[Side M/異世界]Link: エルフ-04
返事は出来なかった。
口の端まで来た言葉がそのまま胸の奥に落ちる。
視線の先に居る人は、待っているようで待っていない。
沈黙を責めない、という態度だけが残る。
ここに居ていいのか。
私は帰れるのか。
何を選んだことになっているのか。
分からないことが多過ぎて、同じ場所に居続けるのが苦しくなった。
「……少し、外に出ても良いですか」
私はリュミエルにそう言った。
短い間があって、頷きが返る。
「庭園があります。遠くへは行かないでください」
「はい」
それだけで会話は終わった。
終わったのに、胸の中の音だけが終わらない。
建物を出ると、空気が変わる。
森の奥ほど濃くはない。
けれど、整えられた緑の匂いがする。
石畳の向こうに、小さな庭園があった。
水の音。
葉の擦れる音。
静かで、静か過ぎて、今度は私の呼吸が目立つ。
そこで白い手袋の人を見つけた。
昨日、前に立っていた背中。
剣を振るった腕。
あの時は輪郭を意識する余裕が無かった。
今は、近い。
背は高くない。
肩幅も思っていたより狭い。
顔が見える距離になって初めて分かる。
マスクをしていない。
隠すものが無い顔で、こちらを見ている。
目が、優しい。
──あ。
そこで初めて、白い手袋の人が女性だったことに気付いた。
声を掛ける前に、こちらに気付く。
「もう歩いて大丈夫?」
低い声じゃない。
落ち着いた声だった。
「……はい」
反射で頭を下げる。
けれど、続く言葉が出て来ない。
お礼を言えば良い。
そう思うのに、胸の奥で何かが固まっている。
沈黙が落ちる。
その沈黙に圧は無い。
でも、勝手に手順を失ったみたいで、身体が落ち着かない。
「耳に違和感は無い?」
「……はい」
「良かった」
問い詰めない。
距離を測らない。
その『しない』が、私の立ち位置を私に返す。
だから、私は自分で立たないといけない。
ここで名前を聞く勇気は未だ無い。
でも、昨日のことをそのままにしておくのも違う。
私は一度、息を整えた。
「あの……。あなたが前に出たのは……何故ですか?危険だったのに」
「私なら守れると思ったから……かな」
誇らない言い方だった。
近付かない。
でも、突き放さない。
胸の中で固まっていたものが、少しだけ緩む。
ここで話を終えても、きっと怒られない。
私はやっと言える場所を見つける。
「……昨日は、助けてくれて……ありがとうございました」
「うん」
礼を受け取った、というより、事実を確認したみたいな返事。
それでも、受け取られたのが分かる。
「私は──シルヴェーヌ」
そこで初めて名前が落ちる。
落ちた名前は音が綺麗で、綺麗だからこそ、触り方を間違えそうになる。
「……シルヴェーヌさん」
「あなたは?」
私は一拍遅れて答えた。
遅れたのは、整える時間が必要だったから。
でも、遅れても答えられたのは、私が未だここに居るからだ。
「ミユ、です」
「ミユ」
呼ばれる。
名を呼ばれるだけで、身体の中の散らかった部品が少しだけ揃う。
「私のことは、シルヴェーヌって呼んでほしいな」
「はい……じゃあ、シルヴェーヌ」
シルヴェーヌは私の耳の辺りに視線を移して、直ぐ戻した。
気にしてくれているんだと分かった。
「もう痛くない?」
「大丈夫──」
反射で敬語になりかけて、途中で飲み込んだ。
飲み込めたのが、自分でも意外だった。
「うん。それでいい」
シルヴェーヌは優しく笑った。
噴水に跳ねた水音が、少しだけ近く感じた。
私は胸の中に残っている別の重さに触れる。
触れたくないのに、触らないと戻れない種類の重さだ。
「……シルヴェーヌ」
「どうしたの」
「私の所持品のこと……今はリュミエルが預かってるって」
命を助けてもらった後で、物の話をしている。
言った瞬間、情けなさが先に来た。
でも、シルヴェーヌは表情を変えない。
変えないまま、ちゃんと頷く。
「大事な物だよね」
「……うん」
「体調が戻ったら、返却するって……そう言ってた」
『そう言ってた』──その言葉は優しいのに、私の胸には残酷に響く。
シルヴェーヌのせいじゃない。
私が勝手に音を足している。
「……私、身構えてるんだと思う」
「うん」
「約束を信じたいのに、信じ切れない」
言ってしまってから息を止めそうになる。
言葉は吐いたら戻らない。
でも、今は吐かないと前に進めない。
「そっか。じゃあ、言わないと伝わらない」
「……」
「リュミエル様は、察さない。悪気じゃなくてね」
「察さない……」
『様』って呼び方の方が距離を保てる気がした。
「普段、察する必要が無いだけ。リュミエル様はケン王の一人だから」
「ケン王?」
シルヴェーヌは水音に耳を預けるみたいに言う。
説明のために声色を変えたりしない。
「冠の名。役目の名でもある」
「エルフの永い歴史の中で、ケン王と呼ばれたのは三人だけ」
「白冠の剣王ブランシュ様。朱冠の拳王ルージュ様。翠冠の賢王リュミエル様」
「……」
「エルフの森の秩序は、今の大長老であり翠冠の賢王である──リュミエル様が護ってる」
私は自分が居る場所の重さを遅れて理解する。
理解すると張り詰めた部分が形になる。
「そんなに凄い人だったの?」
「うん。凄い、で合ってると思う」
「リュミエル様は、どんな現実も有りのままに受け入れる」
「そうしないと判断が曇る──って、皆に言ってる」
「だから私達もリュミエル様には嘘は吐かない。思うことを正直に言う」
「……怒られたりは?」
「無いかな。咎めること、責めることは……嘘の火種って言ってた」
言い切りが真っ直ぐ過ぎて眩しい。
でも、真っ直ぐだから分かり易い。
分かり易さは、時々、救命具みたいに浮く。
私は小さく息を吐いた。
「私、壁を作る癖があるのかも」
「うん」
「守られてるのに『怖い』って思ってしまう」
「うん」
「……相手のせいにしたくない。したら、ずっと戻れないから」
シルヴェーヌは覗き込まない。
距離を詰める言葉だけを置く。
「思うことを言ってみたらいい」
「私が、思うこと……?」
「自分の思うことは自分にしか届かないから」
水音が戻って来る。
戻って来た水音の中で、私はやっと息を吐けた。
私は頷いた。
頷くしか出来なかった。
それでも──頷けた。
二日後。
耳の痛みが薄くなる。
薄くなるだけで世界が戻って来る。
戻って来るのに、張り詰めた部分は残る。
残るものの居場所だけが変わる。
私は庭園の端に座っていた。
膝に手を置く。
手の置き方だけが、現代の仕事のままだ。
「ミユさん」
呼ばれて身体が跳ねる。
跳ねて、振り向く。
翠冠の賢王──リュミエルが、私の前に立っていた。
手の中にiPhoneがある。
硬い角の重さ。
帰り道の形。
──エルフがiPhoneを持っている。
「返却は体調が戻ってから、と言いました」
「……はい」
私は取りに行きたいのにその半歩が出ない。
出ない理由を私はもう知っている。
「怖がらせましたか?」
「……いえ」
反射で否定しそうになって、途中で止めた。
止められた、と自分でも驚く。
でも、止めないと同じ場所に戻る。
「……怖かったです」
「なぜ?」
「あなたが嘘を吐くとか、そういうことじゃなくて」
「……」
「私が、勝手に物語を作ってしまっていた。預けた、が……奪われた、に変わる物語を」
言いながら胸が苦しい。
苦しいのに言葉は途中で逃げなかった。
私が逃がさなかったからだ。
「返却の約束を守ってくれたのに。私が勝手にリュミエル様を疑ってました」
「……理解しました」
淡々。
淡々なのに受け取られたのが分かる。
『受け取られた』は、安心の形に近い。
私は一度だけ息を吸って、続けた。
「だから……お願いがあります」
「言ってください」
逃げ道を作る言い方だった。
逃げないための逃げ道。
「私に、返してください」
言えた。
命令じゃない。
要求でもない。
私が欲しいものを、私の言葉で出しただけ。
リュミエルはiPhoneを少し持ち上げた。
「私からも」
「……はい」
「私を、『リュミエル』と呼んでください」
「でも……」
「私は、あなたに距離を作られたくない」
言い方が鋭い。
でもそれは刃じゃなくて方向指示に近い。
私は唇を一度だけ噛んでから言った。
「……リュミエル」
名を落とすと、胸の固さが少しだけ割れた。
リュミエルはiPhoneを私の手に渡した。
硬い角が掌に戻って来る。
戻って来るだけで息が出来る。
「あなたは自分で壁を作る癖がある」
「はい」
「壁は必要な時もある」
「……はい」
「しかし、壁の内側であなたが苦しくなるなら、それは『壁』ではなく『檻』になる」
私は返事が出来なかった。
返事の代わりにiPhoneを強く握った。
怖かったのはリュミエルが嘘を吐くことじゃない。
私が勝手に嘘の形を作っていたことだ。
「……ありがとうございます」
最後に敬語が出た。
直そうとして、直せなかった。
リュミエルは咎めない。
咎めないまま、視線だけで『次からで良い』と言う。
庭園の水音が戻って来た。
戻って来た水音の中で、私はやっと息を吐けた。
その夜。
部屋に戻ると静けさが戻って来た。
静けさが戻ると考えが戻る。
戻る考えは音じゃなくて形だ。
形になったものは押さえなくてもそこに居る。
私はベッドの端に座って手の中の重さを確かめた。
黒い角。
掌の線に沿って帰り道の輪郭が収まる。
──iPhone。
返って来た。
返って来たのに安心は遅れて来る。
私は余計な物語を作ってしまう癖がある。
部屋の灯りは暖かい。
それでも指先は冷たい。
私は画面を点けた。
GatePair: Link。
【メッセージ】。
押すだけで世界が一つ増える。
増えた世界の中に二つの重さが並んでいた。
一つは森の外側にある死。
もう一つは、ここに居続けた後の──私の中の変化だ。




