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婚約破棄された公爵令嬢ですが、私の領地が国の穀物の6割を生産していることをお忘れですか? 〜「真実の愛」とやらで私を追放した王太子が、食糧難と物価高騰で泣きついてきてももう遅い。

作者: 星村 流星
掲載日:2026/04/11

王都(おうと)の夜明けは、いつも麦の匂いから始まる。


石畳(いしだたみ)を行き交う荷馬車の車輪音、市場の開店準備に飛び交う怒鳴り声、パン屋の煙突から立ち昇る白い煙。

王都ヴァルセリアの朝は賑やかで、活気に満ち、一見すると豊かな国の縮図のように見えた。


だが、レティシア・フォン・アルベルハイムにはわかっていた。

この豊かさが、どこから来ているのかを。


「――本日の穀物搬入量の報告、確認しました。小麦が四千二百袋、大麦が千八百袋。例年より三割増しですが、王都の備蓄倉庫の収容量には問題ありませんか」


執務机(しつむづくえ)の向こうで羽根ペンを走らせながら、レティシアは届いたばかりの報告書に淡々と目を通した。二十二歳にしては落ち着きすぎているとよく言われる。黒みがかった深緑の瞳は感情の揺れを表面に出さず、唇は常に微かな弧を描いて閉じられていた。


「収容量は問題ありません、お嬢様。ただ、第三倉庫の換気扉に(きし)みが生じておりまして――」


「修繕見積もりを出させなさい。今季の収益から優先的に充当します」


「かしこまりました」


執事(しつじ)のオズワルドが静かに一礼して退室する。レティシアは次の書類へと視線を移した。



アルベルハイム公爵領(こうしゃくりょう)


建国三百年の新興国家ヴァルセリア王国において、五百年以上の歴史を誇る旧家の領地。かつては独立した王国であったその土地は、合併の際に「食糧生産地としての永続的供給」を条件に公爵位(こうしゃくい)を与えられ、現在に至る。

国土の南東部に広がるその肥沃(ひよく)な平野は、ヴァルセリア全土が消費する穀物の六割以上を産出し、河川を利用した水運網は物流の大動脈として機能していた。


要するに、この国の胃袋はアルベルハイム家が握っている。

それをわかっている者が、この王都に何人いるだろうか。


レティシアは書類から視線を上げ、窓の外を見た。王城の尖塔(せんとう)が朝日を受けて輝いている。あの城で今頃、王太子殿下(おうたいしでんか)はどのようにお過ごしだろうか。


想像するまでもない。彼女には、見えていた。



アルベルハイム公爵令嬢とヴァルセリア王太子エドヴァルト・フォン・ヴァルセリアの婚約は、レティシアが十四歳の時に締結された。


当時の国王が「国の基盤を安定させるため」と言ったその婚約は、表向きは格式高い政略(せいりゃく)であった。

だが実態はもっと単純だ。国庫(こっこ)が慢性的な赤字に悩んでいた時期、アルベルハイム家の豊富な農業収益と安定した物流網を、王家の後ろ盾として確保したかっただけのことである。


レティシアはそれを理解した上で、婚約を受け入れた。


感情の問題ではなかった。これは契約だ。アルベルハイム家は安定した政治的地位を得る。王家は経済的な安全網を得る。双方にとって合理的な取引だと、十四歳の彼女でも計算できた。


そして八年間、彼女はその契約を誠実に履行(りこう)してきた。


王太子の王宮運営に必要な食糧を、市場価格の四割引きで安定供給し続けた。河川の整備費用はアルベルハイム家が持ち、王都への水運コストを大幅に圧縮した。農業技術の改良により収量(しゅうりょう)を増やし、近年続く不作の年でさえ他領への融通(ゆうずう)を欠かさなかった。


その見返りは何か。

婚約者としての地位。それだけである。


爵位(しゃくい)の格上げもなく、交易権の拡大もなく、王家からの実質的な経済的還元もない。むしろ毎年のように「臨時の供出(きょうしゅつ)」を求める書面が届き、レティシアはそのたびに領地の収支と(にら)み合いながら、算盤(そろばん)(はじ)いた。


それでも、契約だから、続けてきた。



「お嬢様。本日の茶会のご準備が整っております」


侍女(じじょ)のマリアが入室してきた時、レティシアは三十七枚目の書類に判を押していた。


「また王宮での茶会ですか」


「はい。殿下より直々にお召しがかかっております。先週のご欠席を、随分と気にされているようで」


レティシアは静かにペンを置いた。

先週の欠席は正当な理由があった。領地で水路の修繕工事が発生し、業者との交渉と現地確認のために三日間の不在を余儀なくされたのだ。その三日間で、下流域の農村二十三か所への灌漑(かんがい)供給が安定し、来季の収量が推定で十五パーセント増加する見込みが立った。


王太子との茶会一回より、遥かに大きな成果だ。


「参りましょう」


それでも彼女は立ち上がった。契約の履行として。



王宮の茶室は、今日も豪奢(ごうしゃ)だった。


輸入品のレースのカーテン、大陸南方から取り寄せた陶磁器のカップ、庭師が丹精込めた温室の花。王太子エドヴァルトは三十二着あると噂される上着のうち、今日は淡い青の一着を選んでいた。金髪を整え、碧眼(へきがん)を輝かせ、微笑みながらレティシアを迎える。


絵になる男だとは思う。ただ、絵には実務能力が不要だ。


「レティシア、先週は残念でしたよ。せっかく良い紅茶を取り寄せたのに」


「申し訳ございません、殿下。領地の緊急の用件がございまして」


「いつもそうですね、あなたは」


エドヴァルトの声に微かな(とげ)が混じった。レティシアは表情を変えずにカップを持ち上げた。


そして気づいた。

椅子の配置が、いつもと違う。


円卓を囲む席のうち、エドヴァルトの右隣――本来レティシアが座るべき位置に、すでに別の人物が座っていた。


ミレーユ・ド・シャンタン。侯爵令嬢(こうしゃくれいじょう)。二十歳。


王都社交界において「今季最も輝く令嬢」と評判の少女は、ふわりとした金の巻き毛と人懐こい笑顔を持ち、レティシアを見上げてにっこりと微笑んだ。悪意のかけらも感じさせない、純粋な笑顔だった。


それが、(かえ)って雄弁だった。


(なるほど)


レティシアは心の中だけで(つぶや)き、エドヴァルトの左隣の席へと静かに腰を下ろした。



変化は、そこから急速だった。


週に一度の茶会にミレーユが同席するようになり、やがて「同席」は「主席」になった。エドヴァルトがレティシアに向ける言葉は減り、届く書簡の文面は事務的になり、公式行事での立ち位置が少しずつ、しかし確実に変わっていった。


レティシアはその変化を数値で観察した。

接触頻度、月次比較:約六十二パーセント減。書簡内容の感情的語彙出現頻度:約七十八パーセント減。公式行事における並列回数:ゼロ。


感情的な痛みがないとは言わない。八年間の婚約者だ。人間である以上、何かが削れる感覚はある。ただ、その「何か」は契約への執着に過ぎないと、彼女は自分に言い聞かせた。


そして観察を続けた。

ミレーユ・ド・シャンタン侯爵令嬢について。


シャンタン家は王都近郊に小さな領地を持つ名ばかりの侯爵家だ。主要産業は観光地としての景観貸しと、王都の商人への小規模な金貸し業。農業生産はほぼ皆無、物流網は独自には持たず、王都の市場インフラに完全に依存している。


ミレーユ本人は、舞踏(ぶとう)が得意で、七か国語で社交的な会話ができ、生け花と乗馬の資格を持つと聞いた。

実務能力については、情報がなかった。


つまり「ない」ということだ。あれば(うわさ)になる。



決定的な日は、秋の収穫祭の前日に訪れた。


レティシアは王宮に呼び出された。謁見の間(えっけんのま)ではなく、王太子の私的執務室。ということは、国事ではなく個人的な用件だ。


室内には、エドヴァルトとその側近が二名。そして見慣れた顔が一つ加わっていた。ミレーユが、エドヴァルトの隣に立っている。


「レティシア」


エドヴァルトは椅子に深く(もた)れ、組んだ足の上で指を組みながら言った。


「婚約を解消したい」


レティシアは三秒、沈黙した。

感情的な動揺を整理するためではない。発言の意味と影響範囲を、瞬時に計算するための三秒だった。


「理由をお聞かせください、殿下」


「理由?」エドヴァルトは軽く眉を上げた。「あなたはわかっているでしょう。私が求めているのは、共に歩める伴侶(はんりょ)です。政務の補佐ではない。ミレーユは私を理解してくれる。あなたのように、いつも数字と書類の話ばかりする人ではない」


ミレーユが申し訳なさそうに視線を伏せた。演技が上手い、とレティシアは思った。


「それは」彼女は静かに言った。「殿下のご意思として、承りました。ただ、婚約解消には双方の合意と、締結時の条項に従った手続きが必要です。法務担当を通じて――」


「それはおいおい進めればいい」


エドヴァルトが(さえぎ)った。


「それよりも、一つお願いがある。来月の建国記念祭典に向けて、例年より多くの食糧が必要になる。例年の倍の量を、今年も同じ価格で供給してほしい」



レティシアの思考が、一瞬だけ停止した。


例年の倍。同じ価格。

今日、婚約解消を告げた相手に対して。


「――殿下」


彼女は、この八年間で初めて、エドヴァルトの目を真っ直ぐに見た。


「整理させてください。殿下は今、私との婚約を解消したいとおっしゃいました。その上で、例年の倍の食糧を従来と同じ価格で供給するよう求めている。この理解に、齟齬(そご)はありますか」


「そう難しく考えなくとも……公爵家として国に貢献するのは当然でしょう。それに、婚約解消はあくまでも個人的な話です。領地と王国の関係は別問題だ」



「別問題」。


レティシアは、その言葉を心に刻んだ。

この男は本当に、理解していない。


アルベルハイム家が市場価格の四割引きで食糧を供給し続けてきたのは、婚約関係という「政治的担保」があったからだ。その担保を今まさに撤廃(てっぱい)すると言っておきながら、同一の価格条件での供給継続を求める。更に倍量を。


感情ではなく、純粋な経済論理として、これは成立しない。


「かしこまりました、殿下」


レティシアは微笑んだ。

エドヴァルトが「話が早い」とでも言いたげに口元を緩めた瞬間、彼女は続けた。


「では、正式な婚約解消の書面と、食糧供給に関する新規契約書を、法務担当者を通じてお送りください。現行の婚約を前提とした供給条件は、解消と同時に失効しますので」


「……は?」


「先ほど殿下がおっしゃったように、婚約と領地の関係は『別問題』です。であれば、供給契約も独立した取引として、改めて市場原理に基づいた条件設定が必要になります。倍量のご要望については、現在の生産・輸送コストを精査した上で、適正価格でご提示申し上げます」


室内が、静まり返った。


エドヴァルトの表情から、笑みが消えていた。

ミレーユは何が起きているのか理解できていない様子で、きょとんとした顔でレティシアを見ていた。


「……それは、脅しですか」


「いいえ、殿下」


レティシアは立ち上がり、ドレスの(すそ)を整えながら、静かに礼をした。


「事実の確認です」



王宮を出た馬車の中で、レティシアは膝の上に手帳を広げ、羽根ペンを走らせた。


やるべきことが、山ほどある。

法務担当への連絡。契約条件の見直し。領地との連絡網の強化。そして何より――次のフェーズの準備。


馬車の窓から見える王都の街並みは、今朝と変わらず賑やかで活気に満ちていた。市場に並ぶ野菜も、荷馬車が運ぶ穀物袋も、食堂の軒先に下げられた干し肉も。


その全てのどこかに、アルベルハイム領の産物が混じっている。


彼らはまだ、気づいていない。

自分たちが毎日当たり前のように食べているものが、どこから来ているのかを。それがなくなった時、この街がどうなるのかを。


レティシアは手帳に一行、書き加えた。


 ――損切(そんぎ)り期限:来月の収穫祭まで。


それだけ書いて、ペンを置いた。窓の外に目をやると、王宮へ向かった時とは打って変わり、傾きかけた日が、王城の尖塔を橙色(だいだいいろ)に染めていた。


美しい、と思った。

もうじき、この景色の意味が変わる。


* * *


婚約解消の正式書面が届いたのは、エドヴァルトとの会談から五日後のことだった。


羊皮紙(ようひし)に押された王家の紋章蝋印(もんしょうろういん)は美しく、文面は簡潔で、法的に申し分のない体裁(ていさい)を整えていた。要するに、王太子側の法務担当は有能だということだ。レティシアはそれを素直に評価しながら、書面を机の上に置き、自らの法務顧問であるヴァルター老弁護士(べんごし)を呼んだ。


「確認を」


「はい、お嬢様」


ヴァルターは分厚い眼鏡の奥の目を細めて書面を精査し、三分後に顔を上げた。


「正式な婚約解消通知として法的要件は満たしております。ただし、八年前の婚約締結時に付帯(ふたい)していた『経済条項』――食糧供給に関する優遇価格の継続義務については、意図的(いとてき)に言及が省かれています」


「省かれている」


「はい。おそらく、そのまま継続されるものと先方は認識しているのでしょう」


レティシアは小さく息を吐いた。(あき)れではなく、確認の息だ。


「では、こちらから通知を出しましょう。婚約締結時の付帯条項は婚約の存続を前提としていたため、解消と同時に失効する。従来の優遇供給条件は今月末をもって終了し、以降は市場価格に基づく新規契約が必要である――という内容で」


「かしこまりました。しかし、お嬢様。これを送れば、王宮は相当な混乱に――」


「それは王宮の問題です」


レティシアは静かに遮った。


「私が対処すべきなのは、アルベルハイム領の経営です。感情で採算の合わない契約を続けることは、領民への背信(はいしん)になる。ヴァルター、私の仕事はそれを守ることです」


老弁護士は一瞬だけ目を伏せ、深く頷いた。



王宮から返答が来たのは、通知を送ってから四日後だった。


封を開けると、エドヴァルトの直筆と思われる走り書きが一枚。


『冗談はやめなさい。婚約解消は個人的な事柄であり、国家間の供給義務とは無関係です。従来通りの条件での継続を求めます。これは王太子としての命令です』


レティシアはその紙を読み、折り畳み、机の引き出しに入れた。

返答は書かなかった。


代わりに翌朝、彼女は全ての書類に判を押した。輸送業者への通知、倉庫管理者への指示、王都の取引業者への書面。そして領地の農業組合長への手紙。


内容は全て同じ方向を向いていた。


――段階的撤収の開始。



最初に変化が現れたのは、王都の卸売(おろしうり)市場だった。


収穫祭が終わり、十一月に入った頃、アルベルハイム産の小麦の入荷量が前月比で三割減少した。市場の業者たちはまだ気にしていなかった。在庫はある。他の産地で補える。そう思っていた。


しかし他の産地が、思うように動かなかった。


実はアルベルハイムの水運網は、単に自領の産物を運ぶためだけに使われていたわけではない。周辺三領の物流を一括して担い、まとめて王都へ届ける中継(ちゅうけい)ハブの役割を果たしていた。その手数料は破格の安値で、しかも品質管理が行き届いていたために、他領の領主たちも積極的に利用していた。


その「格安物流サービス」が、十一月末をもって終了した。


「運送費が三倍になった」と周辺領主が嘆き始めたのは、十二月に入ってすぐのことだ。



王宮の食糧管理局長官、バウアー伯爵(はくしゃく)が初めてアルベルハイム邸を訪問してきたのは、十二月の第二週だった。


レティシアは応接室で彼を迎えた。茶と菓子を出し、礼儀正しく、しかし一切の感情を載せずに向き合った。


「フォン・アルベルハイム令嬢。率直に申し上げます。王宮の備蓄が、来春までの分しかございません。例年であれば今頃、アルベルハイムからの第三次搬入が完了しているはずなのですが」


「存じております」


「では――」


「バウアー局長官」レティシアは静かに口を開いた。「先月、新規の供給契約書を王宮法務部へお送りしました。ご確認いただけましたか」


バウアーの表情が微妙に歪んだ。


「それは……殿下が、現行条件での継続を望んでおられて」


「現行条件は、婚約期間中にのみ有効な優遇価格です。婚約は先月末をもって正式に解消されました。以降は市場価格での取引が原則となります」


レティシアは机の上に一枚の紙を置いた。


「こちらが現在の市場価格に基づく新規供給条件です。品質保証、輸送費込みで、一袋あたり銀貨十二枚。これは現在の王都市場相場と同額です。ご要望の数量を事前にお知らせいただければ、優先的に枠を確保いたします」


バウアーは紙を見た。

そして顔色が変わった。


従来の優遇価格は一袋あたり銀貨七枚だった。差額は五枚。王宮が年間に消費する穀物の量で換算すれば――彼の頭の中で数字が弾かれたのだろう、額に汗が滲んだ。


「こ、これでは王宮の食糧費が……二倍近くに」


「はい」


レティシアは頷いた。あっさりと。


「八年間、私どもは市場価格の約四割引きで供給を続けてまいりました。その差額は累計(るいけい)で、王宮の年間食糧予算の三年分に相当します。申し上げにくいことですが、これはアルベルハイム家が実質的に負担してきた補助金のようなものです」


「それは……公爵家として国に対する――」


「義務ですか」


言葉が、静かに室内に落ちた。


「公爵家の義務は、合理的な価格での安定供給です。『合理的な』というのは、生産・輸送・管理コストを回収した上で、適切な利益が得られる水準を意味します。国家への奉仕を大義名分に、採算を無視した価格設定を強いることは、義務ではなく搾取(さくしゅ)と呼びます」


バウアーは何も言えなかった。

論理的に反論できる余地が、どこにもなかったからだ。


「新規契約書へのご署名を、年内にお願いいたします。年明け以降の供給枠は、署名済みの契約を持つ取引先から優先的に確保いたします」



バウアーが帰った後、レティシアは窓の外を眺めた。


王都の空は鉛色(なまりいろ)だった。冬の曇天(どんてん)。この時期の王都では、日照が少ない分だけ燃料と食糧の消費が増える。アルベルハイム産の小麦から作られるパンは安価で量が多く、王都の労働者層にとって主食と言っていい存在だった。


その価格が、年明けから上がる。


レティシアは感傷を持たなかった。彼女がやめたのは「補助金」だ。民が食えなくなるほど値を釣り上げたのではなく、ただ適正価格に戻しただけのことだ。


問題が起きるとすれば、それは八年間の「補助金」が当然のものとして組み込まれてしまっていた王宮の財政計画にある。


自分の懐でもない金が、永遠に続くと信じて予算を組んでいた者たちの話だ。



王都の市場が騒がしくなったのは、一月に入ってからだった。


アルベルハイムからの安価な搬入が減少し、物流コストの高騰も相まったことで、王都の小麦の市場価格は一袋あたり銀貨三枚上昇した。たった三枚、されど三枚。庶民にとっては月の食費に直接響く数字だ。


パン屋が値を上げ、食堂が量を減らし、市場に文句を言う声が増えた。


王宮は対応に追われた。だが対応の財源がなかった。

年初の王宮財政会議の議事録が、後に漏れ伝わるところによれば、その会議は七時間に及び、誰も具体的な解決策を出せないまま終わったという。


エドヴァルトが何を言ったかも伝わっている。


「アルベルハイム家を説得できないのか」


それだけだったという。



ミレーユ・ド・シャンタンが初めて「現実」に触れたのは、一月の後半だった。


彼女はそれまで、この状況を「レティシアの嫌がらせ」だと信じていた。婚約を破棄された逆恨みで、食糧の供給を渋っているのだと。だから「仲裁してあげましょうか」と笑顔でエドヴァルトに申し出るような余裕があった。


しかし王宮の家令(かれい)から「今月の宴会食材の予算が昨年の六割しかない」と告げられた時、初めて何かがおかしいと気づいた。


「なぜですか」


「食材費が上がっているためです」


「なぜ上がっているのですか」


「アルベルハイム産の穀物が市場価格になったためです」


「……それは、どういう意味ですか」


家令の答えは長かった。ミレーユにとっては長すぎて、半分しか理解できなかった。ただ一つだけ、はっきりとわかったことがある。


今まで自分たちが「当然の価格」だと思っていた食糧の値段は、アルベルハイム公爵令嬢が負担していた特別価格だったということ。


そしてそれは、もうない。



二月、状況は加速した。


王宮の節約令が出た。宴席の規模縮小、燃料の使用制限、王宮勤めの下級職員への給与遅配(ちはい)


エドヴァルトは連日、顧問たちと会議を繰り返した。しかしその顧問たちもまた、実務に明るい者が少なかった。予算削減案は出ても、収入増加策は出ない。他領からの調達を増やそうとすれば、今度はアルベルハイムが担っていた物流の穴が問題になる。代替の輸送業者を手配しようとすれば、コストがかかる。コストを払う財源がない。


八年間、当たり前のようにそこにあったものを、失って初めて、その輪郭が見えてきた。


第三週、王都で初めての「パン不足」が報告された。


特定の区画で小麦粉の在庫が底をつき、パン屋が三日間の臨時休業を余儀なくされた。大事には至らなかったが、王都市民の間に動揺が広がった。国王への陳情書(ちんじょうしょ)が複数提出され、貴族院(きぞくいん)では「食糧政策の失敗」を問う声が上がり始めた。


その矛先(ほこさき)は、当然、王太子へ向かった。



そのころレティシアは、領地にいた。


王都の邸宅ではなく、アルベルハイムの本邸(ほんてい)。代々の公爵家が守ってきた、大平野を見渡せる丘の上の屋敷。


彼女は朝から夕まで、農業組合長と水路工事の設計者と来季の作付(さくづ)け計画を議論し、夕食後は貿易商の書簡に目を通し、新しい取引先候補のリストを作っていた。


王都の騒動は、届いてくる報告書で把握していた。

感情は、動かなかった。


人が倒れているわけではない。飢えているわけでもない。ただ、長年にわたって「あって当然」と思い込んでいたものが、適正な価格に戻っただけのことだ。


彼女がしたのは「復讐」ではない。

補助を止めただけだ。「私がいなければどうなるか」という問いへの答えを、現実が勝手に証明しているに過ぎない。



三月の初旬、一通の書簡が届いた。


差出人の名は、レティシアも名前だけは知っていた。

ソレル商会。大陸規模の流通網を持つ、現在最も勢いのある大商会。その総帥(そうすい)は、まだ二十八歳だという。


書簡の文面は簡潔だった。


『アルベルハイム公爵令嬢殿。貴領の農業生産能力と物流基盤について、かねてより高い関心を持っておりました。ご都合のよろしい折に、一度お会いする機会をいただけないでしょうか。双方にとって利益のある提案があります』


レティシアは手紙を読み、もう一度読んだ。


「双方にとって利益のある」。

久しぶりに聞く言葉だ、と思った。


王宮からの書簡には、そういう言葉は一度も書かれていなかった。いつも一方的で、義務という名の要求ばかりだった。


彼女は羽根ペンを取り、返信を書いた。


『三日後、領地の本邸応接室にて』


その一行だけ記して、封をした。



窓の外では、春の気配が始まろうとしていた。


大平野に広がる麦畑は、まだ冬枯(ふゆが)れの茶色だ。しかしその土の下では、すでに種が根を張り始めている。

レティシアはそれを知っていた。


王都の混乱はまだ続くだろう。エドヴァルトはまだ何かを要求してくるかもしれない。ミレーユは状況を理解できないまま不安の中にいるだろう。


だが、それはもう、彼女の問題ではない。


自分の仕事がある。自分の領地がある。自分が守るべき領民がいる。

そして今、初めて、「対等な取引」を申し出てくる相手が現れた。


レティシアは手帳を開き、新しいページに一行書いた。


――ソレル商会。面会:三月七日。


それだけ書いて、次の書類へと手を伸ばした。

春の準備は、始まっている。


* * *


ソレル商会の総帥、カイル・ソレルは約束の時刻の十分(じゅっぷん)前に現れた。


それだけで、レティシアは相手の輪郭を掴んだ。

早すぎる到着は準備不足の裏返しであることが多い。しかし十分(じゅっぷん)前という数字は違う。相手の時間を侵食しない配慮と、自分の余裕を示す計算が、その数字に込められている。時間の使い方は、人間の思考様式を映す鏡だ。


応接室に通されたカイル・ソレルは、想像していたよりも地味な出で立ちだった。大商会長というから、もっと派手な装飾を纏っているかと思っていた。しかし彼が着ていたのは、仕立ての良い濃紺の上着と、使い込まれた革の書類鞄。指輪は一つだけ、左手の薬指に実務的なシグネットリング。


二十八歳の若さに反して、無駄がなかった。


「フォン・アルベルハイム令嬢。お時間をいただきありがとうございます。カイル・ソレルです」


「レティシア・フォン・アルベルハイムです。お越しいただきありがとうございます、ソレル商会長」


握手は短く、力強く、対等だった。


二人は向かい合って座り、侍女が茶を出して退室した。

カイルは書類鞄を膝の上に置き、すぐには開かなかった。


「単刀直入に申し上げていいですか」


「むしろそうしていただけると助かります」


カイルは微かに笑った。初めて表情が動いた。


「アルベルハイム領の農業生産量は、ヴァルセリア全土の六割強。物流基盤は周辺三領をカバーする中継ハブ。品質管理の水準は大陸でも上位に入る。それにもかかわらず、販路は国内に限定され、価格交渉力は実態より遥かに低い位置に置かれていた」


レティシアは頷いた。


「それがこの八年間の実態です」


「ではお聞きします。令嬢は、この生産力を国内だけで消費することに、合理性があるとお考えですか」


沈黙は二秒だった。


「ありません」


「同意見です」


カイルはようやく書類鞄を開いた。中から取り出したのは、数十枚の資料だった。地図、数表、交易ルートの図解。それらを机の上に広げる手つきは、慣れた手続きそのものだった。


「ソレル商会の主要ルートです。北方の鉱山都市から南方の港湾都市まで、現在十七の中継拠点を持ち、六か国との定期交易を行っています。我々が持っていないのは、安定した農産物の供給源です」


レティシアは資料に目を落とした。


地図の上に引かれた交易ルートは、見事な網目を描いていた。ヴァルセリア国内だけではなく、国境を越えて大陸の東西を繋いでいる。その規模は、噂で聞いていたよりも更に大きかった。


「我々のルートに農産物が加われば、輸送コストの大幅な削減が可能です。現在、食料品は嵩張る割に単価が低いため、専用の輸送業者にとっては旨味が薄い。しかしソレル商会の既存ルートに相乗りするなら、追加コストは限界まで圧縮できる」


「具体的な数字は」


「現在の王都向け輸送コストを基準にするなら、大陸東部の港湾都市への輸送でも同程度のコストで可能です。距離で言えば四倍遠いにもかかわらず」


レティシアは手元の計算用紙に素早く数字を書いた。


四倍の距離で同コスト。港湾都市への輸出なら、国際市場価格が適用される。ヴァルセリア国内の相場より最低でも二割、場合によっては五割高い。


「つまり」彼女は顔を上げた。「同じ量を売って、現在の一・二倍から一・五倍の収益が見込める」


「最低でも。農産物の国際需要は今後五年で増加すると我々は見ています。データをお見せします」


カイルが別の資料を取り出した。数字の羅列ではなく、グラフと解説が組み合わさった、読みやすい形式に整理されている。


レティシアはそれを黙読した。

数字は正直だ。感情もなく、見栄もなく、ただ現実を映す。この資料が示す市場動向は、確かにカイルの言葉を裏付けていた。


「条件をお聞かせください」


「アルベルハイム産農産物の優先的な輸出権を、ソレル商会に。見返りとして、輸送コストの全額負担と、販売価格の二割を令嬢の収益として保証します。市場価格が上昇した場合は、その上昇分に連動してレティシア側の取り分も増えます」


「排他的契約ですか」


「国内販路は御自由に。我々が求めるのは輸出分のみです。それも、令嬢が指定する量の範囲内で」


レティシアはペンを止めた。


「令嬢が指定する量の範囲内で」。

つまり、供給量の決定権はこちらが持つということだ。需要に応じて無制限に搾り取られる構造ではない。


「物流網の使用について。私の領地は現在、周辺三領の輸送を担っていましたが、この春からその業務を縮小しています。新たなルート設計が必要になります」


「存じています」カイルは言った。「その周辺三領についても、ソレル商会のルートに組み込むことを提案します。令嬢が担っていた中継機能を、規模を拡大して再構築する。これにより、令嬢の物流負担は減り、我々のルートは充実し、周辺領主は安定した輸送を得る。三方よしです」


三方よし。

レティシアはその言葉を心の中で転がした。

八年間、聞いたことがなかった言葉だ。


交渉は二時間続いた。


カイルは数字に強く、反論に動じず、しかし主張を押しつけなかった。レティシアが「この条項は修正が必要です」と言えば、彼は「理由をお聞かせください」と返し、説明を聞いた後で「では代替案として」と提案した。


感情が一切介在しない交渉だった。

それが、恐ろしく快適だった。


最終的に合意した条件は、当初提案から細部を修正したものだった。輸出量の上限設定、天災による不作時の免責条項、三年ごとの価格条件見直し。どの修正もカイルが即座に受け入れるか、代替案で応じた。


「最後に一つ、お聞きしてもいいですか」


契約書の最終確認を終えた後、カイルは書類をまとめながら言った。


「なぜ、もっと早くこうしなかったのですか」


レティシアは少し考えた。


「契約があったからです」


「婚約というご契約ですか」


「それもありますが、むしろ――」彼女は正直に言った。「アルベルハイム家がこの国の食糧基盤を担っているという現実が、私を縛っていた部分があります。国内に問題が起きることを、避けようとしていた」


「なるほど」カイルは頷いた。「しかしそれは、令嬢の採算性を犠牲にすることで成り立つ『安定』だった」


「そうです」


「それを八年間続けたというのは」カイルはしばらく間を置いた。「経営者として、正直に言えば非合理です。しかし人間として言えば、真摯だったということでもある」


レティシアは返答しなかった。

カイルも、それ以上は言わなかった。


互いに、必要以上のことを言わない。それが、この交渉全体を通じた暗黙の了解だった。


契約書が正式に締結されたのは、三月末のことだった。


翌四月、ソレル商会の輸送隊が初めてアルベルハイム領に入った。商会の紋章を刻んだ大型の幌馬車が二十台以上、整然と並んで平野の道を行く光景を、レティシアは本邸の高台から眺めた。


それは今まで見たことのない景色だった。

自領の産物が、この国の外へと出ていく。国境の向こうの市場へ、海の向こうの港へ。


領地の農業組合長が、隣に立って同じ景色を見ていた。


「お嬢様、これは本当に……良かったんでしょうか」


「何が不安ですか」


「なんといいますか。王都への供給が減ったことで、まだ文句が来ていると聞いておりますが……」


「文句を言う権利のある相手から来ていますか」


老組合長は首を横に振った。


「新規契約を結んだ相手には、優先供給しています。契約を結ばずに従来価格での継続を求めている相手に対しては、供給の優先順位を下げています。それだけのことです」


「では、問題ないと」


「問題は、相手が作っているのです。解決するのも相手の仕事です」


五月、王都から届く報告は、レティシアが予測した通りの経路を辿っていた。


王宮の財政は逼迫し、エドヴァルトが側近に怒鳴り散らしているという話が複数の情報源から届いた。貴族院では食糧政策をめぐる批判が噴出し、国王の健康悪化の噂も流れ始めた。


そしてミレーユ・ド・シャンタンについて。

彼女の父であるシャンタン侯爵が、今季の収益悪化を受けて家内の人員整理を始めたという。小規模な金融業は、経済の混乱期に真っ先に焦げ付く。取引先の支払い能力が低下すれば、貸した金が返ってこない。


ミレーユが王太子との婚約を前提に積んでいた諸々の算段が、じわじわと狂い始めている、と報告書には書いてあった。


レティシアはその報告書を読んで、書類棚に仕舞った。

感慨はなかった。


正確に言えば、感慨を持つ必要がなかった。彼女はミレーユに何もしていない。ただ適正価格に戻し、補助を止めただけだ。その結果がどうなるかは、当事者たちが自らの行動によって決めることだ。


六月になると、アルベルハイム領の変化は目に見えて明らかになった。


ソレル商会との契約から最初の決算が出た。

輸出分の収益は、従来の王都向け供給の一・四倍に達した。輸送コストをソレル商会が負担している分、実質的な利益率は更に高い。カイルの予測は、初年度から現実になっていた。


その資金を、レティシアは領地に投じた。


灌漑設備の拡張。農業技術者の招聘。収穫後の加工設備――粉砕施設と乾燥倉庫の新設。これにより、原材料としての小麦だけでなく、小麦粉や乾燥食材といった付加価値商品の輸出が可能になる。


一次産業から、加工業を含めた複合産業への転換。

それはアルベルハイム家が五百年かけても踏み出せなかった一歩だった。「国の食糧庫」という役割に縛られて、その枠の中に留まり続けていた一歩を、レティシアは軽やかに越えた。


七月の半ば、カイルが二度目の訪問をしてきた。

今度は商談ではなく、経過確認と次期計画の協議だ。


二人は領地の畑を歩きながら話した。執務室ではなく、実際の生産現場を見ながらというのはカイルの提案だった。


「加工設備の稼働はいつ頃を見ていますか」


「今秋の収穫後、最初の試運転を予定しています。来年の春には本格稼働できる見込みです」


「では来年の輸出商品リストに小麦粉を加えられる、ということですね」


「品質試験の結果次第ですが、おそらく」


カイルは畑の畔道を歩きながら、広大な麦畑を眺めた。


「大陸東部の市場では、精製度の高い小麦粉への需要が増えています。現地の粉砕技術が追いついていないため、輸入依存が高い。アルベルハイムの小麦質であれば、間違いなく上位グレードで売れます」


「価格帯は」


「現在の小麦原材料の三倍から四倍。輸送コストは比重が増えますが、体積比では同等以下なので大きな問題にはなりません」


レティシアは手帳に数字を書きながら歩いた。


三倍から四倍。同じ麦畑から、同じ量の小麦を収穫して、ただ粉にするだけで収益が三倍になる。

なぜ今まで、そうしてこなかったのか。


答えは単純だ。王都への安価な供給を最優先にしていたからだ。加工する余力があれば、その分を王宮に持っていかれていた。


「ソレル商会長」レティシアは歩きながら言った。「一つ確認させてください」


「はい」


「この契約関係において、私の生産量や販売先の多様化を、商会が制約することは」


「ありません」カイルは間を置かずに答えた。「我々の利益は、令嬢の生産量が増えることで拡大します。令嬢が強くなることが、我々にとっても利益です。縛ることに何の意味もない」


レティシアはそこで歩みを止めた。


「令嬢が強くなることが、我々にとっても利益です」。

八年間、一度も聞かなかった言葉だ。


いつも逆だった。アルベルハイムが強くなることは、王宮への依存を下げることを意味し、それは「望ましくない」と遠回しに、あるいは直接的に言われ続けてきた。


「わかりました」


それだけ言って、また歩き出した。

カイルも何も言わず、隣を歩いた。


八月に入った頃、王都から一通の書簡が届いた。


差出人はエドヴァルトではなかった。国王の名代として、宰相府から出された公式文書だった。

内容を要約すれば、「アルベルハイム公爵家の国内食糧供給に関して、国家安全保障の観点から協議の場を設けたい」というものだった。


丁寧な文面だった。従来の命令口調ではなく、「協議」という言葉を使っていた。それはつまり、力関係が変わったということを、宰相府が認識しているということだ。


レティシアは書面を一読し、返信を口述した。


「国内向けの安定供給は継続する意思があります。ただし、供給条件は現行の市場価格を基準とした契約に基づきます。具体的な条件については、法務担当者を通じて正式な交渉の場を設けてください」


それだけだ。

感情も、恨みも、溜飲を下げる言葉も、何もない。ただ、事実と条件のみ。


九月の収穫祭は、アルベルハイム領史上最大の規模になった。


豊作だった。加工設備の試運転も成功した。ソレル商会から来た技術者たちが、収穫後の選別と乾燥のプロセスを監修し、初めて輸出グレードの小麦粉の試作品が完成した。


カイルが試作品を持参してきた大陸東部の商人に見せたところ、即座に「来年分の全量を予約したい」と言われたという。


「価格は」レティシアは聞いた。


「令嬢が提示した予想価格の上限を超えました」


レティシアは一瞬、手を止めた。


「どの程度」


「十二パーセント上回りました。品質評価が予想より高かったためです」


沈黙があった。

レティシアはゆっくりと息を吐いた。それは安堵でも驚愕でもなく、ただ長い計算の答えが、想定より良い数字で出てきた時の、静かな確認の息だった。


「わかりました。来年度の生産計画を見直します。加工品の比率を増やすために、設備の追加投資が必要になりますが」


「投資額の見積もりをいただければ、商会からの前払い購入という形での資金調達も検討できます」


「前払い購入」


「リスクを取るのは我々です。令嬢の資本を縛る必要はない」


十月、アルベルハイム領の年間収益は、前年比で一・七倍に達することが確定した。


レティシアはその数字を見て、書類棚に仕舞った。

特別な感慨は、なかった。


これが始まりに過ぎないことを、彼女は知っていた。来年は加工品の輸出が本格化する。再来年には新設予定の乾燥倉庫が稼働し、保存食品の種類が増える。五年後には、ソレル商会との取引を通じて、大陸東部の市場に直接的な販売ルートが開ける可能性がある。


地平が、広がっていた。


十一月の終わり、王都から最後の報告が届いた。


エドヴァルトとミレーユの婚約が、「諸般の事情により」解消されたという。シャンタン侯爵家の財政悪化が表向きの理由とされていたが、実態はもっと複雑だった。王太子の側近だった人物が複数、より安定した地位を求めて離れ始めており、王宮内での発言力が急速に低下していた。


レティシアはその報告を読んだ。

目線が、次の書類へと移った。


三秒で。


それだけの時間で、過去八年間の婚約と、その解消の顛末と、それに伴う全ての出来事が「完了」に分類され、彼女の思考から退場した。


感情的な勝利を噛みしめることも、相手の惨状を眺めて溜飲を下げることも、なかった。

ただ無関心だった。


本物の無関心。演じているのではなく、本当に興味がなかった。なぜなら、彼女が向いている方向に、エドヴァルトもミレーユも存在していないからだ。


十二月の最初の朝、レティシアは本邸の高台に立って大平野を眺めた。


冬の空気は澄んでいて、遠くの山脈まで見通せた。収穫を終えた畑は静かな茶色で、春に向けて休んでいる。


オズワルドが後ろに控えていた。


「お嬢様、本日のご予定ですが」


「午前中はソレル商会から来る設計士と加工棟の増設について打ち合わせ。午後は農業組合長と来年の作付け計画。夕方以降は大陸東部向けの新規品目についての資料をまとめます」


「かしこまりました。王都からも昨日、宰相府より――」


「正式な契約交渉の申し入れであれば、法務のヴァルターに窓口を任せてあります。そちらに回してください」


「承知いたしました」


オズワルドが一礼して退がった。

レティシアは再び平野を眺めた。


この土地は五百年前から、ここにある。自分が来る前も、自分が去った後も、ここにあり続ける。

王国が変わっても。王太子が変わっても。


大地は、与え続ける。それに応えることが、この家の仕事だ。


そしてようやく今、その応えが、適正な形で外へと向かっている。

補助金の名の下に搾り取られるのではなく。命令という名の下に縛られるのでもなく。


対等な契約と、正当な対価と、相互の利益のために。


レティシアは一度だけ、深く息を吸った。

冬の冷たい空気が、肺の奥まで入ってくる。


それから彼女は踵を返し、本邸へと歩き出した。

仕事がある。


地平の向こうに、まだ見えていない市場がある。まだ結んでいない契約がある。まだ数えていない可能性がある。


レティシアの足取りは、迷いなく、軽く、前を向いていた。


春が来れば、また種を蒔く。

それだけのことだ。それだけで、この世界は十分に広い。

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― 新着の感想 ―
カイルとくっつくでも無く、元婚約者達の惨状に溜飲を下げるでも無く、あくまでビジネスに徹した姿勢が清々しい レティシア嬢天晴です ところで親世代は何してるんですかね?
送らないのではなく正規な価格でと言っているのに揺らぐ国ではどうしようもないですね。
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