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GatePair: Link〜【いいね】で始まる異世界マッチング〜  作者: 愛崎 朱憂
第一章:エルフ編

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30/38

ep.30[Side T/異世界]Link: 人狼-05(前編)

 ここは、獣人だけが住む村──灯京トウキョウ

 名前を聞いた時、『東京』を思い出す。

 私が住む杜ノ宮駅から東京駅までは蒼環線で二十分。

 異世界まで、二十分程度ということかと思う。


「私、マッチングアプリ初めてなんだけど、この後どうするの?」


 言うと、大和は頭を掻いた。


「正直、俺も分かんねーんだ」

「分かんないの?」

「だって俺さ、説明とか読まねーし」

「最悪だよ」


 口にした瞬間、自分でも可笑しくて、笑いが漏れた。

 大和は悪びれずに肩を竦めて、でも私の顔色を伺うみたいに一度だけ目を細めた。


「怒った?」

「怒ってない。ただ、頼りないだけ」

「それは認める」


 認めるんだ、と思った。

 言い訳じゃなくて、そのまま差し出してくる感じが変に安心させる。


「じゃあさ……取り敢えず、ここが危険かどうかだけ教えて」

「危険だよ。森は特に」

「危険の種類は?」

「食われる。消える。戻れない。あと、音が変になる場所がある」

「音が変になる、って何?」

「言葉が届かねーっていうか……いや、届いてるけど、違う意味で刺さる」


 変な言い方。

 でも大和は巫山戯て言っている様に見えなかった。


「それ、村の外だけ?」

「外が基本。村の中は……守ってる」

「誰が?」

「村長が。……俺の親父」


 大和は言い終わってから、ほんの一拍だけ黙った。

 言い方に少しだけ棘が混ざったように聴こえたのは、気のせいじゃない気がした。


「じゃあ、その村長の家に行けば良い?」

「行けば良いっつーか、行くしかねー」

「いきなりご両親に会わせるの?もう私が欲しいの?」

「ちがっ、そんなんじゃねーよ」


 揶揄い甲斐のある狼だと思った。


「お前、初めてなんだろ?なら説明役が必要だ」


 説明役。

 そう言ってくれるのはありがたいのに、『必要』の語感が私をほんの少しだけ緊張させる。

 ここでの私はゲストなのか、異物なのか……それとも、何なんだろう?


 村の中を少し歩くと、視線が点在しているのが分かる。

 人の姿をした獣人が多い。

 耳や尻尾を隠している者もいれば、隠していない者もいる。

 同じ『人の形』なのに、街の雑踏よりも静かで、足音が小さく感じた。


「大和。私のこと、村の人に言った?」

「言ってない」

「何で?」

「言うと面倒くせー。あとな……見られる」

「見られる?」

「品定め。敵かどうか。使えるかどうか。怖がるかどうか。泣くかどうか」


 最後の一つが、急に生々しい。

 泣くかどうかなんて、評価の項目に入れてほしくない。


「私、泣かなそうに見える?」

「見える」

「最悪」

「褒めてる」

「褒め方のセンスが終わってる」


 大和は、分かっていないのか分かっていてやっているのか、曖昧に笑った。


 村の道は土が固く踏み固められていて左右に小さな家が並ぶ。

 窓は少なく、扉は低い。

 灯りは少ないのに、不思議と暗くはない。

 空気が軽いのか湿度が無いのか、匂いが薄い。


 広場に出る。

 真ん中に銅像が立っていた。


「あれ、何?」


 私が指差すと大和は一度だけ目を細める。


「あぁ、あれは俺達の夢だ」


 獣人の子供と人間の子供が手を繋いで歩いている像だった。

 手の形は違うのに、繋いだ部分だけが嫌に丁寧に造られている。

 二人の手の間に小さな林檎が浮くみたいに刻まれていた。

 差し出すでも受け取るでもない。

 どちらでも出来る形だった。


「……どんな夢なの?」

「人間と仲良く共存する」

「……じゃあ、今は?」


 大和は大きく溜め息を吐いた。


「全然」

「まぁ、大和は顔が怖いから」

「……まぁな」


 大和から笑顔が消える。

 冗談のつもりだったのに、傷付けてしまった。


「ごめん。冗談のつもりだった」

「良いよ、良いよ。分かってっから」

「ほんとに怖くないよ」

「……」


 大和は私の目をじっと見た。

 何か言い返すでもなく、言い返さないまま見ていた。


「永遠名」

「はい」


 その時、大和のお腹が鳴った。


「――最悪だよ」


 私が言うと、今度は大和が可笑しそうに口の端を上げた。


「お前、普段何して過ごしてんだ?」

「私は本を読んだり、バイトしたり」

「バイト?バイトって何だ?」

「仕事のこと。私、本屋さんだから」

「本か……」


 大和は困ったように顎を擦る。

 困り方がさっきまでの雑さと違って見えた。


「俺は本とか読まねーから。親父の家なら、古いのがある。多分」

「多分って」

「知らねーもんは知らねー」


 言い切るところが狡い。

 でも、今の私にはそれで充分だった。

 知らないなら、ある場所へ行く。

 その短さが救いみたいに感じた。


 村の中心に近付くほど家が大きくなる。

 獣の骨を飾ったような門があって、その向こうに一際背の高い建物があった。


「ここ。親父の家」

「……大きい」


 大和は目を丸くする。

 異世界でも流行っているんだろうか?


「もう一回言ってくんねーか?」

「馬鹿じゃないの」


 吐き捨てる。


「デカいのが村長だ」


 大和は腰に手を当て、胸を張る。


「もう嫌だ、この狼」

「事実」


 大和は門の前で息を整えるみたいに一度だけ顎を上げた。

 それから、扉を叩く手付きが少しだけ硬い。


「親父。……俺だ」


 中から、足音がした。

 重い足音じゃない。

 静かなのに、間違いなく近付いて来る足音。

 扉が開く。


 現れた村長は──蛇だった。

 背筋が伸びている。

 目が細い。

 笑っていないのに、怒っているようにも見えない。

 そして、視線が私を一瞬で測る。


──獣人。

 だけど、大和とは違う。

 耳が見えない。

 尻尾も見えない。

 代わりに、首元の鱗が僅かに光っていた。

 蛇みたいに冷たい光り方。


「……外から来た子ですか?」


 村長の声は低かった。

 大和が何か言い返そうとした、その前に──


「どうぞ。靴は脱いでください」


 品がある。

 私は小さく頷いて、チェルシーブーツを脱いだ。

 靴を揃えて、素足で上がった。


「お父さん?」


 私は囁く。

 大和が頷く。


「あなたの名前は?」


 村長が私を見る。


「私は永遠名」


 村長はその名を一度だけ口の中で転がすように黙った。

 それから視線を大和へ戻す。


「……お前が連れて来たのですか?」

「そうだよ」

「勝手なことをしますね」

「勝手じゃねー。リンクだ」


 大和の声が少しだけ尖った。

 村長は何も言い返さない。

 ただ、私をもう一度見る。

 ちょろちょろと小さな舌が動く。


 目には温度が無い。

 無いのに、逃げ道だけは塞ぐ目だと思った。


「……それで?」


 村長が言った。


「何の用ですか?」


 大和が口を開こうとしたけれど、私は先に言った。


「本が読みたいです。この世界の本」


 村長の目がほんの少しだけ細くなる。

 笑っていないのに、笑う準備だけが見えた気がした。


「本、ですか」


 短く言って、村長は踵を返す。


「こちらへ」


 廊下を進む。

 木の匂いが濃くて、古い紙の匂いが混じっている。

 扉を開けた瞬間、紙の匂いが強くなった。


 本棚。

 背表紙。

 並ぶ文字。


「全部読んでも?」

「えぇ、お好きなだけ」


 最初に目に入ったのは、魔導書だった。

 私は呼吸を止めるみたいにして、それに手を伸ばした。


「村の本は全てここにあります」


 椅子に腰掛け、太腿に本を置く。

 

 パララララ……。


 火、水、土、風。

 光と闇。

 体系は知っている形をしている。

 けれど、どのページにも必ず同じ文が繰り返されていた。


 生まれつきの魔力。

 適性。

 出来る者と出来ない者。


 魔力は体内を循環する量。

 枯渇すれば意識を失う。

 容量は出生時に決定し、増えない。

 訓練で変わるのは精度だけ。


 血統は魔力質に影響する。

 炎系は炎系を、氷系は氷系を生みやすい。

 突然変異は稀。

 適性が無ければ魔法は起動しない。


 最後まで辿り着く。

 本を棚へ戻す。


 次。


 次に手に取ったのは魔物図鑑。

 厚くて、硬い。

 パラララ……。


 ドラゴン。

 翼開長十五メートル以上。

 鱗は鋼鉄を凌ぐ硬度。

 高濃度魔力反応。

 古代種は言語理解個体あり。


 挿絵は空を塗り潰すみたいに黒い翼を広げていた。

 口の奥が炎じゃなく光って見えた。

 息を吸うだけで火が出る顔をしている。


 解体時、心臓部より魔石を採取可能。

 炎。氷。雷。

 属性は個体差。

 遭遇時、退避距離の確保を最優先。


 リヴァイアサン。

 深海棲。

 体長百メートル級。

 魔法反射鱗。

 遭遇時、即時撤退推奨。


 挿絵の海は黒く、黒いのに泡だけが白かった。

 背中の鱗が夜の街灯みたいに鈍く光っている。

 それを魚と呼ぶのは少し失礼だと思った。


「何してんだ?」


 背後で、大和が言った。


「読んでる」


 ヴァンパイア。

 夜間活動。

 精神干渉。

 再生能力。


 アークデーモン。

 高位魔族。

 契約魔法。


 キマイラ。

 複合型。

 複数系統魔力保持。


「は?」

「ちょっと黙ってて」


 絵と解説。

 弱点。

 生息地。

 遭遇した時の対処。

 危険だと分かる。

 大和の言っていたことが字になっている。


 けれど。


──全然面白くない。


 私は図鑑を戻して、次の本へ手を伸ばす。


 武器の手入れ。

 パラララ……。


 次。


 薬の調合。

 パラララ……。


 次。


 格闘技。

 罠。

 地図。

 採取。

 生き延びるための情報だけが几帳面に揃っている。

 私の手が止まる。


「ねぇ」

「どうしました?」

「物語は無いの?」

「物語?」

「うん、誰かが考えた作り話。恋愛とか、ミステリとか、冒険譚とか」


 村長は少し考える仕草をした。

 考えているのか、考える振りなのかは分からない。


「そう言ったモノはありませんな。作り話なら──神話でどうでしょう」

「そっか……じゃあ、神話で良いよ。読ませて」

「なぁ、本当に読んだのか?パラパラと眺めてただけじゃねーか」


 大和が問う。


「あれは速読。物語の世界に長く浸りたいから、普段はあまりやらないんだけど……」

「あれで読めるのか!?」

「うん。文字を追うんじゃなくて、目に流し込むイメージ」

「お前、すげーな」

「『お前』、じゃないでしょう?」

「あ、すまん。永遠名」

「良いよ。言葉は癖になるから、中々直せないのは理解してる。だから、意識して直して、大和」

「分かったよ、永遠名」


 村長は本棚の隅から本を抜き出した。

 大和は腕を組んで離れ、小さい声で『永遠名、永遠名……』と繰り返している。


 背表紙に、短い題だけがある。


 『堕ちた林檎』。


 表紙を開く。

 汚れてはいない。

──いや、『読まれていない』。


 今度は急がない。

 文字を追う速度が自然に落ちた。

 十ページほど、目を滑らせて。

 そこで本を閉じる。


 私は村長を見る。


「これって……事実?」


 村長はゆっくり笑った。

 笑い方が蛇みたいに静かだった。


「まさか。我々は生まれた時からこの身体付きです」


 村長は柔らかく微笑む。


「そっか」

「人間とは共存を望んでいますが、中々どうして上手く理解してもらえないのです」


──共存。

 広場の銅像。

 さっき『大和達の夢』だと言った、あの像。


 私は神話の背表紙を指で撫でた。


「コレ、借りて良い?」

「差し上げますよ」

「良いの?」

「えぇ、ただの『物語』ですから」


 私は本を抱えて、立ち上がった。


「ご飯食べたい」

「……急にだな」


 大和が言ったけれど否定はしなかった。

 否定しないまま先に歩き出した。

 村長は私を一度だけ見て、何も言わずに扉を閉める。


 家を出ると匂いが変わった。

 湯気の匂い。

 肉の匂い。

 焼いた何かの匂い。


 大和の家は、案の定煉瓦造りだった。

 手際良く料理をする。

 最近流行りの料理の出来る男子だ。

 木の皿に料理が並ぶ。

 大和は座るなり皿へ手を伸ばした。


「ほら、食え」


 言い方が雑なのに差し出し方がちゃんとしている。

 私は一口食べて、温かさに息を吐いた。


 食べながら、抱えた本の重さを確かめる。


「この本、持って帰れるかな?」

「多分、持って帰れるぞ」

「じゃあ、帰ったらゆっくり読む」


 言った瞬間、大和の顔から笑みが消えた。


「そっか……やっぱ帰るんだよな」


 しまったと思った。

 『帰る』のは、イコール【ブロック】だ。

 帰ることを前提にしてしまう時点で、『別れ』が含まれている。


「うん」

「もう、帰るのか?」


 今日は金曜日だ。

 土日はバイトを休みにしていた。


「……う〜ん」


 もう少し、ここに居ても良いカモ知れない。


「折角来たんだ。一泊くらいしていけよ」

「じゃあさ──」


 私は人差し指を立てた。


「大和の耳はどうしてそんなに大きいの?」

「え?」


 唐突な質問に大和は狼狽える。

 私は大和を見詰める。


「と、永遠名の声を良く聞くためだよ」

「大和の目はどうしてそんなに大きいの?」

「おまっ、永遠名のことを良く見るためだよ」


 大和も私を見詰める。

 見詰め方がさっきまでと違う。

 巫山戯てるのに、逃げない。


「大和の口はどうしてそんなに大きいの?」


 お互いに見詰め合う。


「こうやって、沢山ご飯を食べるためだよ」


 大和はテーブルの料理を次から次に口へ運ぶ。

 私はその様子を見て、今日は帰らないことに決めた。


「……村、夜になると静かだね」


 食べ終えると、大和は手早く片付けた。

 食器が当たる音が小さい。

 大きい身体のクセに音だけは控えめだった。


「獣は夜が得意だからな」

「じゃあ、昼の私は不利?」

「不利。だから俺が付いてる」

「それって、守るってこと?」

「……守る。つーか、守るしかねー」


 言い切る直前に一拍だけ遅れる。

 その遅れが、嘘じゃない感じを残す。


「風呂、先入れ」

「ここ、お風呂あるんだ」

「当たり前だろ」

「当たり前の密度が違う」

「分かんねーこと言うな」


 大和は笑って、私の方を見た。

 その目があの人の目とは違う。

 大和は見ているのに──どこかで測っている。


 私は神話の本を抱え直し、立ち上がった。

 床が少しだけ冷たい。

 その冷たさが帰れない現実を確かめるみたいに足の裏へ残る。


 浴室は石で出来ていた。

 水の匂いが濃い。

 髪を濡らし、身体を洗う。

 いつもより丁寧に洗うのは、安心したいからだと自分で分かる。


 部屋に戻ると、大和がタオルと薄い服を置いていた。

 服の匂いは乾いていて、獣の匂いは混じっていない。

 その代わり、壁の近くに窓があって、外の気配が薄く入って来る。


「それ、着ろ。寒いだろ」

「ありがとう」

「礼は良い。……飯、足りたか?」

「足りた。寧ろ、食べ過ぎた」

「それなら良い」


 大和は椅子に座らず、壁に凭れた。

 座らないのは落ち着かないからなのか、距離を測っているからなのか分からない。

 私は気付かない振りをしながらベッドの端に腰を下ろし、神話の本を枕元へ置いた。


 『堕ちた林檎』。

 背表紙の文字を指先でなぞる。


「今日、帰らないって言ったよな」

「言った」

「……じゃあ、俺も、ちゃんとしないといけねーよな」

「ちゃんと?」

「怖がらせねーって意味だ」


 大和は言ってから、視線を逸らした。

 逸らしたのに、逃げてはいない。

 その曖昧さが今の私には少しだけ助かった。


「ねぇ」

「ん?」

「村の夢、本当に叶うと思う?」

「……分かんねー」

「分かんないの、好きだね」

「知らねーもんは知らねー」

「それ、狡い」

「狡くねー」


 私が笑うと、大和も笑った。

 でも、その笑いは短い。

 短いまま、空気が変わる。


 大和が近付いた。

 近付く速度は急じゃない。

 急じゃないのに、逃げ道だけが先に消える。


「……永遠名」

「何?」

「触って良いか?」

「は?何言って──」


 言い切る前に、距離が潰れた。

 ベッドの軋む音が先に来て、私の身体が遅れて沈む。

 肩が押さえ込まれる。

 痛くはない。

 けれど、逃げ道が消える速さが怖い。


「ちょ、待っ──」


 声が細くなる。

 細いまま、言葉が続かない。

 大和の体温が近過ぎて、息が上手く入らなくなる。


 目が勝手に別のモノを探した。

 この世界じゃない光。


 白い蛍光灯。

 黄色い背表紙。

 HIMAWARIの香り。

 黒いチェルシーブーツの足音。

 美術展の栞を取った指。

 胸じゃない場所に落ちてきた視線。

 あの人の目。


 胸の奥には、もう私の初版を手に取った誰かが居た。

 私の心の途中に美術展の栞が刺さったまま──。

 未だ、最後まで読んでもらってない。


 想い出した瞬間、身体の力が抜けた。

 抵抗の形が作れない。

 作れないまま、胸から熱い温度が昇って来て、目尻を撫で、耳を擽る。


──涙。


 大和の動きが止まる。

 止まったのに、重さだけが残る。


「……泣いてんのか?」


 私は答えなかった。

 答える言葉が無いんじゃない。

 答えたら、今の自分が壊れる気がした。


 涙だけが落ちる。

 落ちる度にあの人の目が胸を刺す。

 胸を刺されるのに、嫌じゃない。


 大和がゆっくり離れた。

 離れ方が乱暴じゃない。

 乱暴じゃないけど、遅い分だけ重い。


「……すまねー」


 大和はそれだけ言って立ち上がる。


「俺、外で寝る」


 扉の前で一度だけ止まる。

 何か言いかける気配がして、何も言わずに出ていく。


 扉が閉まる音が小さい。

 小さいのに、嫌に響く。


 私はベッドの上で身体を横にした。

 涙が止まらない。

 声は出ない。


 枕元の『堕ちた林檎』は、鹿爪らしい顔でそっぽを向いている。

 読まれていないのに、ここにある。

 ここにあるだけで、充分みたいに。


 私は毛布を引き寄せて、身体を丸めた。

 外の虫の声が続いている。

 続いているのに、世界が急に遠い。

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