ep.38[Side M/異世界]Link: エルフ-10(後編)
森の中は暗い。
洞窟の闇と違ってこちらの暗さには奥行きがあった。
頭の上には枝葉が重なり、足元には根が這っている。
何かに閉じ込められているんじゃない。
ただ、世界そのものが深い。
私は息を切らしながら走った。
後ろで何かが砕ける音がする。
岩か、木か、それとも剣と鱗がぶつかる音なのか、もう分からない。分からないまま、足だけを前へ出し続けた。
やがて、大きな木の根が地面から盛り上がり、その下に人ひとり隠れられそうな窪みが見えた。
私はそこへ滑り込むように身を寄せ、荒い息を押し殺す。
心臓が痛い。
頬も痛い。
何より、未だ手の中に誰かの体温が残っている気がした。
シルヴェーヌ。
白い手袋の手。
暗闇の中から差し出された手。
私はその手を掴んで、檻の外へ出た。
でも、その手を置いて来てしまった。
胸の奥がぎゅっと縮む。
息を整えようとしても、思い出すのは洞窟の出口で立ち塞がった細い背中ばかりだった。
──ヒュドラ。
何であいつが。
何で直ぐ目の前まで来てたの。
膝の上に置いたiPhoneの画面は、未だ暗くなっていない。
白い残光だけが、根の窪みの内側をかすかに照らしていた。
不意に、勇者のことを思い出す。
私は逃げてばかりだ。
私は助けられてばかりだ。
シルヴェーヌにも。
リュミエルにも。
そして、直接ここに居ないあの人にも。
そう思った瞬間、喉の奥が少しだけ熱くなった。
泣きたいのかも知れない。けれど、涙は出なかった。涙が出ない代わりに、胸の内側だけが痛い。
どれくらいそうしていただろう。
遠くで鳴っていた衝突音が、少しずつ離れていく。森の風の音が戻ってくる。葉が擦れる。枝が揺れる。世界が少しだけ息を取り戻す。
その中に、軽い足音が混じった。
私は顔を上げる。
次の瞬間、木々の隙間から白が零れた。
「……シルヴェーヌ!」
彼女は肩で息をしていた。
白い服の裾に土が付き、髪も少し乱れている。けれど立っていた。ちゃんと、自分の足でこちらへ来ている。
「大きい声、出さないで」
そう言いながらも、シルヴェーヌは小さく笑った。
その笑みを見た瞬間、ようやく肺の中に溜まっていた空気が抜ける。
「良かった……」
言った瞬間、喉が掠れた。
安心したはずなのに、息は未だ浅いままだった。
「良かったのはこっち。ちゃんと走れたね」
私は頷く。
喋ろうとすると、上手く声にならない。
シルヴェーヌは私の前に膝をついた。
顔色を確かめるように少し覗き込み、それから小さく息を吐く。
「何で待ってたの?【ブロック】して逃げても良かったのに……」
その問いは静かだった。
責める声じゃない。ただ、本当に知りたいという温度だった。
「怖くなかったの?」
私はiPhoneを見下ろす。
白い画面。トーク履歴。光。檻の中でずっと握っていた小さな窓。
私は【メッセージ】を開いた。
「これ」
[エルフ]あなたの保護が私たちの最優先事項です。
シルヴェーヌが視線を落とす。
「リュミエルとやり取りしてたトークに『私の保護が最優先』って書いてある」
「それ、リンクする前でしょ?」
「うん」
私は頷く。
喉の奥が少し詰まる。けれど、言葉は続いた。
「でも、『エルフは嘘を吐かない』。だから、リュミエルの言葉に傷付けられたけれど──」
そこで一度、言葉が止まる。
胸の痛みが遅れて脈打って、私は唇の内側を少し噛んだ。
「それでも、リュミエルの言葉が折れない心をくれた」
自分で言っていて、変だと思う。
傷付けられた相手の言葉に支えられているなんて、きっと綺麗には説明できない。
でも、あの檻の中で私を折らなかったものがあるなら、それは確かにあの人の言葉だった。
「ミユ……」
優しく名前を呼ばれて、私はようやく少しだけ笑えた。
「私ね、美しく憂えるって書くの」
「美憂?」
「そう。昔は、この『憂』って字があんまり好きじゃなかった。何で『優しい』の方にしてくれなかったんだろうって、ずっと思ってた」
私は少しだけ笑う。
笑ったのに、胸の奥は未だ熱いままだった。
「でも、今は違う」
シルヴェーヌが黙って続きを待ってくれる。
「人を憂えるって書いて『優しい』って書くの。人を憂えるのが優しさなら、それもきっと綺麗なことだと思う」
「うん」
「でも、人だけじゃなくて……そして、その後まで憂えるなら──見えてない時まで思い続けるのなら、『憂』の方が、もっと好きだなって思った」
風が少しだけ強く吹いた。
枝葉が擦れ合う音が、頭の上で小さく鳴る。
「私はずっと憂いてばかりだった。怖がって、傷付くことばかり先に考えてた。でも今は、誰かを思って苦しくなることも、見えないところで無事を祈ることも、そんなに醜いことじゃないって思う」
シルヴェーヌの目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「美憂は、飛び切り思い遣りのある女の子だよ」
「ふふ、ありがとう」
私は画面を消した。
白い光が消えても、もうさっきほどは怖くなかった。
私は一度だけ、自分の手を握る。
未だ少し震えている。
でも、その震えごと確かめるみたいに指へ力を込めた。
「憂えて終わりたくない。……その先で、誰かを助けたい」
シルヴェーヌが瞬きをする。
それから、自分の胸に手を当てるように小さく息を吸った。
「私も、今──助けに行きたい人が居る」
「リンク相手の人?」
「そう」
答えは早かった。
迷いが無くて、だからこそ少し可笑しいくらい真っ直ぐだった。
「私より弱いクセに、私のことを命懸けで守ってくれる」
「素敵な人」
「うん。最高に格好良いでしょ!」
その言い方が少しだけ誇らしげで、私は自然に笑ってしまう。
こんな状況なのに笑えることが不思議だった。
でも、笑えた。
「いってらっしゃい」
シルヴェーヌは立ち上がる。
白い服が森の暗さの中で少しだけ浮かぶ。
今度はその白が冷たく見えなかった。
「いってきます」
短い返事の中に、覚悟が入っていた。
シルヴェーヌは数歩進んでから、一度だけ振り返る。
「美憂。ここから動かないで。森の外へ出ようともしないで。未だ危ない」
「うん」
「絶対に、生きて」
私は頷いた。
今度はちゃんと、私の意思で。
シルヴェーヌの背中が森の奥へ消えていく。
その白は、もう誰かに連れて行かれる色じゃない。
誰かのところへ向かって行く色だった。
私は自分の手を見る。
この手は、檻の中でただ差し出すことしか出来なかった。
何にも触れず、待つことしか出来なかった。
でも、さっきは違った。
差し出された手を掴んで、檻の外へ出た。
私は逃げてばかりだった。
私は助けられてばかりだった。
だけど、未だ終わってない。
私もいつか、シルヴェーヌみたいに誰かに手を差し伸べたい。
そして、掴んだ誰かに勇気のバトンを渡すんだ。
──差し出された手を掴む勇気をくれた、吟遊詩人みたいに。




