第一章第二話
国土調査とは、広大なイヴァ=ラキ王国に住む国民の総数、生業、暮らしぶりを把握するために実施する調査のことである。
調査の方法は実際に仕事にあたる者それぞれに一任される。
今回が初めての試みであり、同時に王の後継者選びも兼ねている。
調査を終えるまで後継者候補は王子・王女として扱われ、もっとも成果をあげた者は次期イヴァ=ラキ国王の地位が約束される。
「よって、後継者候補は奮起すべし――要するにやる気を持って取り組め、と言うことだ。わかったか?」
言い争いの結果、アズールの中から『王女殿下』に対する敬意はきれいさっぱり吹き飛んでいた。
目の前にいるのは『王女殿下』でも『後継者候補』でも無い。自らが教え導くべき『生徒』だと、そう整理をつけた結果、アズールの口からは敬語が抜けた。
相当できの悪い生徒とわかっていれば、伝わりやすい言葉を選ぶのも難しくはない。
今回の説明は、チヅルにも充分理解できたようだった。
「ふむふむ。アズっちは説明上手だねー」
やっと理解できたよ、とへにゃりと笑うチヅルに、アズールは頭を抱える。
「アズっちはやめろ、王女」
「じゃあ王女って呼ぶのもやめてよ、アズっち」
アズールから敬意が抜けたのと同じように、チヅルからは遠慮や緊張と言ったものが抜けてしまったらしい。なんとアズールは『アズっち』などとあだ名をつけられてしまった。
もう今日何度目かもわからないため息が口からこぼれる。
けれど、アズールにはこのなれなれしい生徒に教えるべきことがまだあった。
「いいか、王女。我が国には王族のみが使用できる魔法がある。異世界――つまりお前が暮らしていた国のものを、ここイヴァ=ラキへ召喚する魔法だ」
アズールの説明に、チヅルは目を輝かせた。
「わあ、すごーい! 魔法ってわたしにも使える?」
「ああ。今のお前は王族としての権利を得ている。お前も召喚魔法を使えるはずだ」
おおはしゃぎのチヅルにアズールはうなづいて見せる。
ますます目の輝きを増したチヅルは、天高く拳を突き上げた。
「じゃあ、あこがれの先輩を!」
「ただし人間以外だ」
たちまち力なくしおれていく拳。
眉根を下げたチヅルの視線は悲しげだ。
「当たり前だろう。そんなにほいほい異世界人を呼び込まれてたまるか」
あきれ混じりにアズールは言う。
「もうひとつ。召喚対象は『イヴァ=ラキに存在しないもの』でなくてはならない。その二つの制約に違反しないものであれば、なんでも召喚できるぞ」
「……なんでも?」
チヅルはまだ残念そうだった。
だが魔法自体への興味は復活したようで、再びアズールの講義に耳をかたむけている。
「ああ。大きさも問わん。日用の品から建築物に至るまで、何でもだ。試しに何か召喚してみろ」
ぱちくりと、チヅルの茶色い瞳がまたたいた。
「やり方、聞いてないけど?」
アズールは首を傾げる。
「召喚の仕方は私も知らんな。お前の国に伝わる呪文があるのではないか?」
「無いです」
「無いことは無いだろう。祖父によれば、ミツクニ様は召喚の際に御手をかざして何事か唱えていらせられたそうだ。お前もそんな感じでやってみろ」
「そんな無茶な」
「いいからやれ」
年若い教師役は強引だった。
「もちろんあまりに巨大過ぎるものや危険物の類は遠慮してもらうが、それ以外ならなんでもいい。動物や植物も召喚できるはずだ。何か好きなものは無いのか?」
アズールの威圧に負けたチヅルはしぶしぶながら、バンザイのポーズを取る。
呪文は――知らない。何か適当に叫ぶことにしよう。
召喚するものは――あ、そういえば最近ごぶさただったなぁ、あれ。
チヅルの頭の中で、イメージが像を結ぶ。
自然と口からこぼれ出た言葉は
「ひかえおろーう!」
両手の先から光が溢れた。光の奔流は瞬く間に視界を満たし、引いていく。
すっかり光が消え去ったあと、チヅルの目の前には大皿に盛られた料理が現れていた。
「……なんだこれは」
「『おばあちゃんがにぎったおにぎり』です、アズっち先生」
炊きたてご飯はつやつやと輝かしい。巻いたばかりなのか、海苔もぱりっとしている。食欲をそそる、でんぷん特有の甘い香気が鼻をくすぐる。
チヅルが喚び出したものは、まさに『おにぎり』そのものだった。
「そうか……今ごろ祖母殿がお困りでなければいいな……」
アズールは、そう答えることしかできなかった。
「な、なんだこれは! 麦ではないのか!?」
初めての召喚魔法から数分後。出発前にまずは腹ごしらえと、おにぎりを口にしたアズールは目を見開いていた。
「お米って言うんだよー。うちではいつもお米食べてるの」
麦のぷちぷちした食感とはまるで違うふっくらもちもちの歯ざわり。噛めば噛むほど増す甘み。そしてほのかな塩のからさがうまみを引き立てている。どれもアズールには初めての経験だった。
「オコメ……! こんなにも美味なる穀物が主食とは、異世界は神の住まう国か!」
アズールの感動をよそに、チヅルは着々と空腹を満たしていく。
ふと、手にとったひとつを見て、チヅルは笑みを浮かべた。そのおにぎりは、真ん中に赤い実が埋め込まれていた。実と米粒とを同時に口に含み、チヅルは叫ぶ。
「ん〜……おいしっ!」
その様子に、アズールも興味をひかれたらしい。自分のおにぎりをかじりつつ、チヅルの手元にちらちらと視線を送っている。
「うめぼし、食べてみる?」
チヅルは手に持ったおにぎりを差し出した。
「いや、そんなつもりで見ていたわけでは」
「いいからいいから。試してみなよ」
アズールはためらったものの、興味が勝った。チヅルの手からおにぎりを受け取り、赤い実が載った部分を、おそるおそる一口かじる。
「感想は?」
聞いてはみたが、チヅルにはなんとなく返事がわかっていた。
「……すっぱい。しょっぱい」
アズールの顔からは表情が抜け落ち、口元だけがきゅっとすぼまっている。
「なぜこんなものをオコメに付け合わせるのだ」
「えっと、すっぱさがお米と相性よくて。うめぼしには疲れを取る効果があるって言われてるんだけど――もう一口食べてみる?」
「遠慮する」
チヅルにうめぼしおにぎりを返却したアズールは、それでも興味深そうにうめぼしをながめた。
「こんな珍妙な実は我が国には無い。やはり異世界の食べ物なのだな」
それから大皿いっぱいのおにぎりを完食するまで、いくつかのうめぼしおにぎりに出くわしたが、アズールがもう一度それに挑戦することはなかった。
仮宿を出発したチヅルたちはしばらくして小さな村にたどり着いた。
太陽はまだ高い位置にある。時刻としては昼過ぎ程度といったところか。
「この村に馬車を用意してある。今から出発すれば日暮れまでには海沿いの都市に到着できるだろう」
そう言ってアズールが振り返った先にチヅルはいなかった。
慌てて周囲を見渡せば、彼女は離れた場所でなにやら村の女性と話し込んでいる。
「まあ、王様のために調査の旅を? 若いのにえらいわねぇ」
「いえいえ、まだ始めたばっかりですから。ところでお姉さんの髪飾り、とってもかわいいです!」
「ありがとう! これは村で咲く花がモチーフになっていてね」
話し込む二人にアズールはずかずかと近寄っていく。
「春先の短い時期しか咲かない木なんだけど、本当にきれいなのよ」
「あっその花わたし知ってるかも。もしかして……」
チヅルが言いかけた台詞をさえぎるように、アズールの手が彼女の首根っこをひっつかんだ。
「お嬢さん、失礼します。この馬鹿がご迷惑をおかけしたようですね」
そのまま厩舎までずるずると引きずっていく。
「まだお話ししてたのにー!」
チヅルの非難がましい叫びは聞こえないふりをした。いちいち取り合っていたら予定が狂って仕方がない。
アズールは厩舎に入り、手早く馬の支度を整える。前もって車やほろは点検済みだ。馬の体調も悪くない。すぐにでも出発できそうだった。
「よし。王女、馬を出すから少し」
離れていろ、と言いかけた言葉は途切れた。視線の先に立っているはずのチヅルはまたもや影も形もない。
厩舎を飛び出したアズールの耳に「たのもー!」という勇ましい声が届く。
なんとチヅルは食堂に入ろうとしていた。
「おっ、お嬢ちゃん元気がいいねぇ。珍しい服だけど、旅人かい?」
「はい! 王様に頼まれて村のみなさんとお話しを」
チヅルは、豪快に笑う髭面の店主の正面、カウンター席に腰をおろしている。
「なにをしているか貴様ーっ!」
その頭にアズールは容赦なく手刀を食らわせた。
「食事ならすませただろうが! 店主殿の邪魔をするんじゃない!」
「邪魔じゃないもん! 小腹が空いたからいい匂いが気になって……」
「お前の胃袋はどうなっているんだ!」
再びチヅルの首根っこを掴んで引きずる。
「ああっ待って! おじさん、この匂いってトマトですよね!?」
「おお、わかるかい。そうとも、今が旬でね。うちでは毎年パスタソースにしてるんだよ。もちろん生でかじってもうまい!」
「ああ〜おいしそう〜食べたい〜」
引きずられながらもチヅルは店主との会話を続けていた。ぐぅ、とかすかに鳴る音が聞こえたあたり、チヅルの小腹が減っているという言葉は本当らしい。
「いいか。今度はうろちょろするんじゃないぞ。ここでおとなしく待っていろ」
唇をとがらせ、見るからに不満気なチヅルにアズールは重ねて釘を刺す。
厩舎に入る際も何度も振り返り、ちゃんとチヅルがいるかどうか確認した。
急いで馬を柵から出し踵を返したアズールは――果たしてチヅルがいなくなっていることに気付いた。
今度は厩舎脇の道端で、大きなかごを背負った老人と立ち話に興じている。
「そうさなぁ、これから寒くなればジネンジョ、サツマポテト、それにゴボウなんかがうめぇよ。まあどれも若い娘さんにゃ興味ねぇだろうけどもなぁ」
「そんなことないですよー! さつまいも……サツマポテト、とか周りの友達はみんな好きで、お菓子にするとおいしいって大人気なんですよ!」
「菓子かぁ。そりゃ豪勢だなぁ。おれも食ってみてえもんだ」
なごやかな空気が流れる中、アズールはチヅルの腹部に腕をまわす。どっこいしょ、と肩に担ぎあげ、そのまま彼女を馬車に放り込んだ。
「翁殿、連れの者が手間をおかけしたようで申し訳ありませんでした。お相手いただき感謝致します」
アズールが一礼すると、老人はからっと笑ってかぶりをふる。
「いやいや、おれの方が邪魔しちまったみてぇで、申し訳ねえなぁ。よかったらこれ食べてくれ」
真っ赤なトマトを二つアズールに渡し、老人は去った。
アズールは馬車に戻るやいなや、チヅルに背を向け手綱を取る。
ゆっくりと走りだした馬車の中から、チヅルの不服そうな声がする。
「ちょっとー。こんなに急いでどこに行くの?」
「さっき言っただろう。海沿いにオオ=ア=ラーイという観光都市がある。そこで国土調査をする」
無駄にあれこれと時間を取られてしまった。太陽はすでに西へ傾きつつある。急がなければ日暮れに間に合わなくなってしまうだろう。
「何で? まわりにたくさん村があるらしいよ。そこから回ろうよ」
心底不思議そうなチヅル。アズールの中で、何かがぷちんと切れる音がした。
馬の足をとめ、アズールは問いかける。
「王女、この旅の目的を覚えているか」
「もちろん。国土調査のためでしょ? この国のことを知りたいって、王様が……」
「ならなぜお前は邪魔ばかりするんだ!!」
背後でチヅルがおびえたように身を固めるのがわかった。だが、アズールのいらだちは収まらない。
「観光都市での調査を十全に完遂できれば、今後の経済的な国策の役に立つ。国が豊かになれば民の生活も豊かになる。それが王のお望みだ! こんな僻地の村でいつまでも足踏みしていて何になる! 民の苦しみが長引くだけではないか! それがなぜわからない! この愚か者がっ!!」
一気に言い切って、アズールは肩で息をつく。これでチヅルは完全に萎縮してしまっただろう。もう調査に関わるのは嫌だと言い出すかもしれない。
もしそうなったとしても、あとは自分一人で調査を進めよう。アズールがそう心に決めた時だった。
「それは違うと思う」
チヅルの声がした。それは予想外に静かなものだった。
とっさに声の方向へ首をめぐらせたアズールは息をのむ。チヅルの目はこちらをまっすぐに見据えていた。
チヅルは怒っても取り乱してもいない。ただ、悲しげに見えた。
「王様はこの国のこと全部が知りたいんでしょ。一部の大都市のことばっかり調べて、たくさんある小さな村のことを無視してたら意味がないよ。それとも王様にとって村の人たちは国民じゃないっていうの?」
「そんなことは……」
「違うのね。じゃあアズっちにとってはどう? アズっちにとって、この村の人たちの暮らしは取るに足らない、どうでもいいことなの?」
アズールは答えられない。うつむくアズールの耳に、土を踏む音が届く。
「アズっち、あれ見て」
視線をあげる。馬車を降りたチヅルが立っていた。その指差す先には、木工細工屋の看板。看板には五枚の花弁を持つ、可憐な花の意匠がほどこされている。アズールもなじみのある花だった。
「あの花は、村のお姉さんの髪飾りにも使われてた。この国の人たちはみんなこの花が好きなんだって。だったらアズっちも知ってるよね」
「それがどうした」
「わたしのいた国では『梅の花』って言うんだよ。アズっちの苦手なうめぼしは、あの花が咲いたあとに出来る実から作るの」
アズールは絶句した。何も知らなかった。花の名前は当然知っていた。姿もよくながめていた。だが、その同じ木になる実のことなど考えたこともない。人間が食べられる実がなるのかどうかすら知らなかったのだ。
イヴァ=ラキのことならなんでも知っていると思っていた。それがまさか異世界からの旅人に教えられることがあるとは。
呆然とするアズールの横に、チヅルが立つ。
「アズっちはこんな食べ物知らないって言ったけどさ、もしかしたらうめぼしに似た食べ物だってどこかにあるのかも知れないよ」
御者台に置きっぱなしになっていたトマトをひとつ手にとってチヅルはアズールへ差し出した。
「一緒に調べてみようよ。どの村にどれだけ梅の木があるのか。食べられる実をつけるのはどんな木か。栽培している村があるなら、そこにはどんな人たちが住んでいるのか」
受け取ったトマトはまだみずみずしい。ハリのある皮はつやつやと実は大きい。これだけの作物を育てるのには、いったいどれくらいの努力が必要だっただろうか。アズールはまだ知らない。
もしも、本当に梅の実を栽培している村があったなら、とアズールは思う。
その村に、異世界で言うところのウメボシのような食べ物があったなら、もう一度食べてみよう。そうしたら、今度は好きになれる――かもしれない。
「ありがとう、チヅル」
頬にこぼれた雫と一緒にかじったトマトは、とても甘くて、少ししょっぱい味がした。
(第一章担当:紫藤夜半)