ep.33[Side Y/異世界]Link: エルフ-11
──こんなはずじゃなかった。
少しくらい、何とかなると思っていた。
奇跡が起きて、万に一つは勝ち目があると思っていた。
でも、これは違う。
後悔しても、もう遅い。
確実にヒュドラはこちらに気付いた。
目が合った訳じゃない。
巨大な身体から放たれる殺気には髪の毛程も隙が無い。
首が揺れる。
一、二、三……四、五、六、七、八、九。
数えたくないのに、数えてしまう。
八じゃない。
ヤマタノオロチじゃない。
ヒュドラだ。
──生還確率ゼロパーセント。
どうする?どうする?どうする?
手に握り返す感触があった。
無意識にシルヴィの手を強く握っていた。
シルヴィの顔を見る。
いつものシルヴィの目じゃない。
でも、『折れていない』。
不意に会議の会話を思い出す。
『その女の子はどうやって逃げたの?』
『私達の部隊が助けた』
シルヴィは、こんなモノと対峙していたのか……。
「シルヴィ、ごめん」
ヒュドラから目が離せないまま。
「……何が?」
「僕、失敗したんだね」
シルヴィは応えない。
「ごめん。こんなところに連れて来て」
「ううん。……大丈夫だよ」
「……いや、シルヴィだけでも逃げてよ」
シルヴィは応えない。
「頼むよ」
「ユウキ。私を見て」
僕はシルヴィを見る。
「私、『行かないで』って言ったの覚えてる?」
僕は頷く。
「ユウキが『逃げて』って言っても、私は逃げない」
僕は大きく息を吐く。
「ユウキ。大丈夫だよ」
僕はシルヴィを見詰めたまま。
「私もユウキと──」
シルヴィ、駄目だ。
それは言わないで。
続く言葉は分かってる。
きっと僕は受け止め切れない。
僕のせいだ。
僕のせいだ。
僕のせいだ。
シルヴィ、駄目だ。
「一緒に死ぬって決めてここに来たから」
シルヴィが微笑む。
──その時、ヒュドラの叫び声が聴こえる。
咄嗟に僕らは走り出す。
前でも後ろでも無く──
左だった。
翻ったマントをヒュドラのブレスが焼き切る。
たまたまだ。
左に避けたのはたまたまだった。
だけれど、前でも後ろでも……右であっても避けられていなかった。
たまたま左に避けただけで、命を拾った。
「ユウキ!」
チリン。
シルヴィのブレスレットが呼ぶ。
「私達は、それでもただでは殺されない!」
その言葉を聞いて、きっとアドレナリンが身体を巡った。
恐怖が遠離る。
「行こう!!」
チリン。
僕のネックレスが呼ぶ。
僕は柄を握る。
握り過ぎない様に──。
ヒュドラが動いた。
のた打っていた九つの首が次の瞬間には一斉にしなる。
大きい。
大きいはずなのに近付く速度が速過ぎて、目が大きさを測る前に死だけが迫って来る。
空気が裂ける。
「伏せて!!」
シルヴィの声と同時に白い光が半月みたいに広がった。
僕の前に硝子にも水にも見えない薄い膜が立つ。
ヒュドラの口の一つが吐いた紫の息がそこに打つかり、膜の表面で泡立った。
音が遅れて来る。
焼ける様な臭い。
葉が縮れる。
草が黒くなる。
防いだ。
シルヴィが防いだ。
防いだはずなのに膝が笑う。
こんなモノを前にして、今の一撃を受け止めて、未だ前に立っていられるのかと思った。
九つの首が同時に揺れる。
しっとりしている。
その『しっとり』が気持ち悪い。
重くて大きいクセに動きだけが妙に滑らかだ。
巨大な悪意だけが蛇みたいに森を滑って来る。
「ユウキ!」
呼ばれて、僕は反射みたいに剣を構えようとした。
──重い。
分かっていた。
分かっていたのに実際の重さは想像よりずっと嫌だった。
剣は持ち上がる。
けれど振るには遅い。
身体の中心が剣に負ける。
斬る形になる前にヒュドラの方が先に動く。
来る。
左から三本。
右から二本。
真ん中が一つ高く持ち上がる。
残りは揺れているだけに見えて、全部が殺しに参加している。
見えた時にはシルヴィが走っていた。
白が走る。
森の暗さの中で服の裾より先に──腕より先に──刃だけが見えた。
迷いが無い。
細い背中じゃない。
迷いを置いて来た背中だ。
九つの首が一斉にしなる。
唾液が散る。
泡が跳ぶ。
シルヴィの剣が上へ振り抜かれた。
音が遅い。
遅いのに結果だけが先に来る。
木の枝が千切れるみたいな軽い音がして、首の一本が落ちた。
落ちた瞬間、臭いがもっと濃くなる。
鼻の奥が痛い。
吐き気がぶり返す。
けれど、吐いている暇なんて無い。
首を落とされた直後のヒュドラは怒るというより早かった。
残った首の一本が地面を這うみたいな低さから真っ直ぐシルヴィへ跳ねた。
死角だ。
シルヴィは未だ振り抜いた姿勢のままだった。
落とした首の方へ身体が半歩流れている。
──間に合わない。
「シルヴィ!!」
叫んだ時には、もう走っていた。
何をしたのか自分でも分からない。
ただ、あの首がシルヴィへ届く未来だけが嫌に鮮明だった。
剣は重い。
重いままだ。
振れない。
そう思った瞬間、逆に身体が知る。
振らなくて良い。
通せ。
線だけだ。
首が来る。
シルヴィへ喰い付こうと開いた口から泡立つ唾液が糸を引く。
光る牙の並びに一本だけ嫌に真っ直ぐな筋が見えた。
僕はそこへ剣を置く。
置いたんじゃない。
通した。
ヴェール=パッサージュ・リーニュ。
剣の重さが消えた訳じゃない。
消えていない。
けれど、その一瞬だけ重さが刃の邪魔をしなかった。
僕の腕が剣を振ったんじゃない。
首の方がその線へ飛び込んで来た。
切れた。
そう思うより先に抵抗が消える。
ぬるい飛沫が頬を掠める。
首が落ちた。
落ちた首が地面で二度跳ねる。
僕は止まれず、そのまま半歩、二歩、前へ出る。
剣先が土に触れそうになって慌てて持ち直した。
心臓が速い。
耳の中で自分の血が鳴っている。
通った。
シルヴィが振り返る。
驚いている顔じゃない。
確認する顔だった。
僕生きているか。
次が来るか。
そういう目だ。
「……ユウキ!」
名前を呼ばれて僕は我に返る。
ヒュドラは止まっていなかった。
首を二本失っても残りが七つもある。
七つしかないと言える程こちらは強くない。
一本落としても景色が全く楽にならない。
寧ろ怒りだけが濃くなる。
森が揺れる。
ヒュドラの腹が大きく膨らむ。
「下がって!」
シルヴィが前へ出る。
白い膜がもう一度走る。
紫の息が叩き付けられ光の壁が軋む。
軋む音が僕の骨まで響く。
シルヴィ一人じゃ保たない。
そう思った瞬間、怖さより先に分かった。
逃げられない。
逃げる戦いじゃない。
ここから先はシルヴィが斬って、僕が通す。
僕が崩れたら、その瞬間に終わりだ。
チリン。
シルヴィのベルが鳴る。
チリン。
僕のネックレスが応える。
シルヴィが息を吐く。
「今の、見えた?」
ヒュドラから目を離せないまま、僕は頷く。
「うん。……振ってない。線を、通した」
自分で口にして漸く何をしたのかが分かる。
分かったからといって、次も出来る保証は無い。
無いけれど、さっきまでよりは何倍もマシだった。
シルヴィがほんの少しだけ口元を緩める。
「じゃあ、大丈夫。次もやれる」
全然大丈夫じゃない。
怖い。
吐きそうだ。
手も震えてる。
けれど、その言い方が出来る人の言い方だった。
ヒュドラの首がまた持ち上がる。
七つの殺意が今度ははっきり僕達だけを見ていた。
シルヴィが半歩前へ出る。
僕はその斜め後ろに立つ。
剣を握る。
握り過ぎない様に。
呼吸をする。
次はもう偶然じゃ駄目だ。
ヒュドラの首が七つ、ばらばらの角度で持ち上がる。
揃っている訳じゃない。
揃っていないことが余計に怖い。
一つ一つが別の生き物みたいに違う高さで揺れて、違う速度で近付いて来る。
どれが先に来るのか分からない。
分からないまま全部が来る。
シルヴィが剣を低く構える。
「ユウキ、私の刃を見て」
「分かった」
僕は頷く。
怖い。
未だ怖い。
けれど、その怖さを抱えたままシルヴィの手元だけを追う。
左端の首が草を薙ぐ低さで滑った。
同時に真ん中の一本が高く持ち上がる。
上下。
来る高さが違う。
避ける場所まで違う。
「低い方は私が崩す!」
シルヴィが踏み込む。
速い。
白い軌跡だけが先に走る。
刃が首へ届く直前ヒュドラの顎が捻れた。
噛み付く角度が変わる。
読まれている。
そう思った瞬間、シルヴィの剣筋も変わった。
斬るんじゃない。
押し流す。
滑り込んだ刃が低く来た首の下顎を弾いて軌道を逸らす。
牙が地面を抉る。
土が弾けて黒い草が散る。
その隙に高い一本が落ちて来た。
「上!」
叫ぶより先にシルヴィが身体を捻る。
振り上げじゃない。
半歩だけ退いて斜めに切り上げる。
刃が鱗を擦る。
硬い。
首は落ちない。
けれど、首の角度が変わる。
噛み付く軌道が外れる。
「今!」
シルヴィの声が飛ぶ。
見えるか。
見ろ。
僕は剣を構える。
重い。
重いままだ。
腕が遅い。
それでもさっきまでとは違う。
シルヴィが崩した一瞬だけ首の軌道が剥き出しになる。
その剥き出しの筋を、探す。
ある。
鱗と鱗の並びがほんの少しだけ揃う場所。
噛み付く為に伸びた首の力が一本へ集まる場所。
そこだけが細い。
僕は剣を振ろうとして、止める。
違う。
振るな。
通せ。
ヴェール=パッサージュ・リーニュ。
刃を線に置く。
首がそこへ突っ込む。
抵抗が、斬れる。
飛沫が散る。
高い一本の首が途中から重さを失ったみたいに落ちた。
地面で跳ねる。
転がる。
七つあった首が六つになる。
息を吐く暇は無い。
右から二本、同時に来る。
「ユウキ、下がって!」
シルヴィが前へ入る。
剣を横へ払う。
払った刃が一つ目の鼻先を弾く。
けれど二つ目がその背中側から回り込んで来る。
シルヴィの死角だ。
僕は足を出す。
考えてない。
ただ、シルヴィの肩越しに見えた首が余りにも近かった。
重い剣を持ち上げる。
持ち上がらない。
だから持ち上げ切らない。
肩の高さまでで止める。
首が下りて来る。
その線上へ刃を置く。
通れ。
首が自分で斬られに来る。
耳元で湿った裂ける音がした。
首が半分落ちる。
完全には斬れない。
重さだけ残して、嫌な角度でぶら下がる。
「っ、未だ!」
シルヴィが叫ぶ。
ぶら下がった首が、未だ口を開く。
紫の息が漏れる。
細い。けれど近い。
シルヴィの左手が開く。
白い膜が、僕達の目の前へ斜めに立つ。
息が当たる。
膜が泡立つ。
焼ける臭いが一気に濃くなる。
僕の目が滲む。
足が止まりかける。
「ユウキ!!」
チリン。
ベルが鳴る。
シルヴィの左腕。
僕の胸元。
音が、二つ続く。
その一拍で、僕は息を思い出す。
シルヴィが膜を維持したまま、右手の剣を振り上げる。
重い呼吸。
それでも迷いが無い。
「線、見えてる!?」
「見えてる!」
「じゃあ、落として!」
膜の向こうで、半分だけ繋がった首がもがく。
暴れている。
暴れているから、逆に筋が見える。
斬れ残った肉の捻れが、一本の線を作っていた。
僕はそこへ刃を差し込む。
振らない。
押し込まない。
ただ、その線の中を通す。
抵抗が消える。
首が完全に落ちる。
六つが、五つになる。
その瞬間、残った五つの首が一斉に怒ったみたいに持ち上がる。
森が揺れる。
太い尾が奥の木を薙ぎ倒した。
枝が砕け、幹が折れ、遅れて地響きが来る。
生き物の戦いじゃない。
災害が、こちらだけを狙って振り下ろされている。
シルヴィが一歩下がって、僕の斜め前へ位置を変える。
「前で崩す。ユウキは無理に全部を見ないで」
「無理だよ。全部見える」
「じゃあ、私だけ見て」
その言葉が、妙に真っ直ぐ胸へ入る。
「それなら誰よりも得意だ」
ヒュドラじゃなくて。
死じゃなくて。
今は、シルヴィだけを見ろ。
シルヴィの足が動く。
速い。
けれど、速さだけじゃない。
どこへ行けば首が嫌がるか、知っている動きだ。
一本の首へ真っ直ぐ行くんじゃない。
二本の間へ入る。
入った瞬間、ヒュドラの首が互いに噛み合いそうになって、ほんの僅かに軌道が乱れる。
そこを斬る。
浅い。
落ちない。
でも崩れる。
崩れた。
「今!」
まただ。
また、この一瞬だけ世界が細くなる。
僕は首を見る。
違う。
シルヴィが崩した、その先の一本の筋だけを見る。
首が来る。
僕が行くんじゃない。
向こうが来る。
ヴェール=パッサージュ・リーニュ。
線。
首が落ちる。
五つが、四つになる。
息が乱れる。
腕が痺れる。
手の皮が剥けたみたいに熱い。
僕は自分が斬ったことより、シルヴィが次の首へもう踏み込んでいることの方に驚く。
「まだ止まらない!」
シルヴィの声が飛ぶ。
分かってる。
止まったら死ぬ。
四つの首が広がる。
左右から二つ。
高い所から一つ。
正面の一つは、動かない。
動かないのが、一番嫌だ。
「来る……!」
動かなかった首が、口を開く。
腹が膨らむ。
紫の光が奥で脈打つ。
ブレス。
シルヴィが剣を引く。
防御魔法へ入る姿勢。
けれど、左右の二本も同時に来る。
防げても、噛まれる。
間に合わない。
僕は前へ出る。
自分でも驚くくらい自然に、一歩が出た。
怖い。
足は震える。
それでも、今は剣の重さより先に、シルヴィの背中へ届かせたい気持ちがあった。
「シルヴィ!左は僕が取る!」
言い切ってから、出来るかどうかを考える。
遅い。
でも、もう遅い。
「任せる!」
シルヴィが応える。
左から来た首は低い。
噛み付き。
速い。
剣を大きく振る時間は無い。
置け。
線を。
首の進路へ。
剣を差し出す。
首がそのまま飛び込む。
斬れた。
完全じゃない。
けれど深い。
首が軌道を失って、地面へ突っ込む。
その一瞬で、シルヴィの膜が立つ。
紫の息が防がれる。
右から来た首へ、シルヴィの刃が走る。
首が落ちる。
四つが、二つになる。
ブレスの光が消える。
白い膜が砕けるみたいに消えた。
僕達は同時に息を吐く。
吐いた瞬間、二つ残った首が揃って持ち上がる。
今までで一番高く。
まるで、ここから本気だと言わんばかりに。
シルヴィの肩が上下する。
僕の腕も重い。
指先は痺れている。
それでも、さっきまでと一つだけ違う。
剣が、ただ重いだけの物じゃなくなっていた。
シルヴィが僕を見ないまま言う。
「ユウキ、次は同時に行く」
「うん」
「私が右を崩す。左は見える?」
僕は残った二つの首を見る。
見える。
未だ怖い。
未だ吐きそうだ。
でも、線は見える。
「見える」
シルヴィが小さく頷く。
「じゃあ、勝とう!──」
「僕らで!」
「私達で!」
二つの声が重なる。
チリン。
──その時、ヒュドラの斬られたはずの首元の肉が盛り上がるのが見えた。
蠢く様な。
無いモノを補完する様な。
次の瞬間。
ヒュドラの首元から血飛沫を噴き出しながら──
『新しい首が生えて来た』。
全身から力が抜ける。
無駄だった。
必死に落としたはずの首がたった数秒で再生した。
「シルヴィ……」
「……【ブロック】して……ユウキだけでも──」
「シルヴィ!!」
「はい!」
シルヴィが咄嗟に返事をする。
僕を見る。
シルヴィの目に『諦め』の色が見える。
今日見た色で一番見たくなかった色だ。
駄目だ……。
──いや、違う。
今、ここで心が折れても仕方が無い。
ここまで来たのは僕の責任だ。
シルヴィの目の色は僕が作ったモノだ。
僕が塗り替える。
「女の子を助けよう」
シルヴィの目にほんの一滴、光が揺れた。




