アルベール・カミュ『異邦人』読了
読み終えました。新潮文庫の窪田啓作訳です。
「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない」という書き出しから始まります。
何となくこの文章だけでも感じられますが、主人公のムルソーは母親の死に対して哀しみを出しません。埋葬までの過程においては、涙を見せず、煙草を吸い、コーヒーミルクを飲み、埋葬の翌日には泳ぎに行き、女性とねんごろになります。
その後、幾筋かの経緯を経たのち、海岸でアラビア人を銃殺します。「耳を聾する轟音とともに、すべてが始まったのは、このときだった」とあり、その後さらに四発を撃ち込みます。「それは私が不幸のとびらをたたいた、四つの短い音にも似ていた。」と書かれています。
そして第二部はムルソーが死刑判決を受けるまでの司法手続きとなります。しかしここでも、ムルソーは他人事のように事実と自分の感情を淡々と述べていきます。自分の運命を決するという場面の連続ですが、それでも感情的になることもなければ、無感情になることもなく、感情に多少の起伏はあれど物語は一定の温度を保って進行していくようです。
結局死刑判決を受け、御用司祭とのやり取りの末に、「すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。」として小説は終わります。
文庫小説の最後にある解説には、「この小説は、法廷でムルソーが視線を交わした、ひとりの新聞記者による聞き書きである」という仮説が述べられています。
感想を言えば、私が最も引っかかったのは、第二部の裁判において、判事、検事、陪審員、そして弁護人までもがムルソーに対する無理解を加速させ、ムルソーを人非人であるという結論へと達していったことです。この場面までにムルソーからの第一人称という体裁で物語が進められているということを抜きにしても、ムルソーの行為があまりにも安易に大罪であると確信されていくような感覚に囚われます。
ムルソーの一人称の文章であること、ムルソーの感情が率直に書かれていることからムルソーの思想を解析したくなりますし、第二部では登場する人物たちがムルソーの感情を無視して何らかの考えによって各々の感情のアクセルを踏む様に人間の醜悪や社会の不条理を読み取りたくなります。
しかし、この長さの小説でそれほど多くのテーマを作者が意図的に盛り込んでいったと読み取るのは少し無理があるような気がします。そのあたりは、カミュ自身が書いた本作の注釈にあたるとされる『シシュフォスの神話』を読んだり、関係性の深いサルトルとのやり取りなどから読み解かねば難しいと判じざるを得ないでしょう。
どうも、カミュは人々の認識と現実という曖昧なものとの距離感を測っていたのではないかととこの作品はからは感じられるんですけどね。そのあたりの距離感の違いこそが、ムルソーとその他の人々(特に御用司祭)との違いであり、ムルソーが冒頭と巻末とで変化しているものだと思うのです。
ちょっと作品の唐栗から読み解く姿勢に傾きすぎかなあ、という自覚を持ちつつも、私の個人的な感想はこんな感じです。