[Side Y/異世界]Link: 聖女-02
冷たい石の匂いが肺に入った。
空気が硬い。
日本の乾きと違う。祈りの乾きだ。
膝が石に当たって痛みが遅れて来る。
僕は反射で片手を付いて身体を起こした。
iPhoneが震えた。
通知音だけが、この世界で妙に現実的だ。
『いってら〜。気を付けてね』
「LINE出来るんかーい」
声が吸われて返って来ない。
その静けさで、僕は漸く周囲の大きさに気付く。
大聖堂だった。
天井が高過ぎて声が上へ吸われる。
白い石の壁に無数の小さな傷がある。
祈りの年数だけが刻まれているみたいだ。
香の匂いが淡く漂って、火の気配が見えないのに空気だけが温かい。
光が上から落ちて来ている。
色の付いた硝子を通って床に静かな模様を作っていた。
白い服の背中が見えた。
長い銀髪が背中の中央辺り、青いリボンで結ばれている。
跪いて祈っていた。
「お昼ちゃん」
祈りは途切れない。
途切れないまま、肩だけがほんの僅かに固くなる。
それからゆっくり振り返った。
「……来てくれた。本当に?」
綺麗な台詞じゃなかった。整ってもいない。
でも、嘘じゃない音だった。
「うん。僕、来たよ。お昼ちゃん」
驚いているのに叫ばない。逃げない。
驚きを仕舞う顔のまま、息だけが一度揺れる。
次の瞬間、お昼ちゃんは息を整えるみたいに目線を伏せ、言葉の形を作り直す。
「はじめまして。遠路遥々、ようこそ」
鎧が鳴った。
光を跳ね返す刃が横切って、槍先が近いところで止まった。
空気が一段、冷える。
「ヒルデガルト様」
剣の人の声は丁寧だった。丁寧なのに拒否権が無い。
槍の人は言葉を出さないまま僕を量っている。
お昼ちゃんは小さく首を振った。
「大丈夫です。私が招きました」
「しかし!ヒルデガルト様」
「聖女に二度言わせますか?」
硬い空気が綺麗に整列する。
「申し訳ございませんでした!」
刃の角度が下がる。槍先も遅れて落ちる。
視界が元の広さに戻った。
お昼ちゃんが僕を見る。
困ったみたいに笑う。
「人前では、ヒルデガルトとお呼びください」
丁寧だった。
それが頼みだと分かる程度には思い遣りがあった。
「分かった。人前ではヒルデガルト。二人のときは、お昼ちゃん」
「はい」
背中側で鎧が小さく鳴った。
剣の人が声を落とす。
「先ずは大神殿の客間へ。そこで話をしてください」
丁寧だった。
だけど、それが頼みだと分かる程度には身勝手だった。
僕は頷くしかない。
客間は白い。
白い布、白い器、白い花。
色が無いから清潔感が攻撃的にならない。
僕は椅子に座るよう促された。
お昼ちゃんも向かいに座る。
剣の人と槍の人は少し離れて立つ。
沈黙が一度落ちた。
白い部屋は、沈黙を隠さない。
「先ず、昨日の言葉は忘れてください」
最初に聖女の祈りがあった。
取り消しの祈りだ。
「軽率でした。私が」
妙に真面目で、真面目過ぎて逆に嘘じゃないと分かる。
僕は息を吐いて、同じ高さに置く。
「ううん。僕も軽率だった」
お昼ちゃんは僅かに目を見開いた。
僕が謝ることを想定していなかったみたいに。
「ユウキさんは……悪くありません」
悪くない、の言い方が優しい。
優しいけど線を引いている優しさだ。
僕は言葉を探して部屋を見渡したけど、鹿爪らしい顔をした二人組しか見当たらなかった。
代わりに気になっていたことを置く。
「お昼ちゃんさ。僕が来たの、なんで?」
「え?」
息が詰まる音がした。
堅い言葉の外側が、ほんの少しだけ剥がれる。
お昼ちゃんは視線を下げたまま言う。
「会いたい、と送りました」
「僕に?」
「……皆に」
剣の人と槍の人が微かに反応した。
反応を見せない努力の気配だけが動いた。
部屋の白が一段だけ薄くなる。
「話をしたかったのです。普通の話を……」
「普通の話?」
「政治も、利害も、祈りも関係の無い話を」
その言い方だけが子供みたいだった。
欲しいと言っているのモノは、贅沢じゃない。
ただの普通だ。
「でも……誰も来なかった?」
僕が聞くと、お昼ちゃんは小さく頷く。
「皆、優しいのだと思います。慎重で」
「慎重で?」
「会う前に、もっと互いを知ってから、と」
僕の胸の奥が嫌な形で鳴った。
慎重。
その言葉の裏に、誰も言わない本音がある。
「お昼ちゃん」
「はい」
お昼ちゃんは姿勢を正す。
「僕、これから酷いことを言うよ」
「……?」
どうかこの言葉がお昼ちゃんを傷付けませんように──
「お昼ちゃん。リンクって一回切りなの知ってた?」
お昼ちゃんはほんの少しだけ首を傾げた。
その仕草が答えだった。
「知らなかった?」
「知りませんでした」
槍の人が、僅かに目を伏せた。
剣の人が、視線だけで天井を見上げた。
遅れて気まずさを理解した顔だ。
僕は息を吐いて短く言った。
「じゃあさ。僕が帰ったら、終わりだよ」
一拍。
お昼ちゃんの指先が揃えたまま強張った。
祈りの癖の形のまま、静かに固まる。
「終わり、とは?」
声は堅い。
堅いのに震えが混じっている。
「ブロックしたら、永久切断。二度と会えない。喋れない。メッセージも無理」
「そして僕が帰るには、ブロックしか方法が無い」
僕はなるべく淡々と言った。
淡々と言わないと、自分の声が揺れるから。
お昼ちゃんは直ぐに返事が出来なかった。
目がゆっくり瞬きをしている。
理解が頭に追い付く速度が目に見える。
「そんな……」
口に出たのはその一語だけだった。
祈りの人が、祈りの言葉を失う瞬間の顔をしている。
「だから皆、来なかったんだと思う」
お昼ちゃんの頬がほんの僅かに固くなる。
否定したいのに否定できない硬さだ。
沈黙が落ちる。
白い部屋が、白いまま重くなる。
僕は話題を変えるみたいに、でも変え切れないまま言った。
「お昼ちゃんって呼ぶの、嫌だった?」
お昼ちゃんは首を振る。
「嫌ではありません」
即答だった。
即答なのに、目が揺れた。
揺れを隠すために、指先が揃え直される。
僕は軽く息を吸う。
重さを抱えたままでは、何も動かない。
「じゃあさ。城下街行こーよ」
軽く言った。
言葉のヘリウムガスで部屋の重さを少しだけ肩代わりしたかった。
お昼ちゃんは一拍遅れて頷いた。
「少しだけなら……」
誘われ方がぎこちない。
断り慣れていないのが直ぐに分かる。
でも、頷いた。
大神殿を出ると外の光が眩しい。
空の青が藍より出でて、愛より青い。
匂いが変わる。
香の匂いから、人の匂いへ。
パンを焼く匂い、服の匂い、汗の匂い。
命の匂い。
城下町は賑やかだった。
露店が並び、子供が走り、荷車が軋む。
言葉が飛び交っているのに、僕の耳には自然に入って来る。
お昼ちゃんは僕の半歩後ろを歩く。
──半歩後ろ。
それが聖女の位置なのか。
それとも僕に近付き過ぎないための距離なのか。
僕が露店の刃物に目を止めて足を止めた。
刃の光が綺麗だった。
僕は角度を変えて見ようとして、影へほんの一歩だけズレる。
その瞬間、背後の気配が薄くなる。
振り返ると、お昼ちゃんが立ち止まっていた。
置いて行った訳じゃない。
隠れた訳でもない。
それなのに、目が少しだけ揺れている。
僕が一歩戻ると、お昼ちゃんの肩が僅かに下がった。
「すみません」
お昼ちゃんが先に言う。
「ごめん。格好良い剣を見付け──」
「分かっています。分かっているのに」
被せるような言葉がそこで止まって、お昼ちゃんは口を閉じた。
閉じ方が、我慢の閉じ方だった。
僕もそれ以上聞かなかった。
聞いたら崩れそうな気がした。
僕は刃物の露店から視線を外して、少しだけ歩いた。
同じ列に小さな飾りを並べた店があった。
金具が光って細い紐が揺れている。
派手じゃないのに、目に引っ掛かる。
青い色があった。
空の青と似ているのに、愛ほど遠くない青。
銀の髪。白い服。整い過ぎた輪郭。
青いリボン。
僕は店主に指を立てて、一つだけ選んだ。
剣の人の名前をお店に伝えておけば、ツケに出来ると聞いていた。
青い宝石の銀の髪留め。
戻ると、お昼ちゃんが僕を見ていた。
見ているのに、見ない振りの仕方も上手い。
「これ」
僕が差し出すと、お昼ちゃんの目が一度だけ止まった。
止まって、直ぐに戻ろうとして止まる。
戻り切れない、の方が先に来た。
「私に、ですか?」
「うん」
「……恐れ入ります」
聖女の返しだ。
でも、断り切らない声だった。
僕は上手い言葉が出なくて、空を一度だけ見上げた。
今日の空は青い。
青いのに、五月蝿くない。
「青ってさ、ちゃんと強い色だよね」
「……強い、ですか」
「うん。強いのに、五月蝿くない」
言葉を探すみたいに間を置いてから、僕はお昼ちゃんを見た。
「お昼ちゃんってさ、お昼の太陽みたいに温かくて優しいね」
嘘じゃない。本当にそう思った。
肩がほんの僅かに揺れた。
揺れたのに、直ぐに整えようとする。
整えようとする速さが、逆に目立つ。
「……恐れ入ります」
その声の底がさっきより少しだけ柔らかい気がした。
少し、自分の心がふわふわと飛んで行こうとしている。
ヘリウムガスを吸い込み過ぎたのかも知れない。
「一旦ね。一旦」
お昼ちゃんが瞬きをする。
「……いったん?」
言葉だけ拾って、意味を拾えていない顔だ。
「うん。今のは一旦、ってやつ」
僕はそれ以上を説明しない。
説明すると、お昼ちゃんの我慢に名前が付いてしまう気がした。
歩き出す。
お昼ちゃんも歩き出す。
半歩後ろが、また戻る。
夕方。
剣の人が宿屋を手配してくれた。
白い石の部屋じゃない。
木の匂いがして、床が少しだけ柔らかい。
床の軋む音が生活の音で、僕は少しだけ安心した。
食堂は天井が低かった。
大聖堂の高さと違って息が近い。
湯気が近い。火の匂いが近い。
スープが置かれる。
お昼ちゃんは椀を両手で持った。
「……温かい」
言い方が聖女の言い方じゃない。
ただの人の言い方だった。
僕は笑いそうになって堪えた。
堪えた方がお昼ちゃんの温度が逃げない気がした。
「嫌いじゃない?」
お昼ちゃんは一拍置いて頷く。
「嫌いではありません」
僕は笑った。
「……?」
否定の形を借りて肯定する。
その癖は、祈りの癖に似ている。
暫く、スープと湯気とスプーンだけが会話をする。
言葉が減ると息が増える。
不意に扉が開いた。
夜気が入る。火の匂いが揺れる。
槍の人が立っていた。
言葉が無い。言葉が無いまま、時間だけがこちらへ来る。
お昼ちゃんの背筋が伸びた。
伸び方がさっきまでと違う。
聖女の形にトランスフォームしたみたいだ。
お昼ちゃんは椀を置いて立つ。
立ち方まで整っている。
「お待たせしました」
槍の人の整った言葉の途中に、異物が混ざった。
「一旦――」
お昼ちゃん自身が止まる。
目がほんの僅かに揺れる。
揺れをしまうのが早い。
早過ぎて、仕舞い切れていない。
「失礼しました」
声が戻る。戻った声で続ける。
「大聖堂へ戻ります」
槍の人は頷きもしない。
ただ、踵を返す。
「送るよ。初デートだから、送らないとね」
僕も立つ。
お昼ちゃんを見る。
お昼ちゃんはもう聖女の顔をしている。
大聖堂へ戻る道は白い。
石畳が月の光を吸って音だけが硬い。
槍の人の背中は遠い。
遠いのが逃げ道みたいに見える。
槍先じゃなく、この距離が怖い。
客間に戻ると白が労働基準法を無視して、未だ整列していた。
壁も、器も、灯りも、祈りの形に戻る。
お昼ちゃんは僕に頭を下げた。
「本日は……ありがとうございました」
「うん……こちらこそ」
言い方が互いにぎこちない。
ぎこちなさだけが本当だ。
僕は宿屋に戻った。
扉が閉まると、急に静かになる。
iPhoneを握る。
ブロックが押せる。
それを確かめるため画面を観た。
[魔女]本は読みません。すみません。
いつの間にかメッセージを受信していたみたいだ。
僕は少し考えてメッセージの返事だけを書くことにした。
[ユウキ]そっか、お仕事はどんなことをしているの?
夜、僕は靴を脱がずにベッドの端へ座って、やっと息を吐いた。
Dr.Martensの重さが、ここが夢じゃないと教えてくれる。
翌朝。
城下の音が早い。
焼いた麦の匂い、獣の匂い、甘い果物の匂い。
市場の声が遠くから押し寄せて、音の塊が身体に当たる。
大神殿に向かうと、客間で剣の人が僕を待っていた。
槍の人も遅れて影のように立つ。
「今日は、聖女様の外出に同行して頂きます」
丁寧だった。
だけど、それが決定事項だと分かる程度には隙が無かった。
「セイントガードとして」
セイントガード。
単語は強そうなのに、やることは同伴だ。
護る、というより隣に居るだけ。
でも、隣に居るだけが一番難しいこともある。
僕は頷いた。
お昼ちゃんは白い衣で現れた。
銀髪。青い宝石の銀の髪留め。
背筋の伸び方が、祈りの癖をそのまま遺している。
「おはようございます」
「おはよう。……ヒルデガルト」
お昼ちゃんは一度だけ目を伏せ、小さく頷いた。
頷き方が整っているのに息がほんの少しだけ乱れている。
城下町へ出る。
町の人が頭を下げる。
頭を下げられる度、お昼ちゃんは小さく返礼する。
返礼が丁寧過ぎて、町の人の方が照れて笑う。
「慣れてるね」
僕が言うと、お昼ちゃんは目を伏せた。
「慣れていません」
「慣れてないのに、上手い」
「上手く見えるだけです」
強い言葉の出る場所にいつも強がりが隠してある。
市場の端で子供が転んだ。
泣き声が上がる前にお昼ちゃんが膝をついて手を伸ばす。
泣く前の顔。
泣いて良いか分からない顔。
「大丈夫です」
その声は堅い。
堅いのに柔らかい。
子供は泣かずに頷いて立ち上がる。
泣かなかった代わりに手の甲で目を擦って走って行った。
お昼ちゃんは立ち上がる。
膝の裾についた埃を払う動作が妙に手慣れている。
「……慣れてるじゃん」
「慣れていません」
また同じ否定をする。
否定の形だけが癖みたいに先に出る。
市場の端で、水を売る露店があった。
僕は財布の代わりにポケットの中のスマホを思い出して苦笑する。
現金が無い。当たり前だ。
僕は近くの護衛の人に声を掛けるため、ほんの数歩だけ前へ出た。
「待ってて。お金借りられるか聞いて来る」
離れたのは、ほんの数秒だった。
振り返ると、お昼ちゃんがそこで立ち止まっていた。
僕が戻る場所を目で測っているみたいに、視線が僕の肩があった辺りに固定されている。
追い掛けて来ない。
呼び止めもしない。
それなのに、呼吸の浅さだけが見える。
僕が戻ると、お昼ちゃんは先に言った。
「……すみません」
「何が?」
「……何でもありません」
何でもない、の言い方が何でもないじゃなかった。
でもお昼ちゃんは、そこで止めた。
自分の不安だけを自分の中へ戻す顔をした。
僕は胸が少しだけ痛くなる。
痛くなって、軽く言う。
「一旦ね。一旦」
お昼ちゃんの口が、ほんの少しだけ動く。
声にならない小ささで、言葉だけ真似る。
「……いったん、ですね」
言った本人が直ぐに恥ずかしそうに視線を落とす。
歩いているだけで、お昼ちゃんが少しだけ喋れる人になる。
聖女のまま、普通の人の息をする。
それが僕には嬉しい。
夕方。
大聖堂へ戻る途中。
鐘楼の影が伸びる広場の端でお昼ちゃんが立ち止まった。
指先を揃える。
祈りの癖の形。
でも、祈りの声じゃなかった。
「ユウキさん」
呼ばれて僕は足を止める。
「昨日、あなたが教えてくれたこと」
お昼ちゃんは続ける前に一度だけ息を吸った。
「ブロックは帰るための操作で、同時に……永久切断」
言葉を口にした瞬間、お昼ちゃんの顔の動きが少しだけ遅くなる。
飲み込む時間が必要な人の速度だ。
「私は」
お昼ちゃんは視線を落とした。
「知らなかったのです。皆は、知っていたのですね」
僕は返事をしなかった。
肯定に聞こえる沈黙を置いた。
お昼ちゃんは小さく頷いた。
頷いてしまったことに自分で傷付いたみたいに唇が固くなる。
「だから、誰も来なかった」
お昼ちゃんが僕の言葉を自分の言葉として繰り返した。
「私は、普通に話したかっただけなのに」
そこまで言ってお昼ちゃんは初めて僕を見た。
聖女の顔のまま、誰かの顔で。
「誰でも良かったのです」
言い切ってからお昼ちゃんは直ぐに続けた。
続けないと、その言葉が冷たくなるのを知っているみたいに。
「でも」
声がほんの少しだけ小さくなる。
「来たのがあなたで良かった。本当に、良かった」
──誰でも良かったのに、来たのがあなたで。
──そのせいで、あなたになってしまった。
その事実をお昼ちゃんは肯定している。
僕は返事が出来なかった。
出来ないままだった。
「一つ……我儘を聞いていただけませんでしょうか?」
「何を?」
「私と一緒に居てほしいのです」
「それはどういう──」
「聖女に二度言わせますか?」
お昼ちゃんは笑った。
僕も釣られて笑ってしまう。
笑ってしまった後、喉の奥が少しだけ詰まる。
「少し、一人で考えさせて」
「はい。一旦ですね。一旦」
即答だった。
即答のクセに、目が揺れた。
揺れが、今日一日で一番はっきり見えた。
「聖女は待つのが仕事ですから……」
それは、待つのが仕事の人の言い方だった。
だけど、待つのが苦手な人の言い方だった。




