悪魔の誘い
「昨日の夜は盛り上がったみたいで。」
大教室の後ろに座っている奈菜を見つけると、開口一番に皮肉った。
奈菜は一瞬、何の事かという顔をしていたけど、すぐに気がつき顔の前で手を合わせた。
「ごめーん!昨日、飲みに行ったら二人して終電逃しちゃってぇ。やっぱり有斗、そっちに行った?」
「うん。自分の部屋のようにくつろいでたよ。」
更に皮肉で追い討ちをかける私。
これだけ言っても、奈菜には全然効かないんだけど。
「本当にごめんって。有斗にも言っとくから。ね?」
そう言いながら、最終兵器のようにバッグから野菜ジュースのパックと小さな紙袋を取り出して、私に差し出した。
紙袋の中身は見なくてもわかる。私の好きなカフェのチョコクロワッサンだ。
「お腹空いてると思って。」
同じ紙袋をもう一つバッグから取り出して、クロワッサンを食べ始める奈菜。
全て予想済みで準備しているんだから、どこまでも抜け目がない。
心の底から、奈菜には敵わないと思う。
「しょうがないなぁ。」
目の前に置かれたクロワッサンを少しちぎって、口に放り込む。
もっちりした食感、バターの香りとチョコレートの甘さが絶妙で、授業が始まる頃にはすっかり昨日の事なんて忘れてしまっていた。
授業が終わると、奈菜はバイトがあるからと先に教室を出て行った。
その割には足取りが軽い。
きっと今日は彼氏と同じシフトなのだろう。
もしかしたら、今日も有斗は追い出されるかもしれないな。
そんなことを考えていると、帰り道で前を歩く有斗を見つけた。
すらりと伸びた手足に黒いモード系の服、真っ黒な髪は後ろからでもすぐわかる。
無防備に歩く後姿を見ていると、朝の仕返しをしてやりたくなって、こっそり有斗の背後に忍び寄った。
息を殺して、そーっと手を有斗の肩に乗せようとした瞬間、振り返った有斗の目が私を捕らえる。
「ぅわっ。」
と、変な声で驚いたのは私の方で、有斗はあの呆れた目でそんな私を見ている。
「何やってんの、衣里。」
「べ、別に。声かけようと思ったら、急に振り返るからびっくりしたじゃん。」
固まったままの手を引っ込めて、ジャケットのポケットに突っ込んだ。
それでも、有斗は冷たい目で私を見つめている。
「もしかして、俺を驚かせようとしてた?朝の仕返し、とか考えて。」
恐い。。。にやっと笑う有斗が悪魔のように見える。
どうして、こんなにもこの姉弟は妙にするどいのか・・・
「まさかー。そんな子供っぽいことしないよ。」
私は髪が乱れるのも気にせず、ぶんぶんと首を横に振った。
「衣里、この後って予定ないよな?」
有斗は悪魔の笑みを引っ込めて、いつものポーカーフェイスに戻っている。
それにしても、『予定ないよな?』って、既に決め付けてるし!
まぁ、実際ないんだけど…
「別に、今のところ特にないけど。」
我ながら『今のところ』って見え張ったのが逆に虚しい。。。
「じゃあ、飲みに行こうぜ。駅前に新しく出来たとこあるじゃん。」
そう言って、有斗は来た道を戻り始めている。まるで、私の返事なんて聞くまでもないかのように。
なので、仕方なく私は有斗の後を追いかけた。どうせ、部屋に帰っても何もすることないしね。
少し駆け足で有斗の横に並ぶと、私より頭一つ半は高い位置にある整った顔を見上げた。
「私、まだ行くって言ってないけど?」
「でも、来るんだろ?どうせ、何もやることないんだしって。」
またも、さらっと私の思考を読み取る有斗。恐ろしいくらい鋭い。
それとも、私がわかりやすいだけなのか??
「じゃあ、有斗がおごってくれんの?」
私は精一杯のぶりっこ笑顔で有斗を見上げた。
自慢じゃないけど、この笑顔で本当におごってくれた人が何人かいるんだから。
それに今日は早く起こされたお陰で、いつもより念入りにマスカラも塗ってあるし。
けれど、有斗は例の呆れ顔でため息をつくだけだった。
結局、新しくオープンしたという居酒屋に着くまで、有斗は黙ったままだった。
全く、自分に都合が悪いとすぐに黙り込むんだから。
都合が悪いっていうか、ただ単に答える必要ないって思ってるのかもしれないけど。
駅前の大通りを少し外れたところにある、その居酒屋は和風モダンな雰囲気で、6時だというのに既にたくさんのお客さんで賑わっていた。
私たちに気づいた店員の一人が近づいてくる。短めの茶髪にくりくりっとした目が結構かわいい、同じ年くらいの男の子。すると、そのイケメン店員が笑顔で年齢の確認を見せるよう尋ねてきた。
そう言えば、有斗ってまだ19歳じゃなかったっけ?!
ちらっと有斗を見ると、冷たい目で店員の男の子をじっと見ている。
「は?」
視線と同じくらい冷たい態度をとる有斗。
っていうか、法律で決まってるんだから、店員を威嚇しても仕方ないんじゃ…
「ですから、年齢の確認を…」
ひたすら笑顔の店員くん。それを睨みつける有斗。
諦めて帰ろうと有斗の腕を引っ張ろうとした瞬間、その店員が大声で笑い出した。
「悪いって、有斗。そんな怖い顔すんなよ。こちらへどうぞ、お客様。」
「無駄な時間食わせんな。」
そう言いながら、まだ笑っている店員の後をついて行く有斗。
とりあえず、私もその後を追った。
店内にはカウンターと、オープンタイプのテーブル席、そして暖簾の掛かった個室タイプの席があった。ところどころに和紙で出来たランプが通路に置かれ、ぼんやりと辺りを照らしている。
店員くんは個室タイプの席まで案内すると、店の奥へと戻っていった。席に着くと、何となく手持ち無沙汰で、目の前にメニューを広げてみる。
カマンベールチーズの串揚げ…アボカドとマグロのサラダ…
あ、じゃこと水菜のサラダも捨てがたい…
「さっきのは甲斐っていって、高校の時からの知り合い。」
「へ?」
何をオーダーしようかと集中していた私は、不意を付かれて間抜けな声で返事をした。
「話が読めてないかと思って。」
にやりと意地悪そうな顔で微笑む有斗。
私がさっき、有斗と店員くんの顔を交互に見上げていたのに気がついてたんだ。
「友達同士なんでしょ。それぐらいすぐわかったし。年上を舐めてもらっちゃ困るね。」
勝ち誇ったように胸を張る私に、呆れた顔でため息を吐く有斗。
だから、何でそこでため息なの?
「何?俺の話?」
そこへ、タイミングよく店員くんが顔を出した。くりっとした目で私を見ると、にっこり笑っている。
この笑顔で何人の女の子を落としてきたんだろう。秘訣を教えてもらいたい。
そんなことを思いながら、私もついつい微笑み返す。
「何笑ってんの?衣里。」