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彼岸の頃も色褪せて  作者: 雨宮吾子
God Only Knows (第二稿)
7/7

03

 学期末の試験が終わり、いよいよ冬休みを目前に控えた三人は、美術の教師である丹波先生に呼び出された。冬休みの宿題の件である。

 冬休みに各々で一つずつ作品を仕上げ、丹波先生に提出するというものである。この話自体は咲耶の提案したものだったが、丹波先生が改めて三人に宿題として課す形になった。

 丹波先生は担当するクラスを持っていなかったが、流石に師走の時期ともなると雑事に追われているらしく、三人が呼び出されたのは終業式の後になってからで、また宿題の内容についても細部まで指定はしてこなかった。体裁については拘らないからとにかく作品を仕上げてくるように、というわけである。その自由度が却って宿題を難しくしている点ではあったが、そもそも丹波先生は三人の技術なり感性なり志向なり、とにかく三人のことを知らないわけだから、あえて字数やテーマなどの外枠を設けずに三人のそのままを見ようとしたわけである。

 その日、三人は初めて帰路を共にしてあれこれと話した。いつもよりも早く学校が終わったわけだから、どこかで一緒に食事をしながら話し合うというのも一つの選択肢ではある。しかしそうしなかったのは、三人ともが宿題について没頭しているためであり、深いところまで会話をすることで小説のために紡ぎ出す言葉が口から出ていってしまうのではないかと恐れていたのかもしれない。少なくともそれに近い感情は存在した。それでも百子は咲耶とまだ話を続けていたかったのだが、帰り道の途中で他の二人と別れることになり、百子は仕方なく一人で帰宅することになった。

 家では祖母が食事を作って待っていた。手洗いとうがいを済ませると食卓に就き、百子が帰ってくるのを待ってくれていた祖母と二人で食事をした。祖母はうどんとそばの二品を作っていて、どちらか好きな方を選びなさいと百子に言った。百子はうどんを選び、祖母はそばを食べることになった。


「二学期が無事に終わって良かったわね。大過なく新年を迎えられることほど有り難いことはないわ」


 祖母は百子に語りかけた。百子と祖母とは同じ屋根の下に生活をしているから話をする機会はいくらでもある。それでも、学校を終えて、クリスマスの狂騒から一年の終焉を迎えるジェットコースターのような日々を控えて、百子はほっとした、落ち着いた気分で祖母と話せることがいつになく楽しく思えた。それは話し足りないままに咲耶と別れたことが影響してもいた。

 祖母は百子が始めようとしていることを何も知らない。それは百子が意図的に隠しているのではなく、まだ話す時機を得ていないためである。それでも、会話をするうちに百子が何か別のことに気を取られているのが祖母には分かった。祖母は聡く、そして強かであった。百子が何に夢中になっているのかは分からないが、孫娘の背中を後押ししたいという気持ちが内側から湧き出てくる。老境を迎えた祖母にとっては、自らの活力が未だ枯れていないことを確認できる、そんな嬉しい一事であった。

 食事が終わり、楽しい時間は過ぎ去った。いつかはそうならなければならないのである。祖母は百子に向かって、優しい言葉をかけた。


「学校が終わったのだから、今日はゆっくりと自分の好きなことをして過ごしなさい」


 会話の途中から小説のことで頭が一杯になっていた百子は、弾けるようにして席を立ち、それを恥じるように椅子を机の下にゆっくりと戻し、軽やかな足取りで自室に入った。

 今から何をしよう。未確定の時間を前にして、百子はいつになく心が躍るのを感じていた。真っ白なノートという一つの世界に対して、百子に与えられた自由の名は、切り取り次第とでも呼ぶべきものだった。伏せがちにされたペンがノートに触れる。まず思いつくままに書き出されていったアイディアは、どうしようもなく恋愛を志向したものだった。記されている言葉は夢想をそのまま映し出したようなものだったが、快いだけであった感情が次第に苦しくもなっていった。どうしてあの人でなければならないのだろう、どうして私でなければならないのだろう、その感情は清いものだろうか、そこに正当性はあるのだろうか、といった具合に。

 恋しき人に向かって踏み出した一歩は、月世界に向けて踏み出された一歩よりも深く、そして重みがあった。実体として存在し得ない感情と、実体としてそこに存在するあの人。その渚にいるのはまさに自分自身で、揺れ動く感情が波の音と重なっていく。感情は、この感情は、果たして本物だろうか?

 突如、ノートが乱暴に閉じられた。百子は溢れ出さんとする感情を何とか抑えると、ぐったりとした気分でベッドの上に身体を横たえた。物を、言葉を、気持ちを書き記すということが、こんなに心を揺さぶられるものだとは知らなかった。学校の授業で板書を書き写したり宿題を書き記すのとはまるで違う、どうしようもなく本質的に違う、そんな世界が身近なところに広がっていたのだ。百子は、初めて環のことを理解できたような気分になった。少なくとも理解しようという段階にまで辿り着いた。そして、おそらくはずっと前にそこへ到達していた咲耶のことも、強く百子の心の中に響いていた。






 三人が初詣へ出かけることになったのは、百子の呼びかけが発端だった。百子は年越しを三人で迎えて初詣にも行きたいと言ったのだ。環は最初から反対する気持ちはなかったし、咲耶もそれに近い心情でいたのだが、咲耶の抱えるたった一つの憂慮は、年越しを一緒に過ごすということを百子の家族が許すかということだった。結局は早朝から出かけて地域で最も大きな神社に詣ることになった。

 冬の朝の澄んだ空気があまりにも清々しいので、百子は俗世間の垢に塗れた自分の肉体が拒絶されるのではないかと、創作に打ち込んでいる現状らしく詩的に考えたりもしたものだが、咲耶が自宅まで迎えにきたとき、そして環との待ち合わせ場所まで二人で歩くときに、そのような観念は綺麗に吹き飛んでいた。いつかどこかで同じような雪道を歩く男女がいたかもしれないという、奇妙な感覚に百子は陥った。しかしそれもやがては雪のように解けていって、これがこの宇宙で最初で最後の、二人きりの道だという思いを信じることにした。

 そこで二人が交わす言葉には、何かしらの愛情があって然るべきであったかもしれないが、恋にすら慣れない百子が口にすることのできる言葉には、そのような魔力は存在しなかった。一方の咲耶は何かを考えているのか、しばらく黙ったきりでいた。それで結局、百子は創作の話題に持ち込まざるを得なかった。


「咲耶くんの方は順調?」

「えっ? ……ああ、そうか、まあ順調だよ」

「そう。私も毎日少しだけど、書き記してはいるの。だけどなかなか形にならなくて」

「小説というものは難しいよ。環のように材料が沢山あっても、それを成形できなければ意味がないんだから。これは別に環を貶しているわけではないけどね」


 言うまでもなく、ここで咲耶が環のことを話題に上げるのは適当ではなかった。いずれそうなることが必定であったとしても。

 百子は白い息を、ため息なのかそうでないのか自分でも分からないような息を吐いて、その話題を続けていくことにした。


「どうして環くんと一緒に小説を書くことになったの?」

「見込みがあったからさ。環には独特の感性があるし、それにさっきも言ったように沢山の材料がある。彼はもっと早くから創作をするべきだったんだ」

「私が意外なのは、咲耶くんが環くんを選んだことでもあるし、環くんがその話を受け入れたことでもあるの」

「……環も少しずつ、成長しているのさ」


 二人は、またしばらく黙って歩いた。

 やがて、彼方の丁字路に環が立っているのが見えた。その突き当りの電柱に設置されたミラーに、今年初めての太陽の光が鮮やかに反射していた。その煌めきに、二人は息を呑んだ。






 冬休みが明けた学校では、久しぶりに顔を合わせた生徒たちの嬌声があちこちで聞かれた。その休みの長さの体感は、各々の生徒たちの成長具合によって異なっていた。その中でもあの三人は、創作に打ち込んだこともって特に時間が短く感じられた。

 始業式やその他の諸々が終わり、三人は美術の丹波先生の元へ向かった。丹波先生は緑茶を飲みながらパソコンに向かっていたが、三人の顔を見ると柔らかな笑顔を見せた。


「おう、久しぶりだな。始業式でお前たちの姿を見つけたときには、書いてきたものを見る前から意気込みが伝わってくるような気がしたよ。ちょっと待ってくれよ」


 丹波先生は机の上を片付けたりしながら、先日の終業式のときにゆっくりと話しをする暇がなかったことを詫びわりして、百子は何だか暖かい気持ちになった。ただ、同時に書いてきた作品の出来映えに対する自信のなさもあって、緊張した面持ちは崩さなかった。


「さて、まず誰から見せてもらおうか。……我こそは、という者は?」


 三人は顔を見合わせた。そしてまず、咲耶が作品を記した原稿用紙を提出した。クリップで留められた原稿用紙には流暢な文字が記されていて、百子はその本格的な装いに気後れするようなところがあった。

 丹波先生は最初の数枚をじっくりと読み込んでから、ある程度の判断ができたらしく、頷いてみせた。


「よし、後でじっくりと読ませてもらおう。じゃあ次は、環だな」


 丹波先生は百子の自信のなさそうな表情を一瞥して、無色の環の顔を見ながら言った。

 環は新しいノートに横書きで何かを記してきているようだった。分量としてもそれ程のものではなく、あるいは詩か何かのようにも思われた。


「環、これが今の精一杯か?」

「はい」


 環は臆面もなく言った。すると丹波先生は口元を緩めて、


「光るものはあるし、力を出し切ったことも分かる。ただ、まだまだ勉強が必要だな」


 と言った。

 最後に残った百子は、ノートに横書きで記した掌編を手渡した。短いながらも一つの作品になっているということもあって、これが最も長い時間読まれた。丹波先生は一度頷いてから、簡単な感想を述べた。


「話としては突出したものは感じないが、筆致の優しさは軍を抜いているな。少女らしいというか、それよりももっと個別的な、戸田らしい柔らかな文体だった」


 百子はそれを素直に受け止めて喜ぶべきか迷ったが、丹波先生の瞳の奥の色を見てから、心の中で歓声を上げた。


「ところで、お前たちの目指すところは何だ?」

「僕たちは……、いえ、僕はある新人文学賞を目指しています」

「僕は、と言い換えたのは咲耶が自分の中だけでそう思っているということだな。他の二人はどうだ?」

「その話は初めて聞きましたけど、でもきっと目標があった方が良いはずだから、私も同じところを目指したいです」

「環は?」


 環はしばらく迷ってから、


「僕もそうします」


 と言った。


「じゃあ、三人は仲間でありライバルでもあるな。それにしても、お互いに良い競争相手を持てたんじゃないか。先生の若い頃はそういう相手がいなかったんだ。自分自身の内気だった性格のせいでもあるし、そもそも同じような目標を目指せるような友人もなかった。それでいつの間にか夢を諦め、どこをどう通ったのかは思い出せないくらいに、いつの間にか美術の教師になったんだ」


 百子は穏やかな波が押し寄せてくるところに立っていた。くるぶしの辺りを水が流れていったとき、ある感動のようなものが身の内に生まれていた。丹波先生の話したことは他愛のない昔話だったが、自分たちの書いてきた作品が昔の夢であったり感情であったりを思い起こさせることができたのだ。そしてそれが巡り巡って百子の心を揺さぶっている。そのことが今は無性に嬉しかった・

 百子はこのとき、真に小説というものと向き合う決心がついた。咲耶を想う気持ちが減じたわけではないが、それとはまた別次元の強い意志が、今は百子の心の中に強く吹いている。

 夢の蕾が、今、一つ生まれたのだ。






「私、小説を書いているの」


 百子が両親に向かって宣言したのは、その日の夜のことだった。

 食事と入浴を終えて、就寝までのささやかな時間を静かに過ごそうとしていたときに飛び出した、思わぬ言葉だった。父も母も百子の最近の生活に変化が見られることをもちろん知っていたけれども、その理由までは知らずにいたから、当然驚いたことだろう。しかし彼らの常として、その驚きを素直に驚きとして表そうとせず、まるで何もかもを知っているかのようにして百子を諭そうとするのだった。それが彼らの思い描く、理想の両親像であるかのように。


「百子、それは素晴らしいことだと思うわ。今まで部活もやってこなかったし、習い事もあまり身に付かなかったから。それでもあなたはもうすぐ三年生になろうとしているの。大切な時期よ。もちろん、小説で身を立てていこうと考えているわけでもないんでしょう?」

「お遊びのつもりなら、四月に三年生になるまでにしておきなさい」

「お遊びじゃないわ。それに私、小説で身を立てるつもりです」


 百子が母の言葉に反撥してそう言ったのは明らかだったので、両親はそこに深い考えがあるわけではないらしいことをよく見てとった。


「いいかい、お父さんはお前に幸せになってもらいたいと思っている。そのために何が必要だと思う? 良い大学を出て良い職に就いて、というのはもう古びた価値観だとお前は思うかもしれないが、今でもそれが一つの賢い選択であることに変わりはないんだ。それには良い高校に入ることももちろん大切だ。これからの一年間の過ごし方で、お前の将来が決まるんだよ」

「私、それを古びた価値観だなんて思わないし、それが賢い考え方だということも否定はしないわ。でもそれは、私にとっての最適解ではないと思う」

「百子、言葉遊びをしている場合じゃないの。勉強もしっかりしていくなら趣味は否定しないけれど、それでもあなたの性格だと器用にはできないかもしれないわ。だから、私は反対です」

「お父さんも反対だ。今はそんなことをしている時期じゃない」


 百子の中では言葉がぐるぐると旋回していて、何を突きつければ両親を説得できるかと考えていたのだが、たった一つあるかないかの正解を選び取ることは不可能のように思えた。それでも、冬休みの間に小説に打ち込んだときの楽しみや、丹波先生との話の中で得た喜びは、他を以て代え難い感情であったから、百子は一歩前に踏み出さなければならなかった。


「私、それでも書きます」

「百子……」


 百子の中に閃いたのは、ある考えだった。己の欲するものを抑えることのできるものは、その己以外にはないのではないかということだ。たとえ血を分けた肉親であっても、自分の本当の歓びを知るために前に進むのを阻むことは、あってはならないことだと思えた。

 最初は咲耶への想いが混然としていた百子の気持ちは、こうして次第に純化されていった。

 しかし、それも両親にはなかなか理解のできないところではあった。それでも、ある一対の瞳が百子の心を真正面から捉えていた。


「百子、よく言ったわ」


 その場にいた三人ともが、思いがけない闖入者の登場に驚いた。それは、百子の祖母だった。


「母さん、今は三人だけで話していたいんだ。邪魔をしないでくれないか」

「私も家族の一員ですよ。この議論の場に参加する資格はあります。百子、私は貴女の味方をするわ。好きなようにやりなさい」

「そんな無責任なことを……」

「無責任ではないわ。この子は、未来をしっかりと見据えて物を言っているのよ。私は老い先短い身ですから好き勝手なことを言いますけど、もし貴方たちがこの子の考えを認めないのだったら、いつかこの子の肉体に宿って復讐してみせるわ」


 両親は目を合わさて、お互いの戦意喪失を見てとった。父は純粋に呆れ返り、母には義母の強い言葉に反対できる力はなかったのだ。


「百子、それでも無条件に認めてもらうわけにはいかないわね」

「はい」

「よろしい。次の試験のときに貴方たちが認められるだけの結果を百子は出します。勉強と創作とを両立させれば、それで文句はありませんね?」

「……分かったよ」

「百子、頑張るのよ。上手くやってみせたなら、今度の春にご褒美をあげるわ」


 百子は瞳に涙を浮かべて頷いた。祖母が過ぎ去りし日の恋を思い出したのは、そこに純粋な感情の発露を見たせいなのかもしれなかった。

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