なくしもの
翌朝、霧はいつもと変わらぬ足取りで教室の扉を押し開けた。朝の光が差し込む中、騒がしい教室のざわめきが耳に心地よい。白鷺はすでに席について、ノートを広げながら友達と話している。その姿にちらりと視線を向けつつも、霧はそれを意識しない素振りで自分の席へと向かう。
ふと窓際の席に座る福家が目に入った。
福家沙月――腰まで届くストレートの黒髪が特徴的で、白い肌に薄い色の眼鏡をかけている。一見すると控えめで真面目そうだが、実際はその見た目と裏腹に気取らない話しやすいタイプだ。少し面倒くさがりな一面もあり、時折軽い口調で冗談を飛ばしてくることもある。その言葉遣いはラフだが嫌味がなく、自然体で親しみやすい雰囲気を持っていた。
福家沙月は先程から机に広げた数学の問題集とノートをじっと見つめている。シャーペンを握りしめた手は一向に動かず、悩ましげな表情を浮かべていた。問題に苦戦しているのだろうか。
「福家、何か困ってるのか?」
突然の声に、福家は肩を小さく跳ねさせた。そしてゆっくりと顔を上げ、薄い眼鏡越しの瞳で霧を見た。少し驚いたような表情だったが、それを隠すように軽く笑う。
「あ、桐崎?別にそんな、大したことじゃないんだけどさー。なんかこの問題、ちょっと引っかかっちゃって」
「いや、だいぶ詰まってそうな顔してたけどな」
霧は呆れたように彼女のノートを覗き込んだ。
机の上に広げられた数学の問題集とノート。目に入ったのは「sin²θ + cos²θ = 1」を利用した加法定理の証明に関する問題だった。
「どこが分からないんだ?」
福家はシャーペンをノートにトントンと軽く叩きながら、少し拗ねたように口を尖らせた。
「いやさ、公式使うのは分かってんだけど、その後どうやって整理すんのか分かんなくて。めっちゃ面倒くさいんだけど、これ」
「面倒くさいって……まあ、分かるけどさ」
霧は苦笑しながら空いている前の席に腰を下ろした。
「ほら、sin(A + B)の加法定理を使うんだよ。sinAcosB + cosAsinB、これな」
霧はノートの端にさらりと式を書き込む。福家はその手元をじっと見つめ、シャーペンを軽く回しながら「あー、なるほどね」と小さく頷いた。
「ここまで分かるか?」
「うんうん、そこはいいんだけどさー。この後どうすんの?それをまた整理すんのがわけわかんないんだけど」
「sin²θ + cos²θ = 1の公式を代入して簡単にするんだよ。ここをsin²A + cos²Aに置き換えれば……ほら、消えるだろ」
霧は計算の流れをノートに示し、解答を書き終えた。
福家は書かれた解答をじっと見つめ、少し眉を上げて「へえーなるほどね」と軽く息をついた。
「もっと早く教えてくれればよかったのに」
「いや、最初は福家が大したことないって言ったんだろ?」
「だってなんか恥ずかしいじゃん?“分かんない”って素直に言うのもさー」
福家は少し拗ねたように唇を尖らせたが、すぐに「あ、でも教えてくれてありがとね!」と軽く手を挙げて笑った。
「まあ、分からなかったら聞いてよ。こんな問題で時間食うのもったいないだろ」
霧は立ち上がり、ノートを閉じる福家を見下ろして言った。
「はーい、次もよろしく」
福家は軽く手をひらひらさせながら答える。
そのまま席へ戻るふりをしつつ、白鷺の方へ視線を送る。だが彼女は、友達との会話に集中していてこちらを気にする様子はない。
(まあ、こんなもんだよな。)
霧は心の中で小さくため息をつく――その時、不機嫌そうな声が教室の中央付近から響いた。
「ちょっと、ありえないんだけど!」
教室のざわめきが一瞬静まり、視線が声の主へ集中する。成富柚奈が机の周りをガサゴソと漁りながら、明らかに苛立ちを隠さない様子で何かを探していた。
成富には常に「注目されて当然」という空気が漂っている。光沢のある茶髪はきっちりセットされ、制服の袖口からはいつも何百万はするであろう腕時計が覗き見えている。それは見る者に高価だと思わせることを目的にしているように思えた。
「ない、ない!ねえ、マジでどこ?」成富は苛立たしげに叫び、机の下を覗き込む。
「私の財布、なくなったんだけど?」
クラスの空気が一瞬凍りついた。成富が「私の財布」と言った時点で、これは放置してはいけない案件になると全員が察していた。
クラスメイトの誰もが巻き込まれたくないと思ったのか気まずそうに視線を逸らす。
そんな中、霧は再びため息をついた。(あいつか……放っておいたら大騒ぎになりそうだな。)
彼は机を離れ、成富の元へ歩いていった。
「何がなくなったんだよ?」
「だから、財布!聞いてなかったの?」
成富は霧を見上げ、苛立ちを隠そうともしない。
「これ、今日新しいのに変えたばっかりなんだけど?めっちゃ気に入ってたのに!」
「どんな財布だよ」
霧は呆れた声で尋ねた。
「え?これだよ、ほら」
成富はスマホを取り出し、そこに保存されていた財布の写真を見せてきた。それは確かに高級感のあるデザインで、見るからに値段が張りそうなものだ。
「ね、これがないとか最悪でしょ?」
「最後に財布出したのはいつだ?」
「さっき、購買でパン買ったとき。で、教室戻ってきてからないの」
成富は腕を組み、苛立ちを募らせている。
「教室に来るまでにどこかで落としたのかもな」
霧は辺りを見回しながら言った。
「バッグの中とか、もう一回ちゃんと見たのか?」
「見たってば!そういう適当なアドバイスいらないんだけど?」
成富はますますイライラした様子でバッグを叩く。
「ねえ、ちゃんと探してよ、桐崎。あんた頭いいんでしょ?」
「……はいはい、わかったよ」
霧は仕方なく椅子を引き、成富の机周りを見回し始めた。
成富の机や椅子の下、近くの床、そしてカバンの中――ざっと見た限り、財布は見つからない。霧は少し眉をひそめて腕を組んだ。
「成富、教室に入ってきてから何か妙な動きしてなかったか?」
「してないし!普通に座って、パン出して、飲み物飲んだくらい!」
「成富、その飲み物はどうした?」
「……ゴミ箱に捨てたけど?普通でしょ?」
成富はやれやれという顔をしながら、指先で教室の端にあるゴミ箱を示した。
霧は視線をそちらに向けた。ゴミ箱の横には、教室掃除用のモップや雑巾が雑然と置かれている。そして、その雑然とした中に、霧の目は微かに光る金属の輝きを捉えた。
(まさか、な。)
霧はゴミ箱の方へ歩み寄り、腰を屈めてその輝きの正体を確かめた。そこにあったのは、掃除道具に半分隠れるように落ちていた財布だった。どうやら成富がゴミを捨てた際に、一緒に滑り落ちたらしい。
「……ここにあるぞ」
霧は財布を拾い上げて成富の方に向けた。
成富は一瞬ポカンとした顔をしたあと、急いで近寄ってきた。
「え!?なんでそこに!?」
「ゴミを捨てるときに手が滑って、財布ごと落ちたんだろうな。あそこ、ゴミ箱の横にちょっとした隙間があるし。誰もじっくり見ないから、そのまま見えなくなったんだろ」
「うそ……そんなことある?」
成富は財布を受け取り、呆れたように眺めたあと、ふっと笑った。
「マジですごいじゃん、桐原。よく見つけたね?」
「ま、見つかって何よりだ」
成富は財布を手のひらでぽんぽんと叩きながら、少し満足げな顔をしていた。しかし、次の瞬間、その表情が微妙に変わり、何かを思い出したかのように眉をひそめた。
「でもさ……これゴミ箱の横にあったんだよね?」
成富は財布をじっと見つめながら、わざとらしいほどに顔をしかめた。
「なんか、もうばっちくない?」
「……ばっちい?」
「そうじゃん!ゴミ箱の横だよ?そんなとこに落ちてた財布とか、なんか汚れてそうじゃん?」
成富は財布を指先でつまむように持ち、少し距離を取るような仕草を見せる。
「成富が落としたんだろ?それを今さらゴミ扱いするのかよ」
霧は呆れた声を出す。
「だって、そうじゃん。……うーん、これもう使う気なくなったわ」
成富は軽くため息をつきながら財布をバッグに突っ込む。
「新しいの買おうかな」
霧はその言葉に少しイラッとしながらも、表情をぐっと抑えた。
「おい、それさっきまで『めっちゃ高かった』とか言ってただろ?そんな簡単に捨てるのかよ」
「まあね。でも汚れた物使ってるとか、私のイメージに合わないし」
成富はまるで当然のことを言うようにさらりと答えた。
「……成富、財布がかわいそうだと思わないのか?」
「財布がかわいそう?」
成富はきょとんとした顔をしてから、クスリと笑った。
「なにそれ、桐崎おもしろ~い。」
「おもしろくねえよ」
霧は苛立ちを抑えるように頭を掻きながら立ち上がった。
「次からはちゃんと気をつけろよ。落として見つからなかったらそれこそ終わりだぞ」
「はーい、わかりましたー」
成富は軽い調子で手を振りながら、自分の席へと戻っていった。その様子を見送りながら、霧は内心でまたため息をついた。
そのまま席に戻る途中、霧はふと白鷺の方に目をやる。彼女はちらりと霧の方に視線を送った気がした。
成富の態度には疲れたが、これが白鷺に少しでも影響を与えたならこの騒ぎも意味があったはずだ――そう信じたい気持ちだった。




