[Side M/現代]Link: エルフ-02
次の日。
部屋の光は昨日から変わっていない。
変わっていないのに身体の中だけが少し遅れている。
iPhoneが震えた。
[エルフ]エルフの森の安全は、精鋭部隊によって維持されています。
[エルフ]森の境界が越えられない限り、安全は高い水準で保たれています。
[エルフ]危険が近づけば、それは排除されます。
[エルフ]森は偉大なる長老たちの管理下にあります。
[エルフ]あなたの保護が私たちの最優先事項です。
守る。排除する。安全性は高い。
私は短く返した。
[ミユ]分かりました。
[ミユ]森から出なければ良いですか?
送信。
送って、画面を閉じても胸の奥は止まらない。
止まらない音だけが私の中で、夜勤の予告みたいに鳴っている。
その次の日──夜勤。
施設の夜は音が少ないはずなのに、音でいっぱいだ。
ナースコールの電子音。
ワゴンのキャスタが床を擦る音。
ナースシューズが床を掃く音。
空調の吐息。
誰かの咳。
誰かの寝言。
誰かの泣き声。
私はそれを全部、仕事として拾う。
「五十嵐さん」
呼ばれる。
「はい」
返す。
検温。
申し送り。
体位変換。
排泄介助。
水分。
記録。
順番がある。
順番があるから、私は崩れない。
崩れているのに、崩れて見えない。
ポケットの中のiPhoneだけが、順番の外で熱い。
熱いから触らない。
指先だけがずっとそれをみている。
休憩。
休憩室の椅子は固い。
固い椅子に座ると身体の形が現実に戻る。
私はiPhoneを開いた。
エルフのプロフィール画面。
【メッセージ】
【リンクを申請する】
承認されたら、異世界に行くことになる。
そしたら、もうこの世界には戻れないかも知れない。
拒否されたら心が傷付く。
マッチングしたのに、申請のタイミングを間違えたらブロックされる可能性がある。
そしたら終わる。
終わったら、もう見られない。
折角、こんな綺麗なエルフとマッチング出来たのに。
未だやり取りを続けた方が良い。
そういう正論を自分に投げても指がボタンの上で止まらない。
私は息を一回だけ数えて、【リンクを申請する】を押した。
押した瞬間、後悔が先に来た。
取り消せない。
取り消せないから仕事に戻る。
見回り。
記録。
体位変換。
水分。
排泄介助。
順番に守られている間だけ、私は大丈夫だ。
窓の外が薄くなる。
黒が紺になって、灰になって、青になる。
夜勤が終わる三十分前。
ポケットが震えた。
通知画面を観る。
[リンク承認]相手:エルフ
心臓が跳ねる。
iPhoneのロックを外し、GatePair: Linkを開く。
[リンク申請が承認されました]
[リンクは成立状態です]
[【リンク】を実行できます]
──嬉しい。
嬉しいのに恥ずかしい。
遠足前日の小学生みたいで、恥ずかしい。
夜勤が終わる。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
ロッカーで制服を脱ぐ。
名札の『五十嵐』が、今日はやけに現実的だ。
帰り道。
松屋の明るさが眩しい。
牛めし。
味噌汁。紅しょうが。赤が、やけに目立った。
熱い。
熱いのに、胸の奥の方が先に熱い。
私は箸を持ったまま笑いそうになって、堪えた。
堪えても、胸だけが落ち着かない。
帰宅。
玄関で靴を脱ぐ。
部屋の静けさが戻る。
静けさが戻ると期待が目立ってしまう。
浴室へ行く。
いつもより丁寧に洗う。
身体。
指先。
髪。
泡を流す。
パジャマに着替えてベッドに入る。
遮光カーテンの隙間から朝日が細く見えた。
改めて考える。
──なんで私なんだろう。
私のアイコンはデフォルトだ。
情報も薄い。
薄いのに、承認された。
考えるほど眠れない。
眠れないのに身体だけが落ちて行く。
気付いたら夜だった。
仮眠どころじゃない。
十二時間。
太陽はとっくに寝ている。
跳ね起きる。
急いでパンを食べる。
歯を磨く。顔を洗う。メイクをする。
髪はSINN PURETEのオイルで毛先を撫でて整える。
服はスカートを選んだ。
──少しでも、綺麗だと思ってもらえる様に。
靴はPUMAのスニーカを選んだ。
ベッドに腰掛ける。
iPhone。
画面の下に【リンク】。
指が震える。
文字は逃げないで大人しく待ってくれている。
私が押した。
【リンク】
空気が変わる。
音が引き算される。
部屋の匂いが解ける。
息を吸った瞬間──森だった。
静かな森。
木々の匂いが濃い。
土が湿っている。
葉が重なり合う音だけが遠くで小さく鳴る。
静寂は時々、こちらを試すみたいに黙る。
私は辺りを見渡した。
誰も居ない。
──ただの屍のようだ。
勇者の時は待っててくれたのに。
なのに、今回は居ない。
分からない。
騙された、が先に浮かんだ。
胸の奥が急に冷える。
草が擦れる音がした。
葉が揺れる。
息遣いが聴こえる──。
方向が分からない。
心臓が五月蝿い。
五月蝿くて、気配が聴こえない。
次の瞬間、聴いたことのない咆哮。
劈く轟音。
鼓膜が破れそうになる。
木々の影が割れた。
大きい。
大き過ぎて最初は形が分からない。
分からないまま目だけが先に光る。
泡立つ唾液が糸を引いて落ちた。
匂いが刺さる。
鼻の奥が痛い匂い。
葉が焼けるような刺激。
ドラゴン──私はそう思った。
首が見えた。
一、二、三。
数える。
四、五、六、七、八、九。
九つ。
ふと、思い出した。
──ヤマタノオロチ。
影が滑るように近付く。
草が倒れる。
九つの首が同時にしなる。
私の喉が開いた。
でも、私の悲鳴は咆哮に掻き消された。




