寝て起きたらこうなってた
「……は?」
思わず呆けた声が出た。
鬱蒼とした森の中、私はなぜか裸足のパジャマ姿で茂った雑草に埋もれて地面に寝転んでいた。
寝床の硬さと冷たさに違和感を感じて目を覚したらこんな自体に。
私、なにしてんの?
全然覚えてない。何が何やらさっぱり。
ええと、昨日は普通に仕事を終えて家に帰ってベッドで就寝。何も変わり映えしない日常の終わり方だったはずだ。
あー、明日は朝から出張だから早起きしなきゃって、スマホのアラームをセットしてウンザリしながら体を横たえたのは覚えている。
それなのに、いつの間に外に出た?
お酒なんて一滴も飲んでいないし、いくらなんでも寝相の悪さや夢遊病の域を超えてるでしょ。
ていうか、ここどこ?
何者かに寝ている間に拉致られて山に捨てられた、とか?
なにその意味のわからない嫌がらせ……いや、鍵はチェーンまで掛けたはずだから誰かが侵入するなんてあり得ないし、いくら疲れてたからって運ばれてれば流石に起きるって。
まさか。
これは異世界転生ってやつか?
いや、この場合は転移?
最近のアニメや小説で、異世界とか時空の遡りとか、そんな設定がウケているのは知っていた。私もネット小説なら何作か読んだこともある。
叶えられなかった願いや後悔は誰しも持っているものだし、『人生をやり直したい』という思いが少しでも根底にあれば、夢見てしまう世界感。
とはいえ、私は転生や転移ものによくあるトラックに轢かれそうになったり、穴に落ちたり、眩い光に包まれたりした記憶はない。
普通の日常の流れから、ふと目が覚めたら着の身着のまま森の中で。
そして、ここからが結構大事なんだけど。
さっきからずっと目の前にどう見ても足の本数が多くて鋭い牙の生物がいるんですよねぇ……。
「グルゥヤラアダ…ゴゥグウゥ…アウガヴァ」
ワンでもニャーでもなく。モーでもブーでもなく。
グルゥヤ…ゴ……、なんて?
地響きのような唸り声。
こんな鳴き声の動物、知らない。
一見大型犬のようにみえるけれど、裂けた口から滴る涎と鋭い牙と二股に分かれた長い舌が覗いていて、何より足が六本ある……。
はい、これはもう現実じゃないわ。
こんな生き物説明つかないわ。
そうですね、異世界ですね。
バキバキの双眼がライトのように光って、私は完全にロックオンされていた。少しでも動けば飛びかかる気満々だ。
こいつ、うちの会社の新入社員に爪の垢煎じて飲ませてあげたいくらいヤル気に満ち溢れた目をしている。
うん、終わった……。
ここが異世界で流行りの転移なのだとしても、よくわからないうちにこんなめちゃくちゃな状況に置かれて、秒で終わるなんてさらに意味がわからない。
私は別に人生をやり直したいとは思っていなかったのに、神様何してくれてんの。
「ウギャキャガャカァァガ!!!」
「きゃあぁいゃあぁ!!」
とうとう不細工な鳴き声とともにこっちに向かって突進してきた化け物に、負けず劣らずの悲鳴を上げて顔を伏せ地面に踞った。
「痛いのいやぁあぁあ!! 殺すならひと思いにガブっとお願いしますうぅうぅ!!!」
「ギャッフ……ッ」
すぐに訪れるだろう痛みにきつく目を瞑ってその時を待ったけれど、いくら待ってもそれは訪れなかった。
……ていうか、あの化け物『ぎゃふん』って言わなかった?
ガサガサガサ、と草木を踏みつけ歩くような音はまだ聞こえてくるし、自分以外の気配が近くにあるのを感じるけれど、先ほどまでの唸り声は聞こえない。
そろり、と視線を上げれば黒い影が自分の横を通り過ぎた。
「ひっ…!?」
再び化け物が出たのかと肩を強張らせれば、それは二足歩行の……よく見たら人間の男だった。
しゃがみ込んだ大きな背中には弓筒を背負っているのが見える。
男が矢の刺さったさっきの化け物を掴み上げ、矢尻を引き抜くとグチャッと肉が潰れるような嫌な音がした。
思わず引き攣った声を上げた口を両手で塞いで息を詰める。
う、うわぁ……誰……なんだろう…。
良いひとなのか悪いひとなのか分からなくて声が掛けられない。ただの村人A、狩人Bみたいにも見えるけど、でも、もし悪い人だったら奴隷や娼館に売られる可能性だってあるのかも。
私の存在には気付いているんだろうけど、興味がないのか男は背を向けたまま。化け物からボタボタと滴る血を気にすることもなく、手際よく皮を剥いだり内臓を取り出したりと、下処理に忙しそうだ。
その光景は正直言ってグロイ。なのに男は何の躊躇もなくあっという間に解体した元化け物を、手にしていた麻袋に雑に突っ込むと漸くこちらを向いた。
「…っ」
背の高い雑草の隙間から見る男は、化け物よりも恐ろしく思えた。
190は超えそうな見上げる長身に服の上からでもわかる鍛え上げられた分厚い体。
暗い森の中、僅かな月明かりに浮かび上がる堀の深い整った顔立ちは冷たい彫刻のようでいて、その眼光は生命力に溢れ、強く鋭い。
目が合うだけで、ぞくりと肌が泡立つような威圧感。
村人Aどころか、どうみてもただものじゃないんですけど!?
固まっている私に、一歩、また一歩と男は近づいてくる。
使い込まれた黒くてゴツいブーツが目の前で止まった。
地面に肘をついて蹲る姿のまま見上げる私の頭上に声が降る。
「おい、女。そこで何をしている?」
あ、良い声。そしてまさかの日本語。
言葉が通じることにちょっとだけ安堵すると同時に(いやたしかに何してんのかな私……)とパジャマ姿でハッと我に帰る。
男の問いに何と答えるのが正解なのか。
あの変な生き物を目の当たりにして、多分もうここが日本どころか地球でさえないだろうことは薄々わかってきているけれど、だからって、異世界から転移してきました〜なんて言うのは怪しすぎるだろ。
だから、ひとまず顔を上げてお礼を言うことに。
「ありがとう、ございました。た、助けてくれて……」
「……」
無視?
頑張って口を開いたのに、聞かれたことに答えなかったことが気に障ったのだろうか。
男は私の言葉に僅かに眉を寄せると、そばにしゃがみ込んで私の顎を遠慮なくガシッと掴んできた。
思わず「ひぇっ」と短い悲鳴をあげたけど、そんなものはお構いなしとばかりに顎を掴んだ手を左右に傾けて、舐めるように私の顔をじっくりと観察している。
硬い指の感触。射抜かれそうな強い視線に自ずと緊張が走る。
これなんの時間?
顔の品定めですか?
えっ、まさか本当に売られるコースじゃないだろうな……!?
自分の顔を凝視されているということは、相手の顔だって近い。こうして近づけば月明かりだけでも男の顔の造作がよく見える。
こんな状況だけど、男はハリウッド俳優も裸足で逃げ出す程の、ものすごいイケメンだった。
長いまつ毛、左右対称の切れ長の金の瞳に鼻筋フェチとしてはたまらないスッと通った綺麗な鼻。キスしたら気持ちよさそうなふっくらとした形の良い唇……。
手入れをしていないパサついた髪と無精髭が絶妙なスパイスになってしまう、ワイルドでとにかくうっとりするほどの美形だった。
なんならしばらくこの状態でも良いくらい見飽きない。ずっと見ていられる。
しかし、男の方はそうではなかったようだ。
私の顔を見れば見るほどその綺麗な瞳を曇らせていく。
ついにはペイっと顎を放るように突き離された。
おいおい、レディに対してなんて失礼なやつだ。
男に比べたら私の顔面なんてその辺の雑草のようなものだろうけどな。こう見えて私は繊細なところがあるんだぞ。
掴まれていた顎を恨めしげに擦りながら男を睨むと、男は表情を歪めたまま鼻で笑った。
「なぜお前がこんなところにいる? 男にでも捨てられたか」
嫌な物言いをしながらも、男は自分が立ち上がるときに地面に座り込んでいた私の手も引き起こしてくれた。
実は腰が抜けていたので意外なジェントルさにちょっとだけ警戒が緩む。
「何故なのかは私が聞きたいです。私、捨てられたんでしょうか?」
「……知らねぇよ」
冷たい返答に、「ですよねえ」と愛想笑いを浮かべる。
「気付いたらここにいて、どうしたらいいのかよくわからなくて。ちなみに、ここってどこですか?」
「……西の果ての森だ。だいぶ山奥でもある。とてもひとりで来れる場所じゃない」
「え? でも、貴方は来ているじゃないですか」
キョトンと聞き返せば男のこめかみがピクリと動いた。
「俺を誰だと思ってるんだ」
「誰ですかね?」
「……は?」
首を傾げる私に男が怪訝な顔をする。
あれ……この人、もしかして有名人だった? 承認欲求強めの人?
プライド傷つけちゃったんなら申し訳ないけど、転移ホヤホヤの私としては知らないしなぁ……。
誤魔化すようにヘラリとした笑みを貼り付けると、ますます男が不機嫌そうに眉を寄せた。
「えっと、あなたのお名前を教えてもらえますか? あ、一応、私は真矢先 詩って言います」
「マヤサキウタ?」
「はい。詩、が名前です」
「ウタ……だと……?」
男は口元を片手で覆い、思い詰めたような顔つきで私の名前を何度か手の内側で口にしていた。
たまにチラリと疑う様な視線を寄越されて、その度に「えへへ…」と愛想笑いで返す。
なんかよくわかんないけどヘラヘラすることで無害をアピールする。怪しい者ではありません。ただの事勿れ主義の日本人です。
「お前は……自分がなぜここにいるかわからないと言ったな。まさか、記憶がないとでも?」
先ほどよりは若干の緩んだ空気で、けれど探るような鋭い視線で男が尋ねてきた。
「ええっと、記憶がないというより、いつのまにかここに居た、という感じで。生まれてからの記憶はもちろんありますけど、ここに来た経緯だけがわからないんです。ベッドに入って寝て起きたらすでに森の中で………」
「お前は何を言っているんだ」
「ええ、ほんと私は何を言っているんでしょうか?」
私、完全にヤバいやつになっている。
現に男はため息をついて腕を組んだ。
腕組みってたしか相手を警戒してたり不安や拒絶の心理の現れって言いますもんねー。
それでも、今頼れるのはこの人しかいない気がする。幸い言葉も通じるみたいだし、ここに取り残されたら私は100パー死ぬ。またあの変な犬擬きに出くわしたら次こそドッグフードにされるだろう。
土下座してでもこの場所から連れ出してもらわなければ、生き残る道はないのだ。
生存本能が、全力でこの男を逃すなと言っている。
「あの、お願いがあります!!」
「聞きたくねぇな……」
男からボソリと溢された言葉は無視した。
「足手纏いなのは承知していますが、どうか私を安全な場所に連れて行ってもらえませんか? またあの変な犬が来るかもしれないし、それに私ひとりじゃどうやってどこに行ったらいいのかもわからないし」
男は腕を組んだまま私を見据えていた。
どうしようか迷っているのなら、どうかイエスと言ってくれ。
こんな怪しい女と道中を共にするのは嫌だろうけど、まさか置いていかないよね? ね?
祈るように両手を組んで畳み掛けた。
「お願いします! あの、お礼はいつか必ずしますので!」
「……」
「今は何も持ってないけど、とりあえず働いてお金を貯めますから! 少しだけ待って貰えれば、その時のお給料次第ではありますけど……あ、ご住所お伺いできればお花とかお菓子とかお贈りしますので!」
「お前が働く……? 本気で言っているのか?」
「はいっ! もちろんです!」
働かざるもの食うべからず。
私の座右の銘である!
これでも前の世界では、名の知れた企業の社畜戦士だったのだ。サービス残業も承ります。
まずこのよくわからない世界で就職できるかは定かではないけど、どちらにしても働かないと生きていけないんだから働きますとも。出来れば娼館と奴隷以外で。ほら、人間向き不向きってあるから。
男は目を見開いて驚いたような顔をしたかと思えば、額に片手を当て俯いてしまった。その直後、深く長い溜息が落とされる。
えっ、その反応は、どっち?
「あーえっと、お花とかお菓子が嫌なら、肩揉みとかも結構得意で……」
「わかった」
「す……へ?」
「俺と一緒に来い」
肩揉みだったー!!
お礼は肩揉みが正解だったー!! おばあちゃんみたい!!
「おば…っ、いえ、兄貴!! ありがとうございますっ!! ありがとうございますっ!!」
「兄貴……?」
生命線が繋がったことが嬉しくて首をブンブン縦に振ってお礼を言うと困ったような微妙な顔をされた。
これからどうなるかはわからないけど、この強そうな人が一緒なら犬の化け物も怖くない。
森を抜けて街にさえ出られれば、なんとかなる気がする。というか、人間が住める場所であるならここよりマシなはずだから。
元の世界に戻れるかは、この際あとで考えればいい。まずは生き延びることが優先だ。
ニコニコしていれば、徐に男が近づいてきて片腕で私を持ち上げた。それも子供を縦に抱っこするみたいにヒョイって。
「うわぁっ?! な、なに急に!?」
おろして欲しい、切実に。
背の高い男に持ち上げられると視界が高くなって怖い。イケメンに抱き抱えられてキュンとかじゃない。ある意味拘束に近く、自分の身のふりを自由に出来ないのは不安だ。
私が手足をバタバタさせて抵抗すると、煩わしそうな舌打ちが聞こえた。
「お前、靴を履いていないだろうが」
「靴!? 大丈夫です、私歩けます! 足の皮厚いんで!」
「こんなに薄い皮で何を言う。それにお前の短い歩幅に合わせてられるか。文句があるなら置いていくぞ」
「あ、ないです」
置いていかれたら堪らない。すぐにおとなしくなった私に、男が喉の奥でクッと笑った。
マ、マジか……。
初めて男の笑った顔を見て、私は慄いた。
遠目で見たらた山籠りの狩人風情なのに。
年齢だって、おそらく私よりずっと年上だろうに。
なんだこのイケオジは……っ!?
やばい。このレベルの顔面がスタンダードな世界だったらどうしよう。異世界ものにみんな美形とかよくあるけど、もしそうなら絶望しかない。
だってこんな美男美女に囲まれてしまったら私の地味な容貌なんてとんでもないブスに区分けされるのではないだろうか。
街に行ったらいじめられない? 私、就職できる?
私を抱えてザックザックと森を進む男の横顔を見ながら、新たに押し寄せる不安にそっと胸をおさえた。