表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
彼岸の頃も色褪せて  作者: 雨宮吾子
God Only Knows (第二稿)
5/7

01

 潜水艦とは精子のようなものだと少年は思った。

 海深くを静かに航行して敵を探し求める姿は、まさに卵子を求めて進行する精子のようなものである。環はそう考えた。この場合、潜水艦は魚雷に置き換えてみても良さそうなものであるし、潜水艦が精子であったとするなら永遠に卵子とは巡り会えないわけである。環の思う卵子とは地球そのものであった。潜水艦と地球との邂逅は、即ち死を意味した。

 そんな環の観念に介入できる者はない。そもそも介入しようとする者すらなかった。貧弱な肉体に相応しく陶器のような白い肌の少年は、しばしば白昼夢を見る。それは自己の観念への没入だったが、環にしてみれば外界の事象との交わりであった。同じ年頃の少年たちは、その様を「宇宙との交信」と意地悪く呼んだ。しかしそこまでだった。彼らは遠巻きに環のことを貶しはするが、直接の危害を加えたりするようなことはなかった。その理由として様々な要因を列挙することはできるが、結局は不気味に思われていたのである。

 環を容姿端麗と見るのが同年代の少女たちの見解だった。環は勉強をさせれば人並み以上に出来たし、運動も難なくこなした。少女たちの注目の的となるに相応しかったのだが、自然とそうはならなかった。やはり、白昼夢のせいである。環が一度でも観念の世界に入り込んでしまうと、余程の痛みを与えでもしなければ戻ってこなかった。ある教師などは環が一応の学生生活を送れていることを不思議に思ったりもしたものだが、しかし彼とて環の成績の良さは認めざるを得なかった。

 環の「宇宙との交信」が始まったのはいつのことなのか。それを知る者は誰もいなかった。環の幼少時代に立ち会った知人たちは、少なくとも小学校に上がるまではごく平凡な子供だったと回想する。小学生のどこかの段階で環のそれは始まり、いつしか静かに駆動する問題となったのである。しかし、ここではその起源を問題にする必要はないだろう。環の見る白昼夢の壮大さを知れば、その起源を辿ることは我々人間がどこから来たのか、それを探るに等しい時間と労力のかかることが分かるだろうから。

 そもそも、もっと以前の段階に立ち戻ってみれば、環の性格というものを理解している者はなかった。十中八九、ぼんやりとしたところのある少年というのが関の山で、例えば勉強に対する姿勢から窺える傾向だとか、他人と接するときの様子から分かる感情の動きだとか、そういったものを説明できる人間がいないのである。ひょっとすると、環に語るべき性格があるということ自体を疑わしく思う者も存在するかもしれない。

 あるとき、環の白昼夢を読み取ろうとした国語の教師がいた。彼女は還暦を迎えようとしている謂わば百戦錬磨の兵で、ここ数十年間に様々な生徒たちと関わってきた。もちろん、複雑な問題を抱えている生徒たちとも。その彼女が、環に対して特別な宿題を課した。独白せよ、ただそれだけである。彼女は十枚程度の作文用紙を手渡し、そのうちの一枚だけが記入された状態で手元に戻ってきた。

 曰く、潜水艦とは精子のようなものだ、である。






 環は父と母をもたない。幼い頃に死別したのである。今は歳の離れた兄に養ってもらっているが、その兄は家庭を持っているため、環は一人きりの生活をしている。義理の姉がたまに様子を見に来るが、彼らが環の生活に触れることはほとんどなく、それはやはり環をどこか疎んじているためであった。そのために環は孤立した生活を送っている。それは単に一人きりで暮らしているという意味でもあるが、両親を失って古来より紡がれてきた血脈から切り離されてしまった者としての孤立でもある。故にここでは環の姓を語らない。環は環である。

 環は十四歳である。この年頃の伸び盛りな少年はそれに矛盾して内面に破壊的な衝動を抱くものだが、環はそのようなことから免れている。これは言うまでもなく例の白昼夢のおかげである。環の観念は遠い銀河の天体同士の衝突を描くことがあり、そのような壮大な世界からしてみれば、一個人としての衝動などはあまりに矮小なものであった。

 孤立、と先に述べた。それは孤独とは違う。孤独という言葉からはどこか虚しさや寂しさのようなものを感じさせられるが、環の生活は豊かである。先に述べた事情で内面的にもそうであり、経済的にもそうである。環の兄は彼を疎んじてはいるものの常識的な観念の持ち主であり、十四歳の少年には充分ともいえるだけの生活費を渡している。その多くは使われずに貯金として貯まっていったが、環は唯一食事には気を遣った。超然としているように見えるが、環とて人の子であるから、好きなものは好きなだけ食べた。それでも痩せ細っているのは運動というものをしないためであり、また肥え太らないのはそういう体質なのだろう。

 環はよく眠る。午後十時には眠って、朝六時に目を覚ます。同世代の子供に比べればずっとよく眠った。寝付きが良く、眠りの質も良い。一度眠れば朝までぐっすりと眠ることができた。朝起きるとまず窓を開けて新鮮な空気を取り入れる。そしてゆっくりと時間をかけて朝食をとり、学校へ向かう。こういった生活ができるのは、あるいは環の特異な生活環境のおかげであったかもしれない。家族と同居していたなら自分本位の生活リズムというものを整えるのは難しい。ただ、一人暮らしならばそれはそれで堕落しがちなものだが、環にはそのような兆候はなかった。やはり、環の生活は豊かである。

 精通を迎えたのはいつのことであったか、環はよく覚えていない。ともかく、環はそれを知っている。その手助けとなるものはやはり観念だった。見たことも触れたこともないものを思い描くというのは、不可能なことのようにも思えるが、我々は体験したことのないような事象を眠っているときに夢の中で体験することがある。それを思えば、環の神がかり的な観念の力を無視するとしても不可能なことではないのだ。環が好むのは外見の優れた女性である。他人というものと交流を持とうとしない環にしてみれば当然のことである。性格などというものは、環にとっては路傍の石も同然なのだった。

 そしてまた、環はこんなことを考えることもあった。性愛の対象が同性であってはならない謂れはないのではないか、と。






 しかし、直ちに性愛の対象が同性に向かうことはなかった。身の内に所与のものとして存在する心理が、それを阻んだのである。また、環の内にもある、一種の社会通念とでも呼ぶべきものも働いた。砂浜に描いた文字が波に流されていくようにして、常識に対する疑念はやがて忘れ去られていった。ただ、流されていった砂粒が消滅するわけではないのと同じように、その疑念は環の心中の奥底に沈殿しているままではあった。

 さて、そうした疑念から立ち戻って女性というものを思い描いたとき、環の女性に対する執着は以前よりも強まっていた。宗旨変えした者がそれまでに嫌っていたはずのものを強く希求し始めるのと似ているかもしれない。環の女性に対する執着は、正確には母というものに対する執着であった。記憶の定かでない頃に両親と死別した環にとっては生まれつき母がないのも同然であるから、それも当然と言えた。しかし、やはり環は尋常ではなかった。少なくとも環自身は母という概念に対する執着を、自分のことながら異様なものであると感じていた。それまでにそういった傾向がないわけではなかったが、意識して母というものを求めてこなかったから、環は自分自身の変化に驚かされた。そして、自分の観念の世界に母というものが存在しないことにもまた驚かされた。そこで環はある意味で得心がいった。父というものならば、自分も同性であるから観念の内に収めることも不可能ではない。だが、母というものは異性であるし、また異質な存在でもあるから、父のようにはいかないのである。それは遥か彼方の天体の衝突をも描き得る彼の観念にとっては、この上なく異常な事態であった。

 環は思案する。冷めた部屋の底で一人遊びを終え、透徹した頭で同年代の異性を思い描く。母という概念を付与するには誰も彼もが幼く感じられた。トイレに入りながら、食事をしながら、入浴をしながら、環はあれこれと思案した。そして、百子という少女に辿り着いた。それは思考の筋と平行する、直感の線を経て辿り着いたものである。過ぎ去ったある日の父母参観の際に見かけた百子の親族と思しき女性を、そのような遠くかけ離れた存在を想起したのだから、そう言っても大袈裟ではなかった。しかも、環と百子とは特別親しい間柄でもない。あえて接点を探すとするなら、同じ小学校に通っていたことと、現在同じクラスに在籍していることのみである。では、環は何故その百子の親族に無根拠な情を抱いたか。環はその日のことを思い浮かべた。

 あれは空に雲一つない晴天の日のことだった。大抵は羨ましがられるものだが環は窓際の席を割り当てられていて、そんな秋の日の青空を見上げながら退屈していた。雲が浮かんでさえいれば空想の材料となり得るのだが、この日はそういうわけにもいかなかった。試しに観念の世界に閉じこもろうとしても、昼食を終えたばかりのためか、軽い眠気に邪魔されて上手くいかない。そういうときのために常に持ち歩いている文庫本を開いたのだが、まるで六法全書でも読まされているかのような気分になって、これも集中できなかった。思えば、と環は回想する。このときの妙に落ち着かない気分は、一種の定めであったかもしれないと感じられた。

 ふと廊下の方へ目をやれば、静かに着飾った装いの保護者たちが行き交っていた。自分の身の上のことを嘆くような気持ちはなく、兄の方に今日のことを伝えていなかったなと思ったくらいであり、父母参観日の特別な雰囲気を素直に感じ取っていた。そうした騒がしたの中にあると、却って観念の世界に入り込みやすくなって、環はようやく自分らしい落ち着きを取り戻した。

 秋、といえば落ち葉である。堕ちていくものといえばサタンであるが、落ちていくものといえば菩提樹の葉である。環が思い起こしているのはジークフリートであった。不死身であるはずのジークフリートはどこかナポレオンと重なって、一人の人間の限界というものを思い知らされる。いかに膂力を蓄えようとも、いかなる権力を手に収めようとも、いずれは衰亡するのが人間である。であるとするなら、環はどう生きるべきか。その答えとして導き出されたのは、己の欲望に従うことであった。環は原子力潜水艦の乗員になりたかった。欲を言えば、その艦長に。そうして何をするかといえば、原子力という無限の、無限のエネルギーを抱きながら深海に沈んでいくのである。そして、永遠の眠りに就くのだ。ネモのように生きたいとまでは思わないが、それが環の夢とでも言うべきものであった。

 環が観念の世界から戻ってきたとき、既に教室の後ろは保護者たちで埋まっていた。授業が始まるまでには少し時間があったので、生徒たちはまだ席に着かずにあちこちで輪を作って喋ったりしていた。もちろん、環はそれらの島に寄る辺はなく、ただ一人浮遊していた。保護者たちは環に異常性を認めていて、環を哀れむよりも自分の子供と接していないことに安堵しているようでもあった。環はそういったことに敏感ではないものの鈍感でもなかったために、保護者たちを一瞬にして背景の中に溶け込ませてしまった。そうした害意を持っている相手を改宗させることの徒労を環は知っていたから。

 その背景となった山の中から、不意に一人の女性が歩み出てきた。既に還暦は迎えているらしいけれども、そこに老いの醜さを感じさせない柔和な顔付きの老婦人だった。それはおそらく、老いというもの以上に主張する何かがあるためで、環はそれを母性とみた。いや、正確には訳の分からない感情であり、後から考えてみて初めてそれが母性であることが分かった。いずれにせよ、老婦人はしっかりとした足取りで環に近付いてくる。教室中の視線が一瞬にして老婦人と、それからその進む先に座る環に注がれた。


「ちょっとお尋ねしたいのだけれど。戸田百子の席はこちらですか」


 そう言って老婦人は環の隣の席にそっと手を置いた。その指先のしなやかさに環は目を奪われ、


「あ、は、はい」


 とだけ答えた。その僅かに吃ったのを保護者たちは冷ややかに笑って見ていたのが、老婦人だけは違って、


「ありがとう」


 と言った。

 環は他人に礼を言われることが珍しいので、落ち着かない気分になって咄嗟に窓の方へ顔を背けた。ちょうどそのときに担任の教諭が教室に入ってきて、注意がそちらへ向けられたので環の失礼は水に流された。

 環が思索の中で百子という少女の存在に辿り着くのには、たったそれだけの出来事で事足りた。百子の祖母と思われるその女性を、環は求め始めたのである。






 環の空想癖は相変わらず続いている。百子の祖母という現実的な存在に目を向けたものの、その存在との隔たりが却って環を空想へと駆り立てる結果となった。日に日に弱まっていく日射しを浴びながら、老婦人と紅茶を片手に談笑する様。あるいは月を仰ぎながら夜道を散歩する様。しかし、そのいずれもがしっくりとこなかった。そうしたことをするのに母でなければならないわけではなかったし、母とどのように接するべきものなのかが分からなかったためでもある。対人関係がそのような、であるべき、という言葉で括るものではないことを環は理解していなかった。

 そうするうちに少しずつ季節は進んで、いつの間にか秋は姿を消していた。気付いたときには冬が幅を利かせていて、世界の動きは鈍重になった。

 環は季節を感じる感覚が弱く、その点でも世界から孤立していた。これはあるいは孤独と呼んで良いのかもしれない。四季というものの尊さを環は知らなかったのであるから。そうして色を変えながら季節が進んでいかなければ、きっと世界が停滞してしまうであろうことを知らなかったから。しかし、それはやはり孤立でもあるのかもしれない。環にとっての外的世界は内的世界より優先されるものではなかったから、そこに不幸な意味合いはないのだ。

 そんな環の認識とは関係なく、季節が進んで街の装いは一変した。師走である。人々が上着を重ねていくのに対して、財布の厚みは残酷なほどにすり減っていった。ある者は今年も無事に年を越せそうだと誰にともなく感謝をし、ある恋人たちは身を寄せ合って乾燥した冷たい空気から身を守った。そういう季節にあって、環の生活は恐ろしいほどに変化が少ない。入浴するときのお湯の熱さだとか、食卓に並ぶ野菜の種類だとか、そうしたものはたしかに変化した。けれども、環の気分には変化というものがほとんどなく、常日頃のように平静であった。

 そんな環の心を揺さぶる出来事が起こったのは、冬への傾斜が強まっていくある日のことだった。

 放課後、帰り支度をする環は、机の中に見覚えのない手紙が入っているのを見つけた。もし環がごく平凡な中学生であったなら、何かを期待しつつも悪いことをした子猫のように、こそこそと手紙を鞄の中に収めたかもしれない。その点、環は敏感ではなかったから、折りたたまれた手紙をその場で平然と開き、その内容を黙読した。内容は実に簡単なもので、


「16時に図書室で」


 とだけ記されていた。名前も記されていなければ用件も書かれていなかったから、あるいは無視をしても良かったかもしれない。しかし、環は邪推をせず、その反面で何の期待もないままに図書室の扉を開けた。図書室には数人の生徒がいたが、環を呼び出した人物はまだ来ていないようだった。まだ少し時間がある。環は新着の書籍を一通り眺めた後、この図書室のめぼしい本は大体読み終えていたから、窓の方に向けられた席に座って鞄の中から文庫本を取り出した。環は呼び出されたことを半分忘れて、いつもの空想に対するのと同じように没頭した。しばらくしてから、環は自分の向かい側にある人物が座っていることに気が付いた。いつからそこにいたのかは分からなかったが、それが環を呼び出した張本人であることは分かった。


「僕のことが分かるかい」


 と、その少年が言った。

 環の瞳が太陽を背にしているその少年を正確に捉えるのと、脳が記憶を引き出すのとで、少し時間がかかった。見覚えのある顔ではあった。ただ、名前は知らなかった。


「咲耶だ、よろしく」


 環のそうした態度に苛立ちも落ち込みもしていない様子でその少年は手を差し出した。環が仕方なしに握ったその手は、きめの細かい感触がした。

 一瞬の暗転があって、世界はすぐに再び動き出した。

 咲耶というのはいかにも少女らしい名前であったが、彼は歴とした少年だった。環もまたそのようなことを考えたが、大したことではないとして納得した。しかし、咲耶という名前が彼に授けられた本当の名であるかどうかは分からない。


「ここは静かすぎるな。どこか別の場所へ行こう」


 咲耶が立ち上がったので環もそれに倣った。図書室に呼び出しておきながらそんなことを言うのも奇妙ではあったが、環はそのようなことは気にもならず、黙って彼の後に続いた。咲耶は校舎から校庭へと下りていく階段に座って、環に隣へ座るように促した。校庭の西側では野球部の少年たちが練習をしていて、バットがボールの芯を貫く音や、お互いの気分を高めるために声を張り上げているのが聞こえた。東側のこちらの空は紫紺の内側から墨汁がじわじわと滲み出るように暗闇の度を増していて、冬至を前にしていよいよその寂寞とした様子が濃くなっていくのだった。その空の下、咲耶と環は言葉を交わすことなく野球部の練習を眺め続けている。

 元来、環は口数の少ない子供であったらしい。いつであったか、兄がそんなことを言ったのを環は覚えている。交流のない人間と同席するとき、凡そ沈黙を嫌って無駄な口数が増えたりするものであるが、環は世界というものに対する視野が狭く、そこに他人の座する余地は少ないため、言葉を交わさずとも平気だった。これは羨望されても良い特質であったかもしれない。得体の知れない相手と同じ時間を共有できるということは、他人に対する恐怖というものが存在しないか、ごく微弱であることを意味したから。しかしそれは、少年のうちにしか通用しない論理でもあった。少なくとも自分自身がそうした性質の人間であることを周囲に理解させるだけの言葉は必要だったが、そうした教育を施すような大人は残念ながら環の周囲にはなかった。


「環、君は本をよく読むみたいだね」


 しばらくして咲耶が言った。環はそれが正しいので頷いた。


「何が好きなんだ」


 環は迷った。今持っている文庫本の小説はあまり面白いとは思えなかったから、自分の口で好みを説明しなければならなかった。自分の好みを説明する、ただそれだけのことに途方もない労力が必要に思われたのだ。


「僕は、自分を受け止めてくれるようなものが好きだ。それはどこの誰が書いたものでも良い、むしろ遠い過去の遠い異国の人が書いたものが良い。僕がその精髄に触れんとして時間というものをかき分けていくとき、あるいは空間というものを手繰り寄せていくとき、そこに在るのは現実ではなくて観念だ。時間も空間もおよそ観念に過ぎないとしたなら、僕はそのときこそきっと立ち上がることができる。観念の上に築かれた暗黙の了解の中で生きていくのは、僕にはとても辛いことだ。だから僕は、今この瞬間にこの場所で生きていくことしかできない。僕がその遠い存在の著したものを認めるとき、それは観念上の了解を認めることにもなるけれど、それは同時に僕を認めてくれることにもなるはずだから」


 所々で吃りながら、また語り言葉としては堅苦しい単語を使ったりしながらも環が静かに語るのを、咲耶は黙って聴いていた。環の顔を見つめていては話しにくいだろうからと身体をそちらへ向けながら、視線は少し外してじっくりと聴いた。咲耶は良い聴き手だった。

 環が話し終わると、咲耶は口の中で何かを呟いてから、ゆっくりと口を開いた。


「君は優れた感性を持っているんだね。素晴らしいことだと思うよ」


 環の心の扉を叩く何かが、その言葉にはあった。それが咲耶の本心であるということが疑いようもなかったためだろう。環の吐いた白い息が一瞬の感情の発露となり、世界に溶けていった。


「君を見込んだのは正解だったな。一つ、君と取り引きしたいんだけど、どうだろう?」

「取り引き?」

「そう、取り引き。というのはだね――」


 咲耶の視線を追うようにして環は瞳を動かした。上級生と思わしき上背のある少年が、階段に足を踏み入れたところだった。彼は二人の姿を認めて少しばかり驚いたようだったが、すぐにその表情が弛緩した。


「咲耶、何やってんだ?」

「水島先輩じゃないですか。いや、ちょっと世間話をしてたんですよ」


 咲耶と、水島と呼ばれた少年とは知り合いであるらしかった。水島、という名前は環にも聞き覚えがある。それでも、何かの部活動で優秀な成績を収め、教師たちに好かれているらしいという程度のことでしかなかったが。


「そいつ、あれだろ。有名なウチュージンだろ」

「環は地球人ですよ。ってか、こんなところでどうしたんですか?」

「体育館の裏で運動しててさ、まあ運動っていうのも二人でやる運動なんだけど、それ終わって帰るところなんだよ」

「やだなあ、冗談キビしいっすよ」


 環はしばらく二人のやりとりを眺めていたが、特段意味のある会話とも思えなかった。ところが水島は突然身体の向きを変えると、環の身体を階段に押し倒して局部を掴んだ。急なことだったので環は抵抗できず、水島の血走った目が睨んでくるのを間近で見つめることしかできなかった。


「何やってるんですか先輩」


 咲耶のいささか上ずった声がした。少しずつ水島の握力が強まってくる。尋常でない痛みが走ったが、環は歯を食いしばって苦悶の声を発することなく、水島から視線を外さなかった。環の意地であった。

 不意に、水島が力を緩めて立ち上がった。環を見下ろす表情の冷たさは変わらなかったが、その瞳の色は少しばかり柔らかくなっていた。


「こいつにもアレ付いてんのかな、と思ってさ」

「冗談厳しいっすよ、先輩」

「悪かったな。咲耶、こいつは立派だぜ」


 じゃ、と言って水島は階段を上って行った。環は咲耶の差し出した手を掴んで立ち上がったが、今度はその肌の質感を云々する余裕はなかった。


「あの人、外面は良いけど実は暴力的で腹黒くて苦手なんだ。くだらない冗談も言うし、女でも男でも見境ないんじゃないかって話もあるしね。でも、自分の認めた人間は可愛がる、そういう人でもある」


 咲耶は弁明するようにそう言った。虐げられた側の環にしてみれば堪ったものではなかったが。


「環は認められたんだよ。といってもあの人のお墨付きなんて必要ないけれど、それでも僕の見込みの正しさが証明された気もする」


 咲耶は一呼吸置いて、こう言った。


「なあ、一緒に小説を書かないか?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ