飼い犬に噛まれる
「何?」
私は手を上げたまま有斗を睨んだ。
『触らぬ神に祟りなし』でも、向こうから挑んできた場合は仕方ないよね。
だって、朝っぱらからため息吐かれる理由なんてないもん。
有斗は切れ長の目を更に細めて、私を見つめている。
その眼差しは変わらず氷のように冷たい。けれど、いつもの有斗じゃないみたいで思わず目を逸らした。
すると、少し笑いを含んだ有斗の声が聞こえた。
「衣里、無防備すぎ。」
「は?」
予想外の言葉に思わず間抜けな返事をする私。
口を開けたまま、訳がわからないという眼差しで有斗を見ると、唇を片方だけ上げて有斗は微笑んでいた。
いつもの、あの笑顔だ。
ってことは、もう機嫌治ったのかな。
そんな事を考えていると、有斗は冷たい笑顔のまま、更に言葉を続けた。
「腹見えてるけど。」
「へ?」
腕を上げたまま俯くと、部屋着の裾が上がって、おへそ丸出しになっている。
一気に顔が熱くなるのを感じて、ぐいっと裾を引っ張った。
「もう、もっと早く言ってよ!」
私は膝を曲げて体育座りをすると、マグカップを掴んで紅茶を一口飲んだ。
紅茶はまだ少し熱かったけれど、燃えるような顔の火照りよりはマシだ。
マグカップをテーブルに置いて両手を頬に当てると思ったとおり熱い。おかげで真っ赤になっている自分が簡単に想像できた。
「だって、言ったら見れなくなるじゃん。」
はい?さらりと言ったけど、何ですって?
そう思った瞬間、有斗の顔が目の前に現れた。
もう、あのいつもの笑顔は無く真顔の有斗。
「・・・どしたの?」
何が何だかわからなくて、目の前の有斗に尋ねる。
それなのに有斗は真顔のままで、私の手の上から火照ったままの頬に触れた。
更に熱を増す頬とそれが伝わったかのように熱くなる指先。
「いい加減にしろよ。」
息がかかりそうなくらい近くで、まっすぐ私の目を見つめる有斗。
おかげで胸は苦しいし、頬は熱いし、指の先まで脈打っていて、体全体が心臓になったみたい。
それなのに、そんな私にはお構いなしで、有斗は私の手をぎゅっと握った。
「なに、が?何もしてない、し・・・」
急な展開についていけず、頭が上手く働かない。
何だったっけ?
お腹出して、ため息吐かれて、いい加減にしろって・・・?
「だからだよ。」
有斗はそう言って、私の両手を頬から剥がすとベッドの上に押さえつけた。
おろおろする私を見つめたまま、ゆっくりと近づいてくる有斗の整った顔。
えぇっと・・・
そんなに近づくとキスしちゃうんじゃ?
あまりの近さに思わず顔を横に逸らす私。
いくらすっぴんは平気だって言っても、そんな至近距離では見られたくない!
そんな事を考えていると、突然、耳元に温かな息がかかった。
「衣里・・・」
低く響く有斗の声。
どことなく甘く優しい声に全身が痺れた。
「・・・っ?」
声のない返事をして有斗を見ると、ふっと片方だけ口唇を上げて微笑んでいる。
そして、そのまま私の口唇に重ねてきた。
頭の中が真っ白になった。
何をされているのかはわかるけど、それに対する感情とか行動とかが全く追いつかない。
どうして?何で?有斗?
目の前の有斗に湧き上がってくる疑問。
ただ呆然と見つめるだけで何も出来ない私に反して、軽く触れていただけの唇はもっと深くなった。
ぅ・・・苦し・・・
そこで我に返って顔を横に逸らし、有斗の唇から逃れた。
すると、両手を押さえつけていた有斗の手が少し緩み、その隙に思いっきり有斗を突き飛ばした。
「・・・何で?!」
色んな感情が混じって、息も上がっている、ぐちゃぐちゃな私をまっすぐ見つめている有斗。
別に理由が知りたいわけじゃないけど、上手く言葉が出てこない。
「何でって?キスしたかったからだよ。」
有斗の口から、さらっと放たれた言葉が私の胸をぐさりと突き刺す。
痛い・・・
胸の奥も熱くなった唇も、全部が痛くて泣きそう。
それなのに冷静なままの有斗の顔を見て、思わず引っ叩いた。
「もう来ないで!彼女作ってそっち行って!」
有斗は何も言わず、私を見ようともしないまま、部屋を出て行った。
テーブルの上には飲みかけの紅茶とカフェオレ。
自分のマグを手に取ると、すっかり冷めてしまった紅茶を一気に飲み干した。
何で、何で、何で?
有斗の・・・バカ・・・!
今、頭に思い浮かぶのはそれだけ。
とん、とマグをテーブルに置き、残されたカフェオレを睨みつけた。
いっつも、いっつも自分勝手で、好き放題やって・・・
沸々と沸いてくる感情が胸をぎゅっと締め付けるから、苦しくて息が出来ない。
しかも、さっきの光景が唇の感触と共にフラッシュバックして、恥ずかしいのと怒りで顔が熱くなる。
同時に、もわもわと熱が体全体に広がっていき、軽く眩暈がした。
なんとなく天井も、ぐにゃりと歪んでる様な・・・
って、天井???
そう思った瞬間、自分が床に仰向けに倒れていることに気がついた。
頭も体も重くて、ベッドに上がろうとしても動かない。
見上げれば、ぐらりと傾く部屋。目を閉じても、自分が回っている様な気がする。
ま、いいや。しばらくしたら治るだろう・・・
そして、そのまま意識を手放した。