↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

私と過ごす時間はコスパが悪いそうなので、どうぞお好きになさってください

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/11/03


「君と過ごす時間は、正直に言ってコストパフォーマンスが悪いんだ」


 結婚して三年目の春、エレノア・ヴァイスは夫からそのように告げられた。侯爵家の食堂には朝の柔らかな日差しが差し込み、長い食卓の上には焼きたてのパンや温かなスープ、季節の果物が並べられている。窓の外では庭師たちが花壇の手入れを始めており、屋敷の中にも穏やかな一日の始まりを告げる気配が満ちていた。そんな何の変哲もない朝に、夫の口から飛び出した言葉を、エレノアはすぐには理解することができなかった。


 向かいに座るアルベルト・ヴァイスは、今年二十四歳になるヴァイス侯爵家の嫡男である。淡い金髪と澄んだ青い瞳を持つ端正な青年で、社交界では将来有望な次期侯爵として知られていた。結婚前は穏やかで思いやりのある男性だったが、父親の補佐として領地経営に携わるようになってからは、仕事の効率を何よりも重視するようになっていた。最近では朝食の席にも書類を持ち込み、妻と会話を交わす時間さえ惜しむことが珍しくなくなっている。


「……コストパフォーマンス、ですか?」


「ああ。君との時間を嫌っているわけじゃない。ただ、仕事を中断してまで一緒に過ごす必要があるのかと考えると、どうしても疑問が残るんだ。昨日の夕食だって、二時間近くかかっただろう?あの時間があれば、商会との契約書を三件は確認できたはずだ」


 アルベルトは手元の書類から目を離さないまま答えた。彼にとっては、特別に厳しいことを言ったつもりはないのだろう。仕事の効率を改善するために必要な問題点を指摘したという程度の認識であり、妻がどのような気持ちでその言葉を受け止めたのか、確かめようともしなかった。


 エレノアは膝の上で両手を重ね、夫の横顔を見つめた。彼女は今年二十一歳になる、ベルフォード伯爵家出身の女性である。栗色の長い髪と深い緑色の瞳を持ち、社交界では穏やかで控えめな侯爵家の若奥様として知られていた。幼い頃から他人の気持ちを優先することが多く、困っている人を見かければ自分にできることを探すような性格だった。結婚後も夫を支えたいという思いから、侯爵家の家政や社交上の付き合いに積極的に携わり、忙しいアルベルトの負担を少しでも減らそうと努めてきた。


 二人が出会ったのは、今から五年前の春のことだった。当時十六歳だったエレノアは、家同士の取り決めによってアルベルトと婚約することになった。相手は由緒ある侯爵家の嫡男であり、将来は広大な領地と多くの事業を引き継ぐことになる青年だった。控えめな性格のエレノアは、自分が彼に相応しい婚約者になれるのか不安に思っていたが、初めて顔を合わせたアルベルトは、そんな彼女の緊張を和らげるように優しく微笑んでくれた。


 初めて二人で庭園を歩いた日、アルベルトは彼女の歩調に合わせてゆっくりと進み、好きな花や本について尋ねてくれた。エレノアが白い薔薇を好むと答えると、次の茶会では小さな花束を用意してくれていた。彼女が社交界で姉と比較されて落ち込んだときには、人にはそれぞれ異なる魅力があるのだと励ましてくれたし、誕生日には以前から欲しがっていた本を贈ってくれた。


 そうした何気ない優しさに触れるうちに、エレノアは婚約者を心から愛するようになった。アルベルトも彼女との時間を楽しみにしており、仕事の合間を縫って茶会を開いたり、二人で街へ出かけたりすることもあった。結婚式の日には、これから先も互いを大切にしていこうと約束を交わし、エレノアはこの人となら幸せな家庭を築いていけると信じていた。


 けれど、結婚生活が始まってから、二人の関係は少しずつ変わっていった。


 アルベルトは父親の補佐として領地経営に本格的に携わるようになり、商会との契約や財政の管理に多くの時間を費やすようになった。仕事に対する姿勢は真面目で、与えられた課題を解決するためなら、夜遅くまで執務室に籠もることも珍しくなかった。父親から厳しい指導を受けながらも着実に成果を上げ、領地の収益を改善したことで、周囲からの評価も高まっていった。


 エレノアは、そんな夫を誇らしく思っていた。彼が仕事で疲れているときには好みの紅茶を用意し、食事の時間が遅くなれば温かい料理を出せるよう使用人たちに頼んだ。侯爵家で開かれる茶会や夜会についても、できる限り自分が準備を引き受け、夫が仕事に集中できる環境を整えようとした。商人たちとの会合に必要な招待状を整理したり、取引先の家族構成や好みを記録したりすることもあった。


 最初のうちは、アルベルトも彼女の働きに感謝していた。忙しい合間を縫って一緒に食事を取ることもあったし、彼女が用意した紅茶を飲みながら、仕事の話を聞いてもらうこともあった。けれど、領地経営で成果を上げるにつれて、彼は物事の価値を数字で判断するようになっていった。父親から教えられた合理的な経営方針を自分なりに解釈し、時間や費用を削減することこそ優れた判断だと考えるようになったのである。


 やがて、夫婦で過ごす時間は少しずつ減っていった。月に何度か開かれていた二人だけの茶会はなくなり、休日に街へ出かける約束も仕事を理由に取り消されることが増えた。結婚記念日には、アルベルトが急な商談を優先したため、エレノアは一人で夕食を取ることになった。彼女は寂しさを感じながらも、夫が侯爵家のために努力しているのだから仕方がないと、自分に言い聞かせていた。


 それでも、エレノアは夫との時間を大切にしたかった。どれほど忙しくても、一日の終わりに少しだけ話をすることができれば嬉しかったし、休日には二人で庭園を散歩するだけでも十分に幸せだった。豪華な贈り物や特別な催しを望んでいたわけではない。かつてのように、互いの気持ちを確かめ合いながら穏やかに過ごしたかったのである。


 前日の夕食も、そんな思いから用意したものだった。アルベルトが珍しく早く仕事を終えられると聞き、エレノアは彼の好物を中心に献立を考え、食堂には季節の花を飾った。久しぶりにゆっくりと会話ができることを楽しみにしていたが、アルベルトは食事の間も仕事のことばかり考えており、彼女が話しかけても短い返事をするだけだった。


 そして翌朝、夫はその時間を無駄だったと評価したのである。


「……私は、あなたと一緒に食事ができて嬉しかったのですが」


 エレノアは、できるだけ穏やかな口調でそう伝えた。夫を責めたいわけではなかったし、仕事を大切にする気持ちを否定するつもりもなかった。ただ、自分にとって夫婦で過ごす時間がどれほど大切なのか、少しでも理解してほしかったのである。


「君が喜んでくれたのなら、それは良かったと思うよ。ただ、私にはもっと優先すべきことがあるんだ。侯爵家の将来を考えれば、今は仕事に集中するべき時期だろう?」


 アルベルトはそう答えると、再び書類へ視線を戻した。彼の言葉には悪意がなく、むしろ自分の考えを丁寧に説明したつもりでいることが、エレノアには分かった。だからこそ、胸の奥に広がる寂しさをどう伝えればよいのか分からなかった。夫は自分との時間を嫌っているわけではないと言う。けれど、彼にとって妻と過ごす時間は、仕事よりも価値の低いものになってしまったのだ。


 エレノアは食卓に並んだ料理へ視線を落とした。アルベルトのために用意された朝食は、ほとんど手をつけられていなかった。彼は忙しいときほど食事を疎かにするため、彼女は料理人と相談しながら、短い時間でも栄養を取れる献立を考えていた。そうした気遣いについて、夫がどこまで理解しているのかは分からない。


 やがてアルベルトは書類をまとめ、朝食を終えると告げて席を立った。エレノアが何か言おうとしたときには、すでに彼は執務室へ向かって歩き始めていた。食堂に残された彼女は、夫が座っていた椅子を見つめながら、結婚したばかりの頃のことを思い出した。あの頃は、朝食の席で交わす何気ない会話さえ楽しかった。互いの予定を確認し、夜には何を食べたいか相談し、仕事が終わったら一緒に庭園を歩こうと約束することもあった。


 いつから、夫婦で過ごす時間が無駄なものになってしまったのだろう。


 エレノアは答えの出ない問いを胸に抱えたまま、冷めかけた紅茶を口に運んだ。



 ◇



 その日から、エレノアは夫との関係について真剣に考えるようになった。これまでの彼女は、アルベルトが仕事で忙しいことを理由に、自分の寂しさを後回しにしてきた。夫が帰宅するまで待ち続け、約束を取り消されても笑顔で受け入れ、彼が疲れているときには負担をかけないよう気を配っていた。そうした生活を続けるうちに、いつの間にか自分の希望を口にすることさえ、申し訳なく感じるようになっていたのである。


 けれど、夫婦とは本来、どちらか一方が我慢を重ねることで成り立つものなのだろうか。アルベルトが侯爵家のために努力していることは理解しているし、その仕事を支えたいという気持ちも変わらない。それでも、夫から大切にされたいと願うことまで、贅沢な望みとして諦めなければならないのだろうか。


 エレノアは、そんな疑問を抱えながら数日を過ごした。アルベルトは相変わらず仕事に没頭しており、朝早くから執務室に籠もり、夜遅くまで書類を確認していた。夫婦で食事を取る機会はさらに減り、同じ屋敷で暮らしているにもかかわらず、顔を合わせない日さえあった。


 そんなある日、エレノアは夫の執務室を訪れた。これまでなら仕事の邪魔になることを恐れて遠慮していたが、今回はどうしても伝えたいことがあった。彼女は扉の前で一度深く息を吸い、使用人に取り次ぎを頼んだ。


 アルベルトは机に向かい、山のように積まれた書類を確認していた。部屋にはインクと紙の匂いが漂い、窓際には未開封の書簡がいくつも置かれている。彼は妻が訪ねてきたことを少し意外に思ったようだったが、すぐに手元の仕事へ視線を戻した。


「どうしたんだい、エレノア。何か急ぎの用事かな?」

「……あなたに、お話ししたいことがございます」

「できれば手短に頼むよ。午後には商会の代表者が来る予定なんだ」


 エレノアは、その言葉を聞いても引き返さなかった。これまで何度も同じような理由で話を後回しにしてきたが、今回はそうするつもりがなかった。彼女は夫の机の前に立ち、ゆっくりと言葉を選んだ。


「私、しばらく実家へ戻ろうと思っております」

「実家へ?何かあったのかい?」

「……あなたと、少し距離を置きたいのです」


 アルベルトはようやく顔を上げた。妻が実家へ帰りたいと言い出すことは珍しくなかったが、夫婦の距離を置きたいという言葉には、さすがに戸惑いを覚えたらしい。けれど、彼はすぐに深刻な問題ではないと考え直した。エレノアは以前から実家の家族と親しくしていたし、しばらく帰省することで気分転換になるのなら、悪い話ではないと思ったのである。


「そうか。君も最近は忙しかったからね。少し休むのも良いだろう」

「……アルベルト様」

「実家に戻る間は、こちらのことを気にしなくていいよ。家政については使用人たちに任せればいいし、私も仕事に集中できる。お互いにとって合理的な選択かもしれないね」


 エレノアは、夫の言葉を聞きながら胸の奥が冷えていくのを感じた。彼は自分が別居を望んでいる理由について、尋ねようともしなかった。妻がいなくなることで寂しさを感じるどころか、仕事に集中できると考えている。その態度を目の当たりにして、エレノアは自分がどれほど長い間、一人で夫婦の関係を支えようとしていたのかを理解した。


「……分かりました。では、準備が整い次第、実家へ戻らせていただきます」

「ああ。必要なものがあれば、使用人に頼むといい」


 アルベルトはそれだけ言うと、再び書類へ視線を戻した。エレノアはしばらく夫の横顔を見つめていたが、これ以上話しても意味がないと判断し、静かに執務室を後にした。扉が閉まる直前、彼がペンを走らせる音が聞こえてきた。その音は、彼女が部屋を出ていくことなど気にも留めていないように感じられた。


 数日後、エレノアは必要な荷物をまとめ、ベルフォード伯爵家へ戻ることになった。侯爵家の使用人たちは突然の帰省に驚いたが、彼女は夫婦で話し合って決めたことだと説明し、詳しい事情については語らなかった。長年仕えてきた侍女たちは、若奥様がどこか寂しそうな表情をしていることに気づいていたものの、無理に理由を尋ねることはなかった。


 出発の日、アルベルトは仕事の都合で見送りに来なかった。エレノアは玄関先で家令や使用人たちに別れを告げ、馬車へ乗り込んだ。結婚してから三年間暮らしてきた屋敷は、彼女にとって大切な場所だった。庭園には自分が選んだ花々が咲き、食堂には二人で使っていた食器が並び、寝室には結婚当初に贈られた品々が残されている。


 それらを置いて実家へ戻ることに、寂しさがなかったわけではない。けれど、今のまま夫の隣に居続けても、自分が少しずつ傷ついていくだけだと分かっていた。


 馬車が動き始めると、エレノアは窓の外に広がる侯爵家の庭園を見つめた。春の風に揺れる白い薔薇は、かつてアルベルトが彼女のために植えてくれたものだった。結婚したばかりの頃、二人で庭園を歩きながら、毎年この花が咲くのを一緒に楽しみにしようと約束したことを思い出す。


 エレノアは静かに目を閉じた。あの頃の夫を愛していた気持ちは、今でも胸の奥に残っている。だからこそ、彼が変わってしまったことが悲しかった。いつかまた、二人で同じ花を眺められる日が来るのだろうか。そんなことを考えながら、彼女は遠ざかっていく屋敷を見送った。



 ◇



 妻が実家へ戻った後も、アルベルトの生活はしばらく変わらなかった。朝早くから執務室に籠もり、商会との契約書を確認し、領地の財政について報告を受ける。昼食は仕事の合間に簡単に済ませ、夜も遅くまで書類に目を通す。これまでと同じように仕事を進めることができているのだから、妻がいなくなったことによる不便はほとんどないと考えていた。


 むしろ、最初の数日間は仕事が捗っているように感じられた。夕食の時間を気にする必要もなく、休日に妻と過ごす予定を考えることもない。アルベルトは、これまで夫婦の時間に費やしていた労力を仕事へ振り向けられることに満足していた。


 けれど、そんな生活は長く続かなかった。


 最初に変化が現れたのは、侯爵家の社交上の付き合いだった。エレノアが実家へ戻ったことで、これまで彼女が担当していた茶会や夜会の準備が滞るようになったのである。招待状の整理や贈答品の手配、取引先の家族構成や好みの確認など、彼女が日常的に行っていた仕事は想像以上に多かった。使用人たちは懸命に対応していたものの、エレノアが長年かけて築いてきた人間関係を、すぐに引き継ぐことは難しかった。


 アルベルトは当初、必要な人員を増やせば解決できると考えていた。けれど、経験のある職員を雇うには相応の費用がかかり、仕事を覚えるまでにも時間が必要だった。これまでエレノアが無償で引き受けていた仕事を、正式な業務として人員に割り振ろうとすると、予想以上の負担が生じることになったのである。


 それでも、アルベルトは妻の働きを過小評価していたことを認めようとはしなかった。彼女がいなくなったことによる混乱は一時的なものであり、適切な体制を整えれば解決できるはずだと考えていたからだ。


 ところが、仕事以外の場面でも、彼の生活には少しずつ変化が現れ始めた。


 ある日の夜、アルベルトは遅い時間に執務室を出て、食堂へ向かった。いつもならエレノアが用意してくれていた温かな食事は、すでに片づけられていた。料理人は彼の帰宅時間に合わせて食事を用意しようとしていたが、アルベルトが何時に仕事を終えるのか分からず、何度も確認することになっていたのである。


 アルベルトは使用人に食事を用意するよう命じたものの、以前のように好みの料理が並ぶことはなかった。もちろん、料理人が手を抜いているわけではない。エレノアが夫の体調や仕事の状況に合わせて献立を調整していたため、彼が疲れているときには消化の良い料理が、忙しいときには短時間で食べられるものが用意されていたのである。


 アルベルトは、そのことを初めて知った。


 また別の日には、仕事で大きな成果を上げたことを誰かに話したくなり、無意識に妻の部屋へ向かっていた。以前なら、エレノアは彼の話を嬉しそうに聞き、努力が報われたことを自分のことのように喜んでくれた。けれど、部屋の扉を開けても、そこには誰もいなかった。


 整えられた寝台と、閉じられた窓。机の上には、彼女が読みかけていた本も、刺繍道具も残されていない。エレノアが実家へ戻ってから、彼女の部屋は使われなくなっていたのである。


 アルベルトはしばらく部屋の入口に立ち尽くしていた。妻がいないことは理解していたはずなのに、こうして誰もいない部屋を目の当たりにすると、胸の奥に奇妙な寂しさが広がった。彼女が屋敷にいた頃は、仕事を終えればいつでも会えると思っていた。話をしたくなれば声をかければよいし、何かを頼めば喜んで引き受けてくれると信じていた。


 けれど、今は違う。


 エレノアは、もうこの屋敷にはいないのだ。


 その夜、アルベルトは久しぶりに仕事を早く切り上げた。執務室へ戻っても集中できず、書類を読み進めようとしても、何度も妻のことを考えてしまったからである。彼は自分がどうしてこれほど落ち着かないのか理解できず、ただ疲れているのだろうと考えて寝室へ向かった。


 けれど、寝台に横になっても、なかなか眠ることができなかった。


 かつてエレノアが隣で眠っていた頃は、彼女の穏やかな寝息を聞きながら、自然と眠りにつくことができた。仕事で疲れて帰宅した夜には、彼女が温かな飲み物を用意してくれることもあった。そんな何気ない日常を、アルベルトはいつの間にか当然のものとして受け取るようになっていたのである。


 彼は暗い天井を見つめながら、妻が最後に自分へ向けた表情を思い出そうとした。けれど、思い浮かぶのは、執務室で別居を告げたときの寂しそうな顔ばかりだった。


 あのとき、エレノアは何を考えていたのだろう。


 どうして、自分は理由を尋ねなかったのだろう。


 アルベルトは初めて、妻が実家へ戻った本当の理由について考え始めた。




 ◇



 別居から一か月が経つ頃、アルベルトは仕事でも大きな問題に直面することになった。彼が進めていた物流改革によって、長年取引してきた商会との契約が打ち切られ、新たに選ばれた業者が十分な輸送能力を持っていなかったことが判明したのである。経費削減を優先した結果、領地で生産された織物の出荷が遅れ、侯爵家は多額の違約金を請求されることになった。


 アルベルトは問題の解決に奔走したが、事態は思うように改善しなかった。以前の取引先に協力を求めても、すでに別の商会との契約を結んでいるという理由で断られた。新しい業者に改善を求めても、輸送能力を急に増やすことは難しい。彼が削減した費用よりも、今回の問題によって生じた損失の方が遥かに大きくなっていた。


 事態を重く見たヴァイス侯爵は、息子を執務室へ呼び出した。五十代半ばになる侯爵は、長年にわたって領地経営を担ってきた厳格な男性であり、仕事に対しては息子にも妥協を許さなかった。アルベルトは父親の教えに従って合理的な経営を進めてきたつもりだったため、今回の失敗についても理解を得られると考えていた。


 けれど、侯爵の反応は厳しいものだった。彼はアルベルトが提出した報告書を一枚ずつ確認し、経費削減の成果ばかりが強調されている一方で、取引先との関係悪化や職員の負担増加について十分に検討されていないことを指摘した。


 侯爵にとって、経営とは目先の利益を追求するだけのものではなかった。領地で働く人々の生活を守り、商人たちとの信頼関係を維持し、将来にわたって安定した事業を続けることが重要だったのである。アルベルトは父親から合理的な判断の大切さを教えられてきたが、いつの間にか、その意味を自分に都合よく解釈するようになっていた。


「お前は、利益を生まないものをすべて無駄だと考えているようだな」

「……私は、侯爵家の経営を改善するために努力してきました」

「努力したことは認める。だが、その結果として多くの損失を生んでいる。長年築いてきた信用や人間関係を、数字に表れないという理由だけで軽視したことが、今回の失敗につながったのではないか?」

「それは……」

「エレノアが実家へ戻ったことも、同じ理由なのだろう?」


 アルベルトは思わず顔を上げた。父親が妻との別居について知っていることは当然だったが、その理由まで理解しているとは思っていなかったのである。侯爵は息子の表情を見ながら、深く息を吐いた。


「エレノアは、これまで侯爵家のためによく尽くしてくれた。社交上の付き合いだけでなく、商人たちとの関係を円滑に保つためにも、多くの時間を費やしていたそうだな」

「……はい」

「それなのに、お前は妻と過ごす時間を無駄だと言ったそうじゃないか。自分が受け取っているものの価値さえ理解できない人間に、侯爵家の経営を任せられると思うか?」


 アルベルトは返す言葉を失った。父親の言葉は厳しかったが、否定することはできなかった。エレノアが自分のために何をしてくれていたのか、彼はほとんど把握していなかったのである。妻がいなくなって初めて、その働きの多さに気づいた。けれど、彼女がどれほどの時間と労力を費やしていたのかについては、今でも十分に理解できていないのかもしれなかった。


 侯爵は、アルベルトにしばらく仕事から離れるよう命じた。今回の問題については侯爵自身が指揮を執り、必要な人員を配置して対応することになった。アルベルトには、当面の間、領地経営に関する重要な判断を任せないという決定が下されたのである。


 アルベルトは必死に反論しようとしたが、父親の決意は変わらなかった。仕事で失敗したからこそ、さらに努力して挽回するべきだと考えていた彼にとって、仕事から離れるという命令は、何よりも受け入れ難いものだった。


 けれど、侯爵は息子の言葉を遮り、静かに告げた。


「お前には、仕事以外のことを考える時間が必要だ。これまで何を大切にしてきたのか、そして何を失おうとしているのか、よく考えなさい」


 その言葉を最後に、アルベルトは執務室を後にした。長年にわたって仕事に没頭してきた彼にとって、突然与えられた自由な時間は、どう扱えばよいのか分からないものだった。


 翌朝、アルベルトはいつもどおり早く目を覚ました。習慣となっていたため、起床するとすぐに執務室へ向かおうとしたが、廊下の途中で足を止めた。今の彼には、確認すべき書類も、出席すべき会議もない。父親から仕事を離れるよう命じられた以上、勝手に執務室へ入ることもできなかった。


 アルベルトはしばらく廊下に立ち尽くした後、久しぶりに庭園へ向かった。朝の空気は思っていたよりも冷たく、春の終わりを告げる風が木々の葉を揺らしている。庭師たちは花壇の手入れをしており、白い薔薇が咲き始めていた。


 その花を見た瞬間、アルベルトはエレノアのことを思い出した。


 結婚したばかりの頃、彼女はこの庭園を歩くことを楽しみにしていた。白い薔薇が咲く季節になると、必ず彼を誘い、花の香りや庭師たちの仕事について楽しそうに話していた。アルベルトも当時は彼女との散歩を楽しんでおり、仕事が忙しくても時間を作って一緒に歩いていた。


 けれど、いつからか、彼はその誘いを断るようになった。庭園を歩く時間があるなら、書類を確認した方が有意義だと考えるようになったからである。


 アルベルトは、白い薔薇の前で足を止めた。花弁には朝露が残り、柔らかな日差しを受けて輝いている。以前の彼なら、こんな景色を眺めることに何の意味があるのかと考えただろう。けれど、今は不思議と、その場を離れる気になれなかった。


 エレノアが隣にいたなら、きっと嬉しそうに笑っていただろう。


 そんなことを考えた途端、胸の奥に寂しさが広がった。


 アルベルトはようやく、自分が妻との時間を失ったことを実感し始めていた。



 ◇



 それからアルベルトは、少しずつ生活を変えるようになった。最初のうちは、仕事をしないことに強い焦りを感じていたが、やがて自分がどれほど長い時間、仕事だけを中心に生活してきたのかを理解するようになった。朝食をゆっくり取ることも、庭園を散歩することも、使用人たちと何気ない会話を交わすことも、以前の彼にとっては無駄な時間だった。


 けれど、仕事から離れて過ごすうちに、そうした時間が人々の生活を支えていることに気づき始めた。料理人が毎朝早くから食事を用意し、庭師が季節ごとの花を育て、使用人たちが屋敷の隅々まで手入れをしている。彼が仕事に集中できていたのは、そうした人々の働きがあったからこそだったのである。


 そして、その中心にはいつもエレノアがいた。


 彼女は使用人たちの仕事を理解し、無理な負担がかからないよう気を配っていた。料理人が体調を崩したときには休暇を取らせ、代わりの人員を手配していたし、庭師たちが新しい花壇を作る際には、必要な費用を確認したうえで協力していた。屋敷の中で働く人々が安心して仕事を続けられるよう、彼女は日々細かな配慮を重ねていたのである。


 アルベルトは、それらのことをほとんど知らなかった。妻が家政を任されていることは理解していたが、実際にどのような仕事をしているのか、詳しく尋ねたことはなかったからだ。


 彼は初めて、エレノアが自分のために費やしてきた時間の重さを知った。


 そして、同時に気づいたのである。


 自分は、彼女に何を返してきたのだろう。


 仕事で成果を上げることが、妻を幸せにすることだと信じていた。侯爵家の財政を改善し、将来の生活を安定させることこそ、夫として果たすべき責任だと考えていた。けれど、そのために妻との時間を削り、彼女の気持ちを後回しにしてきたのでは、本末転倒だったのかもしれない。


 アルベルトは、エレノアに手紙を書くことにした。


 最初は、何を書けばよいのか分からなかった。仕事の報告書なら、必要な情報を整理して簡潔にまとめることができる。けれど、自分の気持ちを言葉にすることは、思っていたよりも難しかった。彼は何度も便箋を書き直し、ようやく一通の手紙を完成させた。


 そこには、これまで妻の気持ちを十分に考えてこなかったことへの謝罪と、彼女がいなくなって初めて気づいたことが記されていた。自分がどれほど多くのものを受け取っていたのか、そして、それらを当然のものとして扱っていたことを、彼は率直に認めた。


 最後に、もし許してもらえるのなら、もう一度ゆっくり話をしたいと書き添えた。


 手紙を送り終えたアルベルトは、返事を待つことになった。以前の彼なら、すぐに返答がないことに苛立ちを覚えていたかもしれない。けれど、今回は違った。エレノアが自分の気持ちを整理するためには、時間が必要なのだと理解していたからである。


 数日後、ベルフォード伯爵家から返事が届いた。


 エレノアは、夫の謝罪を受け止めたことを伝えていた。けれど、すぐに侯爵家へ戻るつもりはないとも書かれていた。彼女は、これまでの結婚生活を振り返り、自分が何を望んでいるのかを考える時間が必要だと感じていたのである。


 アルベルトは、その返事を何度も読み返した。妻がすぐに戻ってこないことは寂しかったが、彼女が自分の意思をはっきりと伝えてくれたことに、どこか安心する気持ちもあった。以前のエレノアは、夫の希望を優先するあまり、自分の気持ちを後回しにすることが多かった。今の彼女が自分の望みを大切にしようとしていることは、決して悪い変化ではないはずだった。


 アルベルトは、彼女の返事を尊重することにした。

 


 ◇



 別居から三か月が経った頃、エレノアは久しぶりにアルベルトと顔を合わせることになった。場所はベルフォード伯爵家の庭園であり、二人は午後の穏やかな日差しの中、小さなテーブルを挟んで向かい合っていた。


 久しぶりに見る夫は、以前よりも少し穏やかな表情をしていた。淡い金髪は相変わらず丁寧に整えられていたが、目元にあった疲労の色は薄れ、以前のような張り詰めた雰囲気も和らいでいる。エレノアはその変化に気づきながらも、すぐに安心することはできなかった。これまで何度も夫の言葉を信じ、寂しさを我慢してきたからである。


 アルベルトは、妻の前に座ると、まず深く頭を下げた。彼は自分が仕事に没頭するあまり、妻の気持ちを軽視してきたことを改めて謝罪した。そして、仕事から離れて過ごす中で、彼女がどれほど多くのことをしてくれていたのかを知ったと伝えた。


 エレノアは、その言葉を静かに聞いていた。夫が反省していることは伝わってきたが、彼女が求めていたのは謝罪の言葉だけではなかった。これから先、同じような生活に戻ってしまうのなら、再び傷つくことになる。だからこそ、彼女は自分の気持ちをきちんと伝える必要があると考えていた。


「アルベルト様。私は、あなたに仕事を辞めてほしいわけではありません」

「……分かっているよ」

「あなたが侯爵家のために努力していることは、ずっと尊敬していました。けれど、私はあなたの妻として、一緒に過ごす時間も大切にしたかったのです」


 エレノアは、これまで胸の奥にしまい込んできた思いを少しずつ言葉にした。結婚記念日に一人で食事を取ったこと。約束を何度も取り消され、寂しい思いをしていたこと。夫が仕事で忙しいときには、負担をかけたくなくて自分の希望を伝えられなかったこと。そうした出来事を一つずつ話すうちに、彼女は自分がどれほど長い間、我慢を重ねてきたのかを改めて理解した。


 アルベルトは、妻の話を最後まで聞いていた。以前の彼なら、仕事が忙しかったのだから仕方がないと説明していたかもしれない。けれど、今はそのような言い訳をするつもりはなかった。彼女が寂しさを感じていたことに気づかず、何度も傷つけてきたのは自分なのだと理解していたからである。


「……本当に、すまなかった。私は君がいつも笑っていてくれるから、何も問題はないと思っていた。君がどれほど我慢していたのか、考えようともしなかったんだ」

「私も、自分の気持ちをきちんと伝えるべきだったのかもしれません」

「いや。君が何度も話そうとしてくれていたことは、今なら分かる。私はそのたびに、仕事を理由にして聞こうとしなかった」


 アルベルトは、妻の手元へ視線を落とした。以前なら、彼女が寂しそうにしていれば自然と手を握っていた。けれど、今はそうすることさえためらわれた。彼女が自分との距離を必要としていることを理解していたからである。


 エレノアは、そんな夫の様子を見ながら、少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。以前のアルベルトは、自分の考えが正しいと信じて疑わず、妻の気持ちを確かめることもなかった。けれど、今の彼は彼女の言葉を最後まで聞き、自分の過ちを認めようとしている。


 それでも、エレノアはすぐに別居を解消するつもりはなかった。


「……もう少しだけ、時間をいただけますか?」

「もちろんだ。君が納得できるまで、待つつもりだよ」


 アルベルトは穏やかに答えた。エレノアはその言葉に小さく頷き、久しぶりに夫の前で自然な笑みを浮かべた。


 その日、二人は結婚当初のように、庭園でゆっくりと紅茶を楽しんだ。仕事の話はほとんどせず、最近読んだ本や季節の花について語り合った。アルベルトは妻の話を興味深そうに聞き、彼女が楽しそうに笑うたびに、自分も穏やかな気持ちになっていくのを感じていた。


 かつての彼なら、こんな時間を無駄だと考えていたかもしれない。


 けれど、今は違う。


 妻と過ごす穏やかな午後が、何よりも大切なものに思えたのである。



 ◇



 それから二人は、少しずつ関係を修復していった。アルベルトは週に一度、ベルフォード伯爵家を訪れ、エレノアと茶会を開くようになった。最初のうちは互いに遠慮がちだったが、何度も顔を合わせるうちに、以前のように自然な会話を交わせるようになっていった。


 アルベルトは仕事への向き合い方も見直すようになった。父親から任された業務に復帰した後も、以前のようにすべてを自分で抱え込むことはせず、家臣たちに仕事を任せるようになった。必要な人員を確保し、長年の経験を持つ者たちの意見にも耳を傾ける。そうした変化によって、侯爵家の仕事は少しずつ安定を取り戻していった。


 何よりも大きく変わったのは、アルベルト自身の考え方だった。彼は、仕事で成果を上げることだけが人生の価値ではないと理解するようになっていた。家族と過ごす時間や、親しい人々との何気ない会話、季節の移ろいを楽しむ余裕も、人が幸せに生きるためには必要なものなのだと気づいたのである。


 エレノアも、別居生活を通じて少しずつ変わっていった。以前の彼女は夫の希望を優先するあまり、自分の気持ちを後回しにすることが多かった。けれど、実家で家族と過ごし、自分の好きなことに時間を使ううちに、誰かのために尽くすことと、自分の幸せを大切にすることは、決して矛盾するものではないと理解するようになった。


 そして、別居から半年が経った頃、エレノアは侯爵家へ戻ることを決めた。


 その知らせを受けたアルベルトは、久しぶりに心から喜んだ。彼は妻が戻ってくる日を楽しみにしながら、屋敷の使用人たちと相談し、彼女が安心して暮らせる環境を整えた。以前のように仕事を理由に迎えを任せることはせず、自ら馬車でベルフォード伯爵家を訪れ、妻を迎えに行った。


 エレノアは、そんな夫の姿を見ながら、少し照れくさそうに微笑んだ。結婚したばかりの頃、アルベルトはいつも彼女の手を取ってくれた。けれど、仕事に没頭するようになってからは、そうした何気ない触れ合いも少なくなっていた。


 馬車へ乗り込む際、アルベルトが自然に手を差し伸べてくれたことが、エレノアには嬉しかった。


 侯爵家へ戻った二人は、以前とは少し違う生活を始めた。アルベルトは仕事の時間をきちんと区切り、夕食にはできる限り妻と一緒に食卓を囲むようになった。休日には二人で庭園を散歩し、時には街へ出かけることもあった。仕事で忙しい日が続くこともあったが、彼は以前のように妻との約束を簡単に取り消すことはなくなった。


 エレノアも、夫に遠慮することなく自分の希望を伝えるようになった。疲れているときには休みたいと言い、行きたい場所があれば素直に伝えた。アルベルトはそんな妻の変化を喜び、彼女が自分の気持ちを話してくれることを大切にするようになった。


 ある休日の午後、二人は庭園の白い薔薇を眺めながら、並んでベンチに座っていた。春の終わりを告げる柔らかな風が吹き、花々の香りが辺りに漂っている。アルベルトは妻の手を握りながら、穏やかな表情で庭園を眺めていた。


「……アルベルト様、今日はお仕事をなさらなくてもよろしいのですか?」

「ああ。今日は君と過ごす日だからね。仕事は明日でも間に合うよ」


 エレノアは、夫の言葉を聞いて嬉しそうに微笑んだ。以前のアルベルトなら、仕事を優先することが当然だと考えていた。けれど、今の彼は妻との時間を大切にし、何もしないで過ごす休日を楽しめるようになっていた。


 アルベルトは、そんな妻の笑顔を見つめながら、かつて自分が口にした言葉を思い出した。妻と過ごす時間はコストパフォーマンスが悪い。あのときの自分は、何も分かっていなかったのだと、今ならはっきりと理解できる。


 仕事で成果を上げることも、侯爵家の財政を安定させることも大切だ。けれど、それらは愛する人と幸せに暮らすための手段でもあるはずだった。妻との時間を犠牲にしてまで仕事を続けることが、本当に合理的な選択だったのか。今のアルベルトには、もう答えが分かっていた。


「エレノア、今日は何をして過ごそうか」

「そうですね……。私は、このまま少しだけお庭を眺めていたいです」

「それなら、そうしよう。時間はたっぷりあるからね」


 アルベルトはそう答えると、妻の手を優しく握り直した。エレノアは夫の肩にそっと寄り添い、穏やかな午後の日差しを浴びながら、白い薔薇を眺めていた。


 かつては無駄だと思っていた時間が、今では何よりも愛おしい。


 アルベルトは、妻と過ごす何気ない休日を、これから先も大切にしていこうと心に決めた。


 そしてエレノアも、夫の隣で穏やかに微笑みながら、二人で歩む新しい日々を楽しみにしていた。

ある意味、婚約者も環境に毒された被害者なのかもしれませんね。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。