ep.25[Side T/現代]Link: 人狼-03
生理初日。
初日は未だ動ける。
動けるというか、動ける振りが出来る。
振りをしている内に身体が追い付くこともある。
朝の支度を済ませ、服に悩む。
黒いタイツを履くか迷って、止めた。
黒のタートルネックにリーバイスの511に脚を通す。
生理の時にはいつもジーンズを選んでしまう。
一人暮らしの時にお母さんからプレゼントされた姿見に自分を写す。
──野暮ったい。
何と無く赤いベレー帽を被り、伊達メガネを掛けた。
駅へ向かう。
歩く。歩ける。足は動く。
でも、子宮の奥が一歩遅れて付いて来る。
遅れて、追い付いて、また遅れる。
その度にお腹を中から押される感覚になる。
暫く待つと、杜ノ宮駅のホームに電車が滑り込んだ。
いつもより少し混んでいる。
座席に空きは無く、私は電車の壁際に立った。
見慣れない顔がいくつかあって、気付いた。
新年度、皆が生活のペースを決めたのだろう。
ゴールデンウィークを過ぎるまでは、立って通学することになるカモ知れない。
文庫を開く。
──『魔神の遊戯』。
今朝、次は何を読もうかと考えたとき、何故か手に取ってしまっていた。
文藝春秋から出ている島田荘司の作品だ。
いつもの講談社文庫と紙の匂いが違う。
不意に頭の中に、昨日の彼の目が浮かぶ。
浮かんで、消える。
消えて、また浮かぶ。
私の目を見た人。
私の胸を見なかった人。
昨日はそれだけで世界が変わった。
世界が変わったのに、今日は血が出る。
血は現実だ。
昨日は、現実だったんだろうか。
ファッションみたいに分からないまま、大学の最寄り駅に着く。
改札を出て、駅前のコンビニに寄る。
いつもの様にロングピースを買う。
コンビニ前の灰皿で火を点ける。
煙を吸う。
吐く。
ニコチンが身体に入ると、子宮の重さが一段だけ遠くなる気がする。
「よっすー」
江口さんだった。
三年生だというのに、毎回会う。
単位が足りていないのだろうか。
「おはよ」
私は煙草を咥えたまま言う。
江口さんの視線が私の頭に止まる。
「それ、似合ってる。永遠名、地味にセンスあるよね」
私は煙草を指で挟んで、返事を探してから言う。
「ファッションって、分かんない」
「どこの帽子?」
赤いベレー帽の縁に軽く触れて、短く応えた。
「CA4LA」
江口さんは目を丸くする。
球だから摩擦は少ない。
「うそ。そんなとこ行くタイプだっけ?」
「行かない。お母さんの」
「買ってくれたの?」
「うん。多分、似合うって思ったんじゃない?」
「ずる。母が優秀」
こんな時、どんな顔をすれば良いか分からない。
「永遠名は彼氏居ないよね?」
唐突だ。
唐突なのに、江口さんは唐突が通常運転だ。
「居ないよ」
「付き合ったこととか──」
そこで一瞬だけ、膣の入口がきゅっと縮む。
「無いかな」
「えっ……」
江口さんの目がさっきより大きくなる。
「絶賛、処女です」
私は煙草を咥え、ピースサインを向ける。
「……やばー」
「ユニコーンに見初められてるから」
江口さんが笑う。
笑い方が大きい。
朝の駅前で大きい笑い方を出来る人は強い。
「私が男だったら、告ってる」
「ありがとう。でも、江口さんは本読む?」
「読まない」
「じゃあ、私達……きっと上手く行かないカモ」
「それでも良い!抱かせろ」
「ノーサンキュー」
吐いた煙が江口さんの笑い声に混ざる。
「もしかして、処女性を大事にしてる人?」
「そういう訳じゃないけど……」
そういう訳じゃない。
でも、どういう訳なんだろう。
「マッチングアプリとかしないの?」
「う〜ん……」
考えたことが無かった。
正確には考える必要が無いと思っていた。
恋愛の道にアプリがあるという発想が無かった。
でも、昨日の彼みたいな人に出会えるなら。
昨日の彼みたいな目にもう一度捕まるなら──。
膣の奥が勝手に肯定する。
子宮が賛成と両手を上げる。
準備が出来ていないクセに賛成する。
身体は矛盾が得意だ。
「あんた綺麗な顔してるんだから、やってみな」
「そんなことないよ〜」
私は江口さんに返す。
江口さんに教えてもらった返事だ。
「ウケる。これ、GatePair: Linkってやつ」
「サロゲートペアなら知ってる」
「何それ?」
「絵文字とか特殊な文字を、コンピュータが扱う仕組みの一個。分からなくても人間は生きて行ける」
江口さんの目はまた丸くなる。
転がり過ぎて角が取れてしまったのだろう。
「あんた物知りだよね」
「本を読むと知らない言葉が出て来るから、物語を理解するために調べて覚えるんだよ。今の江口さんみたいに」
「ふーん……知らんけど。兎に角、GatePair: Linkやってみな」
江口さんがスマホを取り出して画面を見せてくれる。
ハートとか、顔写真とか、見慣れない世界が詰まっている。
「江口さんもやってるの?」
「やってるけど、中々マッチングしない。私、戦えないし……」
「戦うの?」
私も目を丸くしてみた。
ぽろっと零れ落ちそうだった。
「異世界だから、魔物とか居るんだよ」
「キングスライムとか?」
「……キングスライム?」
「あはは!GatePair: Linkね、やってみるよ」
私はiPhoneで検索して、ダウンロードした。
アプリのアイコンがホーム画面に増える。
増えただけで世界が少しだけ広くなる。
「でも、男に獲られる前にあんたの処女は私に頂戴」
目が落ちない様に瞼を少し閉じる。
「……気持ち良くしてくれる?」
「あんたが望むなら、気絶するまで」
江口さんは冗談か本気か分からない顔で応えた。
「あはは!ノーサンキュー」
江口さんは「ちぇー」と言って煙草を揉み消す。
私達は大学へ向かった。
講義室に入る。
音が薄い。
薄い音は頭を軽くする。
軽くなると腹の重さだけが目立つ。
ノートを取る。
ペン先が紙を擦る。
擦れる音だけが正直だ。
講義の途中、iPhoneが震えた。
お母さんからのカカオトーク。
『愛崎朱憂の『取り急ぎ、コスモスだけの花束を』って知ってる?』
『読んだよ。でも、あれって大学生の話じゃなかった?』
『そう。原作を改訂して、大人の成長を描こうと思ってる』
『お母さんの役は?』
『彩愛ちゃん』
『主演じゃん。おめでとう』
『ありがとう。永遠名も出る?エキストラ』
『ノーサンキュー』
『公開は2031年の2月の予定だから』
『映画製作には長くない?』
『今、原作の作家さんに書き下ろしてもらってるから』
『愛崎朱憂が?』
『好きなの?』
『最近の作家で一番好き』
『永遠名が好きって珍しい。私、良い本選んだんだね』
『センス抜群』
『良かった。ところで、愛崎朱憂に会いたい?』
心臓が大きく跳ねた。
少し返事に躊躇う。
勇気が必要な返事だった。
『会いたい。会えるの?』
『打ち合わせあるし』
『会いたい』
『じゃあ、今晩』
軽い。
江口さんとの飲み会より軽い。
講義室の薄い音が急に遠くなる。
『急過ぎない?』
『急じゃないと、永遠名逃げるでしょ』
『逃げないけど』
『臨海ターミナルのルミナス9階。COMEDOR DE MARGARITA MODERN MEXICANOってメキシコ料理屋さん。今晩二十時』
『ルミナスね、了解』
了解、と打った指が、自分の指じゃないみたいに冷たい。
お腹の奥が熱い。
血が出ているのに、熱い。
昼が来る。
学食へ行く気にならない。
油の匂いが今日は辛い。
私はコンビニでおにぎりを買って、外のベンチで食べた。
喫煙所で煙草を吸いながら、GatePair: Linkを開く。
許可の確認が出る。
[通知を許可しますか?]
[リンクを許可しますか?]
通知は分かる。
許可する。
でも、リンクって何だろう?
江口さんに詳しく訊いておけば良かったと後悔した。
分からないモノは怖いので【いいえ】を押した。
[プロフィール設定]
名前:トワナ
面倒だ。
面倒なのに、指が動く。
少しわくわくしている自分に気付く。
【次へ】
画面が流れ始める。
色々な人のプロフィールがある。
そうか。自分のプロフィールも設定する必要があるカモ知れない。
[職業]
学生?本屋?アルバイト?
分からない。
──そう言えば、江口さんは『戦う』って言っていた。
それなら強そうなのが良い。
私は少し考え、【魔女】と打った。
趣味:読書。
喫煙:する。
酒:飲まない。
自己紹介欄で止まる。
一対一の相手に向けて、最初から多人数の海に文章を投げる。
変な感じがする。
私は短く打った。
【本屋で働いています。ミステリが好きです。】
プロフィール写真を設定しなくてはいけない。
前に実家でお母さんに隠し撮りされた写真がある。
ベッドに胡座を掻いて読書している写真だ。
見っとも無い格好だけど、雰囲気があって存外気に入っていた。
【完了】を押した瞬間に心臓が一拍だけ速くなる。
速くなっても何も起こらない。
私だけが少し熱い。
午後の講義を終える。
今日はバイトがある。
動ける。
未だ動ける振りが出来る。
工業街口駅へ向かう。
丸善へ行く。
店内は音が薄い。
薄い音は考えを浮かせる。
浮いた考えは昨夜の目へ寄る。
バックヤードでエプロンを付ける。
レジに立つ。
棚を整える。
パソコンの画面に昨日の売上が残っている。
数字の中に一つだけ、私にだけ刺さるものがある。
──『異邦の騎士(改訂完全版)』。
一冊。
昨日、彼が買った。
私がカバーを掛けた。
私が手渡した。
買ったのは彼だ。
でも、渡したのは私だ。
渡した瞬間だけ、あれは私の手の中にあった。
あの本は初版だった。
あの本は誰にも見せていない私の『処女』だった。
渡す前、あれは私の身体にあった。
でも、渡したのは私だ。
奪ったのは彼だ。
私が手渡した。
私が包んだ。
昨日、彼が持って行った。
私は発注画面を開く。
『異邦の騎士(改訂完全版)』を発注リストに入れる。
次に、別の本を検索する。
──『摩天楼の怪人』。
彼に島田荘司を読んでほしい。
私が好きなのは『異邦の騎士』だ。
だけど、島田荘司の最高傑作を読んでほしい。
それだけだ。
それだけのはずだ。
──私のことを知ってほしい。
私の好きな本。
私の中の最高傑作。
私の心。
私の気持ち。
私の傷痕。
私の身体。
ほんとは、栞を挟まずに会いたい。
私を読みかけのままにしないでほしい。
私は『摩天楼の怪人』も発注リストに入れた。
発注ボタンを押す。
押した瞬間に子宮が疼く。
痛みの膜が包む熱に気付かない振りをした。
ふと思い立って、文庫棚で愛崎朱憂の『取り急ぎ、コスモスだけの花束を』抜き出す。
愛崎朱憂の処女作だ。
スターバックスで働く彩愛が、ある時、お客さんから「君、凄く目が綺麗だね」と言われたことをきっかけに二人の距離が縮まって行く。
読み終えて、私は『優しい物語だった』とは言えなかった。
優しさは確かにある。
けれど、それは抱き締めるための柔らかさじゃなく、離れるための形として置かれていた。
言い換えるなら、慰めじゃなくて『区切り』だ。
レジの前で唐突に言われた一言が、偶然みたいな顔をして人生に入り込む。
そこから先はイベントで引っ張らない。
そこには妙なリアリティがあった。
寧ろ逆で、取り返しの付かない瞬間ほど小さく扱われる。
閉店前の静けさ、シールの文字、手の振り方、改札の向こうの距離。
そういう細部の方が決定打みたいに残る。
確かにフィクションのはずなのに、フィクションならもっと大きなイベントで読者の心を惹き込むことが出来るのに──敢えてそれを拒絶した処女作。
特に残酷だと思ったのは、関係の押し引きを恋の正解として整理しないところだ。
『ダメ』と言いながら交換されるものがある。
交換されたのに、何も進まない時間がある。
最後のレジで『最後のお客さんになりたい』と言われた瞬間、そこで全部が綺麗に終わる訳でも無い。
終わらせたくない側の潔さと、終われない側の生活が同じ画面に並んだまま次の章へ行く。
寄り道の一言が刃みたいに出て、謝罪が短くて、それが逆に優しい。
結婚も、名前の書き替えも、妊娠も、命の重さも、祝福だけでは語られない。
増えるのは幸福より、守るものが増える怖さの方だと、正直に書いてある。
そして最後に、風鈴の音と、病室の光と、同じ言葉が戻って来る。
戻って来るのに、物語を読んだ読者には同じじゃない。
最初は『形見』だったものが、いつの間にか『当たり前』になって、当たり前になったまま、別れの場面まで連れて行かれる。
残る花は何も言わないのに、残る言葉はずっと身体の奥に居座る。
そこがこの物語の一番冷たいところだと思う。
だから私は『優しい物語だった』と言い切れない。
優しいのは確かに優しい。
けれど、優しさだけじゃ生きられない人のために、優しさの端にちゃんと硬さがある。
私はその硬さが好きだった。
そして、渋谷の大きな画面に流れるタイトルが、悪ふざけみたいな運命の顔をして差し込まれる。
処女作での作家の祈りが『現実』となって、今、映画化の話が挙がっている──。
バイトが終わり工業街口駅から電車に乗る。
蒼環線で臨海ターミナル駅に向かった。
夜の駅は光が硬い。
硬い光は人の輪郭を正直にする。
その正直さがさっき見た祈りの重さと噛み合っていない。
ルミナスへ入る。
身体が重い。
今日はエレベータを使うことにした。
エレベータは八階までだ。
扉が開くと、キャラメルポップコーンの甘い香りが空腹のお腹に手招きをする。
久しく映画を観ていない。
『暗殺教室』、『君が最後に遺した歌』、『ゴールデンカムイ』……。
どれも惹かれないタイトルだった。
私は左手のエスカレータで九階へ上がる。
正面に見えるCOMEDOR DE MARGARITA MODERN MEXICANOは静かに明るい。
店内は天井のアーチが奥へ続いていた。
琥珀色の間接光が曲線に沿って回り、床の石目を薄く濡らす。
赤い椅子の柄が空気に沈み、黄色い椅子だけが少し浮いて見える。
テーブルの模様は近付くほど細かい。
細かいのに賑やかじゃない。
奥のバーには瓶が並び、透かし模様の灯りが影を刻んでいた。
店内に入ると足音が一つ近付いて、三番目の距離で止まった。
足音が止まった位置が分かる。
先に距離だけ決まる。
「いらっしゃいませ。ご予約ですか?」
私は喉を整える。
声が店の静けさに吸われそうになる。
「はい、長尾で予約を取っていると思うのですが」
女性は視線を落として端末に指を走らせる。
画面の光が瞳に映る。
指の動きが早い。
仕事の手だ。
爪の先だけが光を拾った。
「長尾様、三名様ですね?」
『三』のところで一拍だけ止まる。
確認というより、秤の針を合わせる間だった。
一拍の間に視界が一段狭くなる。
狭くなったのは私だけだ。
顔には出ない。
「はい。二人は後から来ます」
「承知いたしました。ご案内いたします」
私は入口が見える側の席に腰を下ろす。
背中が椅子に沈む。
肩だけが浮く。
ベレー帽を外し、トートバッグの中に入れた。
メニューは開かない。
開けば負ける気がした。
作家に会うのは初めてだった。
私は読書を通じて、作家と一対一で話してきたつもりだった。
私の中の愛崎朱憂は三十代前半。
根拠は無い。
けれど当然の様にそう思っていた。
一般企業の事務として働きながら、コツコツと物語を書き続けている。
知性の宿る瞳で、穏やかな笑顔の中にどこか影がありそうな──そんな女性だ。
きっと、知らず見ても『彼女が愛崎朱憂だ』と誰も気付けない。
今日みたいな打ち合わせの場でも最低限の会話しかしない。
その実、頭の中では物語が次々に溢れ出ている。
それが『愛崎朱憂』だ。
入口の方が一段だけ明るくなった。
光が動いた、と思った。
入口の縁だけ白くなる。
白が先に来る。
次に声が来る。
「永遠名。お待たせ」
──瞬間、私は『ハメられた』と理解した。




