第一章第一話
青い空、白い雲。優しく光る晩夏の太陽。そのぽかぽかとした日差しの下、木々のこずえが涼やかにさざめく。下草は柔らかく青々しい香りで満ち、まるで緑の布団のようですらある。
まさに昼寝には絶好のシチュエーションだった。
ただし――
「あれ? ここ……どこ?」
出口の見えない森の中で迷子になっているのでなければ、だが。
宮野千鶴は自身の行動を思い返す。
朝はいつも通り登校した。いつも通り真面目に授業を受けて、しっかりと寝落ちして、「受験生の自覚が足りない」という実に不本意な叱責を受けて、放課後は図書館へ向かって。そこで勉強をしていたはずだ。森へハイキングに出た覚えはない。
チヅルは目を閉じ、思い返す。
図書館でよく見かけるあこがれの先輩。彼はいつも、奥の目立たない席に陣取っている。その凛とした横顔をこっそりながめながら受験勉強に励むのがチヅルの日課だった。全ては彼と同じ大学へ通うために。
ところが、今日に限って彼はいなかった。毎日会えるわけではないから仕方がない、と自分をなぐさめつつも、勉強に向かう意識がおろそかになっていたのは確かだ。
ついつい気がゆるみ、うとうとと――そうだ。きっと自分は夢を見ているのだ。
そう結論づけたチヅルはおもむろに両手を天にかかげる。
そして頬を挟むように、全力で打ち下ろした。
「目を――さませぇっ!」
ぱちぃん、と透き通った、高らかな音が木々の間に響き渡る。その余韻が消え去らないうちに、チヅルは再度手を振り上げた。
「目をさませ! さませ! さませったらさませぇ!!」
二度三度と容赦なく振り下ろされる手はチヅルの頬を真っ赤に染め上げた。
しかし、彼女を取り囲む景色は薄れることなく、確固たる現実味を伴ってそこに存在し続けている。
「寝てる暇なんて無いのにぃ!」
涙目で声を上げるチヅル。明らかに夢などではない、現実の森の中心で、彼女は一人混乱の絶頂を迎えていた。
と、その背後。道から外れ、暗く生い茂った森の奥でがさがさと何かがゆれる。
小動物ではない、何か大きな生き物の影が、しげみの中をうごめいていた。
その影はゆっくりと、しかし素早くチヅルに近づいていく。なおも自らの頬を殴り続ける彼女は気がつかない。
ついに彼女のすぐ真後ろに『それ』は至った。
がさり、と明瞭な異音にチヅルが振り返ったその瞬間、『それ』は飛びかかる。
鋭い牙が細い首を狙って
「わあ、かわいいワンちゃん!」
届くことなく、彼女の両腕に抱きしめられた。
「毛並みもふもふー! お耳でっかくてかわいいー!」
『それ』は柴犬ほどの大きさの黒い犬だった。
犬は、意外とたくましい腕を持つ女子高生に仰向けにされ、腹部をなでまわされる。
「おめめは金色なんでちゅねー。首輪してないけど、野良でちゅかー?」
チヅルが楽しげに犬を構い倒していると、さらに他の個体が森から現れた。
犬と遊ぶのに夢中なチヅルは気がつかない。
現れたのは最初の犬より二回りほども体格の大きい、犬と言うよりは、オオカミと呼ぶ方がふさわしい獣たちだった。
獣は一頭、また一頭と増えていく。瞬く間にチヅルの周囲を取り囲んでしまった。
瞳に剣呑な光をたたえ、獣たちはじりじりと方位の輪をせばめていく。
ことここに至って、ようやくチヅルは状況に気がついた。
まず視界いっぱいのもふもふに喜色を表し、次いで友好的とは言いがたい空気に顔の筋肉をこわばらせる。
「あれ? えっと……もしかして、ピンチだったり?」
十重二十重に取り囲んだ獣たちの頭数は十はくだらないだろう。
低く唸り声をあげる群れの中心で、チヅルは腕の中のもふもふを抱きしめ立ち尽くす他なかった。
輪の中から一歩前に出た一頭が、牙をむく。大きく開いた口の中は赤く、鉄錆のような臭いがチヅルの鼻にまで届いた。
地を蹴り、躍りかかる。チヅルは思わず目を閉じる。一瞬後の衝撃に備え身をこわばらせた。
しかし、いつまで待ってもその時はやってこない。
恐る恐る目を開くと、目の前に人間の背中が見えた。
金の髪に銀の鎧、チヅルよりも少し高い背、その右手に握られた剣のきらめきから、その刃が偽物などでは無いことがわかる。
チヅルを背にかばって立っていたのは、絵本にでも出てきそうないでたちの騎士だった。
チヅルをちらと振り返ったその瞳は青い。
「お怪我は?」
短く向けられた問いに、彼女は首を横に振ることで答える。
騎士の足元には、今しがたチヅルに飛びかからんとしていた一頭が転がっていた。剣で鼻先を叩かれたらしく、鼻をおさえて身もだえている。
「控えよ! 貴様ら、この御方をどなたと心得る!」
標的を騎士へと変え、一層唸り声を低くする獣たちへ騎士の剣が向く。
「この御方は恐れ多くも我らが王、偉大なるミツクニ様の定めし後継者がお一人であらせられぶはっ!」
台詞が最後まで唱えられることはなかった。
後ろからチヅルに飛びつかれ、騎士は土に転がる。
「こらー! ワンちゃんをいじめちゃダメでしょー!」
「なっ、そんなことを言っている場合では!」
騎士の抗議もむなしく、チヅルの腕は彼の胸にからみつき、離そうとしない。
その間の抜けたふるまいに相手の毒気も抜けたらしい。獣たちは呆れたような目で彼らをながめる。
やがて、チヅルが抱えていた小さなオオカミをつれ、森へと去っていった。
約一時間後、チヅルと騎士は小さな小屋の中に居た。
旅人のための仮宿だと言うその小屋は小さく、唯一の椅子にチヅルを座らせて、騎士はその前にひざまずいていた。
「まず、先ほどの獣は犬ではなく魔物です」
「はい」
「魔王が倒され数十年が経つとは言え、いまだ国土には魔物がはびこっております」
「はい」
「中には友好的な者もおりますが、大半は人間に危害をなす危険な者どもなのです。先ほどの獣のように」
「……はい」
「魔物どもからあなたをお守りするのが私の役目です。何卒、ご理解いただきますよう」
「はい……ごめんなさい……」
ひざまずいていてなお騎士から放たれる威圧感は冴え冴えとして肌にとげとげしく、チヅルは完全に萎縮していた。
縮こまるチヅルに、騎士はそっと息をつく。
「私の名はアズール=ザザと申します。我がザザ家は祖父の代より騎士として王にお仕えして参りました。私は未だ騎士の叙勲を受けぬ見習いの身でありますが、恐れ多くも王女殿下にお仕えする栄誉を賜り、参上致しました次第です。以後、末永く御身のお傍に置いていただけますよう」
そう申し述べ、騎士見習い――アズールは頭を垂れた。
「じょくん……? でんか……?」
いまいち容量を得ない様子のチヅルに、アズールは心がひどく落ち込んでいくのを感じていた。
自分の担当は女性だと聞かされて、想像していたのだ。どんなにかたおやかで麗しく、聡明な女性なのだろうと。
勝手に理想を作り上げていた自分にも、王女という立場にはとても似つかわしくない少女にも、アズールは同様に落胆していた。
「えっと、アズール……君? よくわかんないんだけど、王女って、わたしのこと?」
「さようでございます。ここはイヴァ=ラキ王国。あなたがいらした世界とは違う世界に存在する王国です。我が国の国王、ミツクニ陛下が自らの後継者とすべく異世界から召喚なされた転生者――それがあなた様なのです」
簡単に説明してやれば、チヅルはぽかんとした顔でアズールを見つめ返した。
無理もない。ごく普通の村娘が突然王族の仲間入りを果たすのだ。それも未来の女王候補と来ている。喜びを噛みしめるにも、責任の大きさを理解するにも、時間が必要だろう。
アズールはせいいっぱいの微笑みを顔に貼り付け、祝福を述べる。
「おめでとうございます、王女殿下」
「えっやだ」
今、この娘は何と言った?
アズールは顔の筋肉が凍りつくのを感じた。
「えっ、なに、違う世界って。なに、王様の後継者って。わたしそういうの無理だから。帰って受験勉強しなきゃだから」
チヅルは一気にまくしたてる。その表情は降って湧いたシンデレラストーリーに恐縮しているという風には見えない。明らかに『絶望』の二文字が浮かんでいた。
「あっわかったこれ夢だやっぱり夢だ。今わたしは図書館の椅子で居眠りしてるんだ。そうとわかったら早く起きなきゃ今すぐ起きなきゃ。さーて受験勉強頑張るぞー!」
そう言うチヅルの目はよどんでいた。そのまま床にうずくまり睡眠の姿勢を取るチヅルに、とうとうアズールは我慢の限界が来た。
「馬鹿か貴様は! 一国の王女の座をくれてやるというのだ。黙って受けろ!」
叫んだ直後、しまったと思うももう遅い。
ぱっちりと目を見開いたチヅルはアズールに食って掛かった。
「王女の座とか要らないってば! いいからニホンに帰してよ!」
「そうはいかん! 王の後継者候補には『この国の姿を明らかにする』という使命があるのだ! 使命を果たせ王女!」
「ちーがーいーまーすー! わたしの使命は先輩と同じ大学に行くことですー! イバラギとか知らないし!」
「イヴァ=ラギではない! イヴァ=ラキだ! 王女ともあろう者が間違えるな!」
「王女じゃなーい! わたしはチヅル! 女子高生! 受験生なの! いいから早くお家に帰してよーっ!」
チヅルはどうあっても折れようとしない。それはアズールにしても同じことだった。
後継者候補を補佐し、王のために任務を完遂する。優秀な後継者の補佐として、父のような立派な騎士になる。そんな青写真が、アズールの中でがらがらと音をたてて崩れ去っていく。
「この……馬鹿女がっ!」
アズールのいらいらは最高潮に達していた。
「そんなに帰りたければ任務を果たして王に謁見しろ! 王の御力なら異世界へ道を開くことができる。任務完遂の褒美に、小娘一人送り返すことなどたやすいだろうさ!」
確証はなかった。呼ぶことができるなら、返すことも可能だろうというただの推測に過ぎなかった。
しかし、アズールの言葉を聞いた途端、泣き叫んでいたチヅルが動きをぴたりととめた。
「そっか、そうだよね! 王様がわたしを呼んだんなら、王様が帰してくれるよね!」
そして、みるみるうちに笑顔になる。
アズールが想定していた方向とはだいぶ違うが、どうやらチヅルはやる気を出したようだ。
何はともあれ、王から賜った任務は遂行させなければならない。
「よし、頑張ろ。なんとかなるでしょ!」
アズールは大きくため息をついた。
(第一章担当:紫藤夜半)
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