垣谷美雨『うちの子が結婚しないので』
私もけっこうな歳なこともあり、プライベートなことを探られたり、おせっかいな(手前勝手とか邪魔とも言う)忠告を受けたりといったことが何度か経験があったためか、本屋で見つけた時に手に取りました。
しかし……出会ってしまったという奴ですねえ。
はっきり言います。私の苦手な作品です。
以下、この本があくまで「小説」としてどのように私が苦手かというのを書いていきます。
この本の特徴、その第一は、「主人公が作者の自己投影である」という点でしょう。
垣谷さんのことは私は存じ上げませんが、多分すごく似ています。性格だけじゃなく、家族構成も、置かれている環境も、思考の方法も、信条も。まあ、自己投影自体が悪いことだとは言いません。物語を書くとなるとキャラクターが必要で、キャラクターは全くのゼロから生み出すのは難しい以上、どこかで見てきた個性の集合体になる、そしてもっとも動かしやすいのがもっともよく知っている自分自身だとするのであれば、キャラクターには自己投影をしたほうがずっと面白く動いてくれます。名作と呼ばれる作品も多くは主人公には大なり小なり作者の自己投影が入っていますし、それの大小で作品の好悪が決まることはありません。なので、主人公への自己投影自体が悪いとは言いません。しかし、下記の要素が絡まると私にとっては地獄の様相を呈してきます。
主人公が作者の自己投影であるのと組み合わせとして悪いものとして、「主人公のアーク(作中での変化)が弱い、あるいはほとんどと言っていいほどない」というものがあります。基本的に物語というのはアークがなければ物語として機能しません。しかし、主人公に自己投影をしつつ自己愛の強い作者だと、この原則が圧倒的に弱くなります。アークというのは、主人公が何か変わりたいと強く望むから生まれるものです。しかし、愛すべき自己の投影である主人公となると、最初から主人公は自分から見て満足できる程度には魅力的な人間ということになるので(多少自分で嫌なところはあると自虐が入りつつも、登場人物のほとんどが自分より下であると書かれている)、その欲求がないのです。自分を愛していて、自分自身に対する強烈な「トラウマ」や「欲求」がなければ、アークは生まれません。本作でも、主人公の千賀子は最初と最後でほとんど変わっていません。親婚活というものをしてみて、世の中には色んなとんでもない人間がいっぱいいることに気づいた、でも、自分の娘は結局自分たちと同じような家族をもつ男性と結婚をしてハッピーエンド、で終わりです。変化した状況は、「結婚しそうにない自分の娘が自分の親婚活の結果幸せな結婚をしました」というだけです。では、このお話が物語として機能していないなら、本作は一体何か。それは、「作者の視線から見た世の中の描写」です。その証拠に、本作の中で主人公の千賀子がしょっちゅう長々と他人を分析しています。これは、作者が見聞きして思った情報をシチュエーションだけを与えてそのまま主人公に語らせているからです。これは正直に言って「鼻白み」ものです。
そして、こういった類の作品はだいたい相場というか傾向というか、二つの特徴を持っています。
その一つが、「自分に近しい人間ほど好意的に描写し、自分から遠い人間ほど救いようのないダメ人間に描く」ということです。本作中では、登場人物はほとんど「自分たちに価値観が近いかどうか」、つまり「自分たちと合いそうか」で評価されます。これだけだったら全然いいんです、自分と合う人間を好きになるのは普通のことだし、婚活の相手選びの場面であればそれはなおさらです。しかし、本作中では自分たちと合うかどうかをそのまま人間として良い人間か悪い人間か、に繋げて描写しています。例として挙げると、作中で好人物として描かれているのは(本作は減点評価の人間評価なのではっきりと悪く書かれていない人物ということになります)、主人公、そして主人公の娘、主人公の学生時代からの同級生の真由美、そしてそこからちょっと落ちて主人公の友達たち、主人公の夫、そうやっていって一番はっきりと悪者になっているのが、若くて主人公とは違う生き方を描く今井という若い女性と、娘の婚活相手として落第していく男たちです。こういう作品はダメです。何故かというと、「驚きがない」からです。すべてがこの原理にのっとって話が進行していくので、先の展開がはっきりと読めます。なので、「ああやっぱりそうなるのね」以外の感想がでてこない。
そして二つ目ですが、先ほどからのつながりで作品トータルとして、「読者の感情に何も感じさせない」ということになります。作中では早々に登場人物それぞれに評価がつけられて、その評価に基づいて逆転も何もなく良い人間は良い終わりへ、悪い人間は悪い終わりへと落ちていくだけです。ストン。勘違いしないでほしいのですが、勧善懲悪は悪いことではありません。読者がスカッとするのは良い作品の要素でもあります。しかし、本当にスカッとするには読者が「どうせエンディングはハッピーエンドなんだろ」、と思いつつ「もしかしてバッドエンド!?それはやめてっ!!」と思わせてから逆転でハッピーエンドに向かわなくてはいけません。作者の掌の上で転がすのです。それでこそ、読者は本当にスカッとするのです。読者が想像したとおりの展開ですんなりとハッピーエンドに向かってはいけません。また、本作では主人公や周囲が強烈なトラウマや逆境を抱えていませんから、読んでいる人間は主人公たちに感情を移入していけません。出てくる主人公家族が「普通に良い人、80点くらいの理想の連中」であってそれ以上でもそれ以下でもありません。強烈な強みも強烈な弱みもありません。こういう人たち、現実世界で自分の近くにいる分にはいいけれど(本当にそうであれば。実際は現実世界でも本人たちがそう思っているだけで本当は非常に面倒くさい人たちであることのほうが多いのですが)、物語の中では感情移入するのが難しいのです。物語で、「個性もなくそこそこ恵まれた視点から周囲の人間を心の中で採点していく登場人物」と「とびっきりの弱点を抱えているけどそれを克服しようと一生懸命な登場人物」どちらに感情移入できますか?圧倒的に後者ですよね?前者にはむしろバッドエンドを与えたいところです。私は本作を読んでいる最中にいったいどれだけ主人公のバッドエンドを望んで読んだことか。
しかし、ここまで書いておいてなんですが、この作品、ある意味では仕方のない面を持っているんです。それは本作が「結婚しない人がどんどん増えている社会における個々の人間たち」を記述するのが目的で会って、「物語」を作ることが目的ではないという面です。しかし、それだったらそうでこの作品は小説という形式でなく別の形式で出すべきだし、小説にするなら小説にするで主人公にできる限り魅力的な個性(特に弱点)をつけて作中で動かして、読者の感情を掻き立てようと努力するべきでした。
だいたいこの辺ですかね。まだまだ書きたいことはあるけど悪い評価ばっかり書いていると私の性格まで疑われそうですから。えっ、もう遅い?すいません。(推敲で読み返してみたら自分でもちょっと「うわぁ」と思った)
次の読書感想は安部公房『壁』の感想を書く予定です。




