道すがら
クロム一行はユリアス領を発ち、クロム領へ向かう。形式上は自らの所領への「帰還」ではあるが、クロムの心には「向かう」という感覚しかない。
彼女にとって本当の居場所は、ユリアス領――すなわちパドレオン伯爵領なのだ。
クロム領は、実父であるデンネンカルロ子爵から分譲された土地にすぎない。それも女王の命令による措置であった。
継母が来て以降、実父との関係は冷え切り、今では完全に袂を分かっている。
実際、領地の整備や産業の基盤を築いてくれたのは、他ならぬユリアス領の人々だった。
そして何より、ユリアス夫妻が彼を養子として迎え、真の家族として受け入れてくれたのだ。
クロムにとって、自分の居場所とは、その温もりの中にある。
「お義母様たちは、大丈夫かしら?」
「大丈夫ですよ。産婆も乳母たちもついていますし」
発って間もないというのに、同じやり取りを何度繰り返したことだろう。
クロムにとって、それほど大切な人たちなのだな――と、答えるユーラシドリ元伯爵も、思わず苦笑するしかなかった。
「そうよ、お嬢ちゃん。それより、右手からカラカラの群れが来るよ」(ゲン)
「えっ!? 皆さん、警戒を!」
カラカラなど、所詮はEランクの魔物。退治するのは造作もない。
あっという間に撃退し、魔石とドロップ品である嘴を手に入れた。
それからスノーマウスと呼ばれる魔物を退治しながら進んでいくと、グオリアラ領──正確にはグオリアラ・テノーラ公爵領──を過ぎたあたりから、めっきり人の姿も見えなくなり、家一つない白一色の雪原が広がっていた。
「……なんにも、ありませんね」
クロムがポツリとつぶやく。
「そうですな。雪が消えたら、この辺りはどんな景色になるのだったか」
ユーラシドリ・コンドライト元伯爵が、かつての記憶を探るように言った。
「たしか……荒野だったかしら」
「クロムレイラさんはご存じなのですね?」
元伯爵の問いに、クロムは小さく頷く。
「ええ。この道を通って、コルメイスの近くにあるアイーダ草原を目指していたのです」
クロムの事情をある程度聞いていたユーラシドリは、まだ幼さの残るその横顔を見て、内心「ずいぶん苦労したのだな」と不憫に思う。
「ぐすっ……お嬢様、申し訳ございません。我々が傍におりましたなら……これからは、必ずお守りいたしますので……」
クロムの古くからの従者が、堪えきれず涙ながらに言った。
「いいえ。世間知らずだった私が、後先考えず逃げ出したのです。無事だったのは運が良かったのでしょう。でも……今はこうして、あなたたちがいてくれる。感謝しています」
言葉には後悔も、そして確かな信頼もこもっていた。良い主従だ、と元伯爵は静かに思う。
「……ところでな。あそこの行き倒れ、どうする? 放っとくか?」
その空気をぶち壊すように、ドワーフのゲンがぶっきらぼうに言って、指をさす。その先には、大きな毛玉のようなものが雪の上に転がっていた。
「……あれですか?」
クロムが目を細めて見る。獣人だというゲンが近づいて確認すると、それは猫人だった。毛並みは乱れ、丸くなって動かない。生きているのかどうかも判然としない。
元伯爵の家臣のひとりが慎重に手を伸ばし、そっと脈を取る。
「とても微かですが、息はあります。仮死状態に近いでしょう」
一同、顔を見合わせた。このまま放っておいても、誰かに責められることはない。だが、気持ちの良いものでもない。
「助けましょう」
その一言で、空気が変わった。クロムの声には、貴族の矜持と優しさがあった。
ゲンをはじめとした建設部隊は、手持ちの材であっという間に簡易小屋を組み立てる。他の者たちは火を起こし、室内を暖め、凍傷を起こしていると思われる手足の先にポーションを塗って応急処置を施した。
小屋の中には焚き火の暖かな光が揺れていた。毛布に包まれた猫人の少女は、しばらくの間、夢も見ない深い眠りについていたが――。
「……う、ん……」
小さな声がして、少女がまぶたを震わせる。
「お、起きたか?」
ゲンが小声でつぶやき、クロムが毛布のそばにしゃがみ込んだ。
少女は、大きな瞳をゆっくりと開く。その瞳は明るい琥珀色で、まるで朝の陽射しのような温もりを帯びていた。体をかすかに丸めながら、警戒したように周囲を見回す。
「ここは……?」
「安心して。あなたを雪の中で見つけたの。今はもう大丈夫よ」
クロムのやさしい声に、少女はわずかに頷いた。
「……わたし……フォーレスって、いいます……。にゃ……」
語尾に漏れた癖のような鳴き声を、恥ずかしそうに口元で押さえる。
「フォーレスちゃん。かわいい名前だね」
クロムは笑顔を見せながら、毛布を直そうとしてふと手を止めた。毛布の下の身体は、背中から臀にかけてはふわりとした毛に覆われているが、腹側や手足の内側は無毛で、年齢相応とはいえ何も身につけていない。
「……あ、あの、誰か、服……!」
クロムが後ろを振り返ると、ユーラシドリがすでに背を向けて咳払いしており、ゲンも目を逸らして不自然に鼻を鳴らしている。
「べ、別に気にしてねえがな! だがまあ、その、あれだ。布かなんか……」
「誰か、予備の上着を! すぐに!」
クロムの指示に、女官のひとりが急いで厚手のチュニックを持ってきて、そっと毛布の下に差し入れる。フォーレスは慌てて体を隠すようにそれにくるまった。
「ごめんなさい……服が、破れちゃって……。お父さんとお母さんと一緒に、狩りをしてたんだけど……スノーベアに、襲われて……ふたりとも……」
ぽつりぽつりと語られる言葉に、クロムは黙って耳を傾けた。
「それで、ひとりでずっと歩いて……気づいたら、動けなくなって……」
フォーレスの目に、涙が溜まっていた。誰も口を挟まない。ユーラシドリは目を伏せ、ゲンはそっと顎髭を撫でた。
「大変だったわね。でも、もう一人じゃないから」
クロムはフォーレスの手をそっと握る。まだ冷たいその手に、自分の体温を分けるように。
「……え?」
「もし、行く宛がないのなら、一緒に来ない? あなたが嫌でなければだけど。私達はあと数日旅をするの。行先は私の領地だから、きっと、あなたの居場所も見つけられるわ」
フォーレスの目が大きく開かれた。まるで言葉の意味がすぐには理解できないかのように、じっとクロムを見つめる。
「いいの……? わたし、なんにもできないよ……狩りも失敗してばっかりで……」
「大丈夫。できることがなくたって、一緒にいればいいのよ。それに、あなたは生き延びた。それだけで、すごいことだもの」
クロムのまっすぐな言葉に、フォーレスはついに涙をこぼし、顔をくしゃくしゃにして小さくしゃくり上げた。
「う、うん……ありがとう……」
こうして、猫人の少女フォーレスは、クロムたちの一行に加わることになった。