三島由紀夫『金閣寺』を読んで
とりあえず読了しました。すごく時間をかけて一杯言葉の意味を調べました。絢爛豪華と言われる文体は流石の物がありましたね。それ自体をどのように評価するかという問題はおいておくとして、並の人間には書けない文章を書くというのが稀有な才能の表れであることは疑いようがありません。
一方、ストーリーの展開はどうかというと、文章の複雑さの割には明快な部分がほとんどを占めている作品だと言えるでしょう。勘違いしないでくださいよ、「明快」であって「簡単」とか「シンプル」じゃないですよ。
私がとにかく感じたのは、論理に対する距離感が極めて近いということ。人間がこれまで開発してきた論理にどっぷりと浸かって書かれており、そのことに対する躊躇いや負い目という普通の文学者や哲学者であれば当然に抱くはずの部分が見受けられません。
しかし、ストーリーは明快である一方で内容は難解です。登場人物の鶴川や柏木、両親や老師との会話は三島哲学の問答を存分に組み込んでいるので、一行一行の言葉をきちんと自信を持って解説できる人間はほとんどいないはずです。登場人物の作りとしてはシンプルなんですけどね。
そして、読者が『金閣寺』を読み解く最大の障害となっているものの一つが、「象徴」という存在に対する三島由紀夫の哲学の深さだと思われます。
何となくは分かるんです。ハンバーガーとコーラを見ればアメリカを、バッキンガム宮殿とその衛兵を見ればイギリスを、額のビンディを見ればインドを、でっかい毛沢東がかけられた天安門を見れば中国を、日の丸富士山芸者を見れば日本を、それぞれ連想しますよね。それが象徴です。
でも、実は我々のほとんどはその程度で象徴についての理解が止まっている。
一方で、三島由紀夫は違います。大正末期に生まれて戦前と戦後という二つの昭和を生きた彼が、どれほど「象徴」について思考を巡らせたのかは想像もつかないほどでしょう。
戦前においては天皇、日の丸、などといった日本を象徴するものが現代と比べ物にならないほどに尊ばれた中で、三島由紀夫はなぜ自分たちがそれらをこれほどまでに尊く考えるのか、人間心理や社会的効果について深く考え、一定の結論に近い場所まで達していたものと思われます。しかし、その一方で終戦という価値観の転換により、人々の中でそれらの尊さが大きく変容した様を目の当たりにし、自身の中の象徴についての理解を再考し、再定義せざるを得なくなった。そういう人間が、象徴について膨大な思考を割かなかったと考えるほうが無理があるでしょう。
そんな三島由紀夫が作中で主人公の溝口の象徴の対象としたのが、金閣寺です。確かに文学は象徴化の連続の上に構成されるものと理解することもできますが、この金閣寺の放つ象徴としての力は、他の象徴の力と同一に考えるわけにはいきません。
「金閣寺は美の象徴、母親は俗の象徴として対比を成している」などという意見もあるようですが、これは明らかに理解を放棄して自分の思考に作品を落とし込んでいると言わざるを得ません。前者の象徴と後者の象徴を同列のものとして語ることは不可能です。同じ「象徴」という言葉で表すのが憚られるほどの隔たりがあります。
『金閣寺』を読むにあたって「象徴」についての理解をせずに読み解こうとするのは恐らく不可能でしょう。そしてその「象徴」が難解極まりないものであるという点が、『金閣寺』を明快でありながら難解とさせています。
まあ、私も分かるわけねーからこうやってどんな風に難しいのかしか書けないんですけどね。
しかし、「思想」の部分ばかりが強く取り沙汰されて、三島の「論理」の部分があまり取り上げられないのはそれだけ「思想」に人は惹きつけられやすいからなんでしょうね。おお、怖い怖い。