忘却の庭の剪定師
ご一読ありがとうございます。
誰にでも、忘れられない記憶や、消してしまいたい後悔があるかと思います。
もし、それらを「整理」してくれる場所があるとしたら……。
そんな想像から生まれた、少し不思議な庭の物語です。
その場所は、世界中のあらゆる道の突き当たりに位置していた。
霧が深く立ち込める森を抜け、誰も見向きもしなくなった古びた鉄格子をくぐると、そこには見渡す限りの「青」が広がっている。空の色ではない。地面に咲き乱れる、名もなき青い花々の色だ。
ここには、人々の「忘れたい記憶」が花となって流れ着く。
高城は、この広大な庭を管理する剪定師だった。
彼の仕事は、日々届けられる記憶の花を整理し、時には間引き、時には深く根を張れるように土を整えることだ。
高城自身、自分がいつからここにいるのか、誠司のように迷い込んだのか、そしてなぜこの仕事をしているのかを覚えていない。おそらく彼自身の「自分は何者か」という記憶も、この庭のどこかに青い花として咲いているのだろう。
ある日の午後、庭の結界を揺らすような、ひどく重たい足音が聞こえた。
現れたのは、一人の若い男だった。仕立ての良いスーツは泥で汚れ、目は虚ろで、肩には目に見えないほど巨大な「未練」の影がへばりついている。
「ここは……どこだ」
男は掠れた声で言った。
「ここは『忘却の庭』です。あなたが手放したいと願ったものが、花となって根を下ろす場所ですよ」
高城は手にした鋏をポケットにしまい、穏やかに応じた。
男の名は、誠司といった。
彼は都会でそれなりの成功を収めていたが、半年前、最も大切な存在であった婚約者を事故で亡くしていた。それ以来、彼の時間は止まったままだ。仕事をしていても、食事をしていても、彼女の最後の笑顔と、それを守れなかった自分への後悔が、喉元までせり上がってくる。
「消してくれ」
誠司は高城の足元に崩れ落ちた。
「あいつのこと、あいつと過ごした時間、全部。思い出そうとするたびに、胸が焼けるように痛いんだ。こんな思いをするくらいなら、いっそ何もなかったことにしてほしい」
高城は黙って誠司を見つめた。
この庭には、毎日同じような願いを持った人々がやってくる。彼らはみな、苦しみから逃れるために「忘却」を薬だと信じている。
「記憶を消すことはできません。私はあくまで剪定師ですから」
高城は誠司の前にしゃがみ込み、一輪の青い花を指差した。
「ですが、その記憶を『整理』し、あなたの重荷にならない程度に小さく整えることはできます。それには、あなたの協力が必要です」
高城は誠司を庭の奥へと案内した。そこには、まだ蕾のまま震えている一角があった。誠司がこの場所に持ち込んだ、鮮烈で新しい「痛み」の記憶たちだ。
「さあ、話してください。あなたが何を捨てたいのか。その中にある、一番綺麗な思い出から順番に」
誠司は戸惑いながらも、話し始めた。
彼女と初めて出会った雨の日のこと。共通の趣味である古い映画について朝まで語り明かしたこと。プロポーズをした時に彼女が見せた、泣き出しそうな笑顔。
誠司が言葉を紡ぐたび、足元の蕾が少しずつほころび、青い花弁を広げていく。
しかし、話が事故の瞬間に及ぶと、彼の言葉は詰まった。呼吸が荒くなり、指先が震える。
「……そこから先は、言いたくない。思い出したくないんだ」
高城は、誠司の背中にそっと手を置いた。
「いいですか、誠司さん。記憶というものは、美しい部分だけを残すことはできないのです。美しい思い出は、悲しい結末があるからこそ、より深く心に刻まれる。それを無理に切り離そうとすれば、あなたの心そのものが壊れてしまう」
「でも、苦しいんだ! 彼女がいなくなった世界で、自分だけがのうのうと生きて、思い出に浸っているなんて……」
「それは、彼女が望んだことですか?」
高城の静かな問いに、誠司は絶句した。
「この庭に届く花は、どれも『愛されていた証』です。もしあなたが本当にすべてを忘れてしまったら、彼女がこの世界に生きていたという証明は、どこに残るのでしょう」
誠司は、地面に咲く青い花を見つめた。
花は風に揺れ、かすかに鈴のような音を立てている。それは、彼女の笑い声に似ている気がした。
彼はゆっくりと、目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、凄惨な事故の光景ではない。病院のベッドで、最後に彼女が自分の手を握り、「ありがとう」と微笑んだ瞬間の記憶だった。
彼はその記憶を、拒絶せずに受け入れた。逃げるのではなく、自分の一部として抱きしめることに決めたのだ。
その瞬間、誠司の周りに咲いていた青い花たちが、一際強く輝いた。
刺すような痛みは消え、代わりに、春の陽だまりのような温かさが彼の胸を満たした。
高城は腰から鋏を取り出し、伸びすぎていた茎を数本、手際よく切り落とした。
「これで、整理は終わりました」
「……体が、軽い」
誠司は立ち上がり、自分の胸に手を当てた。記憶が消えたわけではない。彼女のことも、悲しい最期のことも、はっきりと覚えている。けれど、それはもう彼を押し潰す岩ではなく、彼が歩き続けるための杖に変わっていた。
「あなたはもう、ここに来る必要はありません」
高城は微笑み、出口へと続く道を指し示した。
「これからは、その思い出と一緒に生きていってください。時々、花に水をやるように、彼女のことを思い出してあげてください。それだけで、この庭の花は枯れずに済みます」
誠司は高城に深く頭を下げ、霧の向こうへと消えていった。
彼の去った後の庭には、清々しい風が吹き抜けていた。
高城は再び、鋏を手に取った。
彼自身の仕事は終わらない。世界中で誰かが何かを忘れようとする限り、この庭は広がり続ける。
ふと、高城は一輪の、ひときわ色の濃い青い花に目を留めた。
それは、彼自身の記憶の破片かもしれないものだった。
彼はそれを摘み取ることはせず、ただ優しく土を寄せ、周囲の雑草を払った。
「忘れることは、悪いことではない。けれど、忘れたくないものを守るために忘れることもある」
高城は独りごちた。
空はどこまでも高く、庭の青はどこまでも深い。
彼は次の「忘れ物」が届くのを待つために、再び静かな剪定作業に戻っていった。
数年後。
街の小さな花屋に、一人の男がいた。誠司だった。
彼は今、新しい家族と共に暮らしている。かつての恋人を忘れたわけではない。彼の家のリビングには、今でも彼女の写真が飾られ、その横にはいつも、青い花が供えられている。
誠司は花を選びながら、時折、不思議な夢を見る。
一面の青い花に囲まれた、静かな庭。そこで鋏を動かしていた、穏やかな男の姿。
あの日、自分が何を置いてきたのか、彼は正確には思い出せない。けれど、あの場所があったからこそ、今の自分があることだけは確信していた。
誠司が店を出ると、ちょうど小雨が降り始めた。
彼は傘を広げ、隣を歩く幼い娘の手を引いた。
「パパ、あのお花、なんて名前?」
娘が指差したのは、誠司が買った青いデルフィニウムだった。
「これはね……『忘れないで』っていう意味があるんだよ」
誠司は優しく答え、雨の中を歩き出した。
彼の足取りは、かつてのように重くはない。
記憶は重荷ではなく、未来を照らす光になる。
それを教えてくれた「忘却の庭」は、今もどこか、世界の突き当たりで、静かに青い花を咲かせ続けているはずだった。
庭の剪定師、高城は、今日もまた新しく届いた蕾を見つめている。
そこには、一人の老人が捨てた、戦時中の辛い記憶があった。
高城は丁寧に土を掘り、蕾を植えた。
「大丈夫ですよ」
彼は花に語りかける。
「あなたがここで静かに咲き続ける限り、その痛みもいつか、誰かを守るための優しさに変わりますから」
庭の霧が少し晴れ、遠くの地平線が見えた。
そこには、かつてここを訪れた人々が、再び前を向いて歩き出した足跡が、無数の道となって伸びていた。
高城は満足げに頷くと、また一歩、青い海の中へと踏み出していった。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
誠司と高城のやり取りを通じて、読者の心に何かが残れば幸いです。
もし気に入っていただけましたら、評価やブックマークをいただけますと、執筆の大きな励みになります。感想もお待ちしております。




