ep.27[Side T/現代]Link: 人狼-04(後編)
生理二日目。
目が覚める前に子宮が起こした。
──痛い。
重いじゃない。
痛い。
生理二日目。
二日目が一番しんどい。
知っている。
それでも今回は、今までで一番酷い。
大学は無理だ。
バイトも無理だ。
ちょっと洒落にならない。
身体が全てを捨てて、新しくなろうとしているみたいだ。
私は布団から起きられず、スマホを開き、カカオを探す。
山本さん。
優しいパートさん。
仕事が丁寧で声が柔らかい。
姉妹が居たら、あんなお姉ちゃんが欲しかった。
朱憂ちゃんなら、私の妹だろうか。
『山本さん、おはようございます。すみません、生理痛が酷くて今日お休みさせてください。急で申し訳ありません』
送信。
直ぐに既読が付く。
『永遠名ちゃん、お大事にね。今日は私が入っておくから大丈夫だよ』
次を打つ。
『昨日発注した『摩天楼の怪人』が届いたら、棚に入れないでバックに置いておいてもらえますか?私が出勤した時に自分で入れます』
送信。
打ち終えた瞬間に子宮がまた痛む。
ジャンマンルーピーのチアみたいなスタンプが付いた。
昼過ぎ。
スマホが震えた。
山本さんからの返信。
『本、届いたよ。バックで預かっておくね』
指先が少しだけ熱くなる。
熱くなるのに身体は痛い。
痛み止めを飲む。
水を飲む。
朱憂ちゃんの目と、彼の目が交互に浮かぶ。
生理三日目。
目が覚める。
昨日ほどじゃない。
重いけど、動ける。
大学は休む。単位は殆ど取れている。
その代わりバイトには行く。
二日連続で迷惑は掛けられない。
店内に入る。
本屋の匂いがする。
それだけで落ち着く。
私は講談社文庫の紙の匂いと角川文庫の紙の匂いが好きだ。
バックヤードへ行く。
山本さんが居た。
「おはようございます」
「永遠名ちゃん、大丈夫?」
こう言う時は、謝罪より感謝を伝えるべきだ。
「昨日はありがとうございます」
「無理しないのが一番」
山本さんの笑い方は明るい。
仕事の笑い方じゃなくて生活の笑い方だ。
「本、ここね」
テーブルの上に文庫が置いてある。
マンハッタンの高層ビルが表紙に写る。
私は一瞬だけ呼吸を止めた。
──『摩天楼の怪人』。
新品の匂いがする気がする。
新品の匂いは、私の熱を煽る。
嗅いだらマズいだろうか。
「これ、私が出す時まで、ここで……」
「うん。置いとくね」
簡単に言えるのが大人だ。
──山本さんには言わないといけない。
「山本さん」
「ん?どしたの?」
「私……バイト辞めようと思ってて」
山本さんは目を丸くする。
最近の流行りなのカモ知れなかった。
「何で?何かあった?」
「いえ、ちょっと……映画を撮ることになって」
「あぁ、永遠名ちゃんのお母さんの関係?」
「はい。それで、私が主演に選ばれて……」
「凄いじゃん!何の映画?」
「愛崎朱憂の『取り急ぎ、コスモスだけの花束を』」
「あれかぁ〜」
「読みました?」
「いや、私、活字は苦手で……本屋なのに」
「ふふ、じゃあ映画なら?」
「絶対観る。毎日観る」
「あは!何回観ても内容は変わりませんよ」
「じゃあ、DVDも買う」
「いえ……DVDが出たら、山本さんにプレゼントします」
「よよよよよ……。良い子に育ったねぇ」
山本さんは大袈裟に泣き真似をする。
「山本さんに育てられたので」
「あ、駄目。それ……本当に泣くやつ」
「分かりました。最後のシフトで泣かせますね」
「よっ!主演女優!」
「やめてくださいよ〜」
「じゃ、まぁ……店長に話して来なよ。今は他店舗の応援に行ってるみたいだから、後二時間くらいで帰って来ると思う」
私は売り場に行き、講談社文庫の棚の島田荘司に『異邦の騎士(改訂完全版)』を見る。
背表紙は同じ黄色だ。
同じ黄色なのに、違う匂いがする気がする。
私は奥付を見ない。
見たら、初版じゃない数字を受け取ってしまう。
受け取ったら、萎える。
──もう、コレは私の初版じゃない。
夕方。
人は来る。
彼は来ない。
来ないのに、時間だけが進む。
彼の代わりに店長が戻って来た。
私がバイトを辞めたいと言うと、残念そうにしながら引き留める言葉は言わなかった。
新しいバイトを探すから今月末まで働いてほしいと言われ、私は「ありがとうございます」と答えた。
相手に迷惑を掛ける事を厭わず、自分の我儘を通す時は、謝罪より感謝を伝えるべきだ。
私は人間関係に恵まれているとつくづく思う。
閉店前。
ポケットの中でiPhoneが身震いした。
短い震え。
通知の震え。
レジの陰で画面を見る。
GatePair: Link。
[いいねが届きました]相手:人狼
指が止まる。
止まった指のまま心臓だけが動く。
──人狼。
退勤後。
私はバックヤードへ行く。
誰も居ない場所でやっと呼吸が出来る。
画面を開く。
二足歩行の狼だ。
当たり前の様な顔をしてTシャツとジーンズを履いている。
私と異世界のどちらが正しいのかが分からなくなる。
人狼の耳はどうしてこんなに大きいのだろう?
人狼の目はどうしてこんなに大きいのだろう?
人狼の口はどうしてこんなに大きいのだろう?
人狼ということは、人としての姿もあるのだろうか。
その時、バックヤードのドアが音を立てないまま少しだけ開いた。
「永遠名ちゃん、未だ居たんだ」
山本さんの声だった。
私は画面を伏せない。慌てて隠すほどのことをしている気もしない。
「……山本さん」
「どしたの?顔、真剣」
心配の顔じゃない。確認の顔だ。
私はスマホを持ち上げたまま、短く言う。
「マッチングアプリ……始めました。それで……[いいね]が来ました」
山本さんは目を丸くした。
「へぇ……今時のやつ?」
「GatePair: Linkっていう……異世界の」
「異世界?」
「戦うらしいです」
山本さんは笑った。
笑い方が優しい。
「いいねくれた人ってどんな人?」
「人狼」
「仁朗?」
「はい」
「ふ〜ん。古風な感じだね。今時っぽくない。歳上?」
私はプロフィールを見る。
「年齢は分からないです」
「そっか。会うの?」
「……迷ってて」
山本さんは微笑む。
「私は知らないけど、永遠名ちゃんが迷うなら……ちゃんと考えてるんだろうね。それとも、背中を押してほしい?」
私は首を振る。
──ちゃんと考えてる。
その言葉が思考の採点表に赤で線を引いた。
「夜遅いから、気を付けて帰るんだよ」
「はい。ありがとうございます」
山本さんが店内に入るのを見送った。
朱憂ちゃんの映画のために恋愛なんてして居られない。
異世界に行って暮らすことなんて出来ない。
──でも、GatePair: Linkに登録したのは私だ。
映画の話が無ければ、きっと人狼と会っていたはずだ。
私が選んだ訳では無い。
でも、人狼は私を選んでくれた。
朱憂ちゃんと同じ様に。
私は選べなかった。
恋も夢も。
夢は朱憂ちゃんに貰ったモノだ。
恋も選べなかったなら、人狼から貰うのカモ知れない……。
私はテーブルに置いたままの『摩天楼の怪人』に目を向けた。
『摩天楼の怪人』は初版じゃないのに、誰かに開かれるのを待っている。
開いてくれた人が中を全て理解してくれると信じているみたいに。
私が棚に出すのを、待っている気がする。
次に彼が来た時、きっと……。
私は【いいね】を保留した。
生理四日目。
血は未だ出ている。
痛みは弱い。
弱い痛みは逆に意識を刺す。
大学に行く。
講義を受ける。
駅前のコンビニでロングピースを買う。
火を点ける。
煙を吸う。
吐く。
コンビニの前に江口さんが居た。
いつもより早い電車だったのだろうか?
訊きたいことがある。
訊きたいのにタイミングを逃す。
GatePair: Linkを始めたこと。
[いいね]が来たこと。
リンクするとどうなるのか?
ブロックで本当に帰れるのか?
それ以外に帰る方法は無いのか?
全部、アプリの説明を読んだけれど、それらの問いに対する回答は見付からなかった。
言ったら、江口さんは大きく笑う。
大きく笑って駅前の朝を全部持って行く。
それが怖くて私は言えない。
煙だけを吐いて、講義へ向かった。
私は講義中、スマホを開く。
GatePair: Link。
人狼。
相手のプロフィールをもう一度だけ見る。
お芝居の稽古は来週からだ。
バイトは今月末まで。
マッチングアプリなんてしている余裕は無い。
──でも、それは私の勝手なんじゃないか?と思う。
正確には『している余裕は無くなった』だろう。
もし、映画の話が無ければ私は人狼に会いに行っていた。
タイミングが悪かった。
恋も夢も……。
ただそれだけで叶ったり、叶わなかったりするものなのだろうか。
私は夢を見付けられなかった。
人狼は私を見付けた。
私は選ばれて、それを夢に決めた。
人狼は私を選んで、私に決めた。
どちらが誠実で、どちらが理想かは考えなくても分かる。
目を見て話した彼。
胸を見なかった彼。
私の異邦の騎士。
待つだけの恋を私は未だ知らない。
この人狼はどうなんだろう。
──この人にだけ、会ってみよう。
そして、上手く行かなければ退会して、映画に専念しよう。
私は【いいね】を返した。
[マッチング成立]
生理五日目。
お昼過ぎに起きて、ナプキンを取り替える。
血が減っているのが分かる。
生理の終わりは少しだけ寂しい。
終わると現実が戻る。
現実が戻ると昨日までの熱が言い訳出来なくなる。
丸善へ行く。
山本さんに挨拶する。
「おはようございます」
「おはよーう」
山本さんの声は軽い。
軽いのに、ちゃんとこちらを見ている。
新刊を並べながら考える。
私は未だちゃんと考えていない。
考えが追い付かないのに、昨日【いいね】を返した。
返した瞬間、取り消せないものが一つ増えた気がした。
相手の【いいね】は、相手の暇とか気紛れじゃなくて、相手の時間だ。
時間の上に載っているのは相手の生活で、相手の体温で、相手の期待だ。
映画の稽古が始まれば私は逃げる。
忙しい振りをして返事を遅らせて、自然消滅みたいな顔をする。
それが一番楽で一番汚い。
私が一番嫌いな『私の形』だ。
そんな私にはなりたくない。
だから今、ここで一回だけ会う。
会って、ちゃんと線を引く。
それが私の勝手で、私の責任だ。
決めた瞬間、子宮は静かだった。
賛成でも反対でもないのが今の現実だった。
閉店後。
バックヤードを見る。
『摩天楼の怪人』は未だそこにある。
私は触れない。
今日は触れない。
触れたら、棚に出してしまう。
棚に出したら、誰かに買われる。
誰かに買われたら、私の中の勝手な順番が壊れる気がした。
机のポストイットに『私が買います。長尾』と走り書き、二千円を帯に挟む。
ポストイットをお札に貼った。
私が買って、彼にプレゼントしよう。
いつかの人みたいに、彼の読んでる本と交換してほしいと提案するのも良いカモ知れない。
私は文庫を開き、軽く紙の匂いを嗅ぐ。
創元推理文庫は大人の男性の匂いがした。
大きく息を吐き、文庫を置く。
バックヤードのドアが開き、山本さんがエプロンを外しながら言う。
「永遠名ちゃん、先帰って良いよ。今日、片付けこっちでやるから」
「……ありがとうございます」
私は少しだけ立ち尽くす。
言うべきか迷う。
迷っている間に言わないと、一生言えない。
「山本さん」
「ん?」
私は息を整えてから、言った。
「いってきます」
山本さんは不思議そうな顔で一拍止まって、それから笑った。
「いってらっしゃい」
その言葉がちゃんと背中を押した。
山本さんはバックヤードのドアを押し、閉店後の店内に出て行こうとする。
「山本さん」
ドアを抑えたまま山本さんが振り返る。
「ん?」
「この『摩天楼の怪人』、プレゼントしたいお客さんが居て……」
「……」
喉の奥が詰まる。
何て説明すれば良いのか分からない。
「『異邦の騎士』を買ったお客さんで、島田荘司がきっと好きで……だから、私がこれ買います」
目を真っ直ぐ見てくれる彼のこと。
「彼は私と同じHIMAWARIのシャンプ使ってて、私と同じこのチェルシーブーツを履いて、きっと島田荘司の棚にまた来ます。だから──」
山本さんはクスクス笑って。
「分かった。永遠名ちゃんが片想いしてるお客さんに会ったら渡しておくね」
「そんなちが……」
私が最後まで否定の言葉を言い切らない内に、山本さんは売り場に出て行く。
ドアが閉まった瞬間、一段音が遠くなる。
ロッカーの前。
机の上。
そこに未だ『摩天楼の怪人』が置かれていた。
ポケットの中でiPhoneが震える。
画面を開く。
短いメッセージ。
[人狼]いつ会えますか?一度会って話をしましょう。
私の指が止まる。
止まっているのに心臓だけが動く。
子宮は静かだ。
静かなまま私を見送っている。
私は返信した。
[魔女]今から会えない?
既読が付く。
[人狼]構いません。申請を待っています。
画面の下に事務的な光が待っている。
私は一度だけ深く息を吸って、吐いて、押す。
【リンクを申請する】
[相手の受け入れを待っています]
もう今と言ったのに、手順は手順として進む。
アプリは感情に興味が無い。
興味がないから容赦が無い。
iPhoneが一度だけ震えた。
[リンク申請が承認されました]
[リンクは成立状態です]
[【リンク】を実行できます]
私の画面の【リンク】が急に『許可』に見える。
許可される側は私なのか、私が許可する側なのか分からない。
私はDr.Martensのつま先をトントンと地面に打ち付け、ボタンをタップした。
【リンク】
画面が白くなる。
白が音を消す。
音が消えたのに、心臓の音だけが残る。
足元が一瞬だけ軽くなる。
身体の輪郭が紙みたいに薄くなる。
息を吸うのが遅れて、吐くのが先に来る。
机の上の『摩天楼の怪人』を見る。
黄色い背表紙。
島田荘司。
彼に読んでほしい本。
私の中の最高傑作。
──何故だか、胸がちくりと痛んだ。
痛む場所が違うことの理由が私には分からなかった。
光が引く。
白が剥がれる。
視界が開けた。
石畳。
広場。
空が近い。
風が直接肌を撫でる。
匂いが濃い。
そして、目の前に男の人が居た。
辺りを見渡して人狼を探す。
馬みたいな二足歩行の人。
羊みたいな二足歩行の人。
猿みたいな。
鳥みたいな。
犬みたいな。
広場には有りと有らゆる動物が服を着て二足歩行で生活をしている。
私と目の前に居る男の人だけが人間だった。
──動物園の動物も、こんな気分なんだろう。
私は一歩だけ後ろへ下がろうとして、踵が石に引っ掛かる。
転びそうになる。
男の人が当たり前みたいに手を伸ばした。
掴むのは腕じゃない。
肩でもない。
空気の端を掴むみたいな動き。
男の人が言った。
「大丈夫か?」
私の方を見ている。
胸じゃなくて、目を見ている。
私は返事の言葉を探す。
探している間に広場の音が遅れて戻って来た。
人の声。
遠い笑い声。
金属の音。
視界の端に男の人のショートパンツ。
「ショートパンツ?」
「あぁ、これか?お前がこういう短いパンツ履いてたから、一緒にしておけば怖くねーかなって思ってな」
思わず笑ってしまう。
「それは、女の子が履くから可愛いんだよ」
「え!そうなのか?」
「うん。変身しても、それ破けないの?」
「破けない様に作ってもらった」
「じゃあ、変身して見せて」
「……怖くないか?」
「私もアイコンで観てるし」
男の人が一度だけ息を吸う。
吸った空気が次の瞬間には別物みたいに喉の奥で唸りへ変わった。
骨が鳴る。
乾いた音じゃない。
濡れた硬いものが内側から形を変えながら擦れる様な音だ。
肩幅が広がる。
胸郭が押し出される。
白いTシャツが布の限界で一瞬だけ抵抗してから、縫い目の方から諦める。
腕が太くなる。
指が長くなる。
爪が刃みたいな黒い線へ伸びていく。
首が太くなって、顎の角度が変わる。
頬の骨が持ち上がって、鼻梁が前へ伸びる。
口元が裂けるみたいに広がって、牙が覗く。
目の位置が、ほんの僅かだけ上へズレる。
人の顔から捕食者の顔へ移る途中の誤差が、見てはいけないモノを見せる。
毛が生える。
皮膚の下で蠢いたものが外へ出て、背中から首筋へ、腕から胸へ波みたいに一気に覆っていく。
月光を削り出して、雨に濡らしたみたいな重い毛並みだった。
身体が二回り大きくなった。
大きいのに動きは静かだ。
石畳が軋む。
音より先に圧が来る。
鼻先から獣の熱い息が落ちる。
鉄の匂いが混ざる。
その匂いをペトリコールみたいに感じてしまって、余計に背筋が冷える。
そして最後に、ショートパンツだけが何事も無かった顔でそこに残った。
「……ぷ」
毛が腰から太腿へ伸びているのにショートパンツは破けない。
破けないまま、ちゃんと履けている。
──駄目だ。堪え切れない。
「あはははは!」
「ど、どうだ?」
どうしてこんなにショートパンツが頑丈なんだろう?
多方面への配慮なんだろうか?
「え?何だ、何だ?」
「いや……ショートパンツで、変身して、毛が伸びるって……もう」
笑いが収まらない。
「?」
「ゴンさん……あははは!」
「ゴンさん?誰だ、男か?」
「いや、こっちの話……うふふ」
男の人は私の目を真っ直ぐに見る。
「俺、お前が他の男の話をするのが嫌だ」
本気の目をしている。
「ふぅ〜、分かった。ふふふ……二度としない。じゃあ私も──」
人差し指を立てる。
「『お前』って呼ばないで。私は永遠名。永遠の名前。だから、忘れないで」
「俺は大和。大きな平和を創る。約束するよ、永遠名」
「私も約束するね、大和」




