最終話
「イヴァ=ラキ王国第一王女、チヅル=ミヤノ殿下! 並びに従騎士、アズール=ザザ!」
幾何学模様の銅細工が施された重厚な扉が開かれるまでの数秒間を、チヅルとアズールはまるで永遠のように感じていた。
この先にチヅルをイヴァ=ラキの世界に導いた張本人、国王ミツクニが待ち受けている。処罰は免れたとはいえ、勝手に国軍を動かしたかどできっと厳しい言葉をたまわることになるだろう。
だけどこの世界で少しでも誰かのためになれたなら、悔いることは何もない。チヅルは毅然と扉の先を見据えた。
しかし――
「なっ……陛下!? いったいどちらへ……」
謁見の間の最奥に鎮座する紅い天鵞絨の玉座は、もぬけの殻だった。
チヅルとアズールを呼び寄せた騎士も、困惑して周囲を見回している。近衛隊長と思しき年かさの騎士が、王を探せと他の騎士たちに指示を飛ばした。
「えと……わたしたち、どうなるんでしょう」
チヅルは戸惑いながら近衛隊長に問いかける。
「……陛下にも困ったものだ。時々こうして我々の目を盗みふらりと出かけてしまわれる。
どうにも座りっぱなしというのが性に合わなくていらっしゃるようなのだ」
「だとすれば、私たちには僥倖かもしれないな」
「え、それってどういうこと、アズっち」
「陛下はやりたくないことはやらないお方だ。
大方今回の問責も大臣たちに言われて仕方なく決めたのだろう。
謁見の予定を放り出していなくなったということは、陛下としてもチヅルを責めたいとは思っていらっしゃらないと、そういうことだ」
「ずいぶん奔放な王様なんだね……」
「そうでなくば、異世界から若者を呼び寄せて後継者にしようなどとおっしゃるものか」
言葉は厳しいながらも、アズールの頬には温かな笑みが浮かんでいた。
「愛されてる王様なんだなぁ……。
ねぇ、アズっち。わたしたちも王様探すの手伝おっか?
わたしやっぱり、元の世界に帰るのとか抜きにしても王様に会ってみたい!」
目を輝かせるチヅルに、アズールは肩をすくめる。
「……チヅルは本当の意味で王女殿下なのかもしれないな。
血など繋がっていないはずなのに、そういうところがよく似ている。私も協力するよ」
頷くアズールに、チヅルが笑顔を返した時だった。
まるで間近に雷が落ちたかのような轟音とともに城全体が揺れる。
「な、何!?」
慌てて窓辺に駆け寄ると、城門の方から黒煙とともに激しい火の手が上がっていた。
◆◆◆
どうやら私は、行く先々で災難に遭う星の下に生まれているらしい。
燃え盛る火の手にバケツで水をかぶせながら、ルアンはそうひとりごちる。
「それとも災難体質はお前の方か……?」
「マッチイッポン、カジノモト! マッチイッポン、カジノモト!」
ルアンは頭上をぐるぐると飛び回るインコを見上げた。
サーカス団がミトに立ち寄るついでに、陛下に経過の報告とご挨拶を――そう思って城に立ち寄った矢先に、これだ。
ルアンが見たのは城門から爆炎と、直後になだれ込む甲冑の兵士たちだった。
彼らはどうやら城の衛兵ではない。それが意味するところは、ルアンにも分かっているつもりだった。
「反乱、か……」
ミツクニ公の治世は万人にとって優れたものだったが、それはあくまで内政に限った話である。
一部諸侯には、高い国力を持ちながら周辺諸国の侵略へ乗り出そうとしないミツクニの姿勢を快く思っていない者がいることも、これまでの国土調査で図らずとも明らかになってきていた。
そこへ来て、今回の後継者騒動である。当初こそ密かに始められた後継者候補による国土調査計画だったが、王族しか持たないはずの召喚の力を持つ者が全国を行脚するとなれば、いつまでも秘密にはしておけない。他の候補者たちの動きも当然、ルアンの耳に入っていた。
名士として知られるエドワード公でさえ、国土調査というプロジェクトとそれに携わる者の重要性に気づくとルアンを手中に置こうとしたのだ。王の目が届かぬのを良いことに私腹を肥やしていた大臣や地方領主たちは内心穏やかではなかったのだろう。
「ハーバー殿、伏せてっ!!」
城兵の声にとっさに身をかがめると、爆音とともに頭上からばらばらと瓦礫の雨が降り注ぐ。どうやら城壁の外から飛来した砲弾が城に大穴をうがったらしい。
幸いにも大きな瓦礫は内堀で大きな水柱を上げ、ルアンたちのいるところまでは届かなかったが、城内の着弾地点に居た者たちはただでは済むまい。
「王よ……どうかご無事で……!!」
マッタク、ドーカンデスナッ!
こんな時こそ響いてきてほしいジローの声はしかし、聞こえてこない。思えば先ほどから気配が無いようだった。
「ジロー!? まさかさっきの砲撃で!?」
空を仰ぐと、壁に開いた大穴に見慣れた鳥影が吸い込まれて行くのが見えた。
「まったく、こんな非常時にどこへ行くんだあの鳥公は!
少しは消火の役に立て!!」
ルアンは悪態をつきながらもホッと胸を撫でおろした。
◆◆◆
一方城内では、騎士たちとともに王を探すチヅルとアズールが思いがけない人物に出くわしていた。
「これはこれは、王女殿下に見習い騎士君ではないか。こんな所で奇遇なことだ」
でっぷりと秀でた腹に脂ぎった笑み。ひげがいささか伸びていたが、見間違えようもないその男の名は。
「エティーゴさん……っ!! どうしてあなたがここに!?」
「どうもこうも、ワタシはあの一件の重要参考人だからな。
キミが事情を聞かれるのと同様に、ワタシもまた陛下にお目通りするため、この城へ護送されてきたというワケだよ。
だがキミと違い、謁見が終わればワタシは再び牢に逆戻りだ。酷いと思わんかね?」
「……その囚人が、どうしてこんな場所をほっつき歩いている」
アズールは剣の柄に手をかけてエティーゴを睨みつける。
「おお、怖い怖い。取引だよ。大臣閣下とのな。
この身の釈放と引き換えに、内側から反乱軍の手引をさせてもらったのだ。この襲撃が成功裏に終われば、晴れて大領主様よ」
「く……っ、このくされ外道が……っ!! ここで私が成敗してくれる!!」
「おっと、そうはいかんぞ」
アズールが剣を抜こうとすると、エティーゴは片手を上げる。
それに応じるように、それまでチヅルたちと行動をともにしていた騎士のひとりがチヅルを羽交い締めにして猿ぐつわを噛ませた。
「きゃ……っ、むぐ……っ!?」
「チヅルっ!!」
「動くな。そちらの娘から封じなければならないのは前回で学習済みだ」
「く……っ」
口惜しげに剣を置くアズールに、エティーゴに降った兵士のひとりが歩み寄る。
頭上でぎらりと輝く剣にアズールが死を覚悟した時、
どごぉっ!!
爆音とともに、目の前の景色が吹き飛ぶ。
アズールもまたもんどり打って壁に叩きつけられ、前後不覚の状態でふらふらと立ち上がった。
もうもうと立ち込める土煙の中に、瓦礫と倒れた騎士たちの甲冑が見える。どうやらこの地点めがけて砲弾が命中したらしい。
「は……チヅル!? チヅルどこだ!! 頼む、返事をしろ!!」
アズールは必死で呼ぶが、怒号と喧騒、そして続けざまの砲声によってたとえ返事があったとしてもかき消されてしまうだろう。
「まさか瓦礫の下敷きに……!!」
アズールは手当たり次第に瓦礫の山をひっくり返していくが、チヅルの姿は見えない。
「ココッ、ココッ」
「……なんだ? ニワトリか?」
アズールが怪訝に目をこすると、砂煙の向こうから大きなインコが飛びかかってくる。
「ジローチャン!! ジローチャン!!」
「いだっ!! やめろ、つつくな!! 私は今お前のような鳥公に構っている暇は無いのだ!! 早くしなければチヅルが……!!」
「ココッ、ココッ!!」
再び瓦礫の上に降り立ったインコは、大きな瓦礫のひとつを爪先でカツカツと執拗に叩く。
「……まさか」
アズールは瓦礫に駆け寄ると、剣の鞘をテコにして全体重をかけ、やっとのことで動かす。
すると果たしてその下には、瓦礫の間にできた隙間にうずくまるようにしてチヅルが身を隠していたのだった。
差し込む光に目を細めると、チヅルは差し伸べられたアズールの手を取る。幸いにして大きな怪我は無いようだった。
「し、死ぬかと思った……。ありがとアズっち」
「礼ならあの鳥公に言ってくれ」
「ジローチャンカワイッ?」
インコは小首をかしげる。
「あなたが見つけてくれたの? ジローちゃんって言うのね。よしよし。かわいいかわいい」
「ん……ジローというと、確かルアン殿の」
彼が連れている後継者候補がジローという名のインコだという噂を聞いて、いくらなんでもそれは風説だと思っていたのだが。
「るぱん」
ジローは誇らしげに胸を反らす。
それから数歩てんてんと歩き、
「ココッ、ココッ!!」
「どうした鳥公。チヅルならもう……」
「アブラマシマシ!! アブラマシマシ!!」
「アブラマシマシって……まさかエティーゴがそこに埋まっているのか?」
アズールの問いかけに、ジローはぴょんぴょんと跳びはねる。
「……助けよう、アズっち」
「そう言うと思ってた。まったく、王女殿下はお人好しがすぎる」
「ダメ?」
「私はチヅルの従騎士だ。仰せのままに?」
苦笑気味に頷くと、アズールは瓦礫の下からエティーゴの巨体を引きずりだした。
どうやら改めて縛り上げるまでもなく、すっかり気を失っているらしい。
「良かった、生きてた。ジローちゃん、他に埋まってる人はいる?」
ジローはふるふると首を横に振る。
アズールはぐったりとしたエティーゴを見下ろしてため息をつく。
「……反乱軍め。味方がここにいるのに撃ってきたのか」
「利用、されちゃってたんだねー」
「哀しい男だ。そうとも知らずに」
「この人も倒れてる騎士さんたちも、安全なところに運んであげよ?」
「そうだな」
チヅルとアズールが二人がかりでエティーゴを抱え上げると、
「その荷物、わしが引き受けよう」
「ヨハン近衛隊長殿!! 王は?」
「まだ見つからん。すぐにでも見つけたいところだが、城内はてんやわんや、侵入してきた敵兵を一階で食い止めるので精一杯だ。せめて砲撃さえ止んでくれれば形勢を巻き返せるものを……」
近衛隊長は壁の穴から城外に布陣した砲列を睨みつける。
「こちらから撃ち返すことはできないんですか?」
「エティーゴの阿呆が弾薬を全てお釈迦にしてくれおった」
「やっぱりこのおじさん助けなきゃ良かったかも」
「さて、どうしたものか……」
一同が唸っていると、
「モウヒトリクル! モウヒトリクル!」
「もう一人? ジローちゃん、それって……」
チヅルの問いかけに答えるより早く、ジローは大穴から外へと飛び立っていった。
◆◆◆
「お馬さん、急いでっ!!」
エルの尻尾にひたひたと背を叩かれ、芦毛の馬は太い血管を浮かべて疾駆する。エルの後ろでは振り落とされまいとするカズマが必死に鞍にしがみついていた。
セカンド・ツクヴァから地図にも標識にも目もくれず一目散に馳せてきたが、なにせ城からは特大の狼煙が上がっているのだ。道の間違えようもない。やがて前方からは鋼と鋼がぶつかり合う音、そして砲声が聴こえてくる。
城外で戦いを繰り広げている騎士たちが掲げているのはセカンド・ツクヴァの旗――エドワード公の私兵団に追いついたらしい。少ない手勢で駆けつけたため、どうやら反乱軍の砲兵隊相手に苦戦を強いられているようだ。
「カズマさん、エドワード閣下をお助けしましょう!」
「……いや、遅れて行ってもここじゃ主導権握れないし。ただの助っ人とかあんまりカッコよくない」
「この一大事にカッコいいの悪いの言ってる場合ですか!!」
「カッコいいのが大事なんだよ! 俺にとっては!」
「それを言うならエルが手綱握ってる馬に乗るのはカッコ悪くないんですか!」
カズマはぐっ、と言葉に詰まり、
「……それはそれ、これはこれ」
「やっぱりよく分かんないです……」
すると彼らの元へ、一匹のインコが舞い降りてくる。
「タイホー、ブットバセ!! タイホー、ブットバセ!!」
「ふむふむ、なるほどなるほど」
インコの言葉に、エルは神妙に頷く。
「インコさんが言うには、お城の兵隊さんたちがここからの砲撃のせいですっごく苦戦しているらしいです。
それでカズマさんには、魔法で大砲を全部吹き飛ばしてほしいって。そうすれば勝ち目が見えてくるそうです!!」
「今の、そんなに長い説明だったのか!?」
「タイホー、ブットバセ!!」
「……まぁいい、鳥公。とにかく、ここの砲兵隊をやれば俺はヒーローなんだな? カッコいいんだな?」
「カッコイイナー……」
「棒読みじゃねーか!! ……まぁいい、乗ってやるよ。エル!!」
カズマはエルを促し、後方でセカンド・ツクヴァの旗を掲げた身なりのいい騎士に馬を近づける。
「あんたがエドワードだな」
「……君は?」
「国王の後継者候補、カズマ・スズキだ。あんたたちが苦戦してるようだから助太刀に来てやった」
カズマのあまりに生意気な物言いに、エドワード公は思わず吹き出す。
「いやはやこちらの後継者候補は大層な自信家のようだ、自信家は嫌いじゃないがさて、それで君が私のために何をしてくれると?」
「違うな。俺があんたたちのために動くんじゃない。あんたたちが俺のために動くんだ」
「ああ〜、またそうやって角の立つ言い方するぅ」
エルはやれやれと肩をすくめるが、エドワード公はさして気分を害した様子もなく続きを促す。
「ハハ面白い策があるなら聞こう、我らがこのままではジリ貧なのは紛れも無い事実だ」
「だったらあんたたちは退いてくれ。もちろん、フリだけでいい。退いたフリをして砲を守る兵士たちをなるべく遠くに引き離してほしい。あいつら邪魔なんだよ。うろちょろうろちょろ」
「……よほどの算段があるようだな?」
問いかけるエドワード公に、カズマはにっ、と微笑みを返した。
「任せてくれ。戦略ゲームは得意なんだ」
「あのぅ、カズマさん。分かってるとは思いますけど……」
「大丈夫、誰も殺さないよ。そのための作戦だ」
不安げなエルの頭を、カズマはフードの上からぐしぐしと撫でた。
法螺貝の音とともに、エドワード公の私兵隊は退却を始める。
「逃がすなーッ!! 追え、追え〜ッ!!」
カズマの思惑どおり、戦場全体に散っていた反乱軍の歩兵と騎兵は一斉にエドワード公を追撃に向かう。退却と追撃の流れに真っ向から逆らうように馬を走らせたエルとカズマは、砲列の真横へと躍り出る。
砲列の傍に残されているのは、砲の背後で弾を込める砲兵ばかり。
「これならまっすぐ狙えるな。……バン!」
カズマは片目をつむると、手袋の手で銃を撃つ真似をする。
「カズマさん、何を……?」
「鉄の風よ。人波を結ぶ栄華の箱よ。旅人の呼び声に応え、その行く手を拓けッ」
カズマが差し伸べる手のひらの先へ、真っ直ぐに鋼鉄のレールが現れる。砲の下に潜り込むように伸びてゆくそれを見て、砲兵たちは驚いて砲から飛び退く。
それは懸命な判断だった。直後、六両編成の列車が大砲の鼻先を跳ね飛ばしながら、轟音とともに地平線の先まで走り抜けていった。
滅茶苦茶になった大砲の間で、砲兵たちは尻もちをついたままぽかんと口を開けていた。
「はい。いっちょあがり」
「カズマさん、い、今のって……」
反乱軍に負けず劣らず度肝を抜かれた様子のエルが、ぶわっと尻尾を太くしたまま問いかける。
「つくばエクスプレス。我ら筑波大生の日常の足」
「……つまり、乗り物ですか。あれ?
そんなの召喚できるなら、あれに乗ってくれば早かったんじゃ?」
当然の疑問をぶつけるエルから、カズマはふい、と目を反らす。
「知らないんだ。運転の仕方。万が一止まれなかったら困るだろ?」
カズマの問いかけに、エルは何度も激しく頷いた。
「やっぱりお馬さんが一番です」
◆◆◆
「砲撃が止んだぞ! 今だ、攻勢に出ろ!!」
敵の砲兵隊が総崩れになったのを見て、城内は俄に活気づく。
「誰だか知らないが、やってくれたようだな」
安堵したように言うアズールに、チヅルは頷く。
「うん。カッコ良かったね。あの電車、わたしも見たことある。
もしかして召喚魔法かな?」
「これで反乱軍を押し返せるぞ。日が沈むまでには決着がつくだろう」
「うん、でも……」
「どうしたチヅル。浮かない顔だな」
「それでも、日が沈むまでにお城の騎士さんや反乱軍の人たちがたくさん傷つくんだよね。……やだな、戦うのって」
「同感だ」
「ねぇアズっち、今すぐ戦いを止める方法って無いのかな」
「無いことはないと思う。たとえば騎士たちが今すぐ全員降伏して反乱軍に従うとか、チヅルの召喚魔法でこの城ごと全部押しつぶすとか」
「やだ」
「……そう言うと思った。だからあんまり駄々をこねずに、私たちは私たちにできることをしよう」
「……うん。そだね」
チヅルは不承不承に頷く。
「王様、何してるのかな。こういう時に何とかするのが、王様の仕事なんじゃないの?」
「王は――」
居るはずもない王を探して窓の外に目をやったアズールは、そのまま言葉を凍らせる。
「アズっち?」
「……いらっしゃった。王だ!!」
そこにはミト城を取り囲む城壁の上を、イヴァ=ラキ王国旗を担いで闊歩する国王ミツクニの姿があった。
「行かなきゃ……。わたし、王様のとこ行ってくる!」
そっちは危ない、というアズールの忠告も聞かずに、チヅルは飛び出してゆく。
「まったく、私の王女殿下は手がかかる!」
アズールは覚悟を決めると、向こう見ずな背中を追って戦場へ飛び出していった。
◆◆◆
ミト城の城壁は、天守をぐるりと一周するように取り囲んでいる。全ての方位からの攻めを防ぐという他に、この壁にはもう一つの役割があった。
「さて……これでしまいか」
国王ミツクニは手の甲で額の汗を拭った。王国旗の石突で、城壁に溝を刻みながらぐるりと一周。今王の足元でひとつの円に結ばれている。
王は自らの親指を見つめて少し眉をしかめると、それからひと思いに犬歯で皮を噛み裂いた。
血の滴る指を刻まれた溝に押し付けると、稲妻のように迸った紅い光が、城壁の上を駆け抜けてゆく。その先端が再び王の元へ戻ると、ミト城を囲む巨大な魔法陣が完成した。
だがそれを発動するより先に、王はその場に膝をついてしまう。
「む……ぐ……ごほっ、老いたな。私も」
荒い息をつく王の肩に、大きなインコが舞い降りた。
「オーサマ!! オーサマ!!」
「おお、ジロー。来てくれたか。すまないが手を貸してくれないか?」
「ジローチャン、テハナイ!!」
「ううむ、そういう意味ではなかったのだが……。
恥ずかしながら、この魔法を発動させるにはもはや私だけの魔力では足りないようなのだよ」
「だから俺まで連れてこられたのか。この鳥公め。人をパシリみたいに便利に使いやがって」
「君は……?」
「あんたが王様? 俺は――」
「王様っ、王様ぁああああ!!」
カズマが名乗るより先に、エルが王の首根っこに齧りついていた。
「あっはっは。エルくんも、久しぶりだな」
「ご無事でしたか? 怪我はないですか?」
「ああ。今さっき自分で指を噛んでしまったがそれ以外はいたって元気なものだ」
「でもでも、顔色がすぐれないですよ?」
「エルくんのイバラを荒らした乱暴者どもにお灸を据えようとして、ちょっと無理をしてしまってな。
そうそう、君がいない間、私がイバラの世話をしようと思っていたんだが、これが案外難しくてな。熱中している間に、大事な約束をひとつすっぽかしてしまった。彼女、怒っていないといいが」
「怒って、ないですよ」
穏やかな声に、王は「それはよかった」と微笑む。
顔を合わせるのはこれが初めてだが、王にはその少女が彼の大事な後継者候補だと分かっていた。
チヅルの後ろにはアズールと、途中で合流したルアンも居た。
「いやはや、まさかこんなところで全員揃うとは。
これも何かのさだめかもしれんな。皆の者、国を治めるのもままならぬ不甲斐ない王だが、どうかこの戦を止めるために力を貸してくれ」
王の求めに、若き後継者たちは強く頷いた。
「おい、王だ!! 見ろ、城壁に王がいるぞ!!」
兵のひとりが指差したのを皮切りに、反乱軍の兵たちが次々と城壁の上へ向けて矢をつがえるが、
ジローを肩に乗せ進み出たルアンが大音声、
「この王国旗が目に入らぬか! こちらにおわすお方をどなたとこころえる。おそれおおくもイヴァ=ラキ国王、ミツクニ陛下にあらせらるるぞ!!」
「ズガタカイ! ズガタカイ!!」
そしてチヅルとアズールが声を揃え、
「「ひかえおろーう!!」」
王と後継者たちは皆ひとつ王国旗を握りしめ、あらん限りの魔力を注ぎ込んでいた。
王国旗の穂先が光り輝くと、カズマは王から伝えられた呪文を詠唱する。
「この梲は標の梲。
此より先は神の御地也!」
その瞬間、王国旗から天に向け紅い光の柱が立ち上り、城下を赫々と照らす。
そして建物の後ろに、木々の下に、人々の背後にくっきりと描き出された影の輪郭から、ぞぞぞぞ、とこの世のものにあらざる存在が這いずり出した。
蛇のような姿をした無数のそれは、敵意をたぎらせ、悪意を滲ませる者たちに絡みつき、剣を折り、膝を挫き、その場にひざまづかせていった。
まるで水面を波紋が伝うように、戦う者たちが王に向かって次々とひれ伏してゆく。
夜刀神――イヴァ=ラキの地に住まう旧き神。
かつて魔王さえも屈させたその力は穏やかで、だが有無を言わせぬ制圧だった。
蛇に取り憑かれた者たちがそのまま闇の中へと呑まれてしまう前に、王は王国旗を魔法陣から切り離す。すると魔法陣の紅い光は消え、蛇たちは影の中へと還っていった。
「耳を貸してくれ、我が愛しい民たちよ」
王はゆっくりと、しかしよく通る声で言う。
「戦をやめよ。剣をおさめよ。王国兵の血も反乱軍の血も等しく流れるべからぬイヴァ=ラキの国民の血である。
反乱軍よ、争わずとも私は王位を降りる。このような諍いを引き起こしておきながら、のうのうと居直る私ではない」
それから王はチヅルの、アズールの、ルアンの、カズマの、エルの肩を優しくぽんぽんと叩き、最後にジローのくちばしの下を撫でた。
「だからこれからの治世は、彼ら若い者たちのもの。
それが私からの――王としての最後の願いだ」
その言葉に、王の臣下たちはもう一度深く、今度は自分の意志でかしづいた。
◆◆◆
そして、数日後――。
「チヅル、チヅル。あまりよそ見をすると危ないぞ」
「へ? うぎゃ、いったぁ!!」
運んでいた瓦礫を思い切りつま先に落としたチヅルは、痛みに飛び上がる。
「ほら、言わんこっちゃない。カズマ殿がそんなに気になるのか?」
「だって、憧れの先輩と異世界で再会できたんだよ!
これってなんか運命感じちゃうと思わない?」
「で、どうだった。運命の再会の感想は」
チヅルは再びカズマの方を見やる。
「うーん、やっぱこの辺かな。王都の危機を救った英雄サマの像が立つのに相応しい場所は」
「駄目だカズマ殿。ここには守備兵の詰め所が立つ予定で――」
「はぁ……ルアンくんは相変わらずお固いな。
よしエル、今だ! やっちまいな!」
「がってんカズマさん!」
「うひっ、うひゃひゃひゃひゃ! や、やめっ、くすぐるなっ」
チヅルは再びアズールに視線を戻し、深くため息をつく。
「なんか、ちょっと思ってたのと違う……」
「概してそういうものだ。現実ってやつは」
「異世界でくらい、夢見させてほしいよぅ」
城壁の上から左官職人のひとりがカズマに向かって声をかける。
「おーい、カズマ殿。城壁の高さ測るのにメジャーの長さが足りないんだが」
「んなもん、距離と仰角さえ分かれば三角測量で一発――はぁ!?
三角測量知らない!? おいおい、それでどうやって城とか城壁とか作ったんだっての――。
待ってろ! 今分度器持って教えに行くから! エル!」
「はいはい、分度器ですね〜。ただいまー」
「でも、思ってたのとは違うけど、ああいう先輩はああいう先輩でいいな、って、思っちゃうんだよなぁ……」
「……私も負けないからな」
「ほぇ? アズっち、今なんて?」
「サンカクカンケイ! サンカクカンケイ! ヒルドラデスナー」
「うるさい! 黙れ鳥公!」
頭上で手を振り回すアズールをからかうように、ジローはぐるぐると飛び回った。
「チヅル殿は、例の件もう決めたのか?」
歩み寄ってきたルアンが問いかける。
例の件とは、明日予定されている王やイヴァ=ラキの重臣たちとの会合のことだ。
その席で彼らは、後継者としての自らの方針を語ることになっている。
「うん。もう決めた。それで、ルアンくんにも力を借りたいんだけど――」
チヅルはルアンの耳元に、彼女の決意を囁いた。
◆◆◆
「継がない、ですと……?」
チヅルの宣言に、重臣たちはざわめく。
「ああ、俺も別に王様になるつもりはないぜ。
管理職なんて肩が凝る。な、ジロー」
「サヨチャン!」
「しかしそれでは、王のご意向はどうなります!」
色めき立つ大臣に、王は苦笑する。
「それならそれで、構わんよ。
私はただ、欲に目がくらんだ者にこの国を任せたくなかっただけだ。その思惑が、叶いすぎてしまった。そういうことだろう」
「でも、わたしたちこの国のことを放り出して元の世界へ帰るつもりもありません」
「……と、言うと?」
王の問いかけに、アズールが進み出る。
「そもそもチヅルが王都へ呼ばれたのは、騎士たちを勝手に動かした罪です。そして騎士たちを動かしたのは、市民たちによる投票の力――」
「だからこの国のことも、投票で決めたらいいんじゃないかって、わたし思うんです。そしたらきっと、だれもが納得できる政治になるはずで――」
「私とジローの調査が終われば、この国の戸籍ができるはずだ。
そうすれば有権者の数を決め、国事を投票で決定することもできる」
「なぁルアン、この国の人口はおよそ何人だ?」
カズマはルアンに向けて問いかける。
「まだ全部調査が終わらなくても、だいたい予想つくだろ?」
「そうだな、およそ300万人といったところだろう」
「ふん、無理だな。10万人規模の古代ギリシャ都市国家でうまく行かなかったんだ。その人数で直接民主主義なんて成り立つはずがない」
「そんな……!! だけど先輩、わたしは……!!」
「あーあー、人の話は最後まで聞けっての!
なぁチヅル。俺たちの世界は、直接民主主義になってるか?
大人たちは法案のひとつひとつに関して投票してるか?」
「それは議員さんが……」
「そう。それが間接民主主義――代議制だ。選挙区ごとに選ばれた国民の代表が、多数決で政治をする。
もちろんそれで平等な政治にするには、選挙区ごとの有権者の数がなるべく同じになるようにしなけりゃならない。そういう部分にこそ、俺たちがこの世界に持ち込んだ統計の力が役に立つんだろ」
「なるほど……」
「だからルアンたちには引き続き調査をして、正確な戸籍を作ってほしい」
「カズマ先輩は?」
「俺はセカンド=ツクヴァに戻って魔法の研究を手伝う。
仕事が終わったら、なるべく早く元の世界に戻れるようにな」
「えっ、戻りたければ王様が戻してくれるんじゃないんですか?」
戸惑うチヅルに王は、
「カズマくんは既に気づいているようだがね、我々の召喚魔法は、『最初に与えられた役目を果たした』時、元の世界に戻るようにできているんだ。食べてしまったものなんかは別だがね」
「えとえと、てことはカズマさんたちに与えられた役目って、『王様のコーケーシャになる』、ですから、センキョするならそれって果たされたことになるんですかね?」
「ならないと思うぞ」
エルの疑問にカズマが答える。
「……ということは、ジローが帰れるのもまだ当分先か」
「サヨチャン……」
「まぁ、これも何かの縁だと思って私の調査に引き続き付き合ってくれ。うるさい鳥公だが、お前がいないと私だってその、それなりに寂しい」
「ツンデレ! ツンデレ!」
「違う! いいのか悪いのか言え!」
「るぱん!」
答える代わりに、ジローはルアンの頬にそっと擦り寄った。
「ごほん」
一同の微笑ましい眼差しを咳払いでごまかして、ルアンは再び口を開く。
「それでひとつお願いなんだが、引き続きサーカスに同行しながら調査を続けても構わないかな」
王は意外そうに眉を上げる。
「おや、君はあまりそういう場には興味がないと思っていたのだが。この旅は思いがけない方向に君を成長させてくれたようだね」
「はい、私もそう思います」
ルアンははっきりとそう答えられる自分が誇らしかった。
「チヅルくんはどうだね。選挙制度の整備をルアンくんに任せるとして、君はどうする」
王に水を向けられたチヅルは、気恥ずかしげに頬をかく。
「せっかくだから選挙、立候補してみよっかなって。
だってそれが元の世界へ帰る一番の近道で、この国の人たちのためにできることで、王様の期待に応えることだから」
それを聞いたアズールは感極まったように目尻を拭った。
「うぅ……チヅル、あのおてんばがすっかり大人になって」
「何泣いてるの? アズっちも出るんだよ、選挙」
「なんだって!? 聞いてないぞ」
「うん。だって言ってないもん。
でも、向いてると思うなー。アズっち真面目だし」
そういう問題じゃない、私には騎士見習いとしての立場が――などと言い争うふたりを、王は温かく見守る。
「んじゃ、用事は済んだみたいだし俺は行くからな。
選挙んときは手伝うから呼んでくれ」
カズマはひらひらと手を振ると席を立つ。
「あー……うー……」
エルは王とカズマを交互に見ながら部屋の中をふらふらとさまよう。
王はエルを近くへ呼び寄せるとその手を握り、
「彼のところへ行っておあげなさい。カズマくんは頭が切れるが敵を作りやすい。お前が傍で助けておあげ。
だけど私のところへも、時々顔を出すのだよ?
誰もイバラを剪定しないと、私の窓からの景色が狭い」
それを聞いたエルは、ぱぁ、と顔を輝かせる。
「はい、分かりました王様。エル、行って参ります!」
元気よく敬礼すると、エルはカズマの背中を追って駆けて行った。
「王よ、これで良かったのですか?」
大臣の問いに、王はしっかりと頷く。
「ああ。善い種は撒かれた。きっと、大樹に育ってくれることだろう。
それよりも良いのか? 諸君も選挙の準備をしなければ、いずれその席を失うことになるぞ?」
いそいそと慌ただしく立ち上がる大臣たちを、王は呵々と快活に笑うのだった。
(担当:伊織ク外)