レーシィの森(1) カシェの泉へ
僕とサリナ、アンフィは「ムネアカアントラー」に会うため、「レーシィの森」に来ている。「レーシィの森」は「ブカスの森」の隣に広がる、深い深い森だ。境界は曖昧で、道も標もないのに、一歩足を踏み入れただけで空気が別物になる。
葉の擦れ合う音すら、どこか澄んだ響きで耳に届く。ほのかに甘い香りが漂い、目には見えない光が揺らめくような気がする。生えている魔植物の姿も、ブカスの森とはまるで違う。葉の縁が光を帯びるもの、つるの先がふわふわと動くもの。森そのものが、意思を持つように思えるほどだ。
魔素の密度は肌にぴりぴりとした刺激を与え、どこか時間の感覚すら狂わされるような感覚に陥る。まるで森に飲み込まれていくような、そんな場所だ。
とても広い森で、ブカスの森の約2倍の広さがあるという。でもそれすら、どこまでも続く大森林のほんの一部に過ぎない。(ブカスの森は約250ヘクタール、ビレッジ・ユリアスは5ヘクタールだ)
ブカスの森も、人の気配がほとんどないとはいえ、数年に1度くらいは素材採取を目当てにパーティが挑んでいた。ただし、入った者たちが必ず帰れたわけじゃない。
このレーシィの森に至っては、ここ50~60年、人が入った記録すらないらしい。森の奥に住む魔物たちは、ブカスの森の住人よりもさらに格上で、上位種こそ少ないものの、最低でもCランクだという。
「サリナが頼りだね」
僕もアンフィも、この森には初めて足を踏み入れた。サリナだけが、数度訪れた経験があるらしい。僕たちは彼女の後ろをついていくが――
「大分、森の様子が変わっていますね」
なんて、さらりと恐ろしいことを言う。やめてよ! 怖いから!
進むごとに、木々の間から光の筋が降り注ぐ。その光すら、緑や青の淡い色を帯びて揺れ動き、どこか現実離れしている。風が運んでくる葉の香りも一瞬ごとに違う気がして、胸が高鳴る。
「大丈夫ですよ、ユリアス様。スプーンはお持ちになられましたか?」
「持ってきたけど、何に使うの?」
僕はサリナに言われた通り、鞄から銀のスプーンを取り出す。森の空気を受けて、スプーンの銀がわずかに青く光るように見えた。
「これで道案内を請うのですわ」
「へっ?」
「まあ、少し待ちましょう」
サリナはスプーンをそっと苔むした地面に置いた。森の地面は、やわらかい苔が絨毯のように敷き詰められていて、踏み込むとしっとりとした感触が伝わってくる。森の奥に来たのだと、改めて実感した。
サリナが隣に腰を下ろす。僕たちも慌てて座った。そこに流れる空気はどこか張り詰めていて、呼吸すら控えたくなる。
しばらく沈黙が続いた。遠くからはポタリ、と水滴が落ちる音が響く。だが、それすら森に溶けていくような、深い静寂だ。
そのとき、突然、バサッ――!という羽音が、森の天蓋から降ってきた。まるで空気を切り裂くような鋭い音。黒い影が葉の間を縫うように降りてくる。
その姿は真っ黒い鳥だった。瞳だけが蒼く光り、森の緑の中で不思議に浮かび上がる。全身から微かに漂う魔力が、ただの鳥ではないことを教えてくる。
黒い鳥魔物は、スプーンの周りをぴょんぴょんと跳ねながら、弾む声を上げた。
「ねえねえ。これ、きれいだねきれいだね!」
まさか人語を話すとは――!
「綺麗でしょ!?」
「きれいきれい! ねえねえ、ちょうだいちょうだい!」
「あげるわ。でもお願いがあるの。聞いてくれるかしら?」
「なになに? きくよきくよ。いってみて!」
「カシェの泉に案内してくれるかしら?」
「いいよ! じゃあ、もらっていい? もらっていい?」
「どうぞ」
黒い鳥魔物はスプーンを咥えると、翼をばさりと広げて飛び立ち、どこかへ隠すように飛び去ったかと思うと、すぐに戻ってきた。
「じゃあ、いこういこう!」
アンフィによれば、この魔物は「フッケバイン」というらしい。
フッケバインは僕の頭にひょいと飛び乗り、「まっすぐまっすぐ」とか「その木をみぎみぎ」と、細かく指示を出し始めた。頭に乗られてもほとんど重みを感じないが、頭上で翼がふわふわと震えているのがくすぐったい。
森を進むごとに、木々の根元にはきらきらと輝く小さな苔や、発光するきのこが点々と生えていた。空気の粒子そのものが光を帯びて漂うようで、息を呑むほど神秘的だ。
「ねえねえ。ゆりあす。なんのよう?なんのよう?」
泉に何の用かを訊かれているらしい。それにはサリナが代わりに答える。
「お友達に会いたいのよ」
「僕の名前をどうして知ってるの?」
「さっき、いってたよいってたよ」
どうやら、僕らの会話をちゃんと聞いていたらしい。
「じゃあ、君の名前は?」
「あははっ。へんなのへんなの。ぼくになまえないよないよ」
「そうなんだね。じゃあ、君は“マウデン”にしよう。君は今日からマウデンだよ」
漆黒の羽を持つその姿に、古代語で「黒」を意味する名前を付けた。
「まうでん? ぼくのなまえ……。まうでん、まうでん! ぼくはまうでん♪」
マウデンは翼をぱたぱたさせながら、小さな歌のように声を弾ませた。
僕たちはマウデンの導きで、さらに森の奥へと分け入っていく。
途中、宝石のような目を持つ「カーバンクル」というリスに似た魔物に襲われたりもした。可愛らしい外見とは裏腹に、鋭い牙と素早い動きに肝を冷やす。
どこまで歩いたかも分からなくなるほど、森の中は時間感覚を失わせる。不意に吹く風は、まるで誰かが耳元で囁いているようだ。
歩き続けること3時間ほど。急に、木々の間から、青白い光がちらちらと漏れ始めた。
数歩進むと、ぱっと視界が開けた。目の前に、直径14~15メートルほどの泉が現れる。泉の水面は不思議なほど静かで、まるで銀の鏡のように揺らぎもしない。直前までまったく気配を感じなかったのが嘘のようだ。
「ああ、着いたのね。マウデン、ありがとう」
「じゃあ、またねまたね!」
マウデンは翼をひときわ大きく広げ、まるで森の影に溶けるように飛び去った。
「目の前に来るまで気づかなかったよ。何か不思議な泉だね」
「そうなのです。この泉はなかなか見つけられないのですよ、魔物達でも。それで『隠れる』という意味の『カシェ』と名付けられた泉なのです。悪戯好きの精霊・レーシィの森の隠れた泉ですね」
「へえ。なるほどね。それで、これからは?」
「のんびりしていれば、あちらからやって来ますよ。座って待ちましょう」
木々の葉がそよぐたび、泉の水面に淡い模様が広がる。魔素の気配は強いのに、奇妙なほど静まり返っている。僕が「この森、意外と安全かも」なんて言うと、サリナは笑いながら言った。
「マウデンが一緒でしたので、周りの魔物も寄って来なかったのでしょう」
マウデン、すごいヤツだったんだな。
森の奥深くに差し込む光が、黄金色に揺らめいている。まるで精霊が踊っているようだ。そんな光を見ているうちに、僕はうとうとしてしまった。
「来ましたよ」
サリナの声に、僕ははっと目を覚ました。泉の淵に座っていたが、右手の茂みから気配が忍び寄る。
ヒュッ――
空を切る鋭い音。アンフィがすかさず反応し、矢を叩き落とした。
「なっ!?」
僕も立ち上がり、剣を抜く。急に張りつめた空気が、森全体を一瞬で緊張させる。
しかしサリナは微動だにせず、静かに声をかけた。
「出てきなさいな! ムネアカさん」
「なんだ。クロさんか」
茂みの影から現れたのは、炎のような赤髪を持つ女性だった。手に弓を構え、朱色のツナギのような衣装を身にまとっている。目は鋭く、それでいてどこか人間離れした光を宿していた。
人型化しているのは、どういうことだろう。
「随分と久しぶりだけど、なんの用だい?」
森の奥の空気は、二人の間にぴりりとした緊張を漂わせた。
「ユリアス様。ちょっと話をして参ります」
そう言って、サリナは赤髪の女性――「ムネアカさん」と呼んだ彼女と共に茂みの奥へと消えていった。再び僕は待たされることになる。周囲に身構えつつ、いつでも剣を抜けるように構える。
待ったのは、5分ほどだった。再び二人が戻ってくる。
「ふーん。あんたがユリアス? クロさんに名前を付けて主になったんだって?」
サリナはクロさんと呼ばれていたのか。
「ああ、はじめまして。僕がユリアスだよ。サリナも、ここにいるアンフィも僕が名付けたんだ」
「いい名じゃないか。私にも名を付けてくれるのかい?」
「お望みならばね」
「ふうん……」
ムネアカさんは僕をじっと見つめ、品定めするように目を細める。
「貴方の魔力、少し出して」
言われるままに、僕は手のひらにわずかに魔力を集める。
ムネアカさんはその手をそっと取り、目を閉じた。長い睫毛が震え、彼女の赤い髪が淡い光に照らされて揺れる。
「はああ……。クロさん、今はサリナね。彼女はこれに支配されているのね……分かったわ……」
そして、僕の手を離し、真っ直ぐに視線を向けた。
「貴方を主とするわ」
「えっ!?」
「賢明な判断だわ」
えっ? えっ? こんなに簡単でいいの?
僕は慌てて、ムネアカさんとのテイム契約を交わした。
「ユリアス様。私たちはこの泉の守護です。貴方もこの泉を守ってくださいますね」
ムネアカさんたちは、この泉を守るためにここに生きてきたのだという。けれど、テイムモンスターになるなら、森を出て人の街に行かねばならない。
「もちろんだけど。どうすればいい?」
「簡単なことです。私たちムネアカアントラーから2人、サリナたちのところからも何人か、この泉に残ればいいのです」
サリナとアンフィを見ると、2人とも頷いている。
「分かったよ。詳しいことはサリナたちと相談して決めてね」
こうして僕は、カシェの泉を守る責任を背負うことになった。
ムネアカさんには、守り人という意味を込めて「ガディアナ」と名付けた。