神田アキ④
ナルの家の最寄駅に着いた。
これまでもこれからも、用事がなければわざわざ降りることもない、ごくありふれた小さな駅。
改札を抜け、駅の構内から一歩踏み出そうというところで。
ここまで来たことを、改めて後悔した。
やたらと目につく大きなモニュメントに掲示された温度計は、27度を表示している。
容赦ない日差しに熱されたコンクリの路面からは、熱が立ちのぼってくるようだった。
このまま振り返って改札に向かい、冷えた電車に乗って家に戻りたい。
家の掃除をして、小説を読んで、のんびりと休日過ごしたい。
そうだ、家を出る前、ナルからスマホにメッセージが届いた。
つまり、ナルと電話がつながる。
それを父に伝えればいい。
そうすれば、少なくともナルが生きているらしいことは、母に伝わるのだから。
そもそも、一日とちょっと連絡が取れないくらいで、大騒ぎするほうがどうかしている。
今からでも、遅くない。
父にメッセージを伝え、ここから引き返そう。
スマホを鞄から取り出して、メッセージアプリを起動する。
そこに表示されたのは、
『返してよ』
ナルからのたった一言のメッセージ。
結局、これは、何なのか。
父との電話が、父の声が、頭の中でリフレインする。
『ナルの様子がおかしかったっていうんだよ。』
確かに、ナルの様子はおかしいのかもしれない。
母からの連絡を無視して、半年も連絡を取らなかった双子の片割れに、脈絡のないメッセージ。
いつもと違う。
そこにはおそらく、何かしらの、意図がある。
スマホを鞄にしまい、容赦ない日差しに目を顰めながら、日差しの中に一歩を踏み出す。
父には、メッセージを伝えないことにした。
ナルが、母に何も言わず、私へ連絡を寄越したのであれば。
私も、父には何も言わずに、ナルと連絡するべきなのだ、と。
そのために、私はここまで呼ばれたのだ、と。
不思議と、そう感じた。
雲ひとつない青空が、今日に限っては憎らしい。
せっかく電車で冷えた身体に、立ち上る熱気がまとわりつく。
ナルの家までは、まだ距離がある。というより、まだ道のりの半分も進んでいない。
顔に当たる日差しを避けるように、足元に落ちる影を見つめて歩く。
額に浮いた汗を、手の甲で拭う。
夏をぶり返したような、粘り気のある暑さ。
その久しぶりの感覚は、ただでさえ重い私の足取りを、さらに重くした。
どこか、コンビニで水を買おう。
そこで、ほんの少しでも涼ませてもらえば──。
「ナル」
前方から、声がかかった。
顔を上げると、目の前に男性が立っている。
背の高い彼を見上げた視界に、日差しは容赦なく差し込んで。
思わず翳した手の影から、睨むようにその顔を伺う。
記憶に残るよりも、幼なさが抜け、いくらか精悍な顔つき。
それは、高校卒業前に別れた、彼だった。
「この間は、ごめん。俺も突然だったから、気持ちの整理ができなかったんだ。」
この間、と。彼は確かにそう言った。
彼と会うのは、別れて以来にはずなのに。
「でもやっぱり、俺も忘れられなくて。やり直せるならって、本当は、ずっと思ってて。」
そう語る彼の表情は、どこか恍惚としている。
「あんなこと言ったけど、俺も好きだよ、ナル。」
悦に浸り、期待に満ちた顔で、彼がこちらににじり寄る。
「ナル、言ってくれたよね。今も好きなままですって。」
もう一歩、彼が近づいて。
私は思わず後ずさった。
彼は真剣にこちらを見つめている。
違う。それは、私じゃない。
彼の瞳には、いったい誰が映っているのか。
「やめて。」
「ナル、また一緒に……」
日差しに熱せられたはずの身体が、急速に熱を失っていく。
「ごめんなさい。何を言っているのかわからない。」
「え……」
「夢でも見たんじゃないかな。さようなら。」
私は彼に微笑んで、そのまま彼を追い越して歩き続けた。
「そんな……ナル!」
後ろから彼の声が聞こえるが、振り返らない。
すれ違う人が、私を呼んで声を上げる彼を目に止め、怪訝そうな顔をしていた。
人混みに紛れて少し歩き、目についたコンビニに入る。
冷蔵ケースのドアの前に立ち、ペットボトルの水を取った。
上がった息に、体温に、よく冷えた冷気が心地良い。
彼とは、別れて以来の再会だった。
けれど彼は、まるで、数日前に一度会ったかのように、私に声をかけてきた。
何かが、おかしい。
私の知らないところで、何かが、始まってしまったような。
気味の悪さを感じながらも、彼の恍惚とした表情を思い出すと──。
あぁ。
腹の底から、笑いがこみ上げて止まらない。
ふと見ると、閉めた冷蔵ケースのガラスのドアに、私の顔が薄く反射していた。
そう、それは私の顔。
ナルと同じ、私の顔。
ガラスのドアに映った私が、口の端を上げて、笑いを押し殺している。
その瞳から、同じように口の端を上げた顔が、こちらを見つめ返してきた。
「ふっ……ははっ」
くつくつと込み上げる衝動に耐えきれず、口の端から笑いがこぼれる。
瞳に映った私が、顔を歪ませて、こう言った。
『返してよ』
そう、それはきっと、私の瞳に映った──。