84:崩潰の兆し
確かに耳にした、鈍痛な殴打の音とアバラが砕ける音。
姿勢を崩し、全力を使い果たした直後のオル爺には避けようがなく、鉄の拳をもろに喰らってしまう。老いた華奢な体躯は殴られた勢いで、地面を二度、三度と跳ね転げていく。
止まった先で苦しそうに何度も咳き込み、吐いた血が自慢だった灰色の髭を赤く染め上げた。
それでもなお、横たわった老体は立ち上がろうとする。血反吐を吐きながらも、地に突いた腕に体を起こせと命じる。
……だがオル爺の願いとは裏腹に、彼の体は言うことを聞かずやがて沈黙。懸命に呼吸する荒い息遣いだけを残し、動かなくなってしまった。
老勇者の哀れな姿を前にし、いてもたってもいられなくなったイリス。感情に身を任せ助けに行こうと動くも、すぐさまカルナリア嬢に腕を掴まれてしまう。
「離してください、カルナリアさん!!」
「いけませんわ、聖女様! 不用意に近づけば、御身が危険に晒されてしまいます!」
「でも、でも……!」
目じりに涙を溜め、イリスは懸命に訴えかける。カルナリア嬢はそれでも聖女の腕を離さず、自分の胸元へと引き寄せた。そのまま抵抗するイリスを強く抱きしめ、今は耐えてと気丈ながらに諭す。
負傷したオル爺の容態は心配だ。内臓を痛めたのならば、すぐにでも治癒を施さなければ命にかかわる。にも関わらず、手を差し伸べられない。近づくことが叶わない。
倒れたオルディスの近くにはゼインがいる。横たわった師を見下す奴の存在が、老体への接近を許さなかった。
「……焦りましたね、お師匠様。あの程度の児戯で息切れするとは、老いとはかくも恐ろしいものです。……さて、君の順番が回ってきましたよ。ミルへの祈りは済ませましたか? ……もっとも、あの女神が窮地を救ってくれるとは思えませんが」
身がすくむ敵意。心臓をわし掴む害意。防波堤だったオル爺を失ったことで、余さずに向けられる。
覚悟を決め、前に出ようとするアッシュとシュリ。震えるふたりを、俺は手で遮った。
「俺がやる。あんたも、次の標的は俺なんだろ? 蜂とはいえ、刺されたら痛いもんな。さぞかし潰したいだろうさ」
背のククリナイフを抜き放ち、ゼインに切先を向ける。歪曲した刀身が僅かな光を受け、鈍く輝く。
もしこのナイフに意思があったとすれば、こちらの気も知らず早く血を吸わせろとせっついていそうだ。
「……おや、尻尾を巻いて怯えているかと思いましたが、意外としたたかなのですね。……ですが、剣を握る手が震えておりますよ?」
「これは武者震いだっての。あんたが相手なら加減抜きに、全力でこいつをぶん投げれるんだからな。……そっちこそ、舐めた相手に負けて泣くなよ?」
武者震いというのは半分本当であり、半分は嘘。七対三ほどの割合で、少なからず怯えが混じっているのは否めない。
「……ふ、戯言を。……いいでしょう。その勝負、受けてあげましょう」
盾を前面に配置させ、その後ろで剣を片手に仁王立ちとなるゼイン。後攻で受ける体勢をとっており、こちらが動くのを待っている。
ゼインにとって一番の難敵であった師を排除し、心中でとうに勝利をおさめた気になっているのだろう。上からの物言いが、あとは消化試合だと思っているいい証拠である。
先手を譲ってくれたのは、強者が弱者にかける情けのつもりか。あるいは最大の一撃を完封し、無駄と悟らせ心を折る腹づもりなのか。
……どちらにせよありがたい。問答無用でかかってこられると、勝てる見込みが薄かったのだから。オル爺がみせたような一瞬の距離詰めを披露されれば、自慢の投擲をさせてもらえるかすら怪しかった。
与えられた、一撃を放てる機会。俺にできるのは、自信満々な奴の鼻っ面をへし折ってやるだけだ。
ククリナイフを得物とし、篭手の力を最大限引き出す。文字通り全力の投擲。
オル爺とゼインが近距離で剣を交えていた間は、衝撃の余波が及ぶ可能性を危惧し、下手に強すぎる攻撃はできなかった。元勇者の実力を信じ、援護するのがせいぜいだった。
だがもう配慮する必要はない。ただでさえ後がなく、下手に出し惜しみして負ければそれこそ元も子もないのだ。
新調したばかりだからともったいぶっていたが、今こそ出番。たとえこの一撃で折れ欠けしようが、勝利をもぎ取れるのなら本望。盾を破壊しゼインを倒せれば、対価に見合う最高の結果といえよう。
「そんじゃ、勝負だ。オル爺の仇、絶対にとってやるからな」
勝手に殺すな、と掠れた声で聞こえた気がしたが、空耳だろう。よそに意識を散らしている余裕はない。
……集中しろ。目を逸らすな。目の前の敵を倒す、その一心に全てを注げ。
「……ぶっ壊れろ!!」
「……力任せの一撃など、見事完封してさしあげますよ」
鬼人の篭手が俺の所有するマナを、これでもかと際限なく吸いとっていく。
肩が、肘が、手首が、指先が。
篭手を装着した右腕のあらゆる関節が、過度な力によって軋み、悲鳴をあげる。
持てる力の限りを尽くした、全身全霊の投擲。
極限まで引き絞られた弦を離すようにして、力強く放たれたククリナイフ。
高速で回転する刃は旋風をも巻き起こし、空気の壁を裂きながら獲物を目掛け飛んでいく。
鼓膜に響く耳障りな高音。時間遅れで吹き上がる地面の砂。瞬きする間さえ与えず、待ち構える盾に襲い掛かった。
常人には影さえ捉えるのすら不可能な神速の域。
やがて盾と刃は凄絶な勢いでぶつかり、晶窟内の空気を大きく振動させる。
阻む壁を砕き、進む意思を貫く刃。断固として立ち塞がり、一歩たりとも道を譲らない盾。
硬い金属同士の衝突は、辺り一面を明るくさせるほどの火花を散らす。生じた余波は土埃だけでなく、周辺の石や小振りな岩まで吹き飛ばした。
「……っ!?」
淡々としていたゼインに、初めて焦りの色が浮かぶ。危険を感じたのか、咄嗟に並べた盾を二枚に重ね、壁をさらに分厚くして守りをより堅固にする。
範囲を捨てて、一極集中の守り。
……ゼインのとった判断は正しかった。
直後に一枚目の盾は砕かれ、鉄片となり周囲に四散。なおも猛進する刃の勢いは止まらず、そのまま後ろに控えた第二の盾に喰らいつく。
もしゼインが慢心したままで判断を誤り、盾を重ねていなければ刃は確実に本人を捉えていた。届いていたはずだった。
「……私が受けに回っているからといって、調子に乗るなよ糞餓鬼がっ!!」
盾を壊され、苛立つ感情を露わに憤慨する騎士。
最後の防壁が砕ける寸前、ゼインは盾の縁を背面から殴打し、攻防争う二者もろともを強引に弾き飛ばした。
軌道を大きく変えられたククリナイフは、破片となった盾と一緒くたになって明後日の方向へ飛んでいき、最後は岩壁に激突。空洞全域が地震が起きたのかと錯覚するほどに震え、震源地となった壁は音を立て崩れだす。
連動して、天井からは砂や細かな石が絶えず地面に零れ落ち、晶窟そのものの崩落を予感させた。
「……よくもやってくれましたね」
息を乱しながらも、強烈な怒気を立ち昇らせ佇むゼイン。ククリナイフの刃は本人まで届きはしなかったが、魔導盾二枚の破壊を成し遂げた。
といっても、奴自身はいまだ健在な現実に変わりはない。あまりの迫力に、接近されてはならないと本能が警告する。全身に殺気を浴びせられ、生きた心地がしない。
悪寒が全身に走る。それはゼインが守りから、攻勢に転じた報せ。
地を踏みしめた鋼鉄の脚甲が音を鳴らす。隔たれた距離を瞬時に詰め、俺の首を落とすために。
だがゼインが飛び出す直前、動きがピタリと止まる。がくりと身を落とし地面に片膝をつくと、左手で兜の上から目元を押さえ、声を殺し呻き始めた。
ゼインの右目には突き刺さったナイフ。兜の隙間から滴る血の落涙。
たった一本のか細い投擲ナイフが、騎士の進撃を拒みその場に縫い止めていた。
「興奮していて気付かなかったか? 俺はあんたが隙を晒すのを待ってたんだ。ずっと、虎視眈々とな」
我ながら、見事に決まったと自画自賛してやりたい。とはいえ平静を装っているものの、実のところ俺の心臓は激しく脈打っているのだが。
ククリナイフを放った後、保険にと左手に投擲ナイフを忍ばせていたのが功を奏した。
残っていた最後の一本。もしあの一本を握っていなければ、今頃はゼインの接近を許し、俺が地面に這いつくばっていたのは想像に難くない。
「……くっ。慢心、油断……騎士として、恥ずべき過ちですね。その結果、私はまんまと膝をつかされているのですから。……名は確か、キリクでしたか? 君のことはアルガードより逃れた同胞から、報告を受けておりました。半信半疑でしたが、話以上だった事実に驚嘆させられましたよ」
「そりゃどうも。あの街の名が出てくるってことは、領主と司祭はあんたの仲間か」
「……いかにも。ジャコフ、ヘルマンの両名は我が同教の士。……彼らが与えられた責務を完遂してさえいれば、私もこんな目に遭わず済んでいたでしょうね」
ククリナイフを手元に呼び戻し、切先をゼインに向ける。
……心なしか刃がギザギザに欠けている気がするが、見なかったことにしておこう。
無闇な結晶の採掘で、空洞内の壁はぼろぼろ。晶窟の崩落が、冗談抜きに現実味を帯び始めている。これ以上この場に留まり、問答を交わしている場合ではなさそうだ。
「あんたは危険すぎる。……悪いが、ここをあんたの墓にさせてもらうぞ」
今回は勝てたが、次はどうなるか……。
この勝利は相手が俺を舐めてかかったおかげで得た拾い物だ。師との剣檄に興じず、はなから本気で殺しにきていれば全滅だってありえた。最初に俺が殺されていれば、反撃の芽すら潰されていたのだ。
となれば千載一遇の好機を、みすみす逃すわけにいかない。ゼインともう一度戦うことになれば、今度こそ死を覚悟させられるだろう。
ククリナイフを投げ、兜ごと頭をかち割ろうと構えた右腕を振り上げる。
この男はアリアを傷つけただけでなく、イリスにまで害を成そうとしていた。聖女をつけ狙う狂信者ともなれば、野放しにしてはおけない。
「待って、キリク君! 彼は殺さず、捕縛に留めよう。ね?」
「……そうね、ゼインには聞きたい話が山ほどあるわ。ここで殺すのは早計よ。仮に彼を殺すのなら、全て聞き終えてからでもいいんじゃないかしら?」
投げ放つ寸前の右腕を掴み、待ったの声をかけたのはアッシュ。そしてカルナリア嬢。
曰く、俺たちは暗躍する彼らの内情を知らなさすぎる。殺してしまうのは簡単だが、せめて情報を洗いざらい吐き出させてからがいい、と。
カルナリア嬢はともかく、アッシュに関しては、白日の下でゼインに法の裁きを受けさせたいようであった。
この男は強く、危険な思想を持ちあわせている。後顧の憂いを絶つためにも、問答無用で息の根を止めるべきだと俺は主張した。
真っ向から対立する意見。
その間にも壁や天井が崩れ落ちてきており、猶予は刻一刻と失われつつあった。




