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知り合いの話

「何でそこまで言われないといけないんだ?」

霧は静かに問いかける。先ほどまでの軽口は消え、彼の声には苛立ちがはっきりと滲んでいた。

「俺が白鷺に近づく理由を勝手に決めつけて、悪い奴扱いして……昔、そんなことがあったのか?誰かに裏切られたとかさ」

その言葉に、瑠璃の表情が一瞬だけ揺らいだ。ほんのわずかだったが、霧はその変化を見逃さなかった。

「……関係ないわ」

「いや、関係あるだろ。昔誰かが白鷺を傷つけたことがあって、今こんな風に俺を疑っているのなら…それを教えてくれよ」

霧は少し強めの声で食い下がった。「俺だって理由がわからないまま悪者にされるのは嫌なんだよ」


瑠璃は唇を噛みしめた。そして言葉を選ぶ時間を稼ぐように深々と溜め息をつく。そして少し遠くを見つめながら、静かに口を開いた。

「……違うわ、沙羅に何かあった訳じゃないの」

瑠璃の声は冷静だったが、どこか緊張が感じられた。

「これは、私の知り合いの話なんだけどね」と、瑠璃は声を落として語り始める。

「その人はね、大企業の娘だったの。親や親戚はみんな、家の名誉とか、血筋とか、そんなことばかり気にして、彼女の人生をコントロールしようとしていたのよ。彼女が何を好きかとか、どうしたいかなんて、誰も気にしない。ずっとそうやって抑圧された環境で育ってきたわけ」

霧は瑠璃の横顔を盗み見る。どこか感情を抑え込んでいるような口調に、彼は少しだけ眉をひそめた。

「それで?」と、軽く促すように尋ねる。

「彼女はそんな環境に嫌気がさしていたのよ。だから、『自分の人生くらい、自分で決めたい』って強く思うようになったの。結婚相手だって、親が勝手に決めた相手じゃなくて、ちゃんと自分で好きになった人と結婚したいって。ね、分かるでしょう?そういう気持ち」

「まあ……分からなくもないけどさ」

霧は小さく頷きながら答えた。

「それで、好きな人ができたってこと?」

「そう」

瑠璃は一瞬だけ目を伏せ、静かに続ける。

「その彼女が好きになったのはね、普通の家庭で育った、ごく平凡な男だったの。裕福でも何でもないし、大した取り柄もないけど彼は彼女にすごく優しかったのよ。彼女が親にどんなに縛られていても、その男はそんなこと気にしないで接してくれた。それがすごく救いだったみたいなの」

「そりゃあ、そうだろうな」

霧は腕を組みながら呟く。

「親が決めた相手とかより、自分を大事にしてくれる人が良いって思うのは普通のことだろ」

瑠璃は霧の反応にわずかに目を細めた。そして、ゆっくりと呼吸を整えるように言葉を続けた。

「彼女はね、年月を経て、その男と結婚することを決意したの。でも、もちろん親や親戚は猛反対したわ。『そんな人じゃ家の名誉が汚れる』とか、『どこの馬の骨とも分からない人間に娘は渡せない』とか、散々言われたみたい」

「へえ……なんか昔話みたいだな」

霧は軽く皮肉めいた口調で言ったが、その声にはどこか興味が含まれていた。

「彼女たち、そのときまだ大学生だったの。だから親たちが反対するのも当然といえば当然よ。お互いに経済力もないし、将来のことなんて何一つ考えられていなかった」

「大学生か……確かに、そりゃ反対されるだろうな」

「それでも彼はね、彼女に『どうしても君と結婚したい』って言ったのよ」

瑠璃はどこか淡々とした口調で言葉を続けたが、その声にはかすかな揺れが含まれていた。

「結婚を反対されて、彼女が落ち込んでいたとき、彼は何度も彼女に言ったの。『愛さえあれば、どんな困難だって乗り越えられる』って。それに彼は、決して諦めないって言い張ってたのよ。まるでヒーローみたいにね」

瑠璃の口元に浮かんだ笑みは冷ややかだった。

「ヒーローねえ……随分と大口叩いたな、その人」

霧は軽く皮肉を込めて返したが、その裏にはどこか感心しているような色が混じっていた。

「ええ。でも彼女にとって、その言葉は救いだったのよ。『親に反対されても、あなたがいるなら大丈夫』そう信じさせるには十分だった」

「ふうん…それで、どうなったんだ?」

「それで……彼女は、親を説得する方法を思いついたの。『既成事実』を作ればいいんだって」

「つまり……?」

「妊娠よ」

瑠璃は静かに言った。

「親に結婚を認めさせるためにね。相手の男も説得して、既成事実を作るしかないって思ったのよ。その結果、もう堕ろせない時期になってからようやく親に報告して……当然、大騒ぎになったわ」

「そりゃそうだろ。親からしたらたまったもんじゃないだろうし……そんなことまでして結婚したかったのか?」

霧は半分呆れ、半分興味深げに瑠璃を見つめた。

「彼女は本気だったのよ。“愛があれば何とかなる”ってね。彼女にとってはそれだけ純粋な恋だったの。でも、親たちにしてみれば、まさに悪夢だったわ。家の名誉を汚されるなんて言って、激しく責められたみたい」

瑠璃は感情を押し殺すように話したが、どこかその言葉には重みが感じられた。

「それで、結局その男と結婚したってわけか?」

霧は少し考え込むように言った。

「ええ。妊娠させた以上、責任を取るべきだということになって、二人は結婚したの。でもね……」

瑠璃の声がほんの少し低くなった。

「その男は大学を卒業した後もまともに働こうとしなかったの。彼女が裕福な家の娘だから、どうにかなるって思っていたのね。だから、彼女の財産に頼りきりの生活を始めたのよ」

瑠璃の目は、まるで過去を見つめているかのように遠くを見ていた。その姿に、霧は何か言葉を返すべきか迷ったが、結局押し黙ってしまった。

「彼女は、最初は『子育てが落ち着いたら働きたい』って彼が言うのを信じていたの。でもね、子どもが成長しても、彼は一向に働こうとしなかったのよ」

瑠璃の声には、冷静な響きがあったが、その奥には静かな怒りが隠れているように聞こえた。


「……子育てが理由か。確かに、最初はそれっぽく聞こえるけど、ずっとそれを言い訳にされたら……辛いよな」

霧はぼそりと呟いた。自分でも気づかぬうちに、額に薄い汗をかいていた。

「そう。彼は言い訳ばかりだった。『いずれ働くから』とか、『今は家族と一緒にいる時間が大事だから』とか。でも、結局何もしなかったのよ。ただ、彼女に頼りきりでね」

瑠璃は遠くを見つめながら、淡々と話し続けた。その言葉に、霧の心の中には小さなざわめきが生じていた。

「それで……彼女はどうしたんだ?」

霧は努めて軽い声を装って聞き返したが、喉が渇くのを感じた。瑠璃の話は、まるで自分が見透かされているような気がしてならなかったのだ。

「最初のうちは信じていたのよ。『この人はきっといつか変わってくれる』ってね。でも、人はそう簡単に変わらないものなの」

瑠璃の声には、どこか冷めた響きが混じっていた。

「彼女は、だんだんと疲れ果てていったわ。毎日彼の無責任さに直面してね。彼女がどれだけ努力しても、彼はそれを当然のように受け入れるだけだった。彼女が彼に期待するのをやめたとき、ようやく気づいたの。彼を変えようとすることが無駄だってことに」

霧は黙り込んだ。その話が自分の胸に突き刺さる理由を、彼は自覚していた。彼自身、どこかでそんな理想を抱いていたのだ。自分を全て受け入れてくれる相手に、努力もせずに寄りかかれる――そんな夢を。


「それで……結局、その彼女はどうしたんだ?」

霧は自分を落ち着かせるように、わざと軽い口調で尋ねた。

「彼女は、最終的に離婚を申し立てたわ。何も変わろうとせずただ彼女の資産を浪費する彼を見て、やっと愛想を尽かしたの」

瑠璃は静かに、しかしどこか感情を抑え込むように答えた。

「離婚……か」

霧は、妙に心が重くなるのを感じた。瑠璃の語る知り合いの話が、まるで自分の未来を見ているかのように思えてならなかったのだ。

「ええ、離婚。でも、それで終わりじゃなかったのよ」

瑠璃はふと視線を霧に向けた。その瞳には、鋭い光が宿っていた。

「終わりじゃなかった?」

霧が思わず問い返すと、瑠璃はほんの少し目を細めて微笑んだ。だが、その笑みには冷たさが滲んでいた。

「そう。彼女が離婚を決意したことで、彼はさらに醜い本性を見せたのよ」

瑠璃は一瞬目を閉じてから、静かに続けた。

「彼女が離婚を決意したことで、彼は完全に追い詰められたわ。でも、きっとそれは彼女や子どもと別れることが辛いからじゃないの。ただ、彼は楽な生活が終わることが、どうしても許せなかったのよ」

「楽な生活?」

「そう。彼は結婚してからというもの、一度だって真剣に働こうとしなかったの。何かにつけて理由をつけて、彼女に頼りきりの生活をしていたのよ。子育てやら体調不良やら、ありとあらゆる言い訳を並べてね。でも、本当はただ怠けていたかっただけ。それを、彼女がようやく理解したの」

「で、その人はどうしたんだ?離婚するしかなかったんだろう?」

霧はその場を取り繕うように、少し軽い調子で尋ねる。

「そう簡単にはいかなかったわ。彼女がどんなに毅然としていても、彼はすがりつくことをやめなかった。愛しているだの、変わるだの、口先だけの言葉を並べ立てて。でも、彼女はもう限界だったの。どんなに言葉を尽くされても、彼の本性を知ってしまった後じゃ、信じる余地なんて残っていなかったのよ」

「……それで、結局どうなったんだ?」

瑠璃は一瞬、遠くを見つめた。そして、まるで感情を押し殺すように小さく笑う。

「彼は最後の手段に出たのよ」

「手段?」

「彼女に泣きついて、哀れな自分を演じてみせたの。でも、それでもダメだとわかると、今度は彼女を責め始めたわ。『家族を捨てるなんてひどい』『こんなことになったのはお前のせいだ』ってね。自分の非を棚に上げて、彼女のせいにしたのよ」

瑠璃は冷ややかに霧を見つめた。その目には、彼女自身の苦しみと怒りが宿っているように見えた。

「でも、そんな男の言葉に耳を貸す彼女はもういなかったわ。離婚は成立して、彼はすべてを失った」

瑠璃はふっと視線を落とし、少しの間口を閉ざした。霧は彼女の沈黙が気まずく思えて、わざと軽い調子で口を開いた。

「で、無事に離婚できて終わり……ってことか?」

瑠璃はゆっくりと顔を上げ、霧を見つめた。その目には、ただの知り合いの話をしているとは思えないほどの感情が宿っているように思えた。

「いいえ、終わりじゃなかったわ」

霧は眉をひそめた。

「どういうことだよ?」

「離婚が成立した日、彼は最後の最後に最低なことをしたの。まだ七歳だった自分の子供を抱きかかえて、川に飛び込んだのよ」

「え……それ、本当の話なのか?」

「ええ、本当よ」と瑠璃は静かに答える。

「自分の人生が思い通りにならなくなった途端、彼はすべてを放り出したの。それでも、一人で終わることは許せなかったのね」

「それで……その子は?」

瑠璃は短く息を吐いた。

「幸いなことに、子供は助かったわ。たまたま近くに人がいて、すぐに救助されたの。でも……彼はそのまま命を落とした」

霧は言葉を失った。重い空気が二人の間に漂い、彼は視線をさまよわせた。何か言わなければならない気がしたが、どんな言葉もこの場にはふさわしくないように思えた。

「……そっか。でも、その男、本当にどうしようもない奴だな。子供まで巻き込むなんて……最低だろ、それ」

霧の言葉に、瑠璃はわずかに口元を歪めた。それが笑みなのか、それとも怒りなのか、霧には判断がつかなかった。

「そうね。最低だったわ。でも、それが人間の弱さというものなのよ。自分を守るためなら、どんな言い訳だってするし、どんなに醜い手段だって選ぶ。それを目の当たりにしたら……優しさなんて簡単に裏切られるものだって、よく分かるの」

その言葉に、霧は妙な居心地の悪さを覚えた。まるで、自分がその話の中の「最低な男」になぞらえられているような気がしてならなかったのだ。

「……まあ、子供が助かったのは不幸中の幸いだったな」

霧はそう呟きながらも、自分の声がどこか上滑りしているのを感じた。この話を続けてほしくないような、でもその先を知りたいような、矛盾した気持ちが胸の中でせめぎ合っている。瑠璃は、そんな霧の様子に気づいているのかいないのか、少しだけ視線を落とし、ぽつりと呟くように言葉を続けた。

「ええ、確かに幸いだったわ。でもね、その子が助かったからといって、めでたしめでたしってわけじゃないの」

霧は反射的に瑠璃を見た。その目は、普段の冷静さを保っているようでいて、どこか深い影が差しているように見えた。

「……どういう意味だ?」

「助かった後も、その子はずっと傷ついたままだったのよ。父親に裏切られた記憶、守ってもらえなかった記憶――それが、ずっと心に残り続けるの」

霧はどう反応したらいいのか分からず、無意味に首筋を触った。

「…そんなことがあったら、確かにトラウマになると思う。でもさ、その子だってきっと前を向いて歩いていけるし…どんなに辛いことがあっても、人間って少しずつ立ち直れるもんだと思うけど」

霧は不安を隠すように、わざと軽い口調で言った。けれど、その言葉に瑠璃は首を横に振る。

「立ち直れる?そうかもしれないわ。でもね、傷は消えないし、その傷が見る世界を変えてしまうと私は思うのよ」

「世界を……変える?」

「そう。人を信じることができなくなる。優しさがどこか偽りに見えるようになる。そして、目の前の相手がどんなに良い人でも……疑わずにはいられなくなるの」

瑠璃はそう言いながら霧をじっと見つめた。その視線は、まるで霧の心の奥底を見透かしているかのようだった。

「……それって、もしかして俺のこと言ってる?」

霧は笑いながら軽く肩をすくめたが、その笑顔はどこか引きつっていた。瑠璃はふっと微笑み返したが、その笑顔には少しも温かさがなかった。


「どうかしらね。でも、私が言いたいのは一つだけよ」

「……何だ?」

「他人の優しさを利用しようとする人間は、結局いつか自分自身を壊すことになるってこと」

霧はその言葉に息を呑んだ。だが、霧が何かを言おうとする前に、瑠璃は話題を切り替えるように空を見上げた。


「さて、この話はこれくらいにしておきましょう。重たすぎて桐崎君には似合わないものね」

瑠璃はそう言いながら、優雅に歩きだす。その一言に、霧は内心ほっとしたような、しかし釈然としない気持ちを抱えていた。

彼女が去っていくのをそのまま見送るべきか、それとも何か言うべきか――心の中で迷いが渦を巻いていた。


だが、気づけば彼は声を上げていた。


「鳳条さん!」


瑠璃の足が止まり、ゆっくりと振り返る。その動作には、彼女らしい冷静さとわずかな戸惑いが混じっていた。

「何?」

霧は一瞬言葉を詰まらせたが、深く息を吸い込んでから、目をそらさずに口を開いた。

「……確かに俺は楽して生きたいと思っているよ。誰かに寄りかかって、肩の力を抜いて気楽に暮らせたら、それが理想だって思う。だけど――その理想のために、誰かを傷つけたり、不幸にするなんて真似は、俺の生き方じゃない」

霧の声には、いつになく真剣さが滲んでいた。彼のいつもの軽口とは明らかに違う。そんな彼の姿に、瑠璃はしばらく黙っていた。そして、やがてゆっくりと口を開く。

「……言葉だけなら、どんな立派なことだって言えるわ」

冷静で、容赦のない言葉だった。霧はぐっと息を呑む。

「そうやって綺麗なことを言えば、自分の気持ちを正当化できるって思っているんでしょう」

「……鳳条さん、俺は――」

「私にはまだ、あなたがあの男と似たような人間に見えるのよ」

瑠璃は静かに、けれど明確に言葉を放った。その声には感情的な起伏はなく、むしろ事実を淡々と突きつけるような冷たさがあった。

「私はもう言葉に期待していないから、あなたの言うことに何の価値もないの。本当にそう思っているのなら――」

瑠璃は一歩彼に近づき、その視線を深く突き刺すように向けた。


「行動で証明しなさい」


彼女の言葉は鋭く、霧の胸を貫くようだった。それでも、彼は目をそらさず、彼女の視線を受け止めた。

「……わかったよ」

静かに、しかし確固たる声で霧は応えた。

「俺の行動を見ててくれ。俺がそういう人間じゃないって、ちゃんと証明してみせるから」

瑠璃は少しだけ瞳を細めた。彼女はそのまま視線を外し、再び歩き始める。

「そう。なら……見せてもらうわ」

その言葉を最後に、瑠璃の姿が周囲のざわめきに溶け込み段々と消えていく。その背中を見つめながら、霧は何とも言えない気持ちで立ち尽くしていた。

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