づきながらも、わざと軽く笑う。
「鳳条さんて意外と優しいよな」
「……は?」
「いや、もっとドライな人かと思ってたんだけど、結構面倒見いいんだなって」
「……バカ言わないで」
瑠璃はじろりと霧を睨み、「私はただ、無駄に死人を出したくないだけよ」とそっけなく言い放つ。だが、その目が一瞬だけ霧の足元を確認するように動いたのを、彼は見逃さなかった。
「そういうことにしとくか」
霧はわざと肩をすくめて笑い、ゆっくりと一歩を踏み出す。
その動きを見ていた沙羅も、そっと霧の腕を支えながら微笑んだ。
「私、ちゃんと支えるから」
「頼りにしてる」
雨はまだ降り続いていたが、その冷たさとは裏腹に、三人の間には確かに温かなものが流れていた。




