小悪魔の本気
次の朝、目が覚めると手にはしっかり携帯が握られていた。
こんなに携帯に執着した事も依存した事も今までない。たとえ鳴らないまま一日が過ぎても、全然気にした事なんてなかったのに。
有斗が来なくなってから、心のどこかで有斗からの連絡を待っている自分がいた。前みたいに強引に飲みに誘ったり、奈菜が来るから避難するって、何でも良いから。
もしかして、本当に私は・・・
パタン。きゅっと締め付ける胸の奥の痛みを振り切るように携帯を閉じた。
布団の中で少し伸びをしてから、ゆっくりと起き上がった。外はもう明るくなっているようで、カーテンの隙間から光が漏れている。
まだ眠っている奈菜を起こさないように忍び足でバスルームに向かった。
どうにも頭の整理が出来ない時はシャワーを浴びるのが私の習慣だった。無心でシャワーを浴びているうちに気持ちが落ち着いて、バスルームから出る頃には面倒な事も、何もかもすっきりしている。
髪をタオルで拭きながら部屋に戻ると、奈菜は既に起きてカフェラテを飲んでいた。
「おはよ。ごめん、起こした?」
通りすがりに、ふわっと香ってくるカフェラテの香り。それだけで有斗を思い出してしまう。
「おはよー。ううん、携帯が鳴って起きたから。」
二日酔いの筈にも関わらず、奈菜はにっこり微笑んでいる。
こんなに機嫌が良いということは多分、彼氏からメールか何か来たんだろう。
いつも恋愛に全力の奈菜は少しの事でも喜び、悲しみ、怒る。それが整った見た目以上に、人を惹きつけるんだろうな。
「朝ごはん、食べる?簡単なのしかないけど。」
「ありがと。でもそろそろ帰るよ。親には衣里んちにいるって連絡してるけど、一応ね。」
そう言って、奈菜は笑顔のまま帰っていった。
奈菜を見送った後、ベッドの上でチカチカ光る携帯を見つけた。
きっとシャワーを浴びている間に着信していたんだろう。もしかしたら奈菜はそのせいで目が覚めたのかもしれない。
それにしても、こんな朝に誰からだったんだろう?
不思議に思いながら携帯を手に取って開き、着信履歴を確認してみる。そこには思いもしない名前が表示されていた。
『有斗』
その二文字を見た瞬間、息をするのも苦しいほど鼓動が早くなった。
有斗が電話を掛けてきた。それだけで、すごく嬉しい。
私の存在なんて忘れられていたか、無視されていたみたいな数週間だったから。
でも、こんな朝に何の用だったんだろう。
余程の理由だったのには間違いない。だって、今までメールさえ送って来なかったのに、突然こんな時間に電話なんて。
だから、私は迷う事なく発信ボタンを押した。
1コール、2コール、3コール・・・
いくら待っても出ない。結局、10コールまで粘ってみて諦めた。
一体、何だったんだろう。それに掛け直したのに出ないって・・・
携帯を握り締めたまま、しばらくの間ベッドに座って考えたけれど答えは出ない。
むしろ混乱して、わけが分からなくなりそうだ。
もう、いいや。そう思って携帯を置こうとした瞬間、静かな部屋に着信音が響いた。
有斗?ドキドキする胸と震えそうになる手で携帯を開くと、そこにはまたも予想外な名前が映し出されていた。
『甲斐くん』
急かす様に鳴る携帯を前に、反射的に受話ボタンを押した。
「もしもし?」
「あ、おはようございます。甲斐です。」
その少し低いのに明るい声を聞いて、今まで忘れていた昨日の出来事を思い出した。
そうだ。昨日、甲斐くんに告白みたいなのをされていたのに、奈菜の爆弾発言のせいで今の今まですっかり忘れていた。
「・・・うん。おはよ。」
何だか恥ずかしくなって声が小さくなる。
「今日、これから時間ありますか?出来たら、会って話したい事があるんですけど。」
いつもみたいに軽い感じじゃなくて、真剣さの伝わってくる声。
そんな甲斐くんの様子のせいか、電話があった2時間後に私は駅前で彼と待ち合わせた。
土曜ということもあり、結構な人数が駅前広場を行き交っている。
今、有斗への気持ちを曖昧ながらも気づいた私には一つしか答えが用意できていない。
変な期待を持たせるわけにもいかないので、極力メイクを薄めにして服もシンプルなカットソーワンピにレギンスとブーツを合わせる程度にしていた。
約束の時間になり、私はどちらの方向から甲斐くんは来るのかとキョロキョロ見回した。
すると、到着した電車から降りた乗客の中に一際目立つ明るい表情と顔立ちの甲斐くんが目に入った。
あぁ、やっぱり甲斐くんはかっこいいな、なんて客観的に観察していると、私の視線に気がついた甲斐くんがキラキラを振りまくように微笑んだ。
「俺から呼び出したのに、待たせてしまってすいません。」
「ううん、私も今来たばっかりだから。」
って、何か付き合いたてのカップルみたいな会話。
ぼーっとそんなことを思っていると、甲斐くんが私の手を引いて歩き出した。
「お腹すいてませんか?ランチのおいしいカフェがあるんですよ。」
「え?え?」
戸惑う私の手を強く握ったまま、甲斐くんはずんずん歩き始めた。まるで「YES」以外の答えは聞かない、とでもいうように。
無言の中、されるがまま連れて来られたのは一軒家を改築した可愛らしいカフェだった。
駅から大通りを歩き、少し離れたところにあるにも関わらず、テラス席はほぼ満席状態。それだけでも、このカフェの人気と魅力が伺える。
こんなに混んでいて空いてる席はあるのかな?
そう思いながら覗き込む私の肩を引き寄せて、甲斐くんはレジカウンターの前で立ち止まった。
「すいません。予約している甲斐です。」
その言葉に驚き、ただただ見上げるしかない私の肩を抱いて、甲斐くんは微笑んでいる。
これが彼のやり方なんだろうか?それにしても上手くいき過ぎている。
柔らかい微笑みも卒のないエスコートも。
暖かい光の差し込む二階の窓際に案内されると、冷えたレモンウォーターがテーブルに置かれた。
予約客専用フロアのようで、明るく広いロフトには私と甲斐くんの他には2組しかいない。
席に着いた私たちに絵本のようになったメニューを2冊、それぞれに渡すと店員さんは席を離れた。
メニューにはランチセットから単品まで数多く載っていて、目移りするほど魅力的な料理が並んでいる。
「うわぁ、おいしそうなのばっかりだね。」
思わず、本気でうっとりしながら甲斐くんを見た。
ところが、甲斐くんはメニューを開いてもおらず、ただ私を見つめて微笑んでいる。
「喜んでもらえて嬉しいです。何でも遠慮せずに注文してくださいね。」
そんな甘い言葉に心が揺れ動かされる。
ダメだ。あのキラキラ笑顔と甘い言葉に騙されちゃダメ。
深く息を吸い込んで、思い切り吐き出した。冷静にならなくちゃ。
「ありがと。こんなカフェがあるなんて知らなかった。よく甲斐くんは来るの?」
女の子と。そんな意味を含ませて聞いてみた。
私みたいに特に可愛くもない女の子より、もっとふさわしい相手がいるんじゃない?
「いえ、姉に一度付き合わされた以来です。それからは特別な相手しか連れてきたくなくて。」
甲斐くんは私の意地悪をいとも簡単にすり抜けて、未だ揺れ動く胸に直接訴えかけてくる。
それほど本気なんだろうか?長く恋愛から離れていたせいで見極められない。
けれども、甲斐くんの眼差しにはどんな嘘も繕いも適わない気がしていた。