カラミティアの谷 3
トトはカラスティアの谷の集落に、十五年前に生まれた。父は妖獣使いで、都に仕事で出向いた時に母を見初めたのだという。母は金髪碧目の麗しい美人で、天人の血を継ぐと言われる由緒正しい貴族の娘で、それを駆け落ちと称して誘拐同然に連れ帰ったものだから、もちろん谷中大騒ぎになって、人々は揉め事を引き込んだ父を非難した。その頃から長老をしていたガイガも例に漏れなかったが、母が望んで谷に来たこと、さらにすでに妊娠していることを知れば、人のよいガイガには二人を無下に扱うこともできなかった。二人は村八分同然に住み処から追い出されたが、長老の屋敷にある小さな離れで暮らし、しばらくすれば母から碧の瞳を受け継いだ娘がそれに加わった。
いくら村八分同然に扱っていても、優れた妖獣使いは谷にとって外貨を稼ぐための貴重な資源である。谷で管理しているギルドから父は辛い仕事ばかりを回され、父の留守中に谷中の冷たい視線と生まれたばかりの赤子の世話にさらされるうちに、母は体を壊してしまった。
そもそも、都で蝶よ花よと育てられた娘には、谷の厳しい生活は耐えられなかったのかもしれない。母は自分から体調不良を周囲に告げることはなかったので、ガイガがそれに気づいた頃にはもう手遅れだった。病床に伏せてみるみる体力を失って、父が事故で命を落としたという知らせが谷にもたらされたと思うと、母も後を追うようにして亡くなった。
残されたのはトトである。そのころには自分でよちよち歩き回れるようになったトトだが、身体機能の発達に比べて言語機能の獲得は他の子供に比べて随分遅かった。一家は集落から孤立しているため、話しかける人間が母しかいなかったのだから当然か、とガイガはさほど気にも留めなかったが、ただ時間があれば昔話などをよく語り聞かせた。そうすると、トトはあっというまに言語機能でもよその子供を追い越し、それどころか、今までの遅れは何だったのかと思うほど貪欲に知識を吸収していった。あれは何? これは何? に始まり、ガイガの長老としての仕事、谷での暮らし、生活に必要な知識。読み書きもあっという間に覚えると、谷中の本をすべて読もうとする勢いで読書に励んだ。
この子は、賢い。そう確信したガイガは「自分の仕事を手伝わせるためだ」と周囲の反対を押しきってトトを養女とし、トト自身には自分のことは祖父と思うようにとしつけた。
「生まれのことでつまらないことを言ってくる連中も多いだろうが、負けてはいかん」
たった一人残された娘を思えばこそ、ことあるごとに厳しい言葉で言って聞かせたガイガだったが、トトはと言えば谷の人々に何を言われようと無視されようと、決して泣いている姿をガイガに見せることはなかった。
「わかってる、おじい。あたしは絶対、この生を楽しむことを諦めたりなんてしない」
その気丈な振るまいと時々見せる驚くほど大人びた言動は、幼くして親をなくした反動のように思われ、それを思えばこそガイガはトトが不憫でならなかった。
しかしトトは七歳になるともうほとんど大人と同じように仕事をした。子供が巣だったあとに連れ合いをなくして男やもめだったガイガの家でガイガに教わりながらほとんどの家事を習得し、そのあとは外の仕事を手伝った。それにも手間取ることがなくなると、妖獣の世話を。そして、周囲から一年遅れてやっと、ひとつの卵を手に入れるに至った。
谷に暮らす子供は、十になるとひとつの卵を渡される。化け鴉の卵だ。野生のものではなく、すでに人に慣れた獣から譲り受けたもので、それを孵化させ無事に育てることが、妖獣使いになるための一種の適正検査だった。
すべての人間が、妖獣と信頼関係を結べるわけではない。その最初の一歩が、たまごを孵化させ、刷り込みを行って自分との関係をつくることだった。
化け鴉の寿命はおよそ六十年。孵った雛は一生の相棒になる。その雛と信頼関係が結べれば、妖獣使い見習いとして次の段階に進める。だが、育成に失敗したり雛から攻撃されたりしたらそれまで、谷の花形職業である獣使いになることは、一生できない。
トトに貴重な卵を贈ること自体、大きな反発があった。だからこそ十歳の時はそれを見送られたわけだが、ガイガは諦めずにトトに卵を贈るように妖獣使いのギルドに再三要求した。
「あの子の父親は優秀な獣使いじゃった。半分よそ者だからといって、その血を逃すのは、谷にとって損失になるじゃろ」
なんて言葉はほとんど出任せだった。本音は危険な仕事でも、妖獣使いになりさえすればこの谷での地位ができる。仕事も与えられる。谷では狩りの仕事が、谷の外では護衛や用心棒、果ては軍に採用されることもある。例えそれが危険な仕事でも、今の環境に甘んじてただ体だけ成長することはトトにとってリスクが高すぎた。それを打破するために一番確実な手段は妖獣使いになって力をつけることだったし、恐らくトトもそれに気がついていた。
しかし、トトがギルドから持ち帰った卵をみてガイガは落胆した。通常丸々として真っ白であるはずの卵だが、トトの卵は見るからに痩せほそって殻も薄く、しかもどこか黒ずんでいた。
こんな卵、孵るかどうかも怪しい。
そう思っていたガイガだが、トトは諦めなかった。暖炉で暖めた石を使って夜の間も卵の温度を一定に保ち、話しかけたりときどきそうっと撫でたりしながら時を待った。
そしてひと月が経ち、ついにコツコツ、と中でくちばしで殻を叩く音がしたら、トトはいの一番にガイガをたたき起こした。
「どうしたんじゃ、トト」
「おじい、ついに卵が孵るわ! 一緒に来て!」
泣き顔を一度もガイガに見せなかったトトだが、同じように笑顔を見せることも、それまでは少なかった。だから、あんなに嬉しそうなトトを見るのはあのときが初めてだったかもしれない。
それなのに、生まれた雛は、真っ白だった。
通常、化け鴉は生まれた時から大人と同じように夜色の真っ黒な羽を持っている。
明らかにおかしい。もしやあれは、化け鴉の卵ではなかったのか。ガイガは確かに化け鴉の卵をトトに渡すようにギルドに要請した。ギルドの長はガイガの古くからの友人だったが、よそ者であるトトに貴重な卵を分けることを惜しんだのではないかとさえ、ガイガは疑った。
しかしトトは生まれた雛をそっと抱き上げて、雛が開いた瞳が血のように赤いことを確かめると、茫然としたようにこう言った。
「アルビノ……」
ガイガがぎりぎり聞き取れたその言葉は、ガイガの知らない単語だった。
トトにはそういうことが、よくあった。他の誰にもわからない、自分だけの言葉を使うのだ。
長いこと話しかけてくれる親も、他愛のない話ができる友達もいなかった彼女は、きっと自分の頭で思考するのに実在しない言語を使っていて、だからこそ谷で使う言葉を覚えるのが遅くなったのだろうとガイガは考えていた。ふとした拍子に出てきてしまうそれはトトの孤独の証明であるのだから、早く忘れさせてやるのが一番近くにいる自分の務めだと。
それは半分は正しいが、半分は誤解である。
確かにトトは、思考言語が谷で使われているこの国の共通語ではない。
しかしその言葉は、ガイガが考えているような孤独と空想の産物ではなかった。ガイガの手助けによって共通語を話せるようになっても、長年根付いた習慣はそう簡単に変わるものではない、ただ、それだけの話である。
なぜならトトは、転生者なのだから。