ep.40[Side Y/異世界]Link: エルフ-13
ヒュドラの九つの首が一斉に持ち上がった。
空気が変わる。
さっきまで僕一人へ向いていた殺意が、今度は明らかに目の前の二人を測っている。
嫌な変化じゃない。
寧ろ、初めてヒュドラが『同じ土俵の相手』を見た顔だった。
ブランシュが一歩前へ出る。
ルージュが肩を鳴らす。
僕は遅れてその意味を理解した。
ここから先は僕が粘る戦いじゃない。
王が来たんだと思った。
次の瞬間、ルージュが消えた。
違う。
消えたんじゃない。
見えなかっただけだ。
踏み込んだ音も、風を裂く音も無い。
気付いた時には、森側に居た筈のルージュがヒュドラの懐へ潜り込んでいた。
崖側に居たヒュドラの巨体が、不意に宙へ浮く。
息が詰まった。
浮いたヒュドラの胴体の真下。
ルージュが拳を突き上げている。
あの一瞬で森側からヒュドラの懐へ潜り込んだんだ。
──見えなかった。
ヒュドラも何が起こったのか分かっていない。
九つの首が空中でばらばらに揺れる。
怒るより先に、理解が遅れている揺れ方だった。
「ブランシュ!こいつは俺が貰って良いか!」
ブランシュは僕の傍で静かに剣を傾けた。
「お好きになさい。どうせ、あなたにはどうにも出来ません」
「はっ!面白いこと言うじゃねーか!」
最高点に達したヒュドラへ、今度は重力が追い付く。
巨体が落ちて来る。
その落下の途中へ、ルージュの脚が跳ね上がった。
高い。
そして、速い。
ヒュドラの胴体へ叩き込まれる。
鈍い音が遅れて響いた。
ヒュドラの巨体が真横へ吹き飛び、崖へ叩き付けられる。
岩肌が砕け、黒い破片が雨みたいに散った。
九つの内、左右の二本の首が痛みに耐えるみたいに軋みながら持ち上がる。
そのままルージュへ喰らい付いた。
ルージュは避けない。
右から来た首を右手で。
左から来た首を左手で。
それぞれ真正面から受け止めた。
指が鱗へ食い込む。
そのまま二本纏めて地面へ叩き付ける。
凄まじい音だった。
大地が揺れ、森側に居る僕の足まで響く。
ヒュドラが悲鳴を挙げる。
「凄い……」
思わず言葉が漏れた。
ブランシュは瞬き一つせず、崖側の戦いを見ている。
「アレでは倒せません」
静かな声だった。
崖側へ投げる声じゃない。
僕にだけ落とす声だ。
「……うん。僕もそう思う」
ルージュが千切り落とした先から、もう肉が蠢いていた。
首元が、無いモノを埋めるみたいに膨らんでいく。
それでもルージュの猛攻は止まらない。
気付いた瞬間、背中が冷えた。
「派手にやり過ぎないで!」
僕は崖側へ向かって叫ぶ。
「シルヴィと女の子が洞窟に居るんだ!」
ルージュが戦いながらこちらを振り向く。
振り向いたと言っても、顔だけだ。
身体は未だヒュドラの方を向いている。
「おいおい、そう言うことは先に言えよ!」
言った直後、ヒュドラの尾が唸る。
ルージュはそれを拳で弾いた。
弾かれた尾が崖へ叩き付けられて、岩肌がまた砕ける。
その時だった。
背後から何かが迫って来る。
僕は咄嗟に振り返った。
次の瞬間、柔らかい衝撃が胸に打つかる。
──シルヴィ。
「……ユウキ、良かった……」
黒い髪が頬に触れる。
息が近い。
抱き締める力が思ったより強くて、それで漸く、シルヴィが本当に戻って来たのだと分かった。
「シルヴィ……女の子は?」
「大丈夫。安全な場所まで運んだ」
胸の真ん中が一気に軽くなる。
軽くなった直後、崖側でまた凄まじい音がした。
シルヴィが僕から離れ、崖側を見る。
「アレは……ルージュ様!?」
「私も居ます」
「ブランシュ様!!」
驚きと安堵が同時に混ざる。
そんな声だった。
その間もルージュは一人で戦っていた。
「おーい!ブランシュ!コイツ面白いぞ!」
崖側から張り上げられた声が飛んで来る。
ルージュの声だけが距離を越えてちゃんと届く。
「ブラン、前のヒュドラはどうやって倒したの?」
どさくさに紛れて、『ブラン』と呼んでみた。
「『面』で細切れにしました」
剣王に『ブラン』を通した瞬間だった。
「あいつも細切れに出来る?」
ブランは一拍だけ黙る。
透き通る刃を見下ろしてから、静かに答えた。
「……いえ。正直に言って、想定外の大きさでした。本来の剣なら話は別ですが、生憎、今日はこの一振りしか持って来ていません。あの大きさだと、同時に七本が現実的です」
そう言って、見えない剣を鞘から抜き出す。
光が刃を照らしたんじゃない。
そこに刃が在るから、遅れて光の方が輪郭を思い出したみたいだった。
僕は切り立った崖の黒い口を見る。
ヒュドラの後ろ。
あの洞窟だ。
「そっか……じゃあ、あそこの洞窟に」
僕は崖を指差す。
「胴体ごと押し込めばいい」
シルヴィが息を呑む。
ブランの目が、ほんの少しだけこちらへ向く。
「首を落としても再生するなら、外で再生させちゃ駄目だ。洞窟の中へ押し込んで、そのまま崩せれば……」
「封じ込められる、かも知れません」
ブランが静かに継いだ。
崖側で、ルージュがまたヒュドラを殴り飛ばす。
「おい!何か面白ぇこと思い付いたのか!?」
「胴体を洞窟に押し込める?」
「はっ!そりゃ簡単だ!」
簡単じゃない。
でも、ルージュが言うと簡単に聞こえる。
「じゃあ、残りは僕とシルヴィで──」
「うん!一本ずつ」
「良し!やろう!」
シルヴィが僕を見る。
その目の強さで、もう迷っていないのが分かる。
「ユウキ、私……さっき『面』を通した」
「へぇ、中々やるじゃん」
「意地っ張り」
「僕も通したよ」
「へぇ、中々やるじゃん」
シルヴィの口元がほんの少しだけ上がる。
「じゃあ──」
「どっちがまた通せるか──」
その先は言葉にならなかった。
ルージュがヒュドラの胴体を殴り上げる。
崖側の巨体がまた宙へ浮く。
九つの首が一瞬だけ、全部ばらばらの高さへ引き剥がされた。
僕とシルヴィの『面』が重なる。
一枚の面がもう一枚の面へ重なる。
重なった瞬間、そこに薄い厚みが生まれる。
線でも面でもない。
僅かな深さを持った、刃の届くべき領域。
ヒュドラの先。
崖をくり抜き、何物も存在しない空間。
その空白を箱みたいに掴んだ気がした。
何が起こったのか分からない。
ヒュドラの首が七本、消えた。
落ちたんじゃない。
斬れたんじゃない。
そこに在ったものが、そのまま在れなくなったみたいに消えていた。
思わず、シルヴィを見る。
シルヴィも目を見開いて僕を見ていた。
──残る首は二本。
僕とシルヴィの間をブランが駆け抜ける。
「……成る程。面を重ねて、立体へ届かせますか」
小さな声だった。
多分、その言葉は僕達にしか届いていない。
次の瞬間、ブランの『面』が閃いた。
透き通る刃が残った二本の首だけじゃなく、首と首の間にある世界ごと細く消した。
遅れて、遂に九本が落ちた。
血が噴き出す。
「今だろ!!」
ルージュが吼える。
巨体の脇へ潜り込み、両腕を胴へ叩き込む。
無理矢理持ち上げる。
浮く。
首の無い胴体が嫌な音を立てながら宙へずれる。
「行けよ、化け物!!」
ルージュの会心の一撃が今度は胴体へ叩き込まれる。




