知の財産図書館
引き続きパワード侯爵の側近目線の話
図書館の入口は、目立たぬ地味な扉だった。大きな建物の端に設けられたその扉は、飾り気もなくひっそりとしている。
同じ建物には、中央にユリアスギルドの正面玄関、もう一方にパドレオン・エリナ伯爵の屋敷へと続く重厚な扉が備えられている。それらと比べると、この図書館の扉はまるで物置にでも見えるような質素さだ。
扉の脇には、ただ「知の財産図書館」とだけ刻まれた真鍮のプレートが掲げられている。
「ふんっ。大層な名だ」
――これでは、やはり見聞する意味などないだろう。
ルドフランが扉を開くと、中は小さな前室であった。質素な受付カウンターがひとつあるだけ。そこには、一人の女性が控えていた。装飾のない制服姿で、所作は整っているが言葉は発しない。ただ静かに、一礼する。
「ルドフラン様。お話は先ほど伺っております」
女性はそう言って、さらに奥へと続く扉を示した。
促されるまま私たちはその扉をくぐる。そこもまた広くはなく、人が10人も立てばいっぱいになるほどの空間だった。
――なんだ?
どこか妙な違和感がある。私はとっさに、万が一に備えてケント様の傍らに立ち位置を変えた。何があろうと、この方をお守りしなくてはならぬ。
「では」
受付の女性はそれだけ言うと、壁面に手を翳した。
その瞬間、足元がふわりとぐらつくような感覚に襲われた。空気が揺れるような、落下するような、不安定な圧力が全身にかかる。
「うん?」
ケント様も不快に感じられたのか、怪訝な表情を浮かべておられる。
不意に訪れたその異様な感覚は、ほんの数秒で収まった。しかし意味の分からぬ現象というものは、いついかなるときも気味が悪い。
「着きました。さあ、こちらへ」
女性が、先ほど私たちが入ってきたはずの扉を指し示した。
――はあ? どういうことだ?
扉を開けると……。
「な、なんだ!? ここは……」
思わず声が漏れた。
そこは、まさしく図書館だった。それもただの図書館ではない。
果てが見えぬほどの奥行き、高く積まれた書棚、すべてが整然と並び、数え切れぬほどの書籍が静かに眠っている。
天井は高く、照明も穏やかで、まるで聖堂のような神聖さを湛えていた。
――すごい……。
思わず胸の奥から、賞賛にも似た感情が湧き上がる。
隣のケント様はというと、無言のまま眉をひそめ、静かに視線を巡らせておられる。
驚かれているのか、それとも、ただの警戒か。
「お久しぶりですね。パワード侯爵」
不意に、脇から声がかかった。
先ほどのルドフランといい、この者たちはどうしてこうも、こちらの心の隙を突くように声をかけてくるのか。
「ふんっ。大層なものだな、エリナ」
ケント様が短く答える。その口ぶりからすると、旧知の間柄らしい。
――この女性が、あの悪名高いエリナというのか!
私は内心、面食らった。
もっとこう、男勝りで口やかましく、どこか醜悪な外見の女性を想像していたのだ。
だが目の前の人物はまるで逆。見目麗しく、姿勢は凛とし、身のこなしにも隙がない。控えめながらも上質な装いが、かえってその品格を際立たせている。
噂とは……まったく当てにならぬものだな。
「お褒めいただき、恐縮です」
エリナは静かに頭を下げた。
「似合わぬ。昔と同じでよい」
ケント様の言葉に、エリナはクスリと笑う。
「そう? じゃあ、そうさせてもらうわね、ケントさん」
――なっ……!?
随分と馴れ馴れしい口をきくものだ。まるで旧友か、いや、それ以上の親しさすら感じさせる口ぶりではないか。
だが――
当のケント様は、それを咎めるどころか、どこか表情が柔らいだように見えた。
おそらく他の者には気づけまい。だが、私は知っている。
この2年間、常にケント様の傍らに仕えてきた私だけが分かる、わずかな変化だった。
「エリナ。郷土史のようなものもあるか?」
「あるわよ。どこのかしら?」
「うちの領、またはその近隣地方のものだ」
「いいわ。案内するわね」
――郷土史?
ケント様がそのようなものに関心を持たれるとは……。領内で新たに編纂されたという話は聞いていなかったが、何をお考えなのか。
再び、私たちは先ほど出たばかりの扉へと向かった。
扉を開くと――そこはやはり図書館であった。ただし、書棚の配置が微妙に異なる。先ほどとは別の空間であることは間違いない。
「ふんっ。ここはなんだ? 俺はどこにいる?」
その疑念はもっともだ。扉を開くたびに空間が変わる――何らかの魔術的な仕掛けがあるのは明白だった。
「どうということはないわ。『昇降の魔術具』よ。
先ほどは地下二階、今は地下三階ね」
「ふむ……。変な空間に迷い込んだわけではないのだな。分かった」
――それで、納得なさるのか!?
私にはさっぱり理解できないというのに……。
やはりケント様は頭脳も明晰であられる。黙して語らず――このお方の真の恐ろしさは、そこにある。
「さあ、着いたわよ。……えっと、はい、これね」
エリナは、書棚から丁寧に引き抜いた2冊の書籍を、ケント様へと手渡した。
それから、私たちは「閲覧ブース」と呼ばれる空間へと移動した。
ケント様は席に着くと、早速渡された書籍を静かに開き、読み始められた。
私はその隣に腰を下ろしたが、どうにも手持ち無沙汰である。
すると、気を利かせたのか、エリナが一冊の本を差し出してくれた。
『魔術具の開発と活用』――。
思いのほか興味を引かれる題名だ。
私はページをめくってみた。ふむ……確かに、面白い。意外と読みやすく、挿絵も多い。気づけば私も、夢中になってページをめくっていた。
そうして、どれほどの時間が経っただろうか。
ふと、図書館内の照明が紫色に点滅し始めた。
――なんだ?
思わず顔を上げると、どこかへ姿を消していたエリナが戻ってきて、恭しく一礼する。
「パワード侯爵。そろそろ、会合のお時間です」
――そうか。
本来の目的を、すっかり忘れていた。
いよいよ、例の会合が始まるのだ。