第四話
いや、きっと気のせいだ。今名前を呼ばれたのは気のせいなんだ。
聞こえなかったですよーというフリをして路地の奥へ進もうとすると、腕を強く掴まれた。
ぎぎぎ…と油の差されていないブリキの人形のように首を回せば、分かってはいたけどそこには見覚えのある幼馴染の顔がある。
「…やっぱアンナだったか」
「……」
「なんでこんなとこにいんの?」
「……」
「おい」
「……」
「なんか言えよ」
「黙秘する」
仲直りはしたい。したいが今このマルコが女の人とデートしてるのを盗み見してました、という状況下では仲直りなんて無理。これがバレたら今以上に嫌われて本当に仲直り出来なくなるほどの溝が出来てしまう。
故に頑としてしゃべらんぞという決意を込めてそう言えば、マルコはぶはっと吹き出した。
「やっとしゃべったと思ったら黙秘するって、お前なぁ…」
「……」
「俺が絶交したからしゃべらない訳?」
別に後ろめたいことをしていて、それがバレそうだからしゃべらないようにしている訳ではない。決して。
「俺もちょうどお前と話したいと思ってたんだ。ちょっと付き合え」
待って、今話したらボロが出る。ロベルがいないこの状況はまずい。私は嘘をつけない性格だからやばい。
「…ちょっとって、どのくらい」
「ちょっとはちょっと。ほら早く」
腕を強引に引かれたので仕方なく、渋々細い路地から出た。
ボロが出たらごめん、ロベル。それでも私、精一杯バレないように頑張るからね。
大通りから少し離れたところにあるベンチまで腕を引かれ、隣に座らされた。
横から視線を感じるけど全て無視した。ひたすらに地面を見つめることで視線なんか感じていないと言い聞かせている。何故か冷や汗が止まらないけど。
「……あのさ。サーラから結婚するって二人で聞いた日。あの日…ガキみたいに八つ当たりしてごめん」
その言葉に慌てて顔を上げると、随分久しぶりにまともに見た赤毛の幼馴染はバツが悪そうな顔をしていた。
「そんなことないよ!あれは…私が悪かったから。こっちこそ、マルコの気持ちを知っていたのにずっと黙っててごめん」
「いや、いいんだ。サーラは恋人がいるって言うのも恥ずかしがるような人だし、それをよく分かってるお前が俺に言わないのは当たり前だよな」
私から視線を逸らして前を向いたマルコの横顔は酷く切なげで、私はなんて声をかけたらいいのか分からない。
「ロベルにさ、いい加減意地張ってないで仲直りしたら?って言われててさ。その通りだと思ったけどやっぱりあんな酷いこと言って絶交宣言した手前、なかなか俺から言い出せなくて」
あの日のことは私に全て非があると思ってるけど、マルコはそんな風に思わず仲直りしてくれようとしてたんだ。よかった、本気で絶交した訳じゃなかったんだ。まだ仲直りできる余地は…あるんだね。
そしてロベルのフォローがありがたい。本当にロベルが優しすぎる。
「絶交するの止めようぜ」
「…マルコがそれでいいなら、私もまた絶交する前に戻りたい」
「じゃあ仲直り」
ん、と言って手を差し出されたのでその手を握り返す。
マルコと喧嘩して仲直りしたときは、いつもこうやって握手をした。
本当に…仲直り出来たんだなぁ。
「何泣きそうな顔してんだよ」
「だって、一生仲直りできないんじゃないかと思ってたから」
「…今までで一番酷い喧嘩だったな」
「…そうだね」
くだらないことで今まで沢山喧嘩をしてきたけど、こんなに長い間話さなかったのは初めてだ。
だから本当にこのままずっと絶交したままになるんじゃないかって、日が経つにつれて不安になった。それでも心折れずにいられたのは、ロベルがいてくれたから。
幼馴染がもう一人いて、本当によかった。私ってなんて恵まれているんだろう。
「そういえばなんであんな細い路地にいた訳?何してたんだ?」
びくっと肩が大きく揺れる。私の動揺に気付いたマルコは顔を顰めた。
「お前…どうせよからぬことしてたんだろ」
「そ、そんなことは、ない…」
「声小さくなってんぞ。で、何してたの?」
「も、黙秘す」
「黙秘権はない。ほら、さっさと吐け」
ど、どうしよう。
答えに窮しているとマルコは小さくため息をつき、話題を変えた。
「そういやお前、俺が誰かといたとこ見た?」
「だ、誰か?一人で街にいたんじゃないの?」
「……」
「さ、仲直りできたし私は元の場所に戻るよ!今日は仲直りできて本当によかった!またね、マルコ!」
駄目だ。助けてロベル!
と祈ってみたけど救いはなく、立ち上がって逃げ帰ろうとしたら腕を掴まれ、ベンチから立ち上がることは叶わなかった。
視線が矢のように私の身体に刺さっている。冷や汗と手汗が凄い。ベンチに私の汗で水溜りが出来るんじゃないかと思ってしまう。
マルコと視線を合わせないようにしながら目を泳がせていると、隣に大きな笑い声が響いた。
「お前、あからさまに怪しすぎ!」
「あ、怪しくない!これが私の普通よ!」
「嘘つけ!何年幼馴染やってっと思ってんだよ。そんな嘘に騙されるわけねーだろ」
「くっ…」
ごめん、ロベル。私にはこれ以上隠し通すことは無理だった…。
援軍が来る見込みはないので私は敗戦を悟り、隠し通すことを諦めた。
そしてマルコに洗いざらい吐かされ、お前はそんなことをしてたのかという言葉と共に厳しいお説教をされた。母のお説教よりも数倍怖い。でもこんな風に感情をあらわにしたマルコは久しぶりに見たから、少しだけ安心した。
ちなみにロベルは私に付き合っただけとして一人だけ許されていた。何故だ。
お説教を終えたマルコは大きなため息をついてベンチの背もたれに右腕を乗せ、左手で俯いた顔を覆っている。
何そのイケメンにのみ許されたみたいなポーズ。それがまた様になってるのがなんとも。
「お前らそんなことしてたのかよ…」
「だってお姉ちゃん一筋だったマルコがお姉ちゃんじゃない女の人と手を繋いでたんだよ?何があったのかと心配になるじゃん」
「それは…」
「しかも、き、キスまで街中で堂々と…!私のせいでグレてプレイボーイになっちゃったのかと思ってとりあえず見守ることにしたの!他にどうしたらいいのかわかんなかったから!」
「そんなに怒んなよ。逆ギレか」
「そんな子に育てた覚えはありません!」
「お前に育てられた覚えはねぇよ。……でもそっか。あー見られてたのか」
顔がいつの間にか真っ赤になっている。プレイボーイのはずなのになんかウブな感じの反応でちょっとたじろいだ。
「…ま、ロベルの予想は当たりだ。あいつほんと鋭いな。……俺、やっぱサーラから結婚のこと聞いてもさ、諦められなくて」
「うん」
「最初はただサーラのこと考えたくなくて、親父の仕事の手伝いに行っただけだったんだ。でも仕事終わって街中でサーラに似た女の人見た時にさ、ロベルの姉貴が『失恋には新しい恋よ!』って言ってたのをふと思い出してさ。サーラのこと今すぐにでも忘れたかった俺は、思わず見ず知らずの女性に声かけてたんだ。俺とデートしませんか、って」
プレイボーイになったきっかけがまさかロベルの姉であるローラの言葉が発端だったとは…。
私もマルコもローラからかなり影響を受けていたのか。ローラの影響力凄い。
「そしたら簡単にいいよって言われてさ、思わず驚いたら『なんで誘ったあなたが驚くの』って笑われて。その顔がサーラに似てて…サーラを忘れたくて声をかけたはずなのに、その相手がサーラに似てるなんて俺馬鹿だなって思った」
確かにそれでは忘れようにも忘れられまい。
「でも声かけちゃった手前断れなくてさ。そんなことを何回か繰り返して、三人くらいの子とデートした。…お前も見てたならよく知ってるだろ」
「はい、すみません。よく存じあげております」
「…デートして忘れようとしてるのに、サーラに似ててやっぱサーラのこと思い出しちゃって、俺全然彼女たちのこと好きになれなかった。俺って最低だなと思いながら、それでも忘れたくてサーラに似た彼女たちにサーラを重ねて触れたんだ。手を繋いだり、キスしたり」
「…うん」
「でもやっぱり虚しくて。どうしようもない程俺って馬鹿で最低だなって思った。彼女たちから好意を感じてるのに、俺はそれに一切応える気がないんだから。……このままじゃ彼女たちに悪いから、だんだん会うのをやめようと思ってたんだ。そしたらお前を発見した訳だ」
「おおう…」
何やら凄い時に見つかったらしい。
「…俺、今日で彼女たちに会うのやめるよ」
「え?」
「なんかお前に色々話したら吹っ切れたわ。あー今まで悩んでたのがアホらしい」
「一体私と話したどの辺に吹っ切れた要素が…?」
「さあな。俺にも分からん。…そういえばお前髪切ったんだな」
「ん?まーね。短い方が似合うでしょ?」
「ああ」
軽口のつもりで言ったのに間髪入れずに真顔で言われ、思わず目を見開いた。
「お前がサーラに憧れてたのは知ってたけどさ、正直全然髪長いのも静かなのも似合ってなかったし」
「そんなことないでしょ!」
「いーや、似合ってなかったね。どんなに髪伸ばそうと、お淑やかにしてようと隠しきれねーお前のお転婆さが見え隠れしてたわ」
「そんなはずは…!皆大人っぽくなったねって言ってたし!」
「お世辞だろ」
まじか。全然気付かなかった。
姉みたいになれたと思っていたのに全然なれてなかったとかショック。あんなに頑張ったのに。
「…やっぱお前、今みたいな方がいいな」
「ん?」
「そんくらい騒がしくないと張り合いねーよ」
久しぶりに見た、かつて好きだった人のその笑顔は太陽よりも眩しくて。だけど胸が高鳴ることはなかった。
もっと眩しくて優しい笑顔に気付いて、もう惹かれてしまっているから。
あんなに苦しかった恋も、もうとっくに優しい思い出に変わっていたんだ。
「こう軽口叩いてると昔に戻ったみてーだな」
「確かにね」
「……お前、なんか何年か前から俺に対してぎこちなくなるし」
うっ。初恋を自覚して無駄に意識してしまっていたからだ。普通に接することが出来なくなっていたことに、まさか気付かれていたとは。
「なんか懐かしいな」
「懐かしいね」
なんだかそれがおかしくて、二人で昔みたいに笑い合った。
ああ、本当に私たち幼馴染に戻れたんだ。
ひとしきり笑い終えた頃、大通りの方から私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「あ、ロベルが呼んでる」
「そういや二人で街に来てたんだっけ」
「そうなの。今日はね、ロベルがジュース奢ってくれるんだって。ふふふ…。って、そういえば買いに行ってるロベルに移動したこと伝えてない!だからロベルが呼んでるんだ!」
「…ふーん。じゃあ早く行ってやれよ」
「マルコは?一緒に行かないの?」
「俺はまだやることあるから」
「そっか。じゃあ先にロベルと村に帰ってるね」
「ああ。じゃあまたな」
「うん、また村でね!」
手を振ってマルコと別れ、ロベルの声のする方へ急いで向かった。足取りがとても軽い。
早くマルコと仲直りしたこと、ロベルに伝えなきゃ!
◇◇◇
あの後ロベルを見つけて声を掛けるとロベルは焦った顔も隠さずに振り向き、私を見てあけらさまにほっとしていた。
「路地に戻ったらいないから、何か事件にでも巻き込まれたのかと思って焦った」
「ごめんごめん。それより、あのね…」
「帰りに説教するから」
「え?」
「勝手にいなくなったこと、俺結構本気で怒ってますけど?」
「ご、ごめんなさい…」
「…まぁ、それはあとでね。はい、ジュース」
「ありがと!」
「それで?なんかあったの?」
「うん!あのね…」
マルコに見つかったことを話し、簡単にこれまでの経緯を話した。
「…なるほどね。じゃあとりあえず用事はなくなった訳だし、ジュース飲んだら帰る?」
「そうする」
こそこそする必要もなくなり、大通りから離れた噴水広場まで移動して空いてるベンチに二人で座る。
買ってもらったジュースを一口、口に含めば爽やかな甘さと少しの酸っぱさが口の中に広がった。
「んー人の金で買ったジュースは美味しい」
「…ほぉ。そりゃ買った甲斐がありましたなー」
「冗談だって!…ありがと、ロベル」
「どーいたしまして」
なんとなくそこで会話が途切れて、二人で静かにジュースを飲んだ。
さっき簡単に話した経緯を詳しく伝え終えた頃にはもうジュースの容器は空になり、甘酸っぱい匂いだけがほんの少し残っている。話し終えた後はなんとなく私たちの間に漂う空気がいつもと違くて、少しだけ不安になった。
不安に見てみぬふりをして、ゴミ箱に飲み終えたジュースの空容器を捨てて二人で静かに街を出た。
なんだろう、どうしていつもとロベルの雰囲気が違うんだろう。今のロベルは優しい幼馴染の顔をしてなくて、知らない男の人の顔をしていた。
重い沈黙に息が苦しくなりそうになっていると、ロベルはこちらも見ずに口を開いた。
「マルコにバレたし、マルコが彼女たちに会うのをやめるなら街に二人で来るのもこれが最後だな」
「え?」
「だって二人で街に来る必要もなくなるだろ?…なんか最近はこれが普通だったから、少し寂しくなるなぁって思ってさ」
…そっか。目的がなくなった今、二人でわざわざ街に来ることはなくなっちゃうのか。
「…そうだね。でも全く二人で街に行かないってこともないだろうし、たまにジュース飲むのに付き合ってよ」
そりゃ最初はマルコが知らない女の人とデートしてて、マルコの様子を窺う為に始めたことだったけど。いつの間にか私には目的より手段の方が大切になっていて、この二人で過ごす時間が何よりも大切に思えて。また当たり前のように二人で街に遊びに来たりするのだと、そう思っていた。
「…気が向いたらね」
だから当たり前のように「いいよ」って言ってくれると思ってたのに、あまり芳しくない答えに戸惑った。
「気が向かなかったら、一緒に来てくれないの?」
「んーだって幼馴染だって言ってももう子供じゃないし、恋人でもないのに二人っきりなのはなぁ。今回は目的があったから別だけどね。マルコと三人でならいつでも付き合うよ」
いつも優しい幼馴染からやんわりと二人で街に行くことを拒否されて、私は泣きそうになるのを歯を食いしばって堪えた。
「……そ、そうだよね!ロベル好きな人いるって言ってたし、幼馴染とはいえ女子と二人で街に行くなんて好きな人に知られたらまずいもんね!」
「そういう訳じゃないんだけど…」
「いいのいいの!畑仕事とか村の手伝いとかあるのにいつも誘っちゃってて本当にごめんね!…そうだ、あのね、」
これ以上この話題を続けたくなくて無理矢理話題を変え、私はロベルに一方的に話しかけ続けた。いつもはあっという間に着いてしまう、歩いて四十分かかるこの距離が今は途方もなく長い道のりに思えてとても恨めしい。
長すぎで話題が尽きないか不安だったけど、元来おしゃべりな性質を持つ自分に今回は救われた。何を話していたかは正直全く覚えていない。口から出ていくのは不安を隠す為の言葉でしかなかったから。
村に着くとロベルとは別れの挨拶をして早々に別れ、家に帰って体調が悪いと家族に告げて夕食も食べずに自室に逃げ込んだ。自室の扉を閉めると全身の力が抜けて床に座り込む。
私は膝をキツく抱いてそこに顔を埋めた。なんだか一ヶ月くらい前にも似たようなことがあった気がする。
「……だから言ったじゃん。不毛な恋なんて辛くなるだけだって」
知っていたはずだ。前回学んだじゃないか。好きな人がいる人に恋をしたって辛くなるだけだって。
あんなに痛い目にあったのに学習しない自分が嫌になる。
「ロベルが優しいからいけないんだ」
その優しさに救われた。その優しさに恋をした。ロベルが優しくなかったら、きっとこんな風に好きにならなかったのに。
理不尽なことを考えていると分かってはいても、そんな風に思わずにはいられない。
『失恋には新しい恋よ!』
頭の中にそんな声が聞こえてきた。恋の伝道師のありがたいお言葉だ。
「……もう無理だよ、ローラ」
失恋して新しく恋をしたと思ったらそれも失恋しただなんて。今回は流石に無理。こんな短期間に二回も失恋するとか、私はもう今後一生立ち直れないかもしれない。
『俺はアンナらしいアンナが好きだから』
そんなようなことを前にロベルは言っていた。
嘘つき。私らしい私に戻っても、ロベルは私のこと好きになってくれないじゃん。
八つ当たりのようにそんなことを考えながらも膝と一緒に抱き込んだ悲しみの行き場のなさに、どうしようもなく腹が立った。