野外実習に向けて
ナデージダ学園で、いよいよ野外実習が始まるらしい。
場所は、魔物も多く生息する広大なアイーダ草原。生徒たちにとっては、初めての実地訓練となる。
当初は、サリナとマーベラも同行する予定だった。けれど――妊娠が分かった。
サリナ、マーベラ、アンフィ、三人が同時に、とはさすがに驚いた。
もちろん喜ばしいことではある。けれど、そんな状態で草原に出るのは無理があるよね。
本人たちは最初、行く気満々だったが、結局エリナ姉さんがみんなをなだめてくれた。
「あなたたち、無理をして何かあってからでは遅いのよ。赤ちゃんが第一でしょう?」
「でも、アタシたちが行かないと――」
「……なら、なおさら。あなたたちが無理をすれば、ユリアスが困るだけ。わかっているはずでしょう?」
姉さんの落ち着いた言葉に、サリナもマーベラもようやく頷いた。
……とはいえ、まだ少し不満が残っているようだった。
「ですが、実習を率いる者がおりませんよ」
サリナが、困ったような声で言う。口調は静かでも、じわりと圧がある。
「講師をしている者たちも、過去に草原へ入った経験があるといっても、それは薬草の採取のためや、私やアンフィの荷運び役としての同行ですわ。正直、あの草原を“導ける”ほどの力を持つ者は、学園にはほとんどいませんわよ」
実際のところ、サリナやアンフィの戦闘能力は、同行した講師たちよりもはるかに高い。
なにしろ今の時代で、アイーダ草原に踏み入れたことのある者は極小数だ。
経験を積ませることで将来を見据えた人材育成を目論んでいるのだ。
しかし、引率か……僕が行きたいけれど、みんなに反対されるだろうな。
急きょ人選が行われ、同行者はチョコレッタとヤルカードに決まった。ヤルカードはコルメイスの摩泥炭採取の責任者だが、雪の積もる時期は仕事も一段落しているらしく、今は手が空いているのだろう。
一方で、チョコレッタは大丈夫なのだろうか? 「ブカスの森」街区長の彼女が抜けるとなれば、それなりに影響があるはずだ。もっとも、副街区長のギュンターさんがいるから、留守は任せて問題ないのかもしれない。
ちなみにチョコレッタの推薦はツキシロが、ヤルカードはラトレルだ。
さらに、この二人の指揮下には、アントラー族の兵を十名ほどつけることになった。彼らは皆、実戦経験を積んでおり、頼もしさは申し分ない。ユリアス領の兵としては標準的な水準だが、それだけで十分な戦力になる。
「ヤルカードなら大丈夫だね!」とマーベラが明るく言った。
「そうかしら?」と、エリナ姉さんが少しだけ眉をひそめる。
「ヤルカードはさ、普段から草原で摩泥炭の作業をしている人たちを守ってるんだ。魔物を倒した数だって多いよ。大丈夫さ」
「そう言われるとそうね。チョコは草原に慣れているから心配ないし」
「そういうこと。兵の者たちだって、強い者を選ぶんでしょう?」
マーベラのその楽観ぶりには少し引っかかるけれど……。まあ、この間の“青い月の夜”を経験した者たちを選べば問題ないだろう。
人選が終わると、選ばれた者たちはそれぞれの準備を済ませ、思い思いにナデージダ学園へ向かっていった。チョコレッタは直前までブカスの森にいたが、さきほど出発したと報告があった。
僕自身は、今回は奥さんたちの体調もあり参加を見送ったが、次の機会にはぜひとも同行したいと思っている。
そういえば、少し前にクロムからも「無事に到着した」との連絡が届いた。クロム領での準備も順調のようだ。とはいえ、あちらにはゲンさんたちがいる。彼らの手際なら、施設の建設も数日で完了してしまうことだろう。
皆がそれぞれの場で動いている中、僕のまわりにも少しずつ変化がある。
最近は、スイレンがよく僕の屋敷を訪れてくれるようになった。赤ちゃんの顔を見られるのは、何よりの癒しだ。養子のティアの弟・アースと一緒に、赤子特有の甘い匂いが心を落ち着かせてくれる。(アースももちろん養子である)
「あのう、お養父さま」
「うん?ティア、どうしたの?」
ティアはアースを抱きながら尋ねる。
「学園って、どんなところですか?」
「ええと、勉強をするところだよ。武術や魔術、計算や読み書きなどを学ぶんだ」
ティアはしばらく考え込んでいる様子だったが、やがて口を開いた。
「お義父さま、私も行きたいです」
待って!ティアがいなくなるなんて寂しすぎる。ティア、ラナ、マーはここにいるみんなのアイドルなんだから。
「……ティア、学園に行きたいって思うのはとても素敵なことだよ」
僕は、ティアのまっすぐな目を見ながら、ゆっくりと頷いた。
「でもね、入学できるのは10歳からなんだ。ティアは今、まだ8歳。あと2年ある」
「……そうなんですか」
少し残念そうにうつむくティア。その小さな肩に、僕はそっと手を置いた。
「でも安心して。君たちに教えてくれている人たちは、学園の先生たちに負けてない、どころか、それ以上かもしれないよ」
「え?」
「武術は、今の軍部トップのルドフランやラトレルが直接教えてくれてるし、読み書きや計算は、国の財務を任されているビュウロンが教えてくれてる。魔術だって、チョコレッタが基礎から丁寧に教えてくれてるんだ。彼女はAランク魔術師なんだよ」
ティアは目をぱちぱちと瞬かせ、驚いたように顔を上げた。
「そういえば、ルド兄様もラトレル兄様もチョコ姉様も……そうでした。みなさん凄いのに忘れてました」
「うん。だから今は、ここでたくさんのことを吸収して、力を蓄えておこう。学園に行く頃には、ティアならきっと、先生たちがびっくりするくらい優秀な生徒になってるよ」
するとティアは、少し恥ずかしそうに微笑みながら、ぎゅっとアースを抱き直した。
「わかりました、お義父さま。じゃあ……あと二年、がんばります!」
「うん、頼もしいな」
思わず頭をなでると、ティアは嬉しそうに目を細めた。
その姿を見ながら、僕は心の奥にふと、陰るような感情が差し込むのを感じた。
――あと二年か。
まだ先のことのはずなのに、ティアがこの屋敷を離れていく光景が、ありありと思い浮かんでしまう。
今はいつもそばにいて、笑って、はしゃいで、無邪気にじゃれついてくる子どもたち。
だけど、その時間は、思っているよりもずっと速く過ぎていくのかもしれない。
「……今のうちに、たくさん思い出を作っておかないとな」
誰に聞かせるでもなく、そう小さくつぶやいて、僕はもう一度ティアの頭をそっと撫でた。