87:霧に包まれた村
早朝の村では、山の麓に位置するためか朝霧が立ち込めていた。十歩先が霞んで見える程度の濃さだったが、霧が出ているのは冷える朝のうちだけで、日が昇れば自然と晴れてくるだろう。
人が日常を送る領域に安堵し、視界が悪いからと物怖じせず村に入る。すると足を踏み入れてすぐに、なにやら違和感を覚えた。
「やっと休める……と言いたいところじゃが、得てして物事は上手く運ばんな」
どうやら俺だけでなく、オル爺も不穏な気配を感じ取ったらしい。
立ち込めた霧のせいではなく、どことなく異様な雰囲気に包まれた村。なにが、とはっきり明言できなくてむず痒いが、俺の中の勘が気を抜くなと告げている。
もしかすると、村に魔物でも入りこんでいるのだろうか?
……いや、そういった野生的な存在が理由ではなさそうだ。視界は不良ながら、視認できる範囲で家屋が荒らされた様子は見られない。
警戒を厳にしたままで、宿を目指し人気のない通りを進んでいく。
そして宿が管理する併設された馬屋を前にして、異変を決定付ける有様に息をのんだ。
「なによ、これ……?」
木の扉が破られ、地面にくっきりと残る車輪痕。馬屋の中に置かれていたはずの魔導車が消え去っており、誰とも知れぬ血痕が点々と落ちていた。
「ちょっと、なにがあったっていうのよ!? ダリルはなにをしているの!? ダリル!!」
「ちょ、お嬢! 待てって!」
狼狽し、動揺を隠せないカルナリア嬢。村に単身残した忠臣の名を呼び、止める間もなく宿の中へ駆けて行ってしまう。
「血痕は宿まで続いているね。誰のものなんだろう……?」
「……この血、まだ新しいですね。たぶんですが、あまり時間は経っていないかと思います」
かがんで地面に落ちている血痕を観察していたイリス。傷病を癒すお仕事柄、血を見慣れている聖女様が言うのであれば、間違いないのだろう。
……どうしても嫌な予感がよぎってしまう。
お嬢をひとりで行かせたままは危ないと判断し、すぐにあとを追った。
宿に入ると、建物内はとても静かだった。入ってすぐの食堂は椅子や机やらが倒されており、血のしるべはなおも奥へと続いてる。
事態を知るため、声をあげ宿の主人を呼ぶが返答はない。いるはずのダリルさんからの返事もなく、呼び声だけが空しく木霊する。
「お嬢は二階の個室かな。俺が様子を見に行ってくるから、皆はここで休んでいてくれ」
「なら、僕は一階を調べてみるよ。師匠、すみませんがこの場をお任せしていいですか?」
「うむ、任せておけ。……やれやれ、よっこらせっと」
円形の机をふたつ並べて簡易なベッドを作り、ひとまずアリアをその上に寝かせるアッシュ。
オル爺はこけた椅子を起こし、眠る弟子の隣で腰掛ける。イリスとシュリも倣って、椅子に体を預け休息をとりはじめた。
寝ずの下山を終えたばかりでみんな疲労困憊だったが、とりわけこの三人は体力が限界を超えている模様。休めと言われ、遠慮をする余裕はないようだ。
「言っとくがシュリ、まだ寝るなよな? イリス、シュリが寝そうになったら鼻と口を塞いで、無理矢理にでも起こしてやってくれ」
「はい! 任されました!」
「うぅ~、いい加減寝たいのです……。眠いのです……」
いつも従順なシュリにしては珍しく、駄々をこねる。
育ち盛りの少女に起きっ放しは酷とわかっているが、我慢してもらわねば。寝たら死ぬとまで言わないけれど、深く寝入られていざというときに起きないと困るからな。
俺も重たい目蓋を何度もこすりながら、二階の客室に向かう。
暗い廊下に、一段上るだけで軋む階段。扉がずらりと並んだ中で、ダリルさんの泊まる部屋だけが開け放たれていた。
部屋の中を覗き込めば、呆然と立ちすくむカルナリア嬢の後姿。肝心のダリルさんの姿はそこになく、乾ききらぬ血の臭いが鼻につく。
「お嬢――」
声をかけようと近寄ると、赤く染まったベッドに足が止まった。床にまで血は飛び散っており、誰かと争ったのか荷物があちこちに散乱している。
野蛮な物盗りの犯行を疑ったが、ダリルさんの財布は手付かずの状態でベッド脇に置かれたまま。ほかにも金になりそうな物は放置され、見た限りで剣だけがなくなっていた。
「これはいったい……」
「どうしよう、キリク!? 私のせいだわ……! 私が我がまま言って、ダリルをひとりで留守番させたから……!」
止め処なく溢れる涙で目を腫らし、縋るようにして俺の胸に飛び込んでくるカルナリア嬢。
ダリルさんはお嬢にとって一介の家臣ではなく、彼女が幼い頃から傍に居た、頼れる兄同然の存在でもある。
部屋の惨状からして、ダリルさんの安否に楽観視はできない。考えたくなくても最悪の展開が頭に浮かんでしまうからこそ、正常ではいられないのだろう。
「もし……! もし、ダリルが死んでいたら……!? 私、どうしたらいいかわからないの!」
服を掴むカルナリア嬢の手に力が入り、物理的に締め付けられ息苦しくなる。だが俺以上に苦しい思いをしているのは、ほかの誰でもなくお嬢自身。
普段は大人びた振る舞いをしていても、実際は俺と対して歳の変わらない少女である。感情を制御しきれず、取り乱したって仕方のない状況だった。
「落ち着けって。まだダリルさんが死んだって決まったわけじゃないだろ? 死体も見ちゃいないのに、決め付けるには早すぎる」
「でも……血がこんなに……」
「たしかに結構な量の血だけど、全部がダリルさんのものとは限らない。剣がなくなっているし、争った跡もある。となれば、相手を返り討ちにした血かもしれないだろ?」
所詮は推測にすぎないが、あながち間違ってはいないはず。都合のいい解釈を織り交ぜちゃいるが、お嬢を落ち着かせるためには必要な憶測だった。
間違っても死んでいたり大怪我を負っているかもだなんて、不安を煽る発言をするわけにいかないからな。
お嬢が泣き止むまで暫しの間、拠り所として胸を貸してやる。一度は決壊した感情だったが、吐き出してしまえば次第に落ち着き、冷静になるだろう。
無言でお嬢の背をさすり、優しくなだめる。すると背後から、人の気配を感じた。最初はアッシュかと思ったが、階段を上がる足音は聞こえなかったことに気付き、警戒する。
ゆっくりと音を殺し、後ろから迫る気配。
声をかけてこない不審さから仲間ではないと見当をつけ、射程に入った瞬間を見計らい、振り向きながら蹴りを放った。
振り向いた先で目にした姿は、無表情で鉈を振り上げる宿の主。
蹴りは相手の鳩尾を捉え、勢いのまま壁に叩きつける。自画自賛したくなるほど綺麗に決まり、自分でも驚くばかりだ。
宿の主人は壁にぶつかったとき、同時に頭を強く打ったらしい。糸が切れた操り人形のように力なくうなだれ、完全に意識を失っていた。
「いきなり襲い掛かってくるなんて、どういうつもりだ……?」
躊躇なく刃物を振り上げていたのだから、俺たちを殺すつもりだったのは明らか。だがその割に、明確な殺意は感じられなかった。
目的はなんなのか、なぜ襲いかかってきたのか。宿の主人の凶行は、行方知れずになっているダリルさんと関わりがあるとみてよさそうだな。
「見て、キリク。この人、上半身が血塗れよ……? この出血でよく生きてられるわね……」
泣き止み平静を取り戻したカルナリア嬢が、宿の主人の尋常ではない装いを指摘する。
肩口から腰付近までかけて、袈裟懸けにばっさりと、鋭利な刃物で切り裂かれた痕があったのだ。剣で一太刀に斬られたのだと、誰もがわかる姿をしていたのである。
「部屋中に飛び散っている血って、ひょっとするとこの人の……? だとすると、ダリルさんがやったのか……?」
現場の状況から判断するに、最終的にそう紐付いていく。
ダリルさんもまた俺たちと同じく、突然宿の主人に襲われて反撃。手傷を負いながらも宿から逃げ、魔導車を持ち出した……といったところだろうか。
思案に浸っていると、ドタドタと階段を上る足音が響く。
「キリク君、なにかあったの? さっきの物音は……うわ!?」
宿の主人を蹴り倒したときの音を聞き、下にいたアッシュが様子を見にきてくれたようだ。
血塗れで壁に寄りかかる男の姿に、口をぱくぱくとさせる。俺がやったと勘違いされては困るので、早とちりされる前に経緯を掻い摘んで説明した。
「そっか、なるほどね。でも、どうして彼は襲いかかってきたんだろうね? それに、ダリルさんはどこに雲隠れしたんだろう?」
「さぁな、わからん。……一階はどうだった?」
俺の問いかけに対し、無言で首を横に振るアッシュ。事態を知る手がかりはなにも得られなかったようだ。
とりあえず宿の主人は手足を縄で拘束しておく。怪我をイリスに治してもらい、意識が戻り次第事情を聞くとしよう。
両手を縛るさなか、近くで斬られた痕を見て気が付く。血は付着しているものの、あるはずの傷がなかったのだ。派手な出血と服の裂け具合からして、斬られたのは間違いないはずだというのに。
俺たちは理解が追いつかず、一様に首をかしげた。
誰かに治癒を施してもらったのか? それにしては、建物内に俺たち以外の人がいる気配はない。そもそもこの寂れた村に、神聖術を扱える人がいるのかすら疑わしい。
では、怪我人を演じるための偽装だろうか。いや、それこそ意図がわからないな。
怪我人を装って油断を誘い、不意打ちしてきたのならまだしも、こいつは後ろから無言で襲ってきている。ならわざわざ体を汚す必要はないはず。
「キリクさーん! すぐに来てくださーい!!」
一階から、俺を呼ぶイリスの声。
今度は何事だと、俺たちは急ぎ声をあげた主のもとへ駆けた。




