ep.37[Side Y/異世界]Link: エルフ-12(中編)
ヒュドラの首が、またゆっくりと持ち上がる。
僕は剣を握る。
握り過ぎない様に。
呼吸をする。
怖い。
逃げたい。
普通に死にたくない。
それでも、未だ格好悪く終われない。
「シルヴィが戻って来るまでだ……」
震える声で言う。
「それまでは、僕が相手してやるよ」
全然強そうじゃない。
でも、ヒュドラはちゃんと僕を見ていた。
それで充分だった。
ヒュドラの首が一つ、低く沈む。
来る前の形だと分かる。
分かるのに、身体は嬉しくない。
分かったから避けられる訳じゃないことを、もう知っている。
地面が抉れた。
僕は半歩だけ退く。
退いた場所を、遅れて尾が薙いだ。
空気の塊みたいな一撃だった。
剣で受けるとか、そういう次元じゃない。
受けたら、そのまま僕ごと景色から消える。
崖の前を横に走る。
真っ直ぐ逃げたら、洞窟へ視線が戻る。
だから逃げるんじゃない。
見せる。
未だここに居る。
未だこっちだと、身体ごと示す。
首が二つ、追って来る。
残りが少し遅れる。
全部じゃない。
なら、未だやれる。
低い一本が岩肌すれすれを滑った。
僕は剣を持ち替えない。
握りを変えない。
変えたら遅れる。
刃を寝かせて、来る線の途中へ置く。
ヴェール=パッサージュ・リーニュ。
硬い感触。
斬れない。
けれど、噛み付く角度が僅かに逸れる。
牙が脇腹を掠めた。
服が裂けて、皮膚に熱が走る。
浅い。
浅いけれど、嬉しくない。
死ななかったというだけで、勝った訳じゃない。
そのまま身体を捻る。
次の首が上から落ちる。
見えてから避けたんじゃない。
さっきの一撃が外れた瞬間、次は上だと決め打ちしただけだ。
土に膝を着く。
頬の横を、重量だけを持った影が叩き付けられた。
地面が跳ね、石片が散る。
頬に小さな痛みが幾つも走った。
未だ立てる。
立つ。
息が乱れる。
乱れるけれど、吸う。
整わないままでも吸う。
止まる方が不味い。
ヒュドラが吼える。
首が、ばらばらの高さで揺れて、その全部が僕の方を向いている。
凄く嫌だ。
嫌だけれど、洞窟の方を見ていないなら、それで良い。
良くはないけど、良い。
僕は剣を下ろさない。
重い。
腕が痺れる。
手の感覚も曖昧だ。
けれど、今さら軽い剣だったとしても、多分どうにもならない。
首が三つ、同時に来る。
一つ目は速い。
二つ目は高い。
三つ目は、待っている。
待っている首が一番嫌だと思う。
後から確実に噛みに来る顔をしている。
焦らせるために動かないものは、動くものよりずっと性質が悪い。
最初の一本へ、刃を置く。
浅く擦る。
足を残す。
残した足で身体を逃がす。
高い一本の落下点から肩だけ外し、半歩だけ滑る。
避け切れない。
肩へ衝撃が入った。
骨が鳴った気がする。
視界が白くなって、次の瞬間には地面が近かった。
転ぶ。
最悪だと思う。
こんな場所で、今、地面に手を着くのは最悪だ。
正面の首が口を開いた。
泡立つ唾液が糸を引き、紫の気配がその奥で滲む。
ブレスだ。
ここで来たら終わる。
終われるか!
僕は身体を起こさず、剣だけを前へ出した。
斬るためじゃない。
顔を逸らさせるためだ。
視線を切るためだ。
首が一瞬だけ止まる。
その一拍で転がる。
紫の息が地面を舐め、さっきまで僕の居た場所が黒く泡立った。
石が溶ける音なんて、初めて聴いた。
息を吐く暇が無い。
立ち上がった瞬間、さっき待っていた三本目が来た。
遅れて来る奴は、確実だ。
僕は真正面から見る。
見るだけで身体が竦みそうになる。
けれど、竦む前に置く。
振るんじゃない。
置く。
通れ。
刃が首の横を浅く裂く。
飛沫が散る。
ほんの少しだけ、軌道が流れる。
それで充分だ。
首が僕の耳の横を通り過ぎる。
音が遅れて来る。
熱い風と腐った匂いだけが残った。
耳が痛い。
多分切れてる。
けど、聴こえてるなら未だ大丈夫だ。
未だ。
足が重い。
腕も重い。
でも、ヒュドラの首もさっきより僅かに乱れている。
僕を噛み損ねた回数が増えている。
それはつまり、僕が上手くなったんじゃない。
ただ、未だ死んでいないだけだ。
未だ死んでいない時間の分だけ、こちらの身体がこの地獄に慣れて来ただけだ。
格好良いかどうかは分からない。
でも、格好悪くは終わりたくない。
ヒュドラの尾が唸る。
来る。
僕は咄嗟に剣を地面へ突き立てるみたいに下ろした。
尾そのものを受けるためじゃない。
身体を軸へ縫い付けるためだ。
衝撃。
世界が横へずれた。
尾の先が剣の腹を掠め、僕の身体を半ば吹き飛ばす。
何メートルか分からない。
岩に背中を打ち付けて、そこで漸く止まった。
息が出来無い。
何か言おうとしても言葉が出ない。
胸の真ん中が硬いというより、凹んだみたいだった。
空気を吸おうとしても、身体の方が拒む。
不味い。
首が来る。
分かる。
分かっているのに立てない。
影が揺れる。
その中の一本が、ゆっくりと僕へ降りて来る。
速い方が未だ良い。
ゆっくり来る方が嫌だ。
死ぬまでの時間を見せられているみたいで、凄く嫌だ。
そこで不意に思う。
直接って、何だよ。
最悪なタイミングでそんなことを思う。
でも、その最悪さのせいで少しだけ可笑しくなる。
こんな状況でそんな引っ掛かり方をする自分が馬鹿みたいだった。
僕は咳き込む。
漸く空気が少し入る。
痛い。
息をするだけで痛い。
けれど、痛いなら未だ終わってない。
剣を拾う。
立つ。
足が笑う。
笑ってろと思う。
止まらなければそれで良い。
「……未だだ」
自分の声が掠れていた。
格好良くない。
別に鋭くもない。
けれどヒュドラは確かにそれを聴いたみたいに首を揺らした。
ゆっくり来ていた一本が少しだけ速くなる。
良し。
僕は岩場を蹴る。
真正面じゃなく、首の内側へ潜る。
牙と牙の間を抜けるような距離。
近い。
近過ぎる。
臭いが濃い。
ぬめりまで見える。
見えるけれど、今はそれで良い。
顎の下。
そこへ刃を置く。
線を。
通らない。
深くは入らない。
失敗だ。
けれど、首が跳ねた。
嫌がるように軌道が浮く。
そのまま横へ抜ける。
抜けながら別の一本が来る気配を背中で拾う。
拾っただけで避けられるほど甘くない。
だから避けない。
半分だけ受ける。
肩に衝撃。
今度は明らかに深い。
熱い何かが腕を伝う。
自分の血だと気付くのは遅かった。
膝を着き掛ける。
着いたらきっともう立てない。
だから、着かない。
唇を噛む。
鉄の味がした。
今は自分の血の味が一つ増えても別に困らない。
ヒュドラが苛立っている。
分かる。
首の揺れ方が変わった。
狙いが雑になる一歩手前。
雑になれば死ぬのは僕だ。
けれど、洞窟へ向くよりは良い。
だからもっと嫌がらせをする。
僕は崖沿いを走る。
わざと足を滑らせそうな場所を選ぶ。
尾を振れば岩が落ちる。
首を突っ込めば壁に当たる。
こっちが不利な地形は、向こうにも少しだけ不便だ。
首が二本、岩へぶつかった。
凄い音がして、砕けた石が雨みたいに降る。
その隙に息を整える。
一回。二回。三回。
整わない。
でも、少しは戻る。
視界の端が暗い。
血のせいか、疲労か、毒か、全部か。
どれでも良い。
今この瞬間だけ保てば良い。
持て。
持てよ。
そこで漸く、全体が見えた。
……七つ。
二本足りない。
シルヴィがやったのか。
洞窟の方で何かが起きたのか。
どっちでも良い。
未だあっちも終わってない。
そう思った直後、七つの首が間をずらして持ち上がる。
「頼むよ……ジェット・ストリーム・アタックだって、三連撃しかねーだろ」




