[Side Y/現代]Link: 聖女-01
朝起きると通知が二件来ていて震えた。
ヘッドボードに置いていたはずが、ほんの少しだけ位置をズラしている。
夜中の内に僕より先にiPhoneが二度も戦慄していたらしい。
ロック画面に出た文字は短いのに、短いまま心に残った。
[マッチング成立]相手:魔女
[マッチング成立]相手:聖女
僕は洗面台の前で顔を洗って、歯を磨いて、服を着た。
UNIQLOのタートルネックに、黒のスラックス。
ANREALAGEのボールライトコートを羽織る──最近買ったばかりのお気に入りだ。
いつものDr.Martensのチェルシーブーツに足を滑り込ませる。
いつも通りの物があると、何かが起きても後悔しなくて済む。
家を出て、昼の光の中で歩く。
駅前の風が少しだけ柔らかい。
四月の匂いは、未だ冬の乾きを混ぜたまま少しだけ花に寄っている。
花の匂いじゃない。
花に寄ろうとしている匂いだ。
スターバックスは自動ドア。
ノックしないでも入れるのが楽だ。
土曜の昼のスターバックスは夜より少しだけ現実的だ。
列が長くて会話の粒が多く、空気が人の体温を先に含んでいる。
席を探して、視線を置く。
バーの真正面にあるソファ席の――あの人が居た。
いつもは夜の閉店間際なのに。
昼に居るのは、イレギュラだ。
イレギュラは良いことの便りにも、悪いことの知らせにもなる。
白いシャツ。
袖は肘の手前まで捲られている。
ダークブラウンの髪は低めに纏められて、薄い前髪が目元にかかっている。
大きめの黒目。
穏やかな視線。
静かなのに輪郭だけが立つ。
視界の中で、その席だけ解像度が違う。
「ユウキさん、こんにちは」
レジの向こうから声が飛んで来て、僕は反射で顔を上げた。
パートナーのしおりちゃんが笑っている。
「マッチングアプリ始めました」
しおりちゃんの目が一瞬だけ動く。
「冷やし──じゃなくて、お茶漬け食べたくなりますね」
「……?」
僕はその場で置き去りになる。
置き去りにされたまま、しおりちゃんの頭の中の階段を見上げる。
しおりちゃんが一段降りて来る。
「あなたに恋をしてみました」
僕は一拍遅れて、しおりちゃんの到達点に辿り着いた。
冷やし中華の札が見えて、そこからchayの曲が聴こえて、永谷園の文字が出て来て、お茶漬けに到達する。
「へぇーーーっ!面白いよ!感動した!」
「ふふ、ありがとうございます」
しおりちゃんは姿勢を正す。
「それでは記念に、彩愛ちゃんスペシャルをヴェンティサイズの~……グラスでドンッ!」
「ドンって何──」
「もう一回頼めるドン」
「怖い怖い怖い!」
「二杯目をドンッ!」
レジの金額が上がる。
現実が容赦無く積み上がる。
「やめて」
「もう一回頼めるドン」
「しおりちゃん、落ち着いて──」
「三杯目もドンッ!」
また上がる。
「もう勘弁してドン~」
「では、三杯でお会計二一七八円──」
「違う違う!違うから!」
ドリンクを受け取ってソファの端に座る。
隣の席から甘い柔軟剤の匂いがした。
iPhoneを出して、アプリを開く。
【GatePair: Link】
トーク一覧に二つ並ぶ。
[魔女]
[聖女]
指が止まる。
先に、魔女。
[ユウキ]僕は、ユウキって言うよ。君は?
送信。
次に聖女のトークルーム。
考えて──同じ文を打つ。
[ユウキ]僕は、ユウキって言うよ。君は?
送信。
送った瞬間、喉が少しだけ乾いた。
フラペチーノを飲む。
あの日の改札を思い出して、胸がちくりと痛む。
僕は息を吐いた。
隣のあの人は、いつもどおり島田荘司の『異邦の騎士』を読んでいる。
僕が一番好きな物語だ。
だけど『摩天楼の怪人』こそ、島田荘司の最高傑作。
彼女は不意に本を閉じ、iPhoneを手に取った。
時々、iPhoneの通知を確認する癖があるのは知っていた。
──今回は、少し長い。
普段、あまり見ない光景に胸の中が騒めく。
Dr.Martensが『考えても無駄だ』と踵を鳴らす。
LINEを開く。
咲希のトークが一番上にある。
短く打つ。
『マッチングした』
直ぐに既読が付く。
既読が付くのが早い。
早いのが当たり前になってるのが、少しだけ救いだ。
『はや。誰と?』
『魔女と聖女』
『属性強くて草。会いに行くの?』
会いに行く。
その言葉が現代の床に落ちた瞬間だけ、音がした気がした。
『会いに行くって、【リンクを申請する】を押したらどうなるの?』
『相手に通知が行く。で、相手が受け入れたらリンク成立。兄が異世界に肉体ごと飛ぶやつ』
『肉体ごと飛ぶ、って……一旦ね。一旦』
『怖いよ。小説でもアニメでも無いから、腕が吹き飛んだら腕が吹き飛ぶ。だからブロックは絶対に忘れちゃダメ、絶対。危険が危なくなったら躊躇わずブロックすること!ぷいきゅあとのやくそくだお』
──ブロック。
帰るための操作。
帰る、って言葉がやけに綺麗に見える。
『でも、ブロックしたら二度と会えないんでしょ?がんばえ~!ぷいきゅあがんばえ~!』
『会えない。喋れない。メッセージも無理。永久切断』
永久。
軽く言うには重い単語だ。
『押さない。駆けない。喋らない。戻らない。防災訓練みたいな?』
『兄の襲来は異世界人にとっての災害だから、『おかしも』はあちらの世界側で、準備が必要だな笑』
『じゃあ、会いに行くって押すのは、ほぼ互角の覚悟だね。一旦ね。一旦』
『覚悟って言うとカクゴ良いけど……多分、勢い。勢いで死なないでね。あ!あと忘れずに靴を履いて行くようにね』
『ったく、しゃーねー妹だな。死なないで!お兄ちゃん!ってか』
『ファルシのルシがコクーンでパージくらい分からん』
僕は少し笑って、笑い切れずに止まった。
こういう会話は簡単だ。
簡単な会話で、自分を落ち着かせようとしているのが分かる。
通知がまた光る。
──[魔女]
通知のプレビューだけは読んでしまっていた。
短い礼儀と、名乗り。
その文面が丁寧であるほど、返事を急かされる気がしてしまう。
既読を付けたら、追い立てられる──
僕は内容を胸の奥に押し込んで、通知をスワイプした。
『ところで兄者、初回インストールのとき【リンクを許可】って出た?』
僕は眉を寄せた。
出た。確かに出た。
通知は許可して、リンクは後回しにした。
『なんだね妹者。出たサヘキサ塩酸。良く分からないから許可してない。偉い?偉い?』
『なら良かった。とりま今夜はメッセージだけしとけ』
『一旦ね。一旦』
『それ流行ってんの?笑』
『一旦ね。一旦』
僕はGatePair: Linkに戻る。
スタバの騒めきが少しだけ遠くなる。
さっき返事のあった魔女へ、何か送ってみようか。
当たり障りのない質問。
[ユウキ]好きな食べ物は何ですか?
送信。
──送れない。
なぜ?
画面に小さく出る。
[不適切な単語が含まれています]
僕は瞬きをした。
文のどこが駄目なんだ?
試す。
少し変える。
送る。
駄目。
別の言い方にする。
駄目。
トライアンドエラーを繰り返して、僕は一つだけ確信する。
──『好き』だけが送れない。
告白じゃない。
『好き』という単語そのものが送れない。
僕は一度、顔を上げた。
何か別の話題を探す。
隣の席のあの人は本を読んでいる。
ページを捲る音が桜の花弁が落ちるみたいに爽やかだ。
爽やか過ぎて清涼飲料水の代わりみたいに喉を潤す。
僕は視線を戻して打ち直す。
[ユウキ]普段は何してるの?読書とか?
送信。
送った後、画面を閉じる。
グラスを片付ける。
現実の動作で、現実に縫い付けようとしている。
店を出る。
帰り道の風が朝より冷たい。
冷たさが、逆に助かる。
玄関を開けて、チェルシーブーツを脱ぐ。
部屋の灯りを点けても、心の中だけが落ち着かない。
夕食にカレーを食べているとiPhoneが産声を上げた。
聖女のトークルームを開く。
点が三つ、揃っては消えて、また揃う。
暫く待つと整った文が届いた。
[聖女]はじめまして。ご挨拶ありがとうございます。私の名前はヒルデガルトです。
……堅い。
堅いのに、冷たい訳じゃない。
少なくとも、『氷』ではないことは確実だ。
礼儀が形を保ったままこちらに差し出されている。
僕はそれを『品格』だと思う。
聖女って、そういうものなんだろう。
返す。
[ユウキ]お昼ちゃんは、どれくらいリンクしたことあるの?
[ユウキ]お祈りの邪魔にならないタイミング良きです。
送信。
また点が三つ。
どうやら異世界の電波は3Gらしい。
直ぐに返事が届く。
[聖女]あなたの言葉は率直で安心できます。
[聖女]しかし、完全には理解できない部分もありました。
[聖女]無礼をしていたら、どうかお許しください。
僕は自分が送った文章を見返した。
『お昼ちゃん』がマズかったか……。
一旦、引く。一旦ね。一旦。
[ユウキ]どれくらいの人とリンクしたことありますか?
直ぐに返事が来る。
[聖女]私はこれまで誰ともリンクしたことがありません。
[聖女]でも、先ず落ち着いてきちんと話をしたいと思いました。
[聖女]あなたに会いたいです。
僕はiPhoneを握ったまま、暫く動けなかった。
直ぐに、追い掛けるように届く。
[聖女]……ごめんなさい。私の考えが足りませんでした。どうか忘れてください。
会いたいです、の一文だけが頭に残った。
消えないまま、部屋の空気の中に居座っているみたいだった。
お風呂に入りながら考える。
SABONの金木犀の香りが湯気に混ざって気持ちが落ち着いて行く。
ちゃんと考えよう。
お昼ちゃんはリンク経験が無いと言っていた。
その上で、ロクにメッセージもやり取りしていない僕と会いたい?
──なぜ?
何か裏があるんだろうか?
でも、文面は丁寧で、丁寧過ぎるくらいだった。
聖女が『会いたいです』。
考えられる答えは見付からない──というより、分からない。
ここから先は否定の繰り返しになる。
──会いに行こう。
そう決めた。
危険があれば、ブロックで帰れば良い。
ブロックは帰還。
僕は浴室から出、勢いのまま【リンクを申請する】を押した。
直ぐに通知が来る。
[リンク承認]相手:聖女
返事の早さが咲希みたいだ。
iPhoneのロックを外し、GatePair: Linkを開く。
[リンク申請が承認されました]
[リンクは成立状態です]
[【リンク】を実行できます]
大きく息を吸った。
ベッドに座ってiPhoneを握る。
Dr.Martensの重さが足元にある。
いつもの重さがあると少しだけ落ち着く。
──会いに行く。
リンク。
肉体ごと飛ぶ。
僕はLINEを開き、咲希に送る。
『聖女タンと会うことになった』
直ぐに返事が来る。
『やるじゃん。行ってこい。靴履いた?』
こういうやり取りも、もう出来なくなるかも知れない。
その想像が遅れて痛い。
『カクゴ良いチェルシーブーツにした。でも、初リンクは不安』
『ルールはもう分かったでしょ。ブロックが帰還。リンクが異世界。はい終わり』
『大体ルールはわかったZE☆』
『そのテンションで異世界行くな』
少しだけ、感傷的になる。
感傷の形が決断の顔をしていて、人違いを起こしそうになる。
『行かないって言ったら?』
『後悔してスタバで泣くでしょ。行け』
僕は笑って、次に胸の奥が詰まった。
──後悔。
──泣く。
それを先に言い当てられるのが悔しいのに、嬉しい。
iPhoneの画面を切り替える。
聖女のトークルーム。
あの一文が、未だ残っている。
[聖女]あなたに会いたいです。
勢いじゃない、と言いたい。
でも、多分、勢いが無いと押せない。
咲希に最後のLINEを送る。
最後くらい真面目に。
『本当にありがとう。行ってきます』
既読が付く前に、僕はアプリを切り替え、一度だけ深く息を吸って──押した。
【リンク】
押した瞬間、世界が無音になった。
落ちる、ではない。
引き剥がされる。
床も天井も距離の概念だけが一枚ずつ剥がれていって、最後に「いってきます」の声だけが部屋に取り残される。




