プロローグ
――群がるように迫り来る闇を黒が切り裂いていく。
トマスにはその光景がそうとしか認識できなかった。切り裂かれるのは闇。切り裂くのは黒。
よく見ればその闇は、数えきれないほど無数の生き物たちが集まったものだった。それも決して自然には生まれないであろう歪な何か。その何かは他の生き物全てに絶対の嫌悪との恐怖を与える存在、『魔物』。
さらに目を凝らしてみれば、どいつもこいつも知識としては知っていたものばかり。迷宮の深層のみに巣くうそいつらは、一匹一匹が熟練の騎士数名が命を捨ててようやく討ち取れるかどうかだと、自分に教えてくれた先輩冒険者が言っていた。死にたくなければ近づくなとも。
トムスはその言葉に今深く頷いていた。一目見れば分かる。あれは人間に勝てるもんじゃない、あんなもんどうすりゃいいんだと。
しかし、そんな規格外のはずの化け物どもは今いったい何をしているのだろうか? 闇としか表現できないほどの数なのに、なすすべなく黒によって切り取られ続けている。それも何でもない事のように軽々と。
トムスは自分の見ているものが信じられなかった。
黒は時に揺らめき、炎のようになり闇を喰らい尽くしていく。
やがてどれ程時間が経っただろうか。一時間? 一日? 一年? 感覚が時間を飛び越えた頃、無限とも思えた闇はまばらになり、そして消えていった。
残ったのは剣の形をした黒と、それを手にした人間の形をした黒だけ。
トムスにはその二つの黒の姿を呆然と見つめることしかできなかった。
――――――――
世に冒険者という生業が存在する。
七と一の神が作り上げたこの美しくも危険に満ち溢れた世界を、自分たちの力だけで渡る命知らずたちにつけられる別称だ。
「乾杯~!」
「ぎゃはははは! ちょっと、てめぇ! いきなりこぼしてんじゃねぇよ! 酒がもったいないだろうが!」
「アリアちゃ~ん、今日こそいい返事聞かせてよ~。一回だけ、一回だけでいいから!」
「親父さん、おかわり~」
今日もそんな彼らでごった返す冒険者ご用達の酒場では、朝が来るまで終わる事のない大騒ぎが繰り広げられていた。こんな大騒ぎもこのアルモニカの街では別に珍しいことではないどころか、ほぼ毎晩のようにこんな乱痴気騒ぎが街の酒場のどこかで夜通し続くのが通例である。
冒険者という仕事ほど命の軽い仕事はない。
そんな死と隣り合わせという言葉が笑えるほど身近に存在する彼らにとって、こうした酒場での大騒ぎというのは自分とそして仲間の生還を祝う儀式であり、むき出しの神経を石臼にかけられるような緊張を強いられることですり減らした、人として大事な何かを取り戻すための祭りなのだろう。
今日もそうして命からがら生き延びた命知らずたちが冒険の話を肴にして、酒と笑いと小さな喧嘩に明け暮れる。この上もなく騒がしいが、その場に集った誰もそれを不快だと思うものはいなかった。
そこには何者にも換えがたい熱があった。例え自分たちのこの姿を見て、お上品などこかの誰かが眉をひそめようともそんなものは関係ない。大事なのは見てくれじゃない、この熱こそが俺たちが生きている証であると。
そうして今日も迷宮都市アルモニカにある酒場『朝寝鳥』は大盛況だった。
そんな中、酒場の一番奥にある席に一人の男の姿がある。大きな男だ。全身黒一色で統一された装備に隠れているが、その上からでも分かる極限まで引き締められた戦士の体をしている。その壮年の男はただ座って酒を飲んでいるだけ。だがその姿が与える印象は本来人間から感じるものではなく、深い森の奥に君臨する獣の王を思わせる。
それを裏付けるように大声で騒ぎ続ける他の客たちも、決して彼がいる店の奥にだけは近づこうとしなかった。まるでそこが侵してはいけない聖域であるかのように。この店に集う冒険者たちは知っているのだ。この男が何者で、そこが誰の場所なのかを。故に心からの敬意と畏怖が彼らに自然とそれを選ばせた。そうせざるを得ないものが彼の名と実績、そしてその姿にはあったのだ。
そんな男の顔はその日、晴れなかった。
男は自分の仕事に満足していた。誇りを持っていたと言い換えてもいい。日々繰り返される異形との戦い。自らの全てを託すに足る相棒。その剣先に相手の命と自分のそれをのせて自分の全てを賭ける。そしてその賭けに勝った後、いつもこうしてここで酒を飲むことだけが、男にとって大事なことだった。
――『剣と酒だけあればいい』。そう昔の仲間たちに言い放って呆れ顔で見られたこともある。だが本当にそれだけでよかったのだ。それだけで男は、幸せだった。
だがその日は違った。いつものようにいつもと同じ酒。その酒が何とも言えず苦かった。無色透明なグラスの中でうつろう琥珀色の酒を見つめる。そのグラスは庶民の収入一年分と対して変わらないほど高価なものだったが、その程度の金額は男にとってはたいした金ではなかった。しかしその馬鹿らしくなるほど莫大な富を文字通りその手でもぎ取った男の暮らしは質素そのものであり、そういう点から見ればそのグラスは男にとって掛け値なしの贅沢であった。
自身が選んだ愛する酒を、少しでも美味く飲むための数少ない贅沢。
それは決してこんな苦い酒を飲むためではなかったはずなのに。
テーブルの奥に向かって、ついとグラスを押し出す。あれほど愛したものが今日は厭わしく思えたからだ。
こんな最低の気分は久しぶりだ、と男は思う。そしてその理由も分かっていた。
今日もいつもとまるで変わらない最低で最高な戦闘の中で、今まで自分の全てをかけて振るい、そして今まで自分を決して裏切らなかった剣の切っ先が、わずかに、ほんのわずかに乱れた。
ただそれだけ。だがそのことが酒を苦くし、自分をこんな気分にさせている。
「……これが老いってやつなのかね」
自然と声がこぼれた。もちろんその程度のわずかな衰えなど誰も気づきはしない。それほど彼の実力は他の冒険者たちとはかけ離れていたし、そしてもしそれが周囲に分かるほどになったとしても、彼の実力は大陸に数えるほどしかいない『二つ名』持ちの冒険者としてなんの不足もないだろう。
だが今日の事は、例えそうであっても男にとっては充分であった。自分が『衰えた』と、そう実感するには。
そうして今度は口元に笑みを浮かべた。それはいつもの獰猛な笑みではなく、今までほとんど誰も見たことがない自嘲の笑み。
もう一度グラスの中の琥珀を眺めながら考える。
自分はずっとどこかで戦って戦って戦い抜いた後に、誰にも見取られることなく死んでいくものだと思っていた。そうしよう、そうなるだろうと、それこそが自らの人生の幕引きにふさわしいと、そう考え、今まで迷うことも、いやその未来を疑うことすらなかった。
だが実際に蓋を開けてみればどうだ? ほんの少し剣筋が自分の理想とずれた。たったそれだけでこれほど動揺している自分。
思わず笑いがこぼれた。自分はこれほど弱かったのかと。自分の弱さは遠い昔、あの時に置いてきたはずなのにと。
頭を振って席から立ち上がる。こんな気分ではいくら飲んでも酔えそうにない。そう思った男は、誰よりも酒を愛するが故に飲むのをやめそのまま一緒に考えることも放棄して、
「親父さん、金はそこにおいていくぜ」
ともう何十年来の付き合いになる赤ら顔の老店主に言い残して店を後にした。手にしていたのは見上げるような長身の男と同じほどの長さを誇る幅広のグレートソード。全て黒で統一された拵えと鞘を持つその剣には、見るものの目を引き付け、そして同時に背けさせる何とも言えない何かがあった。
――まさに『魔剣』と呼ぶにふさわしい何かが。
そんな剣を何事もないように軽々と背負って、男はそのまま自らのねぐらへと歩きなれた道を行く。その道行きは青。男の心とは正反対に冴え渡った月光の白が夜の黒と調和し、彼の視線の先の町並みは青く、そして美しく見えた。
……きれい、ねぇ。んなことを思う心が俺にもあったってことか。けっ、ガラじゃねぇなぁ。心から男はそう思った。
だがそのことが心にかかっていた靄を少しだけ払ったのだろう、先程までよりも少し心が軽くなるのを感じた。
男は思う。今日は本当に妙な日だ。切っ先はずれる、酒が美味く飲めない、夜道なんぞに目を奪われる、そしてあいつらのことを思い出す……。そうして浮かんだのは昔に同じ栄光と挫折を共にしたやつらの顔。特に水臭くも逝ってしまった最も古くからの相棒の顔だった。
「……おい、相棒。聞こえるかよ? 俺ももうすぐそっちに行くかも知れねぇぜ? 土産話が山ほどある。せいぜい美味い酒を用意して待っとけ」
月を仰いでそう見えない誰かに声をかけ、
「……まったくガラじゃねぇなぁ」
と呟く。ふっと小さく息を出し、さらにそういえばアイツは飲めないんだったなともつけ加える。その声には暖かいような、潤ったような、何とも言えない響きがあった。
そうして数分歩いただろうか? ねぐらである宿の近くにある教会。その階段の下にふとおかしなものが転がっているのを見つけた。
かごである。
そこには女たちの日々の買い物で重宝しそうなかごがぽつんと置かれていたのだ。不審に思った男はかごを覗き込んでみて、半ば驚き、そして半ば納得した。
そこには小さな赤ん坊がいた。何も知らずにすやすやと眠る赤ん坊。それはかごの中でボロ布にくるまれただけの小さな小さな赤ん坊だった。
「……捨て子か」
自然と声が漏れた。
こうして捨てられる子供は決して少なくない。その証拠に、その子を今見つめている男自身がその昔、捨て子であった。
俺もこんな風に捨てられてたのかねぇ? そう思うと、今ではほとんど思い出すこともなくなった育ての親の顔を思い出した。ただでさえ傷だらけでおっかない顔なのに、寡黙で厳しかった父。おおらかで明るくて派手好きで、彼女がただいるだけで賑やかだった母。
そんな傭兵をしていた両親にたまたま拾われ、父が死に、母に連れられ街に出て、やがて母が死に、食うために冒険者になり、そして今に至る。
他人がいくら褒めてくれようと、自分の人生など所詮その程度のものであると男は思っていた。偉いのは拾って育ててくれた父母であり、褒められるべきは彼らだと。俺はただ好き勝手に剣を振るっていただけ。そうしてその夜もう何度目か知れない笑みが男の口元に浮かぶ。
そのまま何も考えず、無意識に、男の手が赤ん坊へと伸びた。
「……やわらかい。それにあったけぇな、おい」
それは男にとって新鮮な驚き。その驚きは一粒の水滴になり、男の心に波紋を浮かべた。
「……信じられねぇよな。コレが俺みたいになるっつうんだろ? いやはや、世界や迷宮の謎なんかよりもこっちのほうがよっぽど謎だぜ」
おかしな夜である。剣は揺らぎ、酒はまずく、月がきれいで、懐かしい奴らの事を思い出していたら、自分と同じ捨て子を見つけてしまった。こんな夜は初めてだ。
そんな考えは赤ん坊の思いもよらぬ行動で突然に途切れた。いつの間にか目を覚ましていた赤ん坊が、何も言わずに男の手をさわっていたのだ。
「うぉっ!」
驚いて、伸ばしていた手を引っ込める。迷宮の深層で魔物の大軍に出くわしたとしても、嬉々として戦いを挑む男がこの時ばかりはちょっと覚えがないほどに驚いた。
そして今度は恐る恐る今度は手ではなく、指をのばしてみた。その指は無骨で荒々しかったが、同時に強くて暖かいものだった。
赤ん坊はその指をすっと掴んだ。いや、実際には太すぎる男の指を赤ん坊の手で掴めるわけがない。ただ掴まれた側の男が、強烈に『掴まれた』と思ったのだ。
そうしてわけもなく悟る。
切っ先はずれやがる、酒が美味く飲めない、夜道なんぞに目を奪われる、あいつらのツラァを急に思い出す……、おまけに親父とお袋まで出てきやがるなんて、どういうことかと思っていたが、ここに至ってようやくこういうことかと納得した。道理で今夜はおかしな事ばかり起こる訳だと。
「なるほど、こういうことかい。どの神さんかは知らねぇがまったく無茶をいうもんだぜ」
そう七と一の神々に文句めいたものを呟いてまた小さく笑い、そのたくましい腕に赤ん坊を抱える男。その顔をのぞきこむと、赤ん坊はまたすやすやと眠っていた。
――そしてそれから数日後、アルモニカの街から静かに、最後の『アルモニカ大迷宮』攻略者が姿を消した。その二つ名の由来である黒い剣と、そして小さな赤ん坊と共に。
それから十と二年。物語は、再び迷宮都市アルモニカにて幕を開ける。
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