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第一章第四話

 足元は粗末な石敷き。目の前には鉄格子。三方を壁でさえぎられた狭い室内に窓はなく、常に薄暗い。そんな、時間の感覚さえも麻痺しそうな空間にアズールはいた。

 アズールの体感としては、チヅルと引き離されてまだ半日も経っていない。間もなく晩餐ばんさんという程度の時間だろう。

 つい先程渡された食事は粗末な黒パンひとつきり。騎士見習いとして訓練を受けてきたため多少の飢えは苦にもならないが、何かしら什器があればそれを利用して脱獄できないかと考えていたアズールはやはり落胆せざるを得なかった。

 鉄格子は固く、素手では鍵を壊すことも出来そうにない。


「くそっ」


 知らず悪態が口からこぼれる。その言葉に思わずアズールは片手で口を覆い顔をしかめた。

 そこへ、大仰な靴音が響く。


「おや、騎士ともあろう者が随分と口汚いのだなぁ」


 かかとを鳴らしてやってきたのは、誰あろうエティーゴ氏だった。

 よく肉のついた身体を覆う意匠は昼間同様きらきらしく、アズールを見やる視線は嘲笑を含んでいる。


「貴様、このようなことをしてただで済むと思うな。今に騎士団の精鋭が貴様を捉えに来ると心得よ!」


 アズールの警告にもエティーゴ氏はどこ吹く風だ。


「いいや、ワタシが誉れも高き騎士団の皆様にお世話になることはなかろうよ。残念ながらなぁ」


 エティーゴ氏は鼻を鳴らして肩をすくめて見せる。


「もし騎士団に通報しここへ乗り込んで来る者があるとすればあの小娘――失礼、王女殿下だろうが、ああ、残念だ。非常に残念なことに――彼女には証拠が無い」


「はあ?」


 思わず間の抜けた声がアズールの口からこぼれた。

 そんなアズールを見て、楽しそうにエティーゴ氏は薄笑いを漏らす。


「騎士団など所詮は規則に縛られた犬に過ぎん。公に存在を知らされず、突然降って湧いた自称・王女様と、日々真面目に商いに勤しむ”善良な”国民のワタシ。騎士団はどちらを信じるだろうなぁ」


 エティーゴ氏の言葉にアズールはため息をつくほかなかった。

 イヴァ=ラキ王国において騎士の地位は決して低くはない。だが、国民をあらゆる災禍から守る盾たれ、という理念から、罪の証拠があがらぬうちは、例え相手がどれほど悪事の噂がある者であっても騎士が居丈高に振る舞うことは許されないのだ。

 一度それを許してしまえば、騎士への信頼も秩序も瞬く間に崩れ去る。

 未熟な見習い一人のためにそこまでの危険を侵す騎士団では無いだろう。


「……何が目的だ。どんな拷問を受けようとも、一切口は割らん」


「ああ、そうしたまえ。幸いこちらにキミを傷めつける予定はない」


 そう言うと、エティーゴ氏は豊かな腹部を揺すってわらう。


「キミを餌に王女殿下を招待する。そしてキミの安全と引き換えに、彼女にはワタシの野望の手駒となってもらう。我がエティーゴ一族が貴族に返り咲くため、精々役に立ってもらおうじゃないか」


 言いたいことを言うと、エティーゴ氏はさっさと去って行った。

 氏が姿を消すと同時に僅かな灯火も消され、地下牢は完全な暗闇に閉ざされる。

 その暗闇の中で、アズールは不思議と頭が冷えていくのを感じていた。

 脳裏に浮かぶのは、脳天気で無茶苦茶な少女の笑顔。

 彼女に出会ってから、アズールは調子を崩されっぱなしだ。騎士にあるまじき悪態などつくようになったのも、彼女に振り回され過ぎたせいだ。

 そして、アズールは、出会った日に少女が口にしていた言葉を思い出す。

 突如として見知らぬ世界に放り込まれ、使命を与えられた彼女は言ったのだ。


「『なんとかなるでしょ』、か……」


 アズールは、拳を固く握った。



 

 一方その頃、チヅルは頭を抱えていた。

 場所はオオ=ア=ラーイ郊外の騎士団駐屯所前。駐屯所とは言うものの砦のようなそれの門前で、チヅルは崩れ落ちていた。

 傍らにはチヅルを気遣うように、多くの人々が寄り添っている。

 アズールが連れ去られた直後のこと。呆然とするチヅルをも別の馬車で連れ去ろうとするエティーゴ氏の前に立ちふさがったのは、彼らオオ=ア=ラーイの住民たちだった。


「彼らは町の恩人だ。黙ってあんたに渡すわけにはいかない」


 そう言ってチヅルをエティーゴ氏からかばう町民たちに、エティーゴ氏は舌打ちしつつも一旦はチヅルを諦めて去っていたのだった。

 そしてさらわれたアズールを救出すべく、住民の案内で騎士団の駐屯所へとやってきたのだが


「さらわれたって、騎士が? 国王の命で諸町村を巡る? そんな任務があるという報告は受けてませんね。何かの間違いでは?」


「は? あなたが王女殿下? ミツクニ様に御子はいらっしゃいませんが? あなた、身分詐称は罪になるとわかってます?」


 クエスチョンマークだらけの台詞で盛大にあしらわれ、あっさり門前払いを食らってしまった。


「ごめんなさいね。わたしがうっかり水族館のことをあの金ぴか商人に話したりしたからこんなことに……」


 申し訳なさげにうなだれる女性に、チヅルはかぶりを振る。


「いいえ! アズっちのために協力してくださって、すっごく嬉しいです! でも……」


 チヅルはうらめしげに、駐屯所を見上げた。堅い門は閉ざされたまま、再びチヅルの訴えを聞く気は無いようだ。


「どうしたら騎士さんは信じてくれるのかなぁ」


 翌朝。

 アズールを心配するあまりベッドに入ってもなかなか寝付けなかったチヅルだが、結局ぐっすり八時間は睡眠を喫していた。

 彼女の眠りを妨げたのは、悲鳴だった。

 老若男女、様々な悲鳴、怒号が外から響く。それはだんだんと、チヅルがいる宿屋に近づいてくる。

 チヅルがセーラー服に着替えてロビーに出た時には、悲鳴はもうすぐ間近から聞こえていた。


「おはようございます!」


 チヅルは勢いよく扉を開け放つ。あまりに元気な朝の挨拶に、一瞬全ての音がとまった。

 それもつかの間、再び響く悲鳴。殺到する人だかり。


「お嬢ちゃん、出てきちゃだめだ! まだ隠れてな!」


 チヅルを再び宿屋へと押しやりつつ、農具を手にした男が叫ぶ。

 その背を踏み台に、黒い影が跳躍した。突き飛ばされた男は倒れる。何も身を守るもののないチヅルの無防備な胸元へ、黒い影は吸い込まれるように飛び込んでいき――


「わん!」


 と、嬉しそうに鳴いた。


「……ワンちゃん?」


「わふわふ!」


 黒い影の正体は、チヅルが召喚された日に出会った黒い狼の姿をした魔物だった。

 どうやら他魔物の空似ではないらしく、しきりにチヅルの匂いをかいでは激しくしっぽを振っている。

 唖然とする町民たちへ、チヅルはへらりと笑って手を振った。


「あ、この子悪い子じゃないんですよ! ちょっとやんちゃなだけで、かわいいワンちゃんなんです」


『犬ではないわ小娘が』


 チヅルの言葉に町民がリアクションを返すより早く、響いた声があった。

 低く太く、威圧感をまとった声は、不思議と人間のものではないと知覚できた。

 人混みが割れる。

 中から、一頭の狼が進み出た。腕の中の仔犬とは比較にならぬほどの体躯は大きく仔牛ほどもあり、毛並みは銀灰色に光る。背後に控えた他の狼たちと見比べて、彼が群れのリーダーであることは一目瞭然だった。


『我らは森の王、誇り高き狼よ。人間の小娘。息子たちから話は聞いているぞ。無礼な人間の剣から我が息子たちを守ってくれたそうだな』


 そうだそうだ、と言わんばかりにチヅルの腕の中で仔犬が吠える。


『さらに今、末の息子をかばう姿を我も見た』


 無邪気な仔犬の姿に、老狼は目を細める。


『恩を受けて何もせずでは我が一族の誇りが許さぬ。我らはお前に礼をしに来たのだ。なんでも良い、申してみよ』


 聞けば、村々を渡り歩くチヅルたちを追って縄張りから遠く、オオ=ア=ラーイまでついてきてしまったのだと言う。


「いえいえ、お礼なんていいんですよー。わたしはただアズっちをとめただけで……」


 笑って断ろうとするチヅル。だが、アズっちという言葉と共に、ひらめくものがあった。

 囚われのアズール。動かない騎士団。住民。

 そうだ。

 断りの言葉を呑み込んで、チヅルは老狼に問う。


「なんでも、ですか?」


『うん……? あまり変なことは申すなよ?』


 チヅルの様子に首をかしげつつも、老狼はうなづいた。


『流石に息子を一頭寄越せだのは無理だが、我らでできることなら大抵は叶えてやろう』


「ありがとうございます!」


 勢いよく頭をさげて、チヅルは今度は町民たちに向き直る。


「皆さんも、力を貸してください。お願いします!」


 再び頭をさげるチヅルに、困惑したように、だが迷いはない声が返る。


「あの騎士さんとお嬢ちゃんは町の恩人だ。魔物まで恩返しするって言うのに、俺らが何にもしないわけにゃいかねえ――でも、どうするんだ?」


 顔をあげて、チヅルは笑う。

 にっと口の両端を持ち上げて不敵に笑うその瞳に、もう不安はなかった。


「住民投票をします!」




 赤く染まる空。忍び寄る夕闇。太陽は山々の稜線を赤く染め、今にも沈もうとしている。

 オオ=ア=ラーイからさほど遠くはない閑静な町。その雰囲気にまるで適応していない豪華絢爛広大なエティーゴ氏の邸宅は、にわかに喧騒に包まれた。


「探せ! まだ屋敷から出てはいないはずだ!」


「使っていない倉庫も確認しろ! 発見したらすぐに応援を呼べ!」


 鎧を鳴らし手に手に武器を持つ兵士たちが右往左往している。


「くそっ、どこに消えやがった! あのガキ!」


 騒然とする兵士たちの様子を、アズールは物陰から眺めていた。

 チヅルは言っていた。「なんとかなる」と。そうして彼女なりの努力を重ね、今日までの旅をやり遂げてきたのだ。ならば自分も諦めてはいられない。

 そう決意したアズールは、食事を運んできた兵士の前で一芝居打ったのだ。

 苦しげに顔をゆがめ、唸り声をあげて倒れるアズールに、兵士は慌てて鍵を開けて駆け寄った。

 そこを、チヅル直伝のタックルで一撃。思いの外あっさり兵士は気絶してしまった。

 これ幸いと逃げ出してきたはいいものの――


「どうなっているんだこの屋敷は」


 一商人の屋敷とは思えない堅牢な造りに、アズールは手をこまねいていた。

 外壁が高く、とてもよじ登れそうにないのはまあ分かる。防犯意識が高いのだろう。

 だが庭にトラバサミを設置する必要が果たしてあるだろうか。

 タイルを踏むとナイフが飛んで来たり置物の鎧が急に倒れてきたりドアを開けたら一歩先は虚空だったり。よくもこんな屋敷で生活できるものだ。


「よほど臆病か、もしくは……」


 よほど後ろめたいことがあるか。無事脱出できたら王にかけあってでも立ち入り調査をする必要があるだろう。

 考えを巡らせるアズールだが、時間はあまりなかった。


「見つけたぞ! こっちだ!」


 続く無数の金属音。ぼうっとしていてはすぐに囲まれてしまう。

 アズールは駆け出した。

 剣と鎧は奪われた。装備のない分アズールの方が素早いが、一人二人をまいてもすぐに別の兵士に見つかってしまう。数の不利はいかんともしがたい。


「覚悟!」


 背後から振り下ろされた一太刀をわずかに身をずらして避ける。勢い余ってつんのめった兵士に当身を食らわし剣を奪う。続けざま繰り出された槍を切り落とし、胴をなぐ一閃を受けとめる。

 一対一ならアズールは負けないだろう。だが、切りがなかった。

 兵士は次から次へと現れては倒れ、また現れる。対してアズールはたった一人。疲労は着実にアズールの動きを鈍らせていく。

 ふいに、がちん、と音がした。遅れてアズールの足に激痛が走る。

 トラバサミだ。


「おい、嘘だろう」


 マジだよ、と、つい昨日聞いたばかりのチヅルの声が聞こえた気がした。

 倒れたアズールの上に、槍が、剣が、斧が、鈍く光る刃の群れが殺到する。

 目を閉じることすらできず、迫る凶刃を見つめるアズール。

 その耳に、声が聞こえた。


「ひかえおろーーーう!!」


 巨大な板が飛んでくる。

 一瞬にしてなぎ倒される兵士たち。

 一気に開けた視界の向こうに、居るはずのない人物がいた。


「ち……チヅル……?」


「助けに来たよ! アズっち!」


 チヅルは尻もちをついたままのアズールの手を引く。引きずられながら振り向けば、濃緑色の巨大な石板の下で兵士たちは気絶していた。


「早く早く! 入り口から出るよ!」


「ま、待てチヅル! あれは何だ!」


「黒板!」


 ひた走る二人の後ろに、前に、新たな兵士が現れる。

 彼らに向けて、チヅルは再び手をかざす。


「くらえ! 納豆を包んでいたわら!」


「ぐわあああああ!!!」


 アズールの目にはただの小麦色の藁束にしか見えないそれに包まれるや、兵士たちは阿鼻叫喚の渦に巻き込まれた。

 異世界の兵器なのだろうそれは、追いすがる兵の数を確実に減らしていった。

 ついに門が見えた。チヅルの召喚魔法のせいだろうか、木製とはいえ相当堅牢な素材で出来ているはずの門は木っ端微塵に砕け散っている。今なら簡単に外へ出られそうだ。


「そこまでですよ、王女殿下」


 門まであと一歩というところで、背後から声がかかる。同時に何かを構える、がちゃがちゃという音。

 アズールは、背に冷や汗がつたうのを感じた。

 振り返った先には、なおも余裕の笑みを浮かべるエティーゴ氏と、幾張いくはりもの弓を構えた兵士たちだった。兵はざっと見て二十はくだらない。これほどの矢に襲われては二人とも助からないだろう。


「いやはや、門を破壊されたうえ、ここまで逃げおおせるとは。召喚魔法とは実に素晴らしい。これほどの力があれば、国王にもなれるやもしれませんなぁ」


 にやにやと笑いながら、エティーゴ氏が片手を挙げる。

 弓矢の照準が、ぴたりと自分たちに向いたのをアズールは肌で感じた。


「さて、お二人とも。牢屋に戻っていただきましょうか。王女殿下にはそのあとで、ゆっくりとお話したいことがありましてなぁ」


「えっやだ」


 空気がとまった。

 アズールにとっては懐かしい台詞。


「わたしにはお話することはありません。わたしはアズっちと帰ります」


 にべもない言葉に、エティーゴ氏は表情を固くする。そのこめかみに、ぴきぴきと青筋がたった。


「この小娘ぇ……!」


「それに、わたしたちにはまだやるべきことがあるんです! だから、立ちどまってなんていられません!」


 チヅルが高らかに宣言する。


「あなたがお話すべき相手は、この人たちです!」


 二人の頭上を飛び越えて、エティーゴ氏らへと投げ網が飛ぶ。

 エティーゴ氏と兵士たちは逃げる間もなく網に絡め取られ地に倒れ伏した。

 重い蹄の音とともに門からエティーゴ邸へと乗り込んで来たのは、なんと、騎士団一個小隊だった。

 手際よくエティーゴ氏とその私兵たちを捕縛していく騎士たち。


「一体どうやって彼らを動かしたんだ」


 つぶやいたアズールの言葉に、チヅルはどこか得意気に答えた。


「住民投票をしたんだよ」


「住民……トウヒョウ?」


「そう。行政にお願い聞いてもらう時は投票だって先生が言ってた……気がしたから」


 朝、目の前に狼たちと住民たちが揃ったのを見て、チヅルは思いついた。

 一人の通報では駄目なら、もっと多くの人に助けを借りよう、と。

 「アズールがさらわれたが、自分の身元が確かではないから騎士団に信じてもらえない。騎士見習いのアズールとミヤノチヅルが一緒に調査の旅をしていたことを証言する署名をしてほしい。どうか助けてくれ」という趣旨しゅしをチヅル流に述べた手紙を書き、狼たちとオオ=ア=ラーイの町民に託して今までまわってきた村々に送ったのだ。

 老狼は『よりにもよって息子たちに剣を向けた小僧のために働くなど』と渋ったが、約束は約束と協力してくれた。

 俊足の魔物に乗った人間の姿は行く先々で驚愕きょうがくと疑念を向けられることとなったが、オオ=ア=ラーイの人々の懸命な説得が功を奏し、日が暮れるころには膨大な量の署名が集まったという。

 「チヅルの言葉がもし疑わしければ我々全員に聴取してもらっても構わない」と書き添えられた署名を手に再度訪れたチヅルに、受付の事務員は驚きあきれた。そして迅速に騎士団員に話を通し、アズール救出のための小隊を編成してくれたのだった。

 話を聞き終えて、アズールは思う。

 それは投票ではなくただの署名活動なのではないのかな、と。

 だが、よぎった思いを口にすることはなく、彼は口元をゆるませる。


「ただいま、チヅル」


「おかえり、アズっち」




 一週間後。

 事件の後始末を終えたチヅルとアズールは王城にいた。

 事件の際には迅速に動いてくれた騎士たちだが、やはり確固とした証拠ではなく署名で動くというのは問題があるらしい。

 部下の責任は上司の責任。王の裁量により、今回は騎士たちを動かした王女・チヅルが責任を取るという形になった。それでも「騎士見習いのために膨大な署名を集めた労力と人望に敬意を払い、チヅルが自ら王に事件の釈明を行うことを処罰とする」と言うのだから、随分軽く済んだと言える。

 今二人は謁見の間のひとつ手前、控室にいる。

 どうやら二人以外にも王に謁見を求める客がいるらしく、順番待ちとのことだ。

 そこで、チヅルがぽつぽつと話し始めた。


「わたしね、憧れの先輩がいるって前言ったでしょ。話したこともないんだけど、毎日図書館で真剣に資料に向かう姿がかっこよくて、追いつきたくて、それで勉強してたの。他に夢とか将来の希望とかは特になくて、勉強しながらそのうち見つかればいいなって思ってたの」


 言葉を選びながらゆっくりと話す姿は、普段のチヅルの様子とは明らかに違って見えた。何かをアズールに伝えようと、チヅルは言葉を続ける。


「今でも先輩に憧れる気持ちは変わらないんだよね。やっぱりかっこいいと思うし、少しでも近づきたい。でもね、それだけじゃないの。わたし、勉強する目的が増えた。今回の旅でやったみたいに、今度は茨城を、いや、世界中を回って世界のことを全部知りたい。そのために、もっと調査に役立つ学問を学びたいって」


 言って、チヅルははにかむ。


「こういうこと、いろいろ考えるようになったの、アズっちのお陰だよ。ありがとう、アズっち」


 アズールは思い出す。二人が初めて会った日のことを。


「私は、騎士として大成したいと、王のお役に立ちたいとそればかりだった。目の前のことにとらわれて、国を支える民が見えていなかった。私が守るべき国のことなのに、私自身は何も知らないのだと知った。それがわかったのはチヅルのおかげだ」


 めまぐるしく過ぎた日々は長かったようで、一瞬だった。

 言い知れない不安と一抹の寂しさを抱えて、アズールは微笑む。


「私の方こそ礼を言わせてくれ。ありがとう、チヅル」


 チヅルの目的は国土調査を完遂させて元の世界に帰ること。

 まだまだ調査が終わったとは言いがたいが、チヅルは、そしてアズールは、二人の別れが近いことを感じていた。

 きっと、謁見の間に呼ばれたら、その扉を開いたら、その先で。

 控室がにわかに慌ただしくなる。謁見の順番が回ってきたのだろう。

 侍従に促され、扉の前に二人並んで立った。

 と、チヅルがおもむろに制服のスカーフをほどいた。


「おい、王に謁見するのだから、服装はきちんと……」


「いいからいいから。ちょっとじっとしてて」


 小言を言おうとするアズールを押しとどめて、チヅルはアズールの襟元を整える。

 そして、自分の髪からシグマをかたどった飴色の、べっ甲の飾りを抜き取った。

 ほどなくして、スカーフと髪飾りを組み合わせた即興のアクセサリーがアズールの首元を彩る。


「これは……」


「ふふん、勲章みたいでしょ。似合ってるよ!」


 できたての飾りを上からぽん、と叩いて、チヅルは笑う。


「その髪飾り、私の宝物なの。持ってて。またいつか会えるように」


「ああ、王女殿下からの勲章だ。大事にしよう」


 その時、高らかにラッパの音が鳴り渡る。

 朗々とした声が二人の名を呼ぶ。


「イヴァ=ラキ王国第一王女、チヅル=ミヤノ殿下! 並びに従騎士、アズール=ザザ!」


 そして、扉が開かれた。


(第一章担当:紫藤夜半)

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