其の一 桂介と智之
西暦2059年7月1日の昼下がり。真夏の匂いを引きつける暑さに梅雨のなごり蒸した暑さが混じる名古屋地方の空は活気無い単調な色合いに満ちた退屈で憂うつな空模様であった。
しかし、そんな空模様と蒸し暑さに包まれた空気などものともせず暑さを暑さとして満喫していた桂介と智之は今日も『集い処 きらめくあまた』で過ごしていた。
『集い処 きらめくあまた』は愛知県名古屋市の東に隣接する長久手市は長久手古戦場駅近くにある古びた倉庫を改造した店舗である。ここには平日休日問わず老若男女、数多の人々が出入りしている。時には子供たちが小遣い片手に賑わい、時には老人方が寄り合い喋り戯れれば、若者たちが音量最大限にバンドサウンドを響かせ、まばゆい光のシャワーを浴びて叫んでいることもあるかと思えば、暗転した静寂の空間に一筋の明かりを灯らせ演技を興ずる者たちがいる。と、多種多様な人々が集まる場所。それが『集い処 きらめくあまた』である。
桂介は「やっぱ夏はコレだな」と独り言のように言って苺シロップのかかったかき氷に夢中になってスプーンを入れている。そしてその桂介の言葉に呼応し「やっぱそうだな」と智之もまた夢中になって抹茶色の氷を味わっている。
「ううーっ、キターッ!」
桂介は陽気に顔をしかめ体全体をじたばたさせながら頭痛を楽しんでいると智之はその姿をいつものように指差して笑い自分もかき氷の冷たさを堪能していた。そしてかき氷が氷水の様になって崩れてきた頃、桂介はスプーンで氷をすすりながらまた独り言のように言葉を発した。
「智之。ちょっと頼まれて欲しいんだけど」
「おお、ええよ。何よ?」と智之は快活な声をあげ正面にいる桂介を見た。すると桂介はその智之とは対照的に淡々とした口調で智之を見ること無く言った。
「今度の舞台、話全部変えるからみんなに伝えといて」
この桂介のあっさり放った言葉は二人の空間にほんの少しの間を作った。桂介のただ氷をすする音しか聞こえないような硬直した間。
言葉失くし驚きに満ちた顔で桂介を見つめる智之――
智之などいない者のように氷に夢中の桂介――
その間を壊したのは耳を突き刺すような智之の裏返し声の叫びだった。
「はぁぁぁっ?!」
智之の快活さに勢いを増した声量の叫びに店主、彩乃は70歳という年齢を感じさせない切れと張りのある声で言った。
「こらっ、ともちゃん! 今はお芝居の時間じゃないでしょ! お客さんがびっくりするじゃない!」
言葉とはかけ離れた気品をも感じる深く皺の入った笑顔で彩乃は智之たちにひと声上げると彩乃の目の前、鉄板テーブルを挟んで座っていた30歳前後の男女二人組に向かって「ねぇ」とにこやかに声をかけた。するとその二人組は振り向き智之たちを見て優しく笑った。
智之は彩乃に対し振り向くことなく「はーい、彩乃さん」と気の無い言葉だけの返事をすると勢い止めず桂介へと迫った。
「おまえ、今日、火曜日だぞ! 金曜日までに何ができるって言うんだよっ!」
突き刺す智之の視線などものともせず今もなお氷を味わって口にしている桂介。呆れた智之は深い溜め息の後、諭すように桂介へ言った。
「仮にな、別の本がすでにあったとしてもだ。誰がハイそうですかと言うんだ? みんな時間ギリギリの中、今まで稽古やってきたわけだ。全部チャラにしてゼロからってどうなん? 24時間フル稼働でやるってか?」
「まぁそうだわな。俺も嫌だ」
他人事そのものの口調で応える桂介に対して智之は大げさに体を仰け反らしたかと思うと即座にテーブルへ両手を叩きつけ項垂れた。そして再び深い溜め息ひとつ出すと一呼吸置いて桂介へと言った。
「オマエ、ナニ余裕ぶっこいてんだ? 意味わかんねぇこと急に言いやがって。その態度、信じられねぇわ。で、理由は? お前がこんなつまらん冗談言う人間じゃねぇ事くらい分かってるぜ、桂介」
「つまらねぇか? 俺は面白いと思ったけどなぁ」
相変わらず桂介は智之と対照的な淡々とした口調で首を傾げて言うとそのまま皿を片手で持ち上げ溶けた氷を体へ流し込んだ。そして智之を構う事無しに「キーンと来たよ、これ。おお来た来た」と言って微笑んでいる。その桂介の独り身勝手な姿にあからさまの呆れ顔を作る智之。そして止まない溜め息。
「ああ、やっぱ氷は“あまた”が一番うっめぇーわ。彩乃さん、ごちそうさま!」
桂介はそう言って立ち上がった。
「おい、桂介! で、さっきの話は冗談なんかて! おい、黙って行くなって!」
桂介の言った事に本気で腹を立てていた智之は声を荒げて立ち上がり桂介の腕を掴み睨んだ。
「おお、ごめん。今日は立て替えといて。悪ぃ」
「いや、そうじゃなくて話変える理由言えよ。俺が皆に伝えといてやるからよ。理由がなくちゃそんなことみんなに俺だって言える分けねぇよ。で、今回は延期にしようぜ。無理にやるこたねぇよ。お客さんにまともなもの見せられなくちゃ申し訳ないだろ。オマエがいつも言ってる事じゃねぇかよ。銭取ってる分楽しんでもらわなくちゃダメだ。何かを持って帰ってもらわなくちゃダメだってよぉ」
智之は本気で怒りを感じながらも桂介が芸には妥協しない、そのためには無理無茶言う奴だと言うことは十分理解していた。だからこそ桂介の言動に嘘、言い換えれば裏があると思えて仕方なかった。
十代の頃から一緒に回してきた仲間。いや、親友と言える域まで達しているだろう二人の関係。例えるなら夫婦関係のような関係。時代錯誤な表現承知で言うと妻として家計のやりくりと子供たち(団員)を世話してきたのが智之で、一家の主人、大黒柱として家庭の責任を背負って立ってきたのが桂介である。
そんな二人の関係がまほろば一座を築き上げ今の存在感あるものとしてきた。その土台がある桂介が演劇に対してこんな軽率な行動をとる男じゃないことは智之自身重々承知している。故に今の自分の感情、吹き出した怒りと憤りを押さえ込む思考、これは桂介の意図ある行動だということを智之は信じたがっていた。
ではここで桂介は智之のこの心情というもの察して理解していたか?
桂介本人は智之の懐深さは分かっていたし、そこへ甘えられる、それができるからこそ自分の表現手法の正当化ができ、劇団を回して来られたと無意識下で理解していた。だから今回のような行動として表れたと言える。そして、こうした形で一見捻くれたような、遠回しの態度を見せるのは裸の自分自身をさらけ出してしまうことへの僅かな羞恥心の存在であり、桂介が智之を信頼していることの証、裏返し愛情表現とも言える。
これが座長・桂介と副座長・智之の関係なのである。