盗み聞き
翌日、霧が教室の扉を開けると、朝のざわつきの中で一際目立つ冷たい視線が突き刺さった。目をやると、案の定、鳳条瑠璃が腕を組んで立っていた。その表情は氷の彫刻のように冷ややかで、姿勢の良さがさらに威圧感を増している。
「あら桐崎君、おはよう。昨日のデート、あれからどうだった?」
霧は一瞬息を呑んだが、すぐに平静を装い、鞄を机に置きながら椅子に座る。
「まあ、普通に楽しかったけど。特に問題なく終わったし」
「へえ、“特に問題なく”ね。まあ、桐崎君みたいな人が相手じゃ、沙羅もドキドキするわけないものね」
「おいおい、朝から随分手厳しいな」霧は乾いた笑いを浮かべる。
「事実を言ってるだけよ。桐崎君、まさか自分が沙羅の心を少しでも動かせたと思ってるんじゃないでしょうね?」
「いや、そこまで自惚れられないよ」霧は肩をすくめて答えるが、その裏では昨日の沙羅との会話が脳裏をよぎっていた。
(……確かに、楽しかったって言ってくれたけど、あれが友達としての“楽しい”だったってことは、俺だって分かってるさ)
瑠璃はそんな霧の様子を見て、ふっと口元に笑みを浮かべた。その笑顔は皮肉たっぷりで、どこか楽しんでいるようにも見える。
「まあ、沙羅にとっては、あなたは安心できる存在なんでしょうね。恋愛対象というより、頼れる兄弟みたいな」瑠璃はわざとらしく目を細めながら、机に寄りかかる。
その言葉に、霧の胸の奥で何かがギリギリと音を立てた。言われたくないことを、あっさりと突きつけられるこの感覚。瑠璃はそれを完全に理解して、わざとやっているのだ。
「これからも沙羅の良き兄でいてちょうだいね」
瑠璃の声は柔らかい調子を保ちながらも、明らかに皮肉が込められていた。その上、余裕たっぷりの笑みまで添えられるものだから、霧の胸にはじんわりとした怒りと悔しさが広がる。
「兄って……俺は――」
霧は言い返そうとしたが、言葉が喉で詰まる。
(結局、俺は沙羅にとってただの“安心できる存在”なんだよな……それ以上にはなれてない。昨日の“楽しかった”だって、その範囲だったってことかよ)
霧は無意識に拳を握りしめ、黙り込んだ。そんな彼を見て、瑠璃はほんのわずかに眉をひそめる。
「ま、気を落とさないで。沙羅にとってあなたが大事な人であることには変わりないと思うわ。恋愛対象ではないとしても、ね」
瑠璃は机から離れ、さっさと自分の席に向かう。その背中は霧に“これ以上話す価値もない”と暗に告げているかのようだった。
霧は机に肘をつきながら頭を抱え、静かに息を吐いた。
(ちくしょう……。俺って、そんなに魅力ないのか?)
霧は心の中で自分を奮い立たせるように拳を握りしめる。瑠璃の言葉は確かに胸を刺したが、それでも完全に負けを認める気にはなれない。
(白鷺にとって俺が“お兄ちゃん”止まりだって言うなら、そこを突破して……突破できるのか?俺に…)
その時、教室の外から沙羅の朗らかな声が響いた。
やがて教室に入ってきた彼女の無邪気な笑顔を目にした瞬間、胸が締めつけられるような感覚にとらわれた。
桐崎霧は、机に突っ伏しながら深く溜息をついた。沙羅との楽しい時間を思い返そうとしても、その後ろにちらつく鳳条瑠璃の冷たい視線が脳裏にこびりついて離れない。
(なんでだよ……なんであいつはいつも俺に絡んでくるんだよ)
霧は無意識に拳を握りしめた。瑠璃に嫌われている理由が分からない。別に彼女と仲良くしようと思ったこともないし、何か悪いことをした記憶もない。それどころか、彼女から向けられる冷たい視線や辛辣な言葉の数々には、ひたすら耐えるばかりだ。
(白鷺といい雰囲気になろうとすると、必ずあいつが横から入ってきやがる。しかも、なんであんなに的確に俺の心をえぐれるんだよ……嫌がらせにしてはハイレベルすぎるだろ)
霧はコツコツと机を指で叩きながら、ひとりで悶々とした思考に浸る。沙羅にとっての「お兄ちゃん」ポジションから抜け出そうとしても、まるで瑠璃がその扉を鍵で閉ざしているような気さえしていた。
(あいつ、本当に何がしたいんだ?俺に沙羅を諦めさせたいのか、単に俺を虐めて楽しんでるだけなのか……)
思考を巡らせていると、瑠璃の冷たい目元や、薄く笑みを浮かべながら辛辣な言葉を放つ姿が、はっきりと頭に浮かんできた。
霧は思考の迷路に迷い込み、机をコツコツと叩く手を止めた。気づけば、沙羅の明るい笑顔と瑠璃の冷ややかな目が、交互に頭の中を支配している。
(……もういっそ、白鷺以外の誰かにアプローチしたほうがいいのかもしれないな)
ふいにクラスの女子たちが楽しそうに会話をしているのが耳に入った。軽い笑い声と、テスト勉強の話題。特に気に留めていなかった彼女たちの姿が、今は妙に気になった。
(他の人に目を向ければ、もっと簡単に恋愛できるのかもな。白鷺に執着しているのが、そもそも間違いなのかも)
そう思う一方で、沙羅の笑顔が脳内に浮かび上がってくる。彼女が嬉しそうに話す声や、ふとした仕草が勝手に思い出されてしまう。
簡単に諦められるのなら、こんなに悩むことも、胸を締めつけられるような感情に苛まれることもないのだ。
ある休日の夜、コンビニの袋を片手にぶら下げ、霧は静かな夜道を歩いていた。袋の中で弁当とペットボトルがカサカサと音を立てている。ささやかな夜食を手に入れた満足感の中で、街灯の下をふらりと歩いていると、不意に耳に引っかかる声があった。
聞き覚えのある、しかしどこかいつもと違うトーンの声。
「……だから、無理だと言っているじゃないですか。それを私に押し付けられても困ります」
足が止まった。声の主を探して辺りを見回すと、街灯の明かりが届きにくい薄暗い路地の一角に鳳条瑠璃の姿を見つけた。
普段の堂々とした雰囲気はどこか影を潜め、彼女は壁にもたれかかるように立っている。視線は足元に落ち、どこか疲れた様子が見て取れた。
「……ええ、分かりました。次の会合には必ず出席します。でも、期待しないでください。私一人でどうにかできるような問題じゃありませんから」
会合?何の話だ?霧は聞き耳を立てながら、彼女の話の内容を推測しようとする。電話相手は家族だろうか。なんにせよ、瑠璃がこんなに不安そうな声を出すのは珍しい。
「……いえ、別に逃げるつもりはありません。ただ、無茶な要求を押し付けないでほしいだけです。それだけですから」
言葉の最後には微かな震えが混じっていた。瑠璃は相手に何度か短く頷くように応え、電話を切ると深々と息を吐いた。その肩が一瞬だけ落ちるのを見て、霧は思わず目を見張った。
(なんだよ、あいつ……いつもの偉そうな態度と全然違うじゃないか。)
霧の中で、瑠璃に対するこれまでの印象が微妙に揺れ動いていた。いつも冷たく、高慢で、少しの隙も見せない彼女が今目の前で深い溜息をついている。その一瞬の弱さを見たことで、妙に親近感のようなものが湧いてきた。
電話を終えた瑠璃は薄暗い街灯の下で一人、ほんのわずかに天を仰ぐ。
霧はその様子を窺いながら、声をかけるべきか迷っていた。
(いやいや、待て待て。こんな時に声をかけたら余計に面倒なことになるだろ。絶対に「何よ、桐崎君?盗み聞きなんて趣味が悪いわね」とか言われるに決まってる)
結局、霧は静かにその場を離れることにした。
街灯の光が届かない裏道を音を立てないように歩きながら、霧は胸の中に何とも言えない違和感を抱えていた。
(なんか、あいつが普通の人間っぽい所を見ちゃうと、いつものムカつく鳳条と同じ人物だと思えなくなるな……)
冷たい夜風が霧の頬を撫でた。けれど、さっき見た瑠璃の姿はどうにも頭から離れない。




