ナデージダ学園の冬
ナデージダ学園が創設されて、間もなく一年になる。
雪に覆われた校舎の屋根には、まだ新しさが残っていた。講義棟の廊下では生徒の靴音が反響し、食堂の窓際には霜が花のように広がっている。講師も生徒も、何もかもが初めてづくし。誰もが手探りで進んだ一年だった。
けれど、その中で少しずつ「形」になってきたものもある。剣術、魔術、計算、一般常識。はじめは椅子に座っていられなかった者たちが、今ではノートを取り、師の言葉にうなずいている。
「シャルドウラ先生、そちらの選抜、もう決まりそうですか?」
穏やかな声がかけられた。話しかけてきたのは、槍術を教える年配の男性教官。人間で、五十代の半ばを迎えているが、背筋の伸びた立ち姿と澄んだ眼差しには、現役時代の気迫がそのまま残っている。
「ええ、何人か候補は……ただ、まだ確信は持てません」
返す声はやや控えめながら、芯のある口調だった。アントラー族〈サリナ系〉の若者、シャルドウラ。人間年齢で24歳の彼は、剣士の称号を持ち、この学園では剣術と基礎戦技を教えている。
彼の触覚は頭の両側からふわりと立って、寝癖のように髪に紛れており、言われなければ気づかれない程度のものだった。
「そうでしょうね。今年は誰もが“初めて”ですから。……我々も、偉そうに言える立場ではありませんよ」
教官はそう言って笑った。責めるでも急かすでもない。まるで長年の庭仕事を語るような、柔らかな口ぶりだった。
「それでも……動きの中に光るものを見せる子はいます。まだ粗削りですが、自分の身体と向き合う力を持っているように見えます」
「それは頼もしい。素質ももちろん大切ですが、“向き合う力”の方が、私は好きです」
彼の言葉に、シャルドウラはわずかに目を細めた。静かな共感のようなものが流れる。
「ところで――例の“実習”の件ですが」
「ああ、アイーダ草原での野外実習ですね」
年配教官は、手元の地図を広げながら頷いた。地図の中ほど、雪解けを待つ広大な草原に目お落とした。
「実を言うと、私も初めてなんです。計画の段階から、かなり試行錯誤しました」
「……そうでしょうね。野外での指導には、それなりの危険もありますし」
「ええ。ですから今回は“観察と行動の初歩”が目的です。いわば実地での慣らし運転。あまり難しいことを求めるつもりはありません。ですが――どこかで誰かが“火花”を散らしてくれるんじゃないかと、少しだけ期待もしてるんですよ」
思わず、シャルドウラは口元を和ませた。
「わかりました。候補者の提出、今週中にまとめて出します。少し悩みますが、決めきってみせます」
「ありがとう。野外実習は……天候が荒れないことを祈りましょうね」
外はまだ雪の匂いがする。だが、その向こうで春は確かに近づいている。
若き講師と老練な教官は、互いに経験と直感を頼りにしながら、未知の一年目を支えようとしていた。
同じように、他の科目でも“頭角を現し始めた者たち”がちらほらと見受けられるようになってきた。
たとえば「計算科」と銘打たれた科目では、名の通り様々な計算を教えている。日常の数、交易にまつわる割合、簡単な帳簿のつけ方に至るまで、内容は幅広い。商人の家に育った生徒も少なくはなく、まずは基礎を徹底的に教え込んだ。
もっとも、この授業に関しては“落ちこぼれ”という言葉とは無縁だった。求められるのは純粋な計算力のみ。差が出るのは速度や慣れの部分であり、理解に手こずる者はほとんどいない。
「さて、次年度に“経営科”へ進めそうな者はいますか?」
静かにそう尋ねたのは、計算科と一般常識を受け持つ女性教官。エリナ子爵の推薦により招聘された人物で、かつてある貴族領で官僚職に就いていた。現在は白髪交じりの初老の女性であるが、眼差しと口調は若い教師顔負けの鋭さを持っている。
「そうですね……半数ほどは、進めても問題ないかと」
答えたのは、シムオール市の大棚商会で長年帳簿を預かっていた三十歳の男性。優れた記録能力と読み取り力を買われ、ナデージダ学園へ引き抜かれてきた経歴を持つ。当然ながら、シムオールを管轄するグオリオラ・テノーラ公爵からの正式な許可も取りつけ済みである。
経営科への進学希望者は、他分野に比べてやや多めだ。
“数字を扱う仕事”の方が、剣を握るよりも安定していると考える者もいるし、親が商人ならば自然とそちらに関心が向くのも当然である。
次年度の進級に直接関わる講師たちも、でない者たちも、ナデージダ学園の教員陣は皆一様に、間近に迫った「野外実習」を楽しみにしていた。
舞台となるのは、魔物の生息地として知られるアイーダ草原。
この広大な地に足を踏み入れたことのある講師は、ごくわずかしかいない。いずれもユリアス伯爵と深い縁を持つ者ばかりである。
他の講師たちにとっては、名だけが独り歩きする草原――そこは未知であり、危険でもあり、しかし胸が高鳴る場所でもあった。
恐れと好奇心がないまぜになったような、そんな空気が講師たちの間に漂っている。
そして何より、今回の実習にはサリナ学園長自らが引率に立つのでは――という噂が、講師たちの期待に火を点けていた。
サリナ学園長。普段はほとんど姿を見せない、しかしユリアスと同行した冒険譚は有名で、そんなサリナと野外で行動を共にできる機会は、講師にとっても大きな名誉だった。
そんな折、園長代行のコルーラが、主だった教員たちを集め、柔らかに言葉を告げた。
「皆さん、残念ですが……今回の野外実習、学園長はご同行なさいませんの」
その場に、はっきりと落胆の空気が流れた。けれどコルーラは、微笑をたたえて続ける。
「ですが、おめでたい理由なのです。……これはここだけの話ですが、どうやらご懐妊とのことですの。ほんとうに、お慶び申し上げたいわね」
場が一転し、驚きと小さな歓声が上がる。
その知らせを伝えるコルーラの言葉には、単なる敬意だけではない、温かな親しみが滲んでいた。
それもそのはず、コルーラとサリナは、叔母と姪のような関係にある。
コルーラはムネアカアントラー族の長であるガディアナの血縁だ。
ガディアナはサリナと深く親しく、今では共にユリアス伯爵の元で働く側近の一人として知られている。
ともあれ、もたらされた祝福の報せは、講師たちにとって、実習への不安と期待の入り混じった心に、温かな光を灯したのだった。