39:湯船の救世主
部屋のドアがノックされ、返事を待たずして開かれる。
目をやると、入ってきたのは女将だった。
「……キリク君、ちょっといいかしらぁ?
とぉっても大事なお話なのだけれどぉ」
言葉使いはいつものねっとりとしたものだが、その顔は真剣そのもの。
先ほどまでアッシュの手当てを請け負い、容態を見てくれていた女将。
そんな彼女が、大事な話があると言ってきたのだ。
……嫌な汗が背中を流れる。
ひとつ、大きく深呼吸をした。
気を落ち着けてから、女将に続きを促す。
「……アッシュちゃんねぇ、このままじゃ本当に危ないのぉ。急いで、何か手を打たないといけないわぁ……。
お姉さんが、解除系の魔法を使えればよかったんだけどぉ。そうであればぁ、イリスちゃんを起こせたかもしれないのにぃ……。
治癒は神聖術の範囲だから、お姉さんの専門外だしぃ。これ以上は、とても力になれないのぉ」
……やはりか。俺から見ても危ない状態だったんだ。
高いレベルで神聖術を扱える、優秀な治癒士がいない限り、どうにもならない。
宿に泊まっている客で、神聖術が使える人がいないか。
尋ねてみるが答えは否だった。
居るのならすぐに声をかけているはずだし、当然か……。
仕方なく、今も疲れから眠っているトマスを起こす。
見習いと本人は言っていたが、少しでも使えるのならば希望はあるはず。
神官たるもの、神聖術を会得するのは必須らしいからな。
「えぇっ!? アッシュさんが……!?」
「そうなんだ。トマスも疲れてしんどいだろうが、神官と見込んで治癒を頼めないか?」
目を覚ましたトマスに、事情を簡潔に話す。
そしてアッシュのもとへと行き、容態を確認してもらった。
「……すみません。ぼくも神官の端くれ、少しばかり神聖術を扱えはします。
でも……でも……! これだけの傷、ぼくの力量ではとても……!
少しでも流血を抑える、それだけで精一杯ですよ……!!」
詳しく聞くに、トマスの神聖術はⅡ。
正真正銘、嘘偽りなく見習いレベルだ。
小さな傷を癒すくらいが関の山なんだと。
「……それでも構わない。
時間稼ぎでもいい、頼めるか?」
「わかりました。ぼくの全力を尽くします!」
傷口に巻かれた包帯のうえから、トマスは手をかざす。
すると手の平から柔らかな光の粒子が現出し、刺創部を覆っていく。
おかげで心なしか、アッシュの表情が和らいだように思える。
「……キリク様、それでどうするです?
このままじゃ、なにもかわらないです……。
他に救う手がないのなら、悪戯にアッシュ様を苦しめるだけですよ……?」
「シュリ。それはひと思いに、楽にしてやれってことか?」
これは余裕のない、俺の考えすぎかもしれなかった。
シュリとしては、そんなつもりで言ったのではないかもしれない。
それでもギロリと彼女を睨みつけてしまう。
だがシュリはなにも言葉を返さず、目を逸らし無言で俯いてしまう。
同時にぺたりと伏せられた犬耳。
「……悪い」
彼女の真意はさておき、睨みつけてしまったことを反省する。
やり場のない気持ちから、あたりがきつくなってしまったようだ。
頭をくしゅくしゅと撫でてやることで、謝罪の気持ちを表す。
「キリク君、シュリちゃん。さすがにそれは早計よぉ?
確かにここではぁ、アッシュちゃんを治せないわぁ。
でもねぇ? ティアネスまで行ければ、なんとかなると思うのぉ」
ティアネスに……?
まさか、あの町にある教会を頼れってか?
悪いがこの地域一帯の教会関連は、自分の村の神父様以外信用できない。
それなのになぜ……いや、待てよ?
「そういえば、あの町のギルドには治癒士がいたな……!」
それも千切れた足を繋げられる程には、優秀な使い手のはず。
あの時イリスと交わしていた会話。そこからの想定ではあるのだが。
「そうよぉ。彼ならなんとかできると思うのぉ。
それにぃ、イリスちゃんにかけられた術を解ける人も、あそこならいるかもしれないでしょぉ?」
そうか、魔導士もギルドなら何人か所属しているはず。
例の治癒士が無理だったとしても、イリスを起こせるやつがいれば……!
もともとの逃走先であったティアネス。そこまで行ければ、2つの可能性を得られるわけだ。
「もちろん、そこまではトマスちゃんの頑張り次第よぉ?
それにアッシュちゃんが、町までもってくれればなんだけどぉ……」
「……ぼく、やります!
絶対にアッシュさんを死なせません!
ぼくらを守るために、命をかけてくれたんですから!
ぼくには報いる義務があります!!」
いまも治癒を継続しながら、決意ある口調で答えるトマス。
疲労もあって辛いだろうに、その言葉には一切の淀みがなかった。
「よく言ったぞトマス。イリスだけじゃなく、アッシュも絶対に助けるぞ!」
先の見えぬ暗がりに、光が差した気がした。
だがこれからは時間との戦いだ。
トマスもアッシュも、いつ力尽きるかわからないのだから。
「女将さん。重ねての頼みなんだが……。
すぐに出発するから、荷馬車かなにかを貸してくれないか?」
「……その問題があったわねぇ。
うちにある荷車は、先日に車軸が折れちゃったのよぉ〜」
なんだよそれ……。
馬はあるが、乗れるのは2人が限度。
それもアッシュとトマスはセットでなければならず、術に専念するトマスに馬の操縦はできない。
となれば必然的に、3人以上が同時に乗れる、馬車や荷車が必要なのだ。
追手が現れたこともあり、イリスをここに置いておくわけにもいかない。
「……俺が1人馬に乗って、ティアネスまで呼びにいくか?
いや、それで間に合うのか……?」
「すみませんキリクさん。ぼくもアッシュさんも、恐らくは……」
待っていられない、か……。
今から向かっての片道分。それが猶予というわけだな。
「一応、他に荷馬車があるにはあるのだけれどねぇ……。
でもうちのじゃなく、他のお客様のものでぇ……」
他人の所有するものか。
確かにそれは女将の一存では決められない。
なら持ち主に頼み込んで……。
「女将、こんな時間からどたばたと何事かね?
……おや、なにやら取り込み中だったかな?」
開けっ放しだった扉から顔を出したのは、宿泊客であろう中年の男性。
名前まで覚えていないが、彼は俺の知っている人物であった。
「おぉ、君は確か……キリク君だったかな?」
「……俺のこと、覚えてくれていたのか。風呂の時のおじさん」
前回この宿に泊まった時、風呂で俺を怒鳴った人だ。
確かすごく風呂が好きで、ここの常連である商人だったか……?
「そりゃ、あんなことがあったんだ。そうそう忘れないさ。
なにより君とは共に湯に浸かり、肩を並べた仲。
お風呂で出会った友達、オフロダチだからね!」
……急に見ず知らずの、赤の他人になりたくなった。
その呼び方はなんだかすごく嫌だ。
「それで、いったいどうしたんだい?
そちらのベッドで寝ている人、すごく具合が悪そうだよ?」
「ファルミスさん。お願いがあるのだけれど、いいかしらぁ?
あなたの荷馬車を、少しの間この子達に貸してあげて欲しいのぉ」
「えぇ!? それはできないよ女将。私にも仕事があるんだから……。
でも首をつっこんでしまったわけだし、とにかく話を聞かせてくれるかい?」
宿の風呂で出会った商人、ファルミス。
彼に、イリスと教会関連のことはぼかしつつ、事情を説明していく。
悪人に追われていて、仲間が庇って深手を負い死の淵に立っている。
その仲間を救うために、治癒のできる人がいる、ティアネスまで急ぎ向かいたい。
と、こんな具合だ。
「――そういうことだったのかい。
わかった。仕事も大切だが、人命には代えられない。うちの荷馬車でよければ、お貸しするよ!」
「本当か!? ありがとう、おじ……じゃなくて、ファルミスさん!」
「ありがとうございますなのです!」
「ははは! ま、これもいい休暇だと思うことにするよ。
私はここでゆっくり風呂に浸かって、養生しておくさ」
許可が得られたところで、彼の荷馬車へと向かう。
載せられていた積荷を降ろし、代わりに厚手のシーツを敷く。
そしてそこに、イリスとアッシュを寝かせた。
ファルミスさんの馬は1頭だけだったが、さきほど奪ってきた馬も繋げ、2頭で牽引させることに。
このほうが馬への負担も少なく、速度もでるだろう。
また、彼の従者も1人付き添うことになり、御者を引き受けてくれた。
馬車をここまで連れ戻る人員が必要だからな。
全ての支度を終えたところで、ティアネスへ向けて荷馬車は動き出す。
その頃には、すでに眩しい朝日が昇っていた。




