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一章 第一節 

 その日、クララ・アンセリシアは急いでいた。どのぐらい急いでいたかというと、それはもうすっごく急いでいた。


 なぜなら今日はいつものように学校に行こうと支度をしているとき、親戚のよしみで下宿先を提供してもらっているおじさんに、


「今日は久々に普段やらねぇところの掃除をやるつもりだから、悪りぃけどできるだけ早く帰ってきてくれ」


 と言われていたからだ。それなのに今日という日は散々だった。


 ――何故だかやたら長引いた授業。さらに帰ろうとした自分を呼び止め別に今日でなくてもいいような頼みを今日中にと自分に押し付けた教師。そして今日もわざわざ遅くなった自分を待ち伏せしてまでグチグチと絡みに来た馬鹿な貴族のガキどもに邪魔された結果、彼女が学園を出たころには既に太陽は大きく降りはじめていた。


「も~、一体何だって言うのよ~!」


 そうぼやきながら走るクララの耳にアルモニカの街に時を告げる鐘鳴る音が三つ聞こえた。もう三時かと焦る気持ちを抑えつつ彼女はアルモニカの街を、茜色のおさげを振り乱しながら全速全開でひた走る。


 彼女はこの迷宮都市『アルモニカ』で冒険者たち相手に宿を開くあの遠縁の叔父に心から感謝していた。彼がいなければ、自分はこの街で寝床すら確保できなかったかもしれないし、冒険者養成のための学園のあるこの街に来ること、ひいては冒険者になろうとすること自体ができなかっただろう。


 彼女、クララ・アンセリシア、正式名クララ・アンセリシア・リセラ・オリウォールは貴族の娘だ。ただ正室の娘ではなく、妾の子。しかも元々は現当主である父が、屋敷の使用人であった彼女の母に手をつけて生ませた子供だった。幸い正室である奥方様は大変聡明であり、なおかつ自分の夫がいかに色々とだらしないかをよく理解していたのと、元々彼女が家付きの娘であり、さらに母と奥方様はいまだ年若き娘時代からの身分を超えたお友達であったがため、追い出されることもなく、それどころか妾腹とはいえ家名を許され、さらには衆目に大きく晒される事こそなかったが、ちゃんと貴族の娘として育てられた。


 ただ、


「少しでも何かが違っていれば、貴方は私と一緒に生まれる前に死んでいてもおかしくなかったのよ。そんな例はこの国中に転がっているのですから。だから、クララ。あなたは奥方様に感謝して生きていかねばならないのです」

 

 と賢明で万事控えめな母に言われて続けて育ったクララは、そのまままっすぐに自分の母と、そして奥方様を大変尊敬して育ったのである。


 そんな彼女が八歳の時、どうしようもなくだらしのない彼女の父は再び失敗を犯した。どうやらどこかの無責任な輩にあおりたてられた結果、奥方に黙って無計画な領地の開拓を進めたために多くの資産を失ってしまい、オリウォール子爵家の家計はあっという間に火の車となった。その時敢然と立ち上がったのもやはり奥方様。自らの両親から残された領地と家のため三面六臂の大活躍で、いまだ日々苦しくはあったがオリウォール子爵家を立て直してみせたのである。


 そして物事が何となく分かりはじめる歳になっていたクララは、その様子を見て育ち、そしてこう考えた。


 こんなにお偉いのに毎日がんばって働く奥方様や、それを支えるお母さんのために私にも何かできることはないのかしら? と。


 そうして必死で考えつづけた結果、クララは冒険者になることにした。理由は簡単だ。何故ならこの世界において一攫千金を狙うのなら、これ以上の仕事はなかった。母親からその夕日のような茜色の髪も、美しいというよりも愛らしいと表現するのがピッタリである容姿も、そして人間としての賢明さもしっかり受け継いでいた彼女は、幼いながらもそのことをちゃんと断片的にもたらされた情報を賢くも整理して、その事実を知っていたのだ。


 少なくともそれならば私一人分のお金は『セツヤク』できるはずだし、上手くいけばすっごいお金持ちになって奥方様やお母さんを楽にしてあげられる! そう考えた彼女が家を飛び出す計画を立てていることを知った使用人達の大慌ての注進により、オリウォール子爵家は再び大騒ぎになった。


 それからが大変だった。とにかく危ないからと反対する父と、この時ばかりは同意見だ、貴方は私の娘でもあるのですからと言ってくれた奥方様。そして腹違いの、そして父の血がうまい具合に混ざらなかったのだろう、奥方様によく似た出来のいい弟と実の母。おまけに屋敷の使用人たち全員からも異口同音に、やめろ、危ない、と言われたのだが、それでも彼女は意志を曲げなかった。


 何故なら使用人たちへの給料も削っているような状況で、クララはみんなの重荷になりたくなかったし、むしろ自分が母や奥方様の助けにこそなりたかったのである。そして「女とは働かなくてはいけない」と、たくましく賢い女性二人の背を見て育った彼女の決心はダイヤモンドよりも堅かった。


 三日三晩続いたオリウォール子爵家の歴史に残るだろう大論戦は、ついにクララの粘り勝利に終わりクララが十二歳になったころ、クララ・アンセリシア・リセラ・オリウォールは身分を隠し、家を出た。クララ・アンセリシアとしてアルモニカにある冒険者育成の為の学校に通うため、母親の遠縁にあたり、この街で冒険者の為の宿を営む親戚に預けられたのだ。しつこく泣いてすがるだけの父を蹴り飛ばしてアルモニカに来たクララ。そんな彼女にとって、親元を離れて同年代の少年少女と毎日一緒に学び、遊び、時にはけんかをするような生活は何もかも初めてのことであり、新鮮だった。


 宿での生活もそうだ。朝日が上がるころに起きておじの宿の様々なお手伝いをする。元々実の母から徹底的に普通の貴族の令嬢ならば決して習わないようなこと、つまり炊事、洗濯、掃除その他もろもろの技術こそ完璧にしこまれてこそいたが、彼女の実家においてその技術が生かされることはなかった。当然だ、オリウォール家に仕える使用人たちは自分たちが仕えるご令嬢に下働きをするのを見て、それを止めずにいられるほど神経が図太くはなかったのだから。


 しかしこの街に来てからはどうだ? 厨房の中での食事などした事はなかったし、水掃除をがんばると冬が赤切れするなんて思いもよらなかった。そんな日々積み重ねられる生活や宿の手伝いの中で、彼女の家事全般に対する能力はどんどんと磨かれていき、そして彼女は自分が確実に誰かの役に立っている事に快感を覚えていた。


 つまり、である。魂レベルで貧乏性かつ世話好きだった彼女にとって、今の生活は何事も窮屈な貴族令嬢とは比べ物にならないほど楽しかったのである。


 そんな水を得た魚のように活き活きとしていく彼女にとって、自分を特別扱いせずにただの親戚からの預かりものとして扱ってくれ、それでいてぶっきらぼうに見えるが実際には非常に細やかに見守ってくれているおじさんのことが彼女は大好きだった。


(見た目は歩く樽みたいだけどね)


 そうやっておじさんの姿を思い出すとおかしくて小さく笑ってしまった。笑うと深い海のような青い大きな瞳がいたずらっぽく輝き、それが十五歳になったばかりの彼女にはひどく似あった。市場の人々もみんな彼女が行くと必ずおまけをしてくれる。誰もが振り返るような美貌ではないが、誰もが無視できないなんとも言えない愛嬌が彼女にはあったからだ。


 そんなクララの全速力はいつもよりも随分と時間を短縮することに成功し、本来の予定から遅れることおよそ二時間、ようやく彼女は街の西門の側にある冒険者の宿『竜の寝床』へと帰りついた。


 乱れた息を整え、大きく息を吸い込み店に入る。


「ただいま! おじさんゴメン、遅くなっちゃって。すぐ掃除手伝うから……」


 と一息で謝罪の言葉を言い切ろうとしたクララは、ほぼ言いきったところでおかしなことに気づいた。まず店を掃除をしていた形跡がない。店の中のものはいつも通りで、自分が今朝見た景色と変わっていない。大掃除をするのであれば少なくても入り口すぐにあるこの大きなテーブルに椅子が載っていないとおかしいのに、である。


 次にその椅子にはおじさんとは別にもう一人見たこともないほど大柄な男の人が座っていた。クララはその男に思わず目が吸い寄せられた。いや、違う。その巌のような男からは場に存在する全てのものの視線を引き寄せるような引力が放たれていたというべきだろう。髪は黒い。でも生え際に幾分白いものが混じっているだろうか? 顔に刻まれた皺は深く、男の人生の波乱万丈さを表しているようである。何より目がすごい。その真っ黒な目は笑っているのに、どうしようもないほど強烈な光りを放っていて、まるで自分がか弱いうさぎにでもなって山より大きな猛獣の前にいる。そんなことをクララに一瞬で感じさせる目をしていた。


 この今すぐ回れ右して駆け出したくなる気持ちになる男性はもしかしてお客さんだろうか? という無意識に近い思いが脳裏をよぎり、身についた看板娘としての根性が「あの……」という声を絞り出したその時、いきなり胸を、十五歳らしく発展途上であるそのなだらかなふくらみを、『何か』につかまれた。


 そしてそのまま二、三度もまれた。


「……え?」


 声だけ残して頭は真っ白になる。無理もない話である。人間はいきなり予想もしていない出来事に出くわすとそうなって当然である。急いで家に帰ってきたら、はじめて見る異常な存在感のお客らしき人がいて、それに声をかけようとしたら正体不明の何かにいきなり乙女の大事な胸をもまれるなど誰も考えながら生きてなどいないのだから。


(え? 何? 何で私いきなりおっぱいもまれてるわけ? ていうかあのおっきな人がもんでる? いやいや、あの人腕組んでるから無理だよね? じゃあこの手は誰? 一体何?)


 そうパニック状態の彼女の耳に、彼女の胸くらいの場所から声が聞こえた。底抜けに明るくて、どこまでもノー天気な声が店中に響く。


「ジジイ! こいつ、おっぱいついてる! 女だぞ! ジジイ、すげぇぞ!」


 そう言って笑顔でクララを見上げているのは、ちょうど自分の胸のあたりに顔のある自分よりもかなり背の低い黒い髪の男の子。目の前の大男と同じ似た黒いぼさぼさの髪の毛の少年で、あどけない顔立ちにきらきらとした大きくて黒い目が輝いていた。


 クララにはその目が、素直で、純粋で、そしてどうしようもなく――お馬鹿な顔に見えた。


 ――その次の瞬間。


「いきなり何してくれちゃってんのよ、このクソガキィィィィィィ!!」


 電光石火の速さでクララのげん骨が少年の頭を急転直下で打ち下ろした。そして何とも表現しがたい鈍い音の後、


「痛ってえぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」


 という少年の絶叫が、昼下がりのアルモニカの街に響き渡ったのであった。


ご意見、ご感想、誤字脱字の指摘など幅広くお待ちしております。


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