Linea di partenza
この小説を目に留めてくれたくれた人全てに感謝。サッカー好きな人もそうでない人も楽しめると嬉しいです。
東京駅構内の片隅。俺――聖修人は天国と地獄の狭間に直面。ポケットには四角い小箱。
「――ここは俺達2人のスタートライン……だろ? 聖歌」
緊張で心臓が脈動。こんなのワールドカップ決勝戦でも体験した事ない。
「私があなたのストーカーになって、しつこくこの公衆電話からあなたのスマホに電話した」
俺の元カノ。郷流聖歌はモデルの顔ではなく素の表情に戻っている。あの陰鬱としたオタクオーラ。コイツに光を届けるのはやっぱり俺しかいないと自分に言い聞かせる。
「でも、あなたは全く振り向いてくれない。常にボールを追い掛けてた」
郷流聖歌は茶色く染めたショートボブを軽く揺らし、続ける。一滴涙が頬を伝う。
「探偵を雇い、場所を特定。私の犯罪は簡単に見抜かれた。でも、あなたは許してくれて――」
――俺達は付き合い始めた。
*
――神話の世界には2人の神が存在する。
理性の神アポロン。
感情の神ディオニソス。
時は2077年の日本。FIFAやUEFAを主軸とした世界サッカー界は波乱の時を迎えていた。日本サッカー協会も時代の潮流に呑み込まれ様としていた。
俺、愚鈍なサッカー選手――聖修人も現実に為されるがまま。
抗おうとも増してや戦うモチベーションすら無い。
当時、俺は自我を見失っていた。
2086年には母国日本で開催されるワールドカップが控えている。
誰にも予想が付かない。サッカーは時代が変化してもドラマチックなものなのさ。
*
――2077年4月15日。
時刻は夜の23時頃。場所は東京。日本サッカー協会本部。会議室。
「……さて。諸君に集って貰ったのは近代サッカー界の頂点に貢献した人物の御紹介」
日本サッカー協会を代表する会長。深い皺を刻み笑う。
――パチパチパチ。誰しもの意味深な視線が交錯。疎らな拍手はすぐに鳴り止む。
指定された人物は長髪。
小汚い皺くちゃの外套を羽織り、口には煙草に似た円筒形の消耗する機械を加えている。
電子煙草ではない。男は健康に気を使う必要も皆無。
――麻薬。
表の世界でもサッカー界の救世主として名を馳せている謎の男。
麻薬中毒者。長髪男の素性は元プロサッカー選手。実業家。
アジアを中心に広く活動。フットボールの本場ヨーロッパやマフィアが暗躍する中南米、更に北中米カリブ海やアフリカを転々と渡り、【フェイタルシザー】なる大企業を起ち上げ成功。
更に大手広告代理店のコンツェルン。
親会社を自身の企業の傘下に収め、過去のサッカー選手。
レジェンドの遺伝子を組み込む施設を建設した。
この日がその記念式典。日本を中心として世界に次世代サッカーの広告塔を築く最初の宣伝。
「【フライングダッチマン】。君こそ1974年のオレンジ軍団。エールディビジではアヤックス。トータルフットボールの体現者ヨハン・クライフの生まれ変わりだと私は信じているよ」
会長は柔和な笑みを浮かべ、ガッハッハッハ! と、大笑い。
「御世辞は止して下さい会長。是非とも私の科学実験施設【ラボーナラボ】の落成式典には顔を出して下さいね。また、愛人との休暇でドタキャンだけは御勘弁願いたい。私は必ずトータルフットボールを超える革命を起こします」
吸っている麻薬機械を口から取り除け、パイプ椅子から立ち上がり会長と抱擁する男。
「【空飛ぶオランダ人】はクライフの代名詞。あのジャンピングボレーやクライフターンは誰もが真似をした。もう1世紀も前の伝説。所で彼はなぜ背番号14なのかね?」
「――ディ・ステファノにはなれるがペレにはなれない」
「ディ・ステファノはレアルマドリードの象徴。UEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)で5連覇に貢献。意味不明なニックネームを持つペレは20世紀最高のサッカー選手。本名エドソン・アランテス・ド・ナシメント。この2人がどうかしたかね?」
「クライフの名言。自分の実力を的確に分析し、ハッキリとペレに白旗を掲げたのです。10番はペレ。故に自分は14番で良いと」
「あのヨハン・クライフが洒落た真似を……間違いなく世界歴代最高峰に入る選手だぞ?」
「彼は現役引退後バルサの監督としても成功。選手時代1974年西ドイツワールドカップでフランツ・ベッケンバウアー率いる西ドイツに2‐1で惜敗したものの、未だトータルフットボール。マジックマジャール。ハンガリーが用いた全員攻撃全員守備のチームは見た事がない」
オーストリア・ハンガリー帝国の一大派閥。ドナウ派サッカーである。
「当時【爆撃機】と呼ばれたゲルト・ミュラーのポジショニングセンスは並外れていたと思う」
「私はヨアヒム・レーヴ監督が10年懸けて仕上げた史上最強のドイツ。マリオ・ゲッツェやメスト・エジル、トニ・クロース等冗談みたいな足元でパスサッカーを展開し、2014年のセレソンに悪夢を見せた。いや、ブラジル国民を震撼させた時代に興味があります」
「ミネイロンの惨劇――か。我々がまだ赤子同然の時代だな」
2人は軽く握手をし、サッカー談議で盛り上がる。
「――話を本題に。科学実験施設【ラボーナラボ】の詳細について取り引きしましょう」
その時――ハンチング帽を目深に被る黒のサングラスをした細身の人物が右手をレンズの側面に翳す。視界には文字が次々と羅列。
――目標補足。身長170センチ。体重55キロ。血液型AB。HN【flyingdutchman】。
――血液、静脈、指紋、瞳孔、輪郭、歯型、声帯及び声音を検知。データ送信完了。……照合中。
――Forza,andiamo!(早くしてよ、もう!)
彼女は心中で怒鳴る。数秒の検知が永遠に感じられる。ここは既に戦場。
どこに自分を見張る者がいるとも限らない。まるでアフリカのサバンナ。
イタリア語は祖国の言葉。
――照合完了。クライアントからサーバーを通じ新たな情報を要求。メッセージは機密保持の為60秒後に強制破棄。
レンズ越しの視界は別世界。文字の羅列。
幾つもの画面を拡大、縮小。すぐに文字を打ち込む。
キーパッドは脳内とセンサーで繋がり、自分の意思でコントロール出来る。
――紺の外套。懐には光学式迷彩搭載ハンドガン一丁。サイレンサー装着。暗視モード、熱源探知機から判断。ヘッケラー&コッホ社製。最新型大麻【TT‐B】所持。至急逮捕要請申請。
「9年後開催される我が国のワールドカップには間に合うかね?」
「もちろん」
「今日がエイプリルフールでなくて良かった」
「生憎、私は嘘を言わない性質でして」
話が一段落付くと会議室の入口。大扉が左右はち切れんばかりに開く。
大量のマスコミ。フランスフットボール紙。
【スキップ紙】である。
【スキップ紙】は19世紀末に発展した大手広告会社。
渡り鳥の如く世界情勢を伝える老舗。海底ケーブルで繋がれたロイター通信網を使い、当時イギリスのW・H・スミス社と競合していた。
世界大戦後、2つの企業はトラストによる吸収合併で莫大な利益を得る。
時代は進み、独占禁止法と過度経済力集中排除法が成立。
活動が制限。近現代ではフットボールニュースが需要の供給源。
科学の発達に伴い、広告もデータ化。
街の彼方此方にホログラムが配置。
道路標識を彷彿とさせる2077年の時代では最新情報が行き交う。
時代の潮流に迎合する【スキップ紙】の収益は未だ衰えず右肩上がり。何とも憎めない。
【スキップ紙】のジャーナリスト。数は総勢20人弱。
スキャンダルの対象は【フライングダッチマン】の正体。
男の表舞台は別名義。
【フライングダッチマン】なる人物、素性は誰も知らない。
男は【ラボーナラボ】でクラシック選手のDNAサンプルさえあれば使う。
それに適した肉体を犠牲にして赤子から年寄りまで瞬時にこの世に顕現出来る。
男はある一人のサッカー選手に目を付けていた。
「――あなたが噂の【フライングダッチマン】とは本当ですか⁉」
「【ラボーナラボ】について詳しくお聞かせを……!」
「今後のフットボール業界はどうなるのですか⁉」
マスコミは必死で説得に入り、入口付近を封鎖。
一連の動作だけで違和感に気付く【フライングダッチマン】。
「お願いします! 3分……いや、1分だけでもお時間を!」
「私は嘘吐きが嫌いでね」
「!」――瞬間、マスコミ連中は凍り付く。
「止まりなさい! 今すぐ両手を頭の上に乗せて!」
故に彼女。エメリ・エールにとってこの任務が如何に重要なものか。
変装を解いた女の素顔は金髪ブロンドの短いポニテ。精緻な顔にどこか険しい表情。
「……何だね? これは一体何の騒ぎだ!」日本サッカー協会会長が怒鳴る。
「――おや? ネズミが紛れ込んでいたとはね」
味方の闇商売人に扮していたエメリを一瞥し、両腕を広げる大袈裟なジェスチャー。
まるでこれから自分が捕縛される事自体を理解していない【フライングダッチマン】。
「星牙社――近代サッカー界の救世主であるあなたが……【フライングダッチマン】⁉」
背筋が凍る。フランスのリヨンに本部を持つICPO――国際刑事警察機構で活動しているエメリ。経験も積んできた。
【フライングダッチマン】、星牙社と視線を交わした時――自分が喰われる立場だと思い知らされた。
理屈ではない。本能。
「クリア! ――そっちは⁉」
「クリア!」
何時の間にかマスコミに扮していたエメリの仲間――警官隊が次々と手に物騒な物を構える。
閃光弾や発煙弾――非殺傷の手榴弾。
ハンドガン――グロッグ26と17。STIイーグルにタイタン。中にはサブマシンガンである軽量のM11イングラムを所持。
エメリはスタームルガーP85を構える。安全装置は解除済み。
小振りなオートマチックはフルモデルチェンジされ2077年の現代版にバージョンアップ。
彼方此方から闇サッカー商売人達の悲鳴が響く。彼らも銃を携帯している。
一歩エメリ達に先手を打たれた連中は動けずに壁や床に両手を付いていた。
「調子に乗りおってクソが!」日本サッカー協会会長が一瞬の隙を突いて発砲。
ガアン! と、何かが相殺。音が会議室の中、螺旋状に響く。
「無駄な抵抗は止しなさい」
気付くと外のビル。屋上にPSG‐1やモシンナガンを構えている人影がチラホラ見える。
彼らもエメリの仲間。既に日本サッカー協会本部一帯は日本警察の特殊部隊に包囲されている。空には1台のヘリ。
エメリは囮捜査官。
外部から狙撃された光弾。窓ガラスは割れず、ヒビすら入っていない。
会議室のガラス窓は防弾じゃない。
2077年現代。情報が発達し国の政府が束ねる軍の歩兵銃は強力に進化した。
警察部隊も同じ。
マガジンに銃弾を込めて初弾を手動でスライドさせ薬室に送り込む時代は終焉し、代わりにこの世のありとあらゆる物体を貫通してほぼ生物のみに反応。
主にハンドガンやボルトアクション式ライフルは手動でスライド、遊底を操作。
空間にある電磁波を捕縛(この一連の動作は【CHG】と呼ばれる)する。
【CHG】したエネルギーは本体に繋ぐ出力端子の役割――トリガーを引く事によって威力調整(これを【TB】と呼ぶ)する。
絞っていた引き金を放し、標的に強力な電磁砲を狂い容赦なく食らわせる(【FNA】)。
一昔前のHDMIやUSBケーブル等、パソコンに接続され情報を送り込んでいたのが、戦場のそれも実戦に応用されるとは誰も予測しないだろう。
携帯電話の普及、発達と同じ。
マガジンは過去の遺物と化し、アンプの様に威力を増幅、減少させる時代。
2077年はそこまで進化していた。
「チ! 一体どうなってるんだ」
強烈な相殺音の正体。
答えは会長が悪足掻きした小銃。【FNA】の電磁砲と窓越し外部ビルの上で狙撃したSVDライフルの【FNA】――電磁砲がぶつかり合った轟音。
「ほう。日本の警察も捨てたものじゃないな」
【フライングダッチマン】星牙社の容姿は奇異。
1970年代のヒッピーに似た長髪。体躯は日本人の平均身長程。
紺色フード付き外套にタイトなレザーパンツを履き、中の上衣はタートルネックで肌は見えない。桜散る春半ばにこの格好は不気味。
実際、気温は例年よりも温暖。汗一つ掻いていない顔はそんな疑問を圧殺。
ここにいる者達全てを飲み込む異様なオーラ。
前髪で隠れている顔は――とんでもない美貌。
眼前にいるのにどこか遠くから達観している……解脱した仏陀。
捕らえに来たエメリ達は複雑な心境。嫌な予感が汗と共に滴る。
「屋上に今、ヘリが待機。予定通り国家中央事務局。警察庁(NCB)に彼等を犯罪人引き渡し条約の元FIFA国際サッカー連盟及びUEFA国際サッカー連盟倫理委員会の条約。第9条国際フットボーラー偽装移籍取り引き違反の容疑で逮捕。身柄を護送する。皆、厳重に注意して」
エメリは奇妙な悪寒に惑わされぬ様に専念。
「了解」「OK」「ラジャー」「分かりました」
警官隊が冷静な対応を示し、少しだけ安堵の息を吐くエメリ。事態はこれで終息する。彼女の表情。険しさが徐々に女性らしい美しさに和らぐ。
次々とサッカー界、裏の顔。重鎮達が不平の声を喚きながら連行されていく。
束の間。
奴が動き出すまでの休息。
「オイオイ。姉さん。誰を相手にしてるんだ?」
「【フライングダッチマン】――星牙社でしょ? バカ言わないで。正直あなたが私達の本命。光栄に思いなさい」
ハア~と、最新型麻薬機械【TT‐B】なる大麻の煙事盛大に息を吐き、
「やはりな。あなたは見込み違いだ。私は【フライングダッチマン】じゃない」
男の異様な存在感とその逆、希薄感が何なのか思考がピタリと合致。国際刑事警察機構としてやってきた経験が赤信号。
「まさか――あなたも囮⁉」さすがのエメリも驚愕。凍り付き思考停止。
「【ラボーナラボ】は既に完成した。クラシックレジェンドの強化は試験段階を突破」
「試験段階を……突破⁉ 嘘でしょ⁉ そんな筈ないわ! ……あれは……!」
「――その通り。レジェンド選手の遺伝子を元に適した肉体へ接種する事が第1の条件」
「だ――だったら尚更おかしいじゃない! まだあれは――動物実験の段階よ! 更にその先は人間の犯してはいけない禁断領域として封じられ、データも抹消――」
そこではたと気付いた。目の前の男。星牙社――しかもその奥にいる闇にどっぷりと浸かった悪の権化。【フライングダッチマン】ならやりかねないと。
「【フェノメノ】」男から幻聴だと信じたい言葉が連ねられる。
人と動物の合成体。通称【フェノメノ】はこの時代の科学者達によって割と早い段階で発見された。唯、そのあまりに異様な姿。強靭なバネである身体能力。凶暴な素質。高い知性。どこを取っても人間の禁忌。いや、神からの警告がテリトリーとして張られ……全ては闇に葬られた――
――食物連鎖。生態系ピラミッドの頂点。人間を遥かに上回る存在――
「でも、あなたを裏で操る首領は禁忌を犯した……【フェノメノ】なる怪物を遂に顕現させた。【ラボーナラボ】なる施設で今も培養液に浸された試験管の中、レジェンドプレイヤー達。魂の欠片は保存されている」
――そう。人と動物の合成体。通称【フェノメノ】はまだ日本は愚か世界のサッカー市場に出回っていない。ごく一部の人間にしか知らされていない超極秘事項。
「そ……それで? 一体あなた星牙社を裏で操ってる【フライングダッチマン】は何者⁉」
「私は――【code03】」
「……どういう意味?」
「先程話したじゃないですか。【ラボーナラボ】は完成した。つまり、クラシック選手のDNAサンプルがあれば、それに適した肉体を犠牲にして赤子から年寄りまで瞬時に作り出せる。私はその意志【code03】」
実に淡々と星牙社は言ってのける。
ハアーと、今度はエメリが憂鬱な溜息を吐く。気味の悪い話に胸糞悪くなってくる。
「私が聞きたいのは本物の【フライングダッチマン】は何者か?――って事だけ」
星牙社がその人物の名を告げると、エメリは卒倒しそうになる。
今回のガサ入れは失敗。
大本命【フライングダッチマン】の行方も知らず、ICPO――国際刑事警察機構に所属するエメリは珍しく不安な表情。
窓に映る自分の姿。本来気丈な性格を微塵も残さず、悲嘆に暮れたシンデレラ。
絶望が身に宿り、祈る。
――おお、神よ! 我がチームに幸運を齎す救世主はまだか⁉
イタリア。ローマで生まれ育つエメリ。
失態した事件。宗教的儀礼を自身の崇拝するクラブチームに準え捧げる。
気付くと、外は雨が降り出していた。
*
――2077年5月5日。
時刻は正午。場所は日本。東京の繁華街。
「……」聖修人は立ち止まり、巨大ホログラムに目をやる。
『9年後の日本で開催されるワールドカップ。悲願の初優勝は出来るのか?』
『――それに伴い大きな壁も』
『先月15日深夜。フットボール業界の【フェイタルシザー】代表取締役社長――星牙社氏と日本サッカー協会会長を含めた他数名のサッカー関係者が不正な取り引きを行ったとして身柄を拘束されました』
『事件は夜11時の日本サッカー協会本部。機密理に行われ、ICPO――国際刑事警察機構に所属するイタリア人。エメリ・エール氏を囮捜査官として現場に潜入。【スキップ紙】の記者に扮した日本警官隊の協力を要請、日本サッカー協会会長他数名を警察庁(NCB)に連行しました』
『警察庁(NCB)の話によると犯人達は容疑を否認しており――よく覚えていない等、黙秘を行使している。現時点でも容疑者達は頑なに黙ったままで、時折何かに怯える様な素振りを見せる等――外部の何者かに圧力をかけられていると見て別の事件との関係性を模索しています』
俺、聖修人は廃人と化した。
『――これがフットボール業界の暗部ですね』
『日本サッカー協会会長も容疑者。9年後。日本ワールドカップはどうなるのか』
『星牙社氏――【フェイタルシザー】代表取締役も事件に絡んでいる……彼も容疑者なのでしょうか? 中継が繋がっています。現場の高橋さーん!』
病気が俺を蝕んでいく。
『――現場の高橋です! 今、【フェイタルシザー】本社の玄関口に陣取っています。世界各地のフットボール専門紙が歴史的瞬間。大スクープを待ち侘びている……とても異様な雰囲気を醸し出しています!』
『高橋さん。フランスフットボール【スキップ紙】もいますかー?』
聖修人。お前は何者だ?
『…………はい! 【スキップ紙】が一番乗りで駆け付けました。さすがはFIFAの設立国。欧州でも随一のサッカー先進国ですね』
『フランスフットボール紙と言えばバロンドールで有名だよね。例の星牙社氏。今後の活動は?』
俺は何を見ている?
『……記者会見は正午。【フェイタルシザー】本社の出入り口は固く閉ざされたまま。微塵も人の気配がしません。果たして現代サッカー界の広告塔。救世主の身に何が起きているのか? 会見が始まり次第、速報をお伝えします』
お前は何を求めている? 聖修人!
「おい見ろよ。これってマジか?」
「見てるよ」
俺の相棒(腐れ縁)。長身の男――護神守がサッカーの話題欲しさに語り掛けてくる。
その反応に俺の前頭葉は黄信号。
正直、関係ないね。
「お前なあ……本当にJリーガーか? Rest(休養)期間中でも世界のサッカー情報は把握しておくべし。常に分析を怠らないのがー本物のアスリート♪」
「残念ながら俺に未来はないよ」
*
俺、聖修人はプロサッカー選手。
超高校級の逸材と謳われ、U‐18日本代表のエースとしてワールドユースに出場。
俺を中心に代表メンバーは名門校出身やJユースの生え抜きエリート軍団で揃う。
皆プロとして飯を食っていく事が前提。輝く未来予想図を立てる。
俺もその一人。エースストライカーの本能? 感情? 違う。
理性がもう1人の俺を作り出し、最善の道だと囁く。
俺は策略家。
ワールドユースの結果はベスト8。予選と決勝トーナメント一回戦を突破した時、ハッキリ言って舞い上がっていたよ。当時18歳の若造軍団。特に俺は。
ベスト4を懸ける一戦。
マリオ・ケンペス、ディエゴ・マラドーナ、ガブリエル・バティストゥータ、パブロ・アイマール、リオネル・メッシ――etc.
世界に名を馳せた選手を輩出。相手はブラジルと同様に南米で1、2を争うアルゼンチン。
結果は――まさかの0‐5。
攻撃的布陣を揃えた相手はスピード、フィジカル、メンタル、テクニックにおいて一枚上手。
汚いプレーをするし、決定機は絶対に逃さない。気付けば5得点のビハインド。
世界との差は縮まる所か広がっている。
この落差を埋めるには誰かがではなく自分が変わるしかない。
ワールドユースは幕を閉じ、俺は決意を新たにした。
20歳を迎えJ1のクラブチームに貢献。ゴールはもちろんアシストやチャンスメイクで攻撃の起点となり、仕事を熟す。
海外への移籍も示唆された。
A代表にも選出。子供の頃から憧れていた夢が一つ叶う事に成功。
次のステップは海外へ渡り歩く事。
俺は常に合理的な判断で練習。フィジカルコーチと相談して狡猾に地味な筋トレや体幹トレ、ジョギングで10キロ走るのを己に課した。
食事でも運動後1時間30分以内には栄養を摂取して、筋力増強。
糖分はなるべく取らない。体脂肪率が上がるのを避ける為。
特にコンディション調整には気を配る。
プライベートでも体調を崩さない様に高校時代から付き合っていた彼女。
モデルの郷流聖歌と相談し仕事と遊びの両立を図る。
聖歌の助けを借りなければそれまでの俺は無い。
そんな折、最悪の事態が現実に起こる。
統合失調症――100年前、分裂病と呼ぶ深い精神疾患に悩まされた。
*
繁華街。サッカーニュースは切り替わり、海外選手の新星がビッグクラブで活躍した報道がゴールパフォーマンスと共に映し出される。
俺は虚ろな視線を背き歩く。
「兎に角同じ高校の先輩である俺様の意見を聞け――って、オイ! どこ行く⁉」
護神守は優秀なGKで欧州をまたに懸け活躍する日本の守護神。
ビッグクラブ所属は一度だけ。サッカーの母国、イングランドプレミアリーグ。アーセナル。即戦力ではない。将来を見据えての期限付き移籍。
第3キーパーでベンチ外ばかり。出番は無く機会に恵まれない。
本場イギリス仕込みジョンブル魂で培われた経験。ハングリー精神が次第に芽生える。
後、欧州の中堅クラブを転々と移籍。常にレギュラーを勝ち取ってきた玄人。
アーセナル移籍当時、20歳。飛躍的に成長して見せた。
「……はあー。満喫」と、気怠く大和魂を解き放つ俺。
*
――2077年5月5日。
時刻は午後1時頃。場所は日本。東京の繁華街の片隅。寂れた漫画喫茶。
指定された部屋の黒い引き戸を開け、ソファーに腰を下ろす。
「さて――。お前これからどうすんの?」
「ん――? どうするって何を?」
宙に浮くホログラム。
パソコン画面からLEDライトが飛び出してメーカーとOSのロゴが表示。
『welcome』とご挨拶。
イルカのマスコットキャラクターが画面外に出現。泳いでいる。
デスク上に光るキーボードの大きさを調整。ポチポチと叩く。
検索用語は『セリエA』――。
「――病気だよ。カウンセリングは進んでるのか? 彼女だって心配してるだろ」
はたとキーボードを叩く手が止まる。彼女? 郷流聖歌の事か。
「あいつとはもう別れた」
「そうか――……って、ハア⁉ マジ仰天!」
無視して俺はセリエAの情報を漁りまくる。
「ど……どうして⁉ 俺がベルギーで匠になっている間、お前等に何があった⁉」
「俺の病気だよ。お! お前の記事みーっけ! セリエAのラツィオで培った経験は今に生きてる――か。笑える~」
腹を抱えて蹲る俺。
涙が――止まらない。
超高校級18歳の頃。真摯でひた向き。ボールに向き合ってた俺はどこへ?
モデルの聖歌とも離別。もう心の拠り所が見つからない。
精神科医のカウンセリングや薬は効きそうもない――統合失調症は不治の病。
抗不安薬、抗うつ薬、精神安定剤、睡眠薬を服用しては一時的にリラックスする繰り返し。
俺は新たな一歩を踏み出す事も出来ない。
次は『テンプル騎士団』と記入して検索――しようとした所で、長身の角刈り護神守が俺の腕を力ずくで握る。顔は真剣そのもの。
「――お前。マジな話。このままじゃヤバいぜ?」
「先輩面かよ。いいから手を放せ」
「嫌だね。俺は狙った獲物は逃さない」
「ここは満喫だ。ゴールマウスじゃない。増してや俺はボールでもない」
「いいや、ボールは友達。今、俺に神が降臨。GK唯一のバロンドーラ―。レフ・ヤシン」
俺の腕からゆっくりと手を放す護神守。未だ表情は険しい。
「いい加減目を覚ませ。お前、ホントにこのままで良いのか?」
シッカリと俺の目を見て問いかけてくる。その迫力に思わず俺は気圧された。
「俺は病んでるんだ。ほっといてくれ!」
虚ろな表情は隠せず目を伏せる。
俺は未だにサッカーに固執していた。
例えどんな苦境に立たされても、堕ち続けても事実は変わらない。
かつての栄光を称えた墓標の様に。
まるで熾天使のルシフェルが神に挑み敗れ、堕天使となる神話。
「復帰する気は――無いのか?」
「……無いね」
「そうかよ」護神守は立ち上がり、薄手のジャケットを羽織る。
「トイレか?」
「帰るんだよ。お前とは金輪際付き合わん。今日、この日から赤の他人。よく覚えとけ元Jリーガー。引退会見くらいは見といてやるよ。繁華街の巨大ホログラムでな」
唯黙っているしか出来ない自分が悔しい。
腐れ縁に相棒だと思っていた護神守は呆気なく姿を消す。
容赦ない現実。
なぜ俺は孤独にこんな所で屯してるんだろう?
――俺には何かが欠けている。せめてきっかけさえ掴めれば……。
そんな折、ふと目についた。
どこにでもある宙に浮くホログラム。
さっきのイルカ君が検索履歴を表示する。
――セリエA――
「そう言えばあいつ、金払ってないよな?」
今更そんな事にも気付く。
*
――2077年5月5日。
時刻は午後1時頃。場所は日本。東京駅構内デパ地下の片隅。廃棄寸前のコインロッカーが並ぶ放置された公衆電話。
――お客様の御掛けになった番号は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていない為繋がりません――
ハア~……と、盛大な溜息。モデルの郷流聖歌はブツブツと独り言を呟く。
「……やっぱりあいつとはもう終わりね」
ガチャン! と、乱暴に受話器を置く。自身に対する怒り半分。
更に利息を上乗せ。プロサッカー選手聖修人にボルテージを活かした格ゲー三本ゲージコンボスーパーキャンセル。
言いたい事は山程ある。
現在、奴とは疎遠。
付き合ってた頃、軽い衝突は何度も起きた。
それでも楽しかった。聖修人と同じ境遇を持つ事が幸せで、モデルの仕事に精を出した。
聖修人とは高校時代に知り合い、恋仲となり二十歳の時ここに呼び出された。
――何? 今更あの時のクレーム?
――まあな。ある種のギャンブルかな。ここが俺達のスタートライン……だっけ?
――あんたね……そんな事も忘れたの? バッカじゃな……
キスされた。いきなり。とろけそうな程甘い……。
――……な、何すんのよ⁉ 一体何の真似?
――さて、これを薬指に嵌めてくれたら俺のクレームは終了。
彼が差し出したのは――ダイヤの指輪。
――え? え⁉ あんた正気? これってプロポーズ⁉
――呼び出しに応じて『7』。キスに成功して『77』。ラストはハチャメチャ奮発したダイヤの指輪を付けてくれたら『777(スリーセブン)』!
私は泣き出しそうな笑顔で頷く。心の準備なんて必要ない。コイツを支えるのは私だけ。
――何それ? 今度はあんたがストーカー? 上等じゃない。一生私から離れないで!
――えーと。ゴメン一つ忘れてたわ。
――……何を?
――婚約指輪って左右どっちの薬指に嵌めるんだっけ?
一時の幸せ。聖修人は統合失調症に罹患。
変わり果てた彼は一方的に婚約破棄した。
高校に入学した当時――私はサッカー名門校だと知らずにいた。
サッカーに興味は無い。偏差値が高い学歴目当てで進学したのだ。
ある日、初めて聖修人を目にした。
全国最強と謳われる帝刻高等学校普通科のサッカー部に在籍。
サッカー部はトップ、サテライト、ユースに分類。階級制度で構成。
監督やコーチも元Jリーガー、S級ライセンス取得者、本場海外ブラジル人の雇用等、素人目に見てもどれだけ厳しいか理解出来た。
あの聖修人は全国でも名のある中学や強豪クラブチーム出身者……それだけじゃない。
他県から上京。サッカー熱の強い帝刻高校目当てに入学した連中。
3学年合わせ部員数200人以上もいる層の厚さの中、数か月でトップの仲間入り。すぐにベンチ入りを果たし、1年でレギュラーを獲得した。
帝刻高校一強時代。
オランダの名門。アヤックスのスカウト陣も目を付けた天才。小野伸二の様に次元が違う。
彼は私なんかとは無縁。別世界の人。
当時の私。ルックスは良いけど根暗で、ユニクロファッションを好み、腐女子の重症中二病患者。
授業中にイケメン男子達のBL展開を妄想しては興奮していた。
今の私が当初の自分を見たら泣きながらぶん殴っていただろう。
陰(郷流聖歌)と陽(聖修人)の関係。
お互い恋心が芽生えても可笑しくないと思う。
――少なくともここまでは。その後、私は進級し奴のストーカーと化した。
「お目当ての人物は不在ですか?」
「誰⁉」
帰ろうとした矢先、男の声が背後から聞こえてくる。
落胆していた私はこの謎男にストレスをぶちまけ様と画策。
「郷流聖歌さんですね? モデルの……よく存じておりますよ」
「な……何よ! 私のファン? それとも――ストーカーかしら?」
「聖修人君に会いたくはないか?」
*
――2077年6月22日。
時刻は午前10時頃。場所は日本。東京駅構内のデパ地下の片隅。廃棄寸前のコインロッカーが並ぶ放置された公衆電話。
――お客様の御掛けになった番号は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていない為繋がりません――
クソ! 悪態をつく俺。
Jリーガー聖修人はゴールマウスではなく、公衆電話に向かってインフロント蹴りを放つ。
「やっぱりあいつとはもう終わりか。ラストチャンスに懸けてみた俺がバカでした」
ガチャン! と、力一杯気の向くまま受話器を叩き付ける。
――東京国際空港発イタリア空の旅。
病気療養中、本場ヨーロッパ。セリエAのサッカーを生で観戦しようと思い今に至る。
予約した便の出発時刻は羽田発12:15~21:35ローマ・フィウミチーノ着。
途中、モスクワにて一回乗り換えする。
「時間がない。行くか」
「お目当ての人物は不在ですか?」
「誰⁉」
俺は空港へと向かう為、郷流聖歌との始まりの場所に背を向けた。
そこに謎人物の声。
初夏。そいつの格好は実に奇妙だ。
身長は170前後。精緻な美顔。頬は削げて邪悪な気質を物語る。
何せ口に最新型麻薬機械【TT‐B】。
大麻の煙を盛大に吐き出し、麻薬中毒の虚ろな眼。
服装。トップスはフード付き紺の外套。ボトムは黒いタイトレザーパンツ。上衣内側はベージュのタートルネック……梅雨も終わるのにどんだけ重武装してるんだ?
「取引しよう。君の恋人。モデル、郷流聖歌はこちら側で拉致。彼女の代わりに君の遺伝子情報が欲しい」
「はあ? 俺の遺伝子が神ランクのサッカー魔術師だからって易々と渡すかよ。それにな――」
俺は言い切る。
「あんたとどこかで会った気がする」
「100%気のせいです。神に誓って」
謎男は即切り返してきた。
「何だあれは? 俺の幻覚?」
指さした先には駅構内の巨大ホログラム。次々と情報を垂れ流していた。
ニュースは……。
――2077年5月5日に記者会見を行ったサッカー界の救世主。星牙社氏は4月15日の事件について一切関与していないと主張。同時刻、彼はイギリスで立食パーティーに参加。フットボール界の人材育成について議論を関係者と行い、3時間に及んだ事が分かりました――
「サッカー界の救世主。星牙社。あんただろ?」
「違います。私は【code02】。使い捨ての道具と共にある人物の意志。進化し派生する細胞」
「?」
「主はあなたの病気。統合失調症の中に宿る。DNAは拡散し分裂を繰り返す。終わりのない病。我々の頭脳は闘争本能、意志、野望を持つ。君は偉大なサッカー選手になれる。その価値があり、主は惚れた。故に模倣し現実にする。新世界サッカーの表出」
良く分からんが頭が痛い事だけは理解出来た。
「彼女、郷流聖歌さんを取り返したいのなら……何時でも結構。こちらに電話してきて下さい。大歓迎しますよ」
微笑みを絶やさず【code02】は名刺を胸ポケットから取り出し――呆気に取られてる俺の手に収めた。
「オーイ! チョッと待てコラ! 何一人でオールオッケーしてんだ! こっちは聞きたい事が山ほど……」
奴は東京駅構内の人混みに紛れ消滅。敵の身柄を捕縛出来ずにポツリと呟く俺。
「何で統合失調症に罹患している事がバレた? マスコミに公表していないのに」
更に元カノのモデル。郷流聖歌まで攫われてしまい、不安が脳内を埋める中――俺、聖修人はホログラム式端末。スマホをポケットから取り出す。
連絡先は護神守。
*
――2077年6月24日。
時刻は午後19時頃。場所はイタリア。首都ローマのサッカースタジアム――スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ!
沸騰する歓声!
「……これが本場イタリア仕込みのサッカースタジアムか。仰天だな」
観客動員数――69105人。収容人数――70634人。空席――1529席。
スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマはほぼ満席。ダフ屋にケチらず金を払って良かった。
ASローマ、SSラツィオがホームにしている競技場。愛称はオリンピコ。
夜だってーのに熱気が凄い!
周囲は発煙筒を焚いている。上半身裸で奇声を上げ、ローマのチームカラー。赤色タオルを振り回している若者。
微笑ましいのはイタリアンフーリガンに紛れ、老若男女問わず純粋枠のサポーターが頭にチームタオルを巻いたり、肩に掛けたり、首に巻いたりして応援する姿。
子供もいる。サッカーファンの親にスタジアムへ連れてこられた子は幸運。
将来サッカー選手を目指すきっかけになる。
俺は一眼レフカメラで光景を画像に収める。
見惚れたね。一人旅も悪くない。精神病患者の良い薬になる。
俺の隣に不思議なジーさんが座っていた。現地イタリア人だと思う。
「あなたの崇拝しているチームは……どこですかな?」
「――え? えーと……崇拝? あんた日本語話せるんですか?」
キリスト教から派生した宗教の勧誘かと疑う俺。
老人は考え込む仕草で頷く。
「……失礼。私はバッボ・ナターレ。バチカン市国に住む教会で神父をやっております。故に海外の方には少々詳しい。外国人が教会で教えを乞う事は珍しくありませんからな」
流暢な日本語。正直ドン引きした。俺よりも物腰。礼儀。作法が日本人。
侘茶を大成した千利休か。
イタリア語で選手達の入場行進。アナウンスが場内に響き渡る。
歓声が怒号に変わる。カードはASローマ対SSCナポリ。トップレベルの戦い。
「――教会の神父? すみません。俺、イタリアに滞在してる訳じゃない。宗教勧誘は別の人にしてくれ」
「宗教勧誘? あなたは大きな勘違いを……おお! そうか。日本では未だにカルチョを信仰の対象にしていないのですな!」
カルチョはイタリア語でサッカーを意味する。
「もしかしてどこのクラブチームを応援しているのか? って、聞いたのか。そのチームを崇拝していると」
オタクが特定のゲーム監督信者になるのと理屈は一緒。無神論者の俺は何て答えよう?
「せっかくだから、ローマで」今日は朝マックにするか的ノリの笑顔。
「……素晴らしい! あなたもロマニスタか! バルサかレアルなんて言おうものなら杖でぶん殴る所でした!」
――あんた、ホントに神父やってんのか? って、言葉は呑み込んだ。
選手達が整列。記念撮影し、円陣を組んで雄叫び。
「ここはスペインのカンプ・ノウやサンティアゴ・ベルナベウではない。聖キリストならぬ聖ロマニスタのオリンピコ! あなたも今日はイタリア人。カルチョは日々進化している! 君の目にも彼らの雄姿を焼き付け給え! アーメン!」
――ビバ! ベルディ~♪ と、フンフン鼻歌を鳴らす神父。バッボ・ナターレ。
オペラ。ナブッコの歌劇が空想上で始まってるかなり上機嫌。
これだけ陽気な所を見せられると日本での嫌な事は全て放り投げて少しは楽しめる。
鬱な病気も今だけは忘れられる――かもしれない。
束の間、試合がキックオフ!
会場に拍手が沸き起こり、応援歌や太鼓を叩き選手あるいはサポーターを鼓舞する熱気がビリビリと伝播。
――唖然。
会場の熱気に呼応する選手達のパス回しが速い!
試合は始まったばかり。軽いウォーミングアップの筈。
強烈なパスの応酬。グラウンダー……かと思いきや逆サイドあるいは前線への展開力を示すふわりと浮いたロングパス。
「オイオイ、こりゃ誰かミスるんじゃねーの?」思わず暴言が出てしまう。
俺の苦言は覆される。ローマもナポリも完璧なトラップ。ボールを自陣でキープする。まるで全員がデニス・ベルカンプかロベルト・バッジョ。
ボールが五体。彼らは技術を駆使して五感で披露している。
層が厚い! 日々のトレーニングの賜物。
例えるならデビッド・ベッカムやアンドレア・ピルロのフライパス。スティーヴン・ジェラードやシャビエル・エルナンデスの高速キラーパスがポンポンビシバシ出まくっている。
受け手側も全力疾走。相手のタックルやプレス、攻守の駆け引きに精密機械で一瞬のブレもなく対応。
入念な作戦を維持し、このチームワークを保つのは至難の業。ポジションもいつの間にか左右入れ替わってる。
バランス、スタミナ、スピード、テクニック、フィジカル、コーチング――どれもが一流。
「……これが欧州のサッカー」
俺の目は試合に釘付け。バッボ・ナターレが童謡を歌う。
「神話の世界に2人の神がいる。理性の神アポロン。感情の神ディオニソス」
――キリスト教会の聖典か?
「感情の神ディオニソスは出現した。今私達のクラブが相手にしているナポリ黄金期。ディエゴ・アルマンド・マラドーナだ。理性の神アポロンはどこにいる? シュウト・ヒジリ」
「理性の神――アポロン?」俺は不確かな事実に思い至る。
――あれ? 俺、この人に名前明かしたっけ?
「カルチョは……日本のサッカーは進化していますか? シュウト・ヒジリ?」
「……あんた、もしかして最初から俺の事――知っていた?」
「前置きしたじゃないですか。海外の方には詳しいって」
雷に打たれた。南欧セリエAの異次元サッカーを見せつけられた俺。
東アジアの島国。サッカー後進国日本の超弩級マイナー選手を覚えている人がいる。
井の中の蛙大海を知らず。
サッカーの神は悪戯好きだ。バッボ・ナターレに出会い俺をスタートラインに立たせる。
数奇な運命を俺にくれた。何かの縁。
事実は小説よりも奇なり。
――俺はこれまで何してたんだか……。今なら護神守の気持ちも分かる気がする。
その時、一人のイタリア人少女が俺の前にぶつかる。
「Mi scusi un po' di tempofa(ちょっと前を失礼します)」
――ん? 何だ⁉
「Aspetta(待って下さい)」
ビクッ! と、少女は怯え小動物の様に全身を強張らせる。
時既に遅し。少女の左腕は神父バッボ・ナターレの右手にがっしと絡め捕られていた。
唖然としたね。左手には俺の全財産。
キャッシュカードやパスポートが入る財布が一瞬で懐から抜き取られていたのだ。
こんな所で神の手を拝めるとは……さすがイタリア――セリエA!
*
――試合終了後。
俺、バッボ・ナターレ、泥棒少女はオリンピコ近くの茶店で取り引きをしていた。
時刻は既に21時を回っている。
「だーかーらー! 謝ってるわよ! もう良いでしょ? 財布も返したんだし!」
スリを生業とした少女の名はカメリ・エール。童顔に金髪ブロンドの長いポニテ。
どこかで見た事のある顔だ。
カメリ・エールが日本語を話せる理由。
双子の姉が日本でICPO。国際刑事警察機構として活動しているからだとか。
――ん? 俺の思考は止まる。これまでの事件が走馬灯の様に駆ける。
急いでスマホを取り出し、ある人物に国際電話を掛ける。
『ナイスタイミング聖。こっちもちょうど今、電話する所だ』相手は1コールで出た護神守。
俺は暫し沈黙。嫌な予感と葛藤。
「――そちらの情報から聞こう」
『結論から。お前の元カノ――モデル、郷流聖歌は拉致監禁どころか誘拐すらされていない』
「やっぱりな。星牙社は何者だ?」
『奴らしき人物はお前に会った時と同じ手口を使い、郷流聖歌に聖修人を誘拐したと告げた』
「目的は俺の遺伝子情報か。俺と聖歌自身を囮に使い言葉巧みに騙そうとした……奴が俺の精神疾患を見抜いたのはどうしてだ?」
――ピポパポピポ♪ 郷流聖歌さんが会話に参加します。
『統合失調症は100年前、分裂病と別の名称で呼ばれていたの』
「――聖歌か。今は細かい事はお互い無しにしよう。もしかして……」
『もしかしなくても私よ。奴に聖修人が統合失調症だと暴露したのは』
「どうしてだ?」俺は頭痛を堪えつつ聞く。
『私はあなたのストーカー。私の知ってる聖修人は今のあなたじゃない』
「はい?」何を言ってるんだ? 何か俺、間違えました?
『私の知ってる聖。聖修人は常に前を向いていた。がむしゃらにボールを追いかけてた』
彼女は必死だ。凛とした声が喉の奥で滲んで……掠れる。
「――」何も言えない。今の俺には彼女に反抗する権利も無い。自分の無力さに腹が立つ。
『奴は分裂病と自身のこれから行われる悪魔の儀式を重ね合わせた。まるで暗号の様に』
護神守が気まずい沈黙を和らげる。
「お前は悪魔と手を組んだのか? 聖歌……」
『あなた自身を取り戻す為には悪魔とだって手を組むわ』
レベル99の祓魔師がいても解呪出来そうにない強力な意志。
高校時代の郷流聖歌。腐女子。オタ女。
――そんな郷流聖歌を救えるのは他でもない俺自身!――
『良いか? ここからが大事だ。奴は一人じゃない』護神守の語気は強い。
「確かにな。あいつのそっくりさんはどうも演技が上手すぎる」俺は頷いておく。
『分裂病。星牙社はその精神疾患を具現化する事が出来る』
『星牙社の別名は【フライングダッチマン】』郷流聖歌はピシリと言い放つ。
「奴――星牙社は世界に向けて市場を開拓していたな」
『目的はそれだ。【ラボーナラボ】なる施設を造り、クラシックレジェンドの再生を企んでいる』
「何だって⁉ そりゃマズいだろ!」
『ええ。表沙汰になれば世界のサッカー市場は大きく変動する』
『歴代の戦士達の復活。イングランドでサッカーが発祥してから史上最大の悪夢だ。そっちのニュースは何だ?』
「4月15日に起きた事件。ICPO。国際刑事警察機構で活動しているエメリ・エール。双子の妹――カメリ・エールと今、接触している」
『――!』『どういう事?』さすがの2人もこの珍事には意表を突かれる。
俺はカメリ・エールと偶然出会った経緯を話した。
『……なるほど。お前の言う通り、一卵性双生児の双子ならば同じ顔がいても可笑しくはない。事件の全貌が見えてきたな』
「問題なのは星牙社の陰謀を阻止する事だ。近い将来クラシックレジェンドは復活する」
『俺からエメリに相談しよう。4月15日に【フライングダッチマン】星牙社は動き出した。日本でな。奴の狙いは一つ。4年に一度の祭典。国の威信を懸けた戦い』
――2086年日本ワールドカップ!――
「奴は虎視眈々と狙っている。表舞台と裏舞台の救世主へと孵化する瞬間をな」
『2086年。100年前の1986年メキシコワールドカップはマラドーナが伝説の5人抜きをした年でもあるわね』
『その通り。アルゼンチン2度目の優勝。【フライングダッチマン】星牙社はそれにゲン担ぎ。便乗するつもりだ。……さあ、どうする? 元Jリーガー聖修人』
その言葉が俺の導火線に火を点ける――だろ? 聖修人!
「残念ながら――」
俺は存分に間を溜めて解き放つ。自身の中に宿っている何かを。
「――俺はまだJリーガーだ!」
『ナイス根性! それでこそ俺のダチ!』『相変わらずストーカー甲斐のある男ね』
*
――2086年7月10日。
時刻は午後19時頃。場所は日本。埼玉サッカースタジアム2002。
――日本ワールドカップ決勝戦! 注目のカードは日本対ブラジル!――
誰もが期待の眼差しで選手入場を待ち望んでいた時、事件発生。
「セレソンが全滅⁉ あなた達今どこにいるの! まさかフランスに帰った訳ないわよね?」
声を荒げるエメリ・エール。
警備万全。
チケットが完売した後(チケット販売員もエメリの部下。警備員)、出入り口封鎖。
赤外線と暗視装置搭載の監視隠しカメラが通路や休憩室、観客席の他あらゆる所に密集。
不審者は3秒で警官に捕縛され尋問を受ける。
ピッチ上空にはヘリが数台。
マスコミ。フランスフットボール【スキップ紙】を始め、無人偵察機が間断なく飛翔。
試合のVARも広範囲に進化。
選手の悪質なファウルだけでなく主審、ラインズマンの誤審も取り逃さない。更にピッチに乱入する不審者、テロを防ぐ。
ピッチ周囲360度には世界中のフットボールファンを魅了する為、最新式のカメラを持ち構えているサッカージャーナリストが最高の瞬間を待っている。
映像は全てNSAがジャックしている。人工衛星から送られてくる映像を分析してエメリと連携。彼女は正に埼スタの裏司令塔と化していた。
……それなのに。事態は予想外の展開を齎している。
会場にどよめき。謎人物の声がスタジアム内部に轟く。
『レディース&ジェントルメン! 今宵はサッカー史に残る記念すべき日! インデペンデンスデイならぬサッカー独立記念日!』
……ネズミね。前の様にはいかないわよ! 激高したエメリ。NSAと仲間達に通信を取る。
「声の解析と音声が流れてる場所を特定して。まだ試合は始まってない。会場内もそれほどヒートアップしていない! 皆急いで! 奴の喜劇。掌の上で踊らされるのはもう御免だわ!」
時間はカメラのフィルムがアニメーションを映し出すコマ送りの様な秒単位刻み。
【フライングダッチマン】の聖サッカー新世紀。狂ったショーの幕開けは演じられている。埼玉サッカースタジアム2002にいる人達。
リアルタイムのホログラム越しに観戦している視聴者達。
全てを巻き込んで。
「――どっかで聞いた事のある声かと思いきや……」
「奴だ。間違いない」
控室でウォーミングアップしていた護神守と聖修人はすぐに感付いた。
『私の名は――【フライングダッチマン】! 今宵、サッカー史に革命を起こす主導者!』
会場がどよめく。殆どの人が初めて聞く名。
これは決勝戦前のパフォーマンスでありファンサービスだと心半ば思っている。
万雷の拍手喝采が鳴る。サポーターは立ち上がり、ウェーブが沸き起こる。
「――後、倒れたブラジル人選手達を病院へ搬送。映像から見て気絶しているみたいだから冷静に対処。脳に異常がある場合も考慮して頭は揺らさない事」
『OK』『了解』『分かりました』――次々と応答が返ってくる。
その後、エメリ・エールは思い出し声を絞り出す。
「――ああ、後! もし、ブラジル代表の選手に異常がなく会話が可能なら事情聴取して」
仲間達の了承を得たエメリ。持ち場を離れスタジアムの外にあるハイエースに乗り込む。
関係者以外立ち入り禁止。その中は座席が全て外され、パソコンや衛星情報をキャッチする機材で溢れている。
外部秘匿の為、擬装。路上駐車した大型ワゴンにしか見えない。
改造車の中にいるのはNSA職員と関係者。
「これってどういう事よ! 警備は万全じゃなかったの⁉」
激高するエメリに対し、NSA職員達は可笑しな言動。
「――いえ。映像を見て下さい。15分前のセレソン。ブラジル代表選手控え室です」
驚愕。エメリ・エールは口元を覆う。
どういう仕掛けか分からない。次々と選手達が何もされてないのに失神していく。
「恐らく奴はもう内部にいるようですね」呆然と一言。
「まさか――そんな! もしかしてあなた達⁉」
エメリはホルスターから銃を取り出しNSA職員に向ける。
安全装置を外しトリガーに指を掛ける。
「僕等がグルだって⁉ 冗談じゃない! 何せこっちは丸腰なんだから」
落ち着き確認するエメリ。NSA職員は皆、拳銃は愚か刃物も持っていない。
――どこか変だ。NSA連中の事じゃない。数多の人員を割き、最新鋭の設備をもってしても奴自身は愚か痕跡すら辿れないとは……。
もしかしてまだスタジアムの外にいるのか?
【フライングダッチマン】――星牙社は機械にでも化けたか?
「2度も奴を取り逃す訳にはいかない!」エメリは頭に血が上る。
*
――埼玉スタジアム2002から搬送された先の総合病院。
ブラジル代表選手団に異常はない。睡眠薬の一時的な昏睡状態に陥落しただけ。
医師はそう診断。エメリの部下達に選手一人ひとりが事情聴取される。
「全く冗談じゃないよ! せっかくの試合が台無しだ!」ブラジル人選手は激高。
「気持ちは分かります。あなたに薬を飲ませたと思われる人物に心当たりは?」
「こっちが聞きたいよ!」
ポルトガル語で尋問。
セレソン――カナリア軍団ブラジル代表のバスに選手達が次々と乗り込む。
監督やコーチ陣、サポーターの意向を尊重し決勝戦は再開される。
国の威信を懸けた世界の祭典は今更、中止に出来ない。
企業スポンサーも莫大な利益を損なうのは避けたい。
肝心の情報はサッカー関係者にしか知らされず。
邪魔者は闇に葬られる。
ICPO――国際刑事警察機構のエメリ・エールも所詮、部外者扱い。
彼女にその情報が舞い込むには少し時間が必要となる。
『大勢のサポーター諸君! これから始まるショーをゆっくり御覧下さい』
【フライングダッチマン】の演説が続く中、ワゴン車から出たエメリに新情報。
『見つけました! 奴です!』
「本当に⁉ 場所は?」
『それが……セレソンの控室です』
「――は?」呆気にとられるエメリ・エール。
更に冗談みたいな情報が届く。
『声が――ロッカーの中から』
エメリはこれまでにない怒りを覚え、心中で叫ぶ。
――ふざけんな!
「【FNA】!」『分かりました』同時に声が重なる。
ガンファイヤー。電磁砲がロッカーの中を砕く。
声の主が【フライングダッチマン】であればどれだけ最高のエンドだろうか?
時間稼ぎの囮。正体は年代物。古いカセットデッキ――の中にあるテープ。
『……ワ・タ・シ・ハ・ロ・ボ・ッ・ト・デ・ハ・ア・リ・マ・セ・ン』
粉々にひしゃげたテープ。最後の台詞を誰もが聞き逃す事は無い。
会場内の演説は途切れる。センサーでスピーカーと繋げた録音。
サッカー界、裏側。協会重鎮のコネクションを経由して事前に設置していたのだろう。
エメリは舌打ち。現役選手含めかつてのレジェンド達。
世界サッカー協会は【フライングダッチマン】星牙社の大きな後ろ盾。
守るべき連中は敵だ。
「殺った?」期待していない声でエメリ・エールは応答する。
『100年前に流行したカセットテープでした』期待通りの返事。
「一体奴はどこにいるの⁉」
大混乱中、ブラジル代表選手団とサムライブルー。
日本代表選手団がピッチに並ぶ。
満席の会場は完全にヒートアップ! 国歌斉唱。
「チョッと! まだ試合を始める訳には――」エメリ・エールの声は途切れる。嫌な予感。
――まさか⁉ ありえない!
両選手団がガッチリと握手。2人の背番号10と14の視線が交錯。
「お前が……【フライングダッチマン】だな? 星牙社」
「私の大事なコレクション。聖修人。君がサッカー界に戻ってきてくれてとても嬉しいよ」
星牙社の狙いは最初から聖修人。DNA情報である。
彼は聖が18歳の時から目を付けて才能を見抜いていた。
事実、例え統合失調症になろうとも聖修人は返り咲き、9年余りで再びA代表のナンバー10に名を連ねた。
全て【フライングダッチマン】星牙社の手駒。シナリオは揃い、戦いは幕を開ける。
審判がコイントス。途中に向かい合う主将。背番号1と14の目は笑っていない。
「貴様の陰謀等ゴールマウスごと阻止してやる」キレている護神守。
「是非ともそうしてくれ。こちらも楽しみたいのでね」星牙社は余裕の笑み。
先攻はブラジル。
背番号14――【フライングダッチマン】ヨハン・クライフのゲン担ぎかペレへの忠誠心か? センターサークル内でボールを保持する星牙社。
「研究施設【ラボーナラボ】は完成した。お前達! 元の姿に戻って良いぞ! お見せしよう! 【11の天祐】――合成獣【フェノメノ】の新世界サッカーを……!」
星牙社が指をパチン! と弾く合図。
……ゴキュゴキュ! ……バキバキ! ……グキョグキョ!
聞くに堪えない異音。筋肉や骨、内臓に至るまで粘土の様に千変万化。
ブラジル人選手達の姿が異形へと進化。合成獣【フェノメノ】になる。
「な――何だありゃ⁉」
「――ひ! 化け物!」
「冗談だろ⁉」
異常事態を見た聖修人のチームメイトは口々に叫び、逃亡。試合会場内はパニック。
「奴はブラジル代表選手の中にいたのね!」エメリ・エールは心中で自分の無力さを罵る。
蹴球野獣と化したブラジル人選手達。必死に意識を集中させる聖。
瞬間――バッボ・ナターレの神話を思い出す。
――感情の神ディオニソスは出現した。理性の神アポロンはどこにいる? シュウト・ヒジリ。
「皆、落ち着け! 試合中だぞ! クッソ! どうする聖⁉」
主将護神守でもこの事態は止められない。
「……ここは俺に任せてくれ」静かに精神を研ぎ澄ませる聖修人。
「皆! あれが【フライングダッチマン】事星牙社の正体よ! 彼が開発した【ラボーナラボ】では、多くのクラシックレジェンドの遺伝子が冷凍保管。サッカー市場を席捲しようとした。9年前の事件! 4月に星牙社は日本サッカー協会会長に取引を持ち掛けた! 開発した商品を売り渡すためにね!」
「奴は捕まえた筈です!」
「私がね。断言するわ。4月に捕まえたのは星牙社じゃない。イギリスに滞在していた明確なアリバイがある」
「――⁉」
「狂気……奴は自分自身をも実験体にした」
「――!」「ど、どうなってるの⁉」
ホログラムで異常事態に気付くカメリ・エールとバッボ・ナターレは思わず顔を見合わせる。
バチカン市国。バッボ・ナターレの自室。映像から見る事件は混沌。
黙考した後、教会の神父は静かに言葉を紡ぐ。
「――何。大丈夫。シュウト・ヒジリならきっとこの局面も打開出来る」
「そうよ! その通りだわ! 何せ今、日本にはエメリ姉さんがいる!」
同調するカメリ・エール。あの日以来仲が宜しい2人はそれぞれの想いを抱く。
多くのサポーターが逃げ惑う中――心を無にして試合を見る女が一人。
モデルの郷流聖歌。
「私は負けないわよ聖修人。あなたもこんな所で躓く訳にはいかないわ。サッカーは最後の1秒まで何が起こるか分からない。途中で詰んだら今度こそ別れる」
陰のオーラをその身に復活。高校時代にたった一人でリバースしている女はブツブツ呟く。
聖修人は冷静沈着。
「どういうトリックだ?」
「――何。簡単な事だ。私の研究施設【ラボーナラボ】では、サッカー史に名を遺した数々のスター選手。彼らのDNAサンプルがある」
淡々と言葉を連ねる【フライングダッチマン】なる星牙社。
「その遺伝子情報に適した肉体を犠牲にして赤ん坊から老人に至るまで瞬時に顕現可能」
星牙社は三本指を立てる。
「皮肉な事に私を含め、合成獣【フェノメノ】は人より頭が良い。自身の姿を制御する術も心得ている。変幻自在。時間にして3分も掛からない。彼らはインスタント食品と同じ。必要な時に直ぐにレンジでチン♪ ホラ、合成獣の出来上がり」
「その――犠牲となる適した肉体とやらは何だ?」
「生物。植物を除き人間をも含めた神の失敗作だ。是非とも私のコレクションに君の遺伝子情報が欲しい」
「自分も実験体に――した?」驚愕するエメリの部下。
「事件の日。【フライングダッチマン】を発見したと思い込んだ私はすぐに過去のブラックリストデータバンクと照合。身長、体重、血液型、静脈、指紋、瞳孔、輪郭、歯型、声帯音声――影武者ならデータは一致しない」
「もしかして――検閲は通った?」
無言でコクリと頷くエメリ。ゾッと背筋に不吉な悪寒。
「捕縛した星牙社は――【code03】犠牲にした肉体の意志が私。と自称。咄嗟に聞いたわ。【フライングダッチマン】は誰? ってね」
「まさか――」ゴクリと喉を鳴らすエメリの部下。
「その通り。クールイケメン星牙社【code03】は星牙社と笑顔で答えてくれた。奴は嘘を吐かない。皮肉な事に私達は正直者に騙されてたって訳。分裂した【フライングダッチマン】星牙社のDNAにね」
「【11の天祐】――合成獣【フェノメノ】がこれ以上犠牲者を出さない為に、ビッグバンサッカーを終わりにしよう聖修人!」
「……俺達は人間だろ? 動物との合体にDNA情報? チキン作戦は抜きにして自分の能力を崇拝しろよ。試合はまだ始まったばかりだぜ――!」
聖修人は駆け出す! 変身していない星牙社。足元のボール奪取!
容赦なく襲い掛かってくる【11の天祐】――合成獣【フェノメノ】。
瞬発力には自信がある聖。獲物を狙うチーターの足をしたロベルト・カルロスには適わない。悪魔の左足でスライディングされ、足首を削られる。
観客席からどよめき。星牙社はボールを保持し嘲笑。
「さあ! どうする⁉ 聖修人! ショーはまだ始まったばかり! 私を失望させるな!」
実際の試合なら即レッド。退場処分。
「クックック! 新時代の幕開けに審判は不要! 神様にでも御祈りするんだな」
「卑怯だぞ!」護神守が怒りで最終ラインから叫ぶ。
何とか立ち上がり、聖修人はひた向きに走る!
羽を持つズラタン・イブラヒモビッチやゴリラの腕をしたディディエ・ドログバ、鬣を宿すローラン・ブランが立ち塞がり、ゾーンプレス。
一級品のディフェンスに動物の筋力がプラス。鬼に金棒である。
成す術も無く吹っ飛ばされ、転がる聖。
「クソ! まだだ!」必死に自分を煽り立て、声を出し、一直線。
星牙社の足元。ボールへ向かう。
「ハッハハハ――! 無駄だ聖修人! 貴様のセンスがどれだけ優れようと、所詮旧世代。合成獣【フェノメノ】に適うまい! 今後のサッカーは遺伝子で決まる! 素質を引き出し! 他生物と中和させる! 実に効率的!」
「……何て奴!」「あの野郎トチ狂ってやがる!」
郷流聖歌は怒りで陰オーラを禍々しく発揮。自陣のゴールポストに蹴りを放つ護神守。
「……んなもんドーピングと一緒じゃねえか。クソッタレ!」
全身ズタボロ。まだ失速しない。聖修人の意志が徐々に構築されていく。かつての自分。負け犬と化した時。周囲の人達の想い。本当の自分との戦い。葛藤。
統合失調症と戦いながらサッカーを続けてる意志!
――愛。
「【CHG】&【TB】!」場内で大声を張り上げるエメリ・エール。
「――フン! 邪魔が入ってきたな。良いだろう」
星牙社の目が光る。
瞬間、肉体が猛烈な速度で盛り上がり、筋肉もはち切れ、カナリア色のユニフォームが裂ける。どす黒い肌が露出。血管がパイプみたいに太く浮き彫り。
背中から翼が生えて逆に足は退化。蛇の如き長い尾を引き、巨大で獰猛な野獣が姿を現す。
「オイオイオイ」「あれは――アステカ神話に登場するケツアルコアトル!」
護神守は『オイ』しか言葉に出せず、元来オタクな血を持つ郷流聖歌は正確な名前を当てる。
星牙社(ケツアルコアトル)がエメリ達外野軍団に襲い掛かってくる。
「【FNA】!」電磁砲が牙を剥く。
【TB】をフルマックスにしたスタジアムの彼方此方に轟く発砲音。
前衛と後方の支援射撃。拳銃からガトリング。連続で鳴り響く目に映らない光の弾丸。
エメリも合成獣【フェノメノ】星牙社(ケツアルコアトル)をハチの巣にする。
「――グハ!」超強力電子レンジの中に入れられた衝撃を味わう星牙社。
試合はまだ終わっていない。
「私達が喰い止めてる今の内に! ゴールを決めて聖修人!」
エメリ・エールが幸運を齎すチーム。待ち望んでいた救世主に叫ぶ。
「オイオイさっきまでの威勢はどうした? 変身して弱くなってるじゃねーか。特に頭の中が」
ボールは遂に全身ズタボロの聖修人の元へ。その時、彼に理性が覚醒した。
人間の欲望を活性化させる情熱とは感情である。神――ディオニソスの言葉。
人間の欲望を抑制する冷静とは理性である。神――アポロンの言葉。
「天才マラドーナがディオニソス……。ならば、超合理主義の俺は――アポロン」
彼――聖修人の実力は何も変化していない。事態が劣勢である事に何ら変わりはない。
唯、見ていた。聖修人はその目で幾人ものスター選手のプレーを今、冷静に完全分析。
何度も何度も何度も何度も――――――その目に焼き付いたワールドクラスのプレー。
それを脳内で咀嚼し、【CHG】脊髄に送り込む。脊髄から全力の【TB】五体へと反射。ボールが理性となり、引き金を絞る。黄金の右足が触れた瞬間――彼は理性でその圧倒的センスをコントロールした。ハーフウェーラインの中盤からドリブルで仕掛ける。
一人、二人、三人と雷神のドリブルスキルはミスる事無く止まらない。
満席6万3千7百人。観客達の足が止まる。思わずあらゆる所に設置してあるホログラムに目が釘付け。すぐに生で見ようと戻る人が続出。
「クソが――――! 奴の遺伝子データは俺の物だ!」
華麗に5人の合成獣。【フェノメノ】と化したレジェンドを抜き去ると、相手陣地ゴールマウスに立ち塞がる強大なケツアルコアトル――星牙社と対峙する。
一瞬の攻防。
エメリ・エール。カメリ・エール。バッボ・ナターレ。
護神守。郷流聖歌。
サポーターの誰もが息をのみ祈りを捧げる。
――偉大な日本人プレイヤーに敬意を表して。
「ゴミクズが! 所詮貴様は俺の犬! ご主人様に逆らう気か⁉」
「俺は人だ。心はホットにプレーはクールでありたい♪」
遂に理性を解き放つ。【FNA】! 強烈な無回転シュートがケツアルコアトル。化け物星牙社の身体事ゴールに撃ち抜かれる。
ゴ――――ル! 電光掲示板に『GOAL!!!!』の4文字が躍り出る。
世界中のサポーターが歓喜。スタンディングオベーション!
「ピュー♪ やるわね! Giapponese(日本人)!」
エメリ・エールは一瞬、自身の職務も忘れ口笛を吹く。
「やった―――!」「やりおったな! シュウト・ヒジリ!」
カメリ・エールとバッボ・ナターレもホログラムの前でてんやわんやの大騒動。
「あの野郎がここまで成長するとは……まあ、俺のお陰かな♪」
護神守はガッツポーズ。
「聖修人――あなたは負けないと信じていたわ」
郷流聖歌は陰の想いをぶつけ、光り輝く陽の世界へと導かれる。
「グハァ! こ……これが――」
「そう。これがサッカーだ」
神よ。ありがとう! ゴールパフォーマンスで雄叫びを上げる聖は心中で静かに感謝。
理性の神アポロンが微笑んだ気がした。
*
――後日談。
【フライングダッチマン】星牙社は逮捕。【ラボーナラボ】も解体され、サッカー市場は元の世界を取り戻す。
場所は日本。東京駅構内のデパ地下の片隅。廃棄寸前のコインロッカーが並ぶ場所に放置された公衆電話。2人以外人の気配は無い。
「腐女子の私はあなたの為に変わり、モデルの仕事に精を出し、サポートしてきた……つもりなんだけど――それは大きな間違い」
「……」俺は無言で頭を搔き毟る。
「あなたの病気が発覚し、生き甲斐であるサッカーすら一時見失い……またあなたはモデルの郷流聖歌ですら見向きもしなくなり――やっと私は気付いた」
嗚咽を隠そうともしない彼女は震える声で深呼吸。
「あなたが本当に求めていたもの。モデルの私ではない。高校の頃のストーカーオタ女」
……素の私よ。
勇気を振り絞り遂にその真実を伝えてくれた。
「――俺がサッカーを続けてる理由……知りたいか?」
コクッと頷く彼女は涙でぐしゃぐしゃの顔。
「高校に入学した頃、ある女がいてさ。見た目オタ女なんだけどルックスはどストライク。幾度か声を掛けようにも陰鬱なオーラが邪魔して近付けない」
俺の声も掠れる。想いが上手く伝わらない。
「俺は決心した。大好きなサッカーで惚れたオタ女を振り向かせる。光の世界へ引っ張り出してやるって。途中まで作戦は成功してたんだけど……立場が逆転しちまったんだ」
笑えるだろ? と付け足す。彼女は驚き涙でずぶ濡れの顔ではにかむ。
時間は残酷。取り戻せない。ひたすら進み、今度こそ築き上げていく。
「ここが――私達のスタートライン……あなたは確かにそう言っていた」
「それが何だ?」俺は覚悟を決める。
彼女の一択で天獄か地獄に分岐。
「結婚しましょう」女神が微笑む。
「……俺で良いのか?」
「あなただからこそ私が必要なのよ」
サッカーはドラマである。一人で完結する事は出来ない。
俺達はやっとお互いのゴールマウスまでボールを運んできた。
チャンスは一回きり。魔法の瞬間が訪れる。
「――それは何?」
「婚約指輪」
「何よ。何もかもお見通しって訳ね」
「あー一つだけ分からない事がある」
「言って御覧なさい」
「婚約指輪って、どっちの薬指に嵌めるの? 右手? 左手?」
「ハァー。あなたらしいわね」
――GOAL!!!!
2人は笑い、将来を誓い合う。
――これからだ。 (了)
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