プロローグ
ぱちん。ぱちん。
開かれた窓を横切るイバラの蔦を、少女の持つ鋏が軽快に断ってゆく。
ローズ城を護り飾る高貴なこの植物はしかし、放っておくとすぐに窓を埋めて城内を暗く閉ざしてしまうのだ。
一日のもっぱらをこの居室で過ごす王のために、首都ミトの景色を映すこの窓を広く保つこと。それが少女の仕事だった。
彼女が漏らす鼻歌に合わせるように、おしりから伸びる長いしっぽは楽しげに揺れていた。
「……エルくん、君にひとつ尋ねたいことがあるのだが」
年老いた男は節くれだった指どうしを組み、楽しげなしっぽに向かって玉座の上から問いかけた。
「はい、王様! エルでよろしければ何なりと!」
エルが鋏を手に振り返ると、首元の大きな鈴がちりんと鳴る。
獣の耳をフードで隠したエル・ブルーシアは魔物と人との混血児。
世間から疎まれ、飢え死にしかかっていたところを王の庭師として拾われたのだった。
「『世界はひとつではない』――そう聞いてエル君は何を思い浮かべるだろうか」
「『いろんな民族がいて、物事の考え方がそれぞれ違う』ってことでしょうか。エルのパパやママと、街の皆みたいに」
「うむ。そういう考え方もある」
「それとも『いつだって争いはなくならなくて、皆が協力するのは難しい』ってことでしょうか。今でも魔物と人間が喧嘩し続けてるみたいに」
「エルは賢いな。私がそのことに気づくまでには、ずいぶん長い時間が――こんなにシワだらけになるほどの長い時がかかってしまったというのに」
「えへへ……」
「なぜならそれまでの私にとって『世界はひとつではない』という言葉は、比喩でもなんでもない、ただ、その言葉の通りの概念だったんだ」
「どういうことです?」
「私がここではないどこか別の世界から来たことは知っているかな」
「はい! 王様はここじゃないどこかからやってきて魔王を倒し、イヴァ=ラキを建国なさいました! 確か、王様が元いらっしゃった世界のお名前を、この国の名前としてつけられたんですよね?」
「そう。それはここによく似た風土の世界だったんだ。双子のように似通う二つの世界は、ときおり不意に『つながる』ことがある。私もそうしてやってきた」
イヴァ=ラキの地図と鏡合わせの地形を持ち、しかしそこに暮らす人々やその文明レベルは全く異なる異世界から王がこの世界へとやってきたのは、彼が18の時だった。
二つの世界の接点を通り抜けた彼はその『つながり』を自在に操る力を得て、当時この地を支配していた魔王を退けた。
「王様はすっごいですよねー! 魔王をやっつけて、新しい国を作って、ほーりつを作って、街道を敷いて地図を作って! おまけにこの国の魔術師さんたちに王様の魔法を教えて、簡単なのなら王様以外でも使えるようにしたんですから!!」
エルは目を輝かせながら王の功績を指折り数える。
「エルはおばかだから、そんなにたくさんのことをいろいろ考えたら頭がぱーんってなっちゃいます」
「私はエル君ほども賢くも器用でもなかったからね、ここまで来るのに長い――本当に長い時間がかかってしまった。だけどまだ、終わってはいないんだ。私はまだこの国の姿を知らない」
「あわわ、ごめんなさい。窓のイバラ切るの、ちょっと遅かったですか?」
慌てるエルに、王は苦笑する。
「違うとも。この国にどんな人々が暮らし、どんな営みをしているのか私はその全てを知りたい。だが、二つの世界のつながりを自在に操る私の魔法も、私を第三の世界――まだ見ぬ黄泉の国から遠ざけてくれはしなかったようだ」
「……王様、死んじゃうんですか……?」
「ああ。だがすぐにじゃない。お前に寂しい思いはさせないから心配するな」
その言葉を聞き、しゅん、と垂れていたエルのしっぽが再び張りを取り戻す。
「だが、跡継ぎ問題は深刻だ。忙しさにかまけているうちに、私は妻を娶らないでしまったからね」
「エルじゃだめですか? 王様のこと、大好きですよ?」
あくまで真面目くさったエルの申し出に、年老いた王はむせんばかりに噴きだした。
「私もエル君が好きだがね、私はこれまで君に対し、祖父が孫を愛するような気持ちで接してきたつもりだ。君は違うのかね?」
「そーですね。王様はエルの大切な、もうひとりのおじーちゃんです!」
「であればこそ私は、それを大事にしたいと思うんだ。君には是非、他のことを頼まれてもらいたい。内緒のお願いだ」
「なんでしょうなんでしょう」
擦り寄るエルに、王は声をひそめてささやいた。
「……後継者探しだ。大臣連中の権力争いには心底辟易していてね。他人を蹴落とす以外頭にない阿呆が玉座につくと思うと正直反吐が出る。
……エル君は、この場所に座りたいと思ったことは?」
「王様のお膝の上なら、いつだって喜んで座りますよ?」
微笑むエルに、王は眉間に寄せたしわを解く。
「皆がエル君のようであれば良いのにな。……いや、これは別にあのでっぷり肥え太った大蔵大臣に私の膝の上に座って欲しいという意味ではないぞ!?
……ごほん。とにかく私は王座を譲るなら、エル君のように純朴か、それとも私と出自と志を同じくする者に先を任せたい。私がやり残した、『この国を知る』という大事業をな」
「エルは王様にはなれませんけど……だけどでも、だったらエルは何をすればいいんです?」
「そう言うと思ってな。実は既に、三人の転生者をこのイヴァ=ラキに呼び寄せたのだ。
しかし恥ずかしいことに魔法にいささかブランクがありすぎてな、召喚された転生者たちがイヴァ=ラキ各地にバラバラに散ってしまったようなのだ」
「分っかりました! つまりエルは、王様のお世継ぎを探してきて連れてくればいいんですね! そういうことですね!」
「いやいや、それだけでは十分でない。彼らに試練を与えるのだ、エル。イヴァ=ラキの国土を知り、民を知る調査を成し遂げた者を、この国の王とする。君は転生者の側に寄り添い、助けになってやってくれたまえ。正しく教え導きさえすれば、彼らが持つ召喚の力が――そして智慧が、必ずや調査を成功に導くだろう」
「はい、王様! だけど国を知るための跡継ぎなのに、試練で解決しちゃっていいんですかぁ?」
「ああ。この事業に解決はない。人の営みがある限り、それは変化し、新たに紡がれ続ける。だが知らなければその流れを助けることも、正しく導く事もできん。果て無きものなのだよ。国を計る――『統計する』ということは」
「『とーけー』――なんですか、それ? エルにはよくわからないです」
「……そうだな、確かにエル君ひとりでは荷が重いだろう。だがこの事業は大臣たちには秘密で行いたくてね。信頼を置ける者にしか頼めない。そこで、だ。アズール・ザザとルアン・ハーバーを知っているか? 私が密かに目をかけている若者たちなのだが」
「はい! 二人ともエルに優しくしてくれるおにいさんです!!」
「二人をここへ。彼らにもエル君と同じ任務を分かち合ってもらおう。決して、大臣たちには悟られるなよ?」
エルは決意の表情でこくりと頷き、その夜三頭の騎馬が密かにローズ城を出奔した。
イヴァ=ラキの何処かへ召喚されたという異世界からの旅人を探しに。そして彼らに国土調査の使命を与え、成し遂げた者を王にするために。
召喚の魔法と統計の智慧をめぐる冒険は、こうしてここに始まったのだった。
(プロローグ担当:伊織ク外)
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