[Side ヒルデガルト/幕間]聖女-後日談
祈りを終える度毎に決めることが始まる。
終えたはずの祈りが身体の中に残っていて、背筋だけが先に固くなる。
固くなるのを隠すのも聖女の仕事だった。
回廊はいつも冷たい。
白い石は季節が変わっても温度の変化を遅らせる。
その遅さに救われる日もあれば、追い詰められる日もある。
机に向かう。
紙の匂いが立つ。
墨の匂いが混ざる。
書面は整っている。
整っているから逃げ道が無い。
井戸の水量。
薬草の分配。
巡礼者の導線。
宿屋への割り振り。
護衛の交代。
どれも『今』決めなければならない顔をして、私を待つ。
扉が控えめに叩かれる。
控えめでも、待たせてはいけない音だ。
「ヒルデガルト様。評議の方々がお揃いです」
侍女の声は丁寧で、丁寧なまま急いでいる。
私は白い服の襟元を指先で整える。
──整える動作は祈りと似ている。
動作が整えば心も整うと信じられている。
信じられているから、私は信じる振りをする。
評議の間も白い。
白い壁。白い天井。白い机。白い花。
白は清潔で、清潔なものは曖昧さを嫌う。
評議の者たちは揃った所作で頭を下げる。
その揃っている──ということが圧になる。
揃った視線がこちらの返答を待っている。
「北区画の水の配分について」
「薬草の在庫について」
「巡礼の列は、明日の朝から増えます」
言葉が並ぶ。
言葉は整っている。
整っているほど私の返答は一つに絞られる。
私は頷く。
答えを置く。
置くたびに、誰かの表情がほんの僅かに動く。
動いた表情が次の要求を呼ぶ。
それを生まれてから十八年間、繰り返してきた。
繰り返せるから私は聖女でいられたのだと思う。
けれど今日は、ひとつだけ違う。
「聖女様。今日のお昼は──」
その音が耳に入った瞬間、肩がピクリと揺れた。
揺れたことに、私が一番驚く。
この世界で私に向けて『お昼』という呼び方は使われない。
それなのに、身体が覚えている。
高い天井の下。
祈りの途中。
声を途切れさせないまま。
それでも肩だけを僅かに固くして、振り返ったときに聴こえた声。
『お昼ちゃん』。
名前ではないのに、名前より近かった呼び方。
近い呼び方を拒めなかった自分が、今も私の中にいる。
拒めなかったことを私はずっと弱さだと思ってきた。
けれど、弱さのまま残っているものが、時々、私を支えてくれる。
皆が私を待っている。
私は一度、息を吸う。
吸った息が浅い。
浅い息のまま言葉を整える。
「失礼しました」
形だけの謝罪を置くと、評議の視線は揃ったまま安心の形に戻る。
疑念が無い頷きが落ちる。
疑念が無いことが、更に圧になる。
私は答える。
東門から入れる。
祈祷を先に。
待機場所は日陰へ。
正しい答えを、正しい順番で。
正しく終わらせる。
評議が整列したまま退出する。
扉が閉まる。
静けさが戻る。
戻った静けさの中で、私は自分の肩を意識してしまう。
揺れた。
私は確かに、揺れた。
揺れた理由を口にしない。
口にすれば意味が生まれる。
意味が生まれれば説明が必要になる。
説明をすれば判断を求められる。
判断を求められるなら、私は聖女のままでいたい。
だから黙る。
黙ることも聖女の仕事だ。
机に戻る。
紙を整える。
整えることで心も整うはずなのに、今日は整わない。
私は知らない内に、少しだけ余白を欲しがっている。
余白があれば祈りが呼吸になる。
呼吸があれば、決めることが『決めること』だけで済む。
その余白の形を私は知ってしまった。
引き出しの奥に青い物がある。
見ない振りをしてきた。
触れなければ揺れないで済むから。
けれど今日は、指が勝手にそこへ伸びる。
青いリボンの髪留め。
飾りは控えめで、作りは上等ではない。
それでも私には上等だ。
上等という言葉が値段ではなく温度を指すことを、私は知っている。
あの日、城下町の露店で、彼は不器用にそれを手に取った。
『似合う』とは言わなかった。
彼は断言する言い方をあまりしない。
代わりに空を一度だけ見上げた。
『青ってさ、ちゃんと強い色だよね』
『……強い、ですか』
『うん。強いのに、五月蝿くない』
彼は言葉を探すみたいに間を置いてから、私の方を見た。
『お昼ちゃんってさ、お昼の太陽みたいに温かくて優しいね』
その言葉を私は今も正しく受け取れていない。
太陽は温かい。
けれど優しいだけではない。
焼くこともある。
だから私は『優しい』を信じ切れなかった。
信じ切れないまま、髪留めだけを受け取った。
受け取った瞬間、胸のどこかが軽くなったのに、直ぐ戻った。
軽くなることに慣れていない。
軽いと決められなくなる気がした。
決められない聖女には価値が無いと教えられてきた。
けれど彼は別の言葉を置いていった。
値札も格式も持たない言葉を。
『一旦ね。一旦』
意味は曖昧だった。
曖昧なのに身体が先に覚えた。
追い付けない時に。
追い詰められた時に。
離れたくないと言えない時に。
決めろと迫られて、決めたくない自分が顔を出す時に。
それは逃げではなかった。
逃げではなく、崩れないための支えだった。
侍女がまた扉を叩く。
音が小さい。
小さいのに急いでいる。
「聖女様。町から、子どもが──」
「通してください」
私は返す。
返す声は整っている。
整っていることが、今日の私を守る。
入ってきたのは少年だった。
服は擦れて、手に土が残っている。
土の匂いが祈りの匂いと混ざらない。
混ざらない匂いほど現実だ。
少年は膝をつく。
慣れていない膝だ。
慣れていないのに、そうせざるを得なかった膝だ。
「妹が熱で。薬が足りないって言われて。聖女様、助けてください」
助けてください。
その言葉が胸に落ちる。
落ちた瞬間、私はいつも通り答えを出せる。
出せるのに、今日だけ少し違う。
私は少年の手を見る。
土は生活の匂いだ。
生活は祈りだけでは守れない。
私は頷く。
薬草を回す。
祈祷もつける。
護衛を一人、町へ向かわせる。
答えは出た。
出たのに、少年の顔は未だ固い。
固いのは答えが怖いからではない。
答えが遅れるかもしれない不安が顔に残っている。
私はその不安を見て、ふと口が動きそうになる。
いつもなら言わない言葉。
言えば責任が揺れるように見える言葉。
私は知っている。
責任が揺れるのではない。
人が──心が揺れているだけだ。
だから私は言葉を整えようとせずに言う。
「大丈夫です」
少年の眉が少し下がる。
下がるのは、安心が入ったからだ。
安心は決めることの外側にある。
外側にあるのに、確かに必要なものだ。
少年が去る。
扉が閉まる。
私は息を吐く。
吐いた息がいつもより少しだけ長い。
長い息に気付いて、私は机の端に指先を置く。
冷たい。
冷たいのに、思い出だけが温かい。
青い髪留めを取り出す。
小さな金具の冷たさが指に伝わる。
冷たいはずなのに、そこに触れていると回廊の足音が思い出される。
あの日、彼の靴音はこの石の上では少しだけ迷っていた。
迷いの音が私には妙に人間らしく聞こえた。
私は髪をまとめる。
鏡を見る。
聖女の顔をしている。
整った顔だ。
整っているのに、青い一点がそこだけ柔らかい。
夕方、侍女が巡礼の追加を告げに来る。
追加はいつも急だ。
急な追加ほど決断を急がせる。
侍女の目は私の顔を見ないようで見ている。
疲れを読んでいる目だ。
読まれると、私はさらに整えなければならない。
侍女にも安心を──。
そういう日々を、私はずっと続けてきた。
「聖女様、明日の列に、更に二十名程が──」
私は答えかけて、止まる。
止めたのは私ではない。
身体だ。
止まってはいけない、と知っている。
知っているのに、彼といた数日の間に少しずつ別の癖が感染った。
彼は困ると短く言った。
『一旦ね。一旦』
それを聞く度、私は意味を理解し切れないまま息だけが戻った。
戻る度毎に、戻った息が私の中に溜まった。
溜まったものが今日の私の身体を止めた。
私は、もう一呼吸だけ置く。
置くことが許されない圧が背中に乗る。
背中の圧に逆らわず、私はただ呼吸を探す。
探して、漸く言葉が出る。
「……一旦ですね。一旦」
言った瞬間、胸の中の石が一つだけ転がる。
転がる音は小さい。
小さいのに身体が軽くなる。
侍女が目を瞬く。
意味は分からないはずだ。
分からないのに、口元が少しだけ緩む。
私はその緩みを見て、気付く。
圧が、少し弱まっている。
圧が弱まったのは、私が答えを遅らせたからではない。
答えの前に呼吸を置いたからだ。
呼吸を置くことを私が自分に許したからだ。
侍女は小さく頭を下げる。
下げ方が、いつもより柔らかい。
柔らかい所作は私の緊張が伝染しなかった証拠だ。
私は書面を取り、導線を組み直す。
組み直しは手慣れている。
手慣れているのに、今日は手が震えない。
夜。
祈りの前の静けさ。
静けさはいつも同じはずなのに今日は少しだけ温かい。
回廊で護衛と擦れ違う。
槍を持つ護衛が、ほんの僅かに目を細める。
細めるのは笑みではない。
けれど硬さが一段だけ落ちた目だ。
私はそれを読む。
読むのが私の仕事でもある。
彼らは私が柔らかくなったことを喜んでいる。
喜びを直接言葉にしないのも彼らの礼儀だ。
礼儀があるから私は呼吸を保てる。
自室に戻り、灯りを落とす。
闇の中で私は髪留めに触れる。
冷たい金具。
机の端の冷たさ。
回廊の足音。
紙の匂い。
それらに触れる度、数日が『過去』ではなく『今』になる。
今の私の呼吸に混ざる。
彼と過ごしたのは数日だった。
大神殿の時間の中では祈り一回分にも満たないほど短い。
短いはずなのに、私の中に確かに残っている。
残っているのは彼の言葉だけではない。
言葉の外側の選び方が私の中に残っている。
私は小さく息を吐く。
吐いた息が今日の昼より少し長い。
長い息が出たことに自分で驚いて、驚いたことを恥ずかしく思う。
恥ずかしいのに、戻さない。
「一旦ですね。一旦」
声にすると、肩の力が少し抜ける。
抜けた分だけ世界が生き易くなる。
その分だけ、祈りが祈りのままでいられる。
決めることは、明日も山ほどある。
明後日もある。その先も、そのまた先も。
それでも私は知った。
決める前に呼吸を置いて良い。
呼吸を置くことが誰かを困らせるとは限らない。
呼吸があるから、決めた言葉が人に届くこともある。
私は髪留めをそっと戻す。
戻す音が小さい。
小さい音なのに、それが『終わり』の音には聴こえない。
寧ろ『続き』の音だ。
最後までユウキさんは嘘を吐かなかった。
別れも、言わなかった。
それでも最後に、口の形だけで『またね』を遺してくれた。
そう見えただけ──でも良い。
『またね』に見えた、と信じている。
私はそれを、祈りみたいに瓶に詰めて胸の真ん中に仕舞っている。
二日間。
彼と一緒に居た二日間が、今も私の中で生きている。
生きているから、私は明日も決められる。
決めることの中に、ほんの小さな余白を残したまま。
* * *
この世界には、誰にも届かなかった手紙だけを集めて並べている棚がある。
宛名も、切手も、きちんと貼られたまま。
ただ投函されなかったか、投函された後で行き先を失った手紙たち。
空になった瓶に詰められて、誰にも触れられない棚に置かれている。
一つ、言葉になれなかった想いを詰めた瓶がある。
差出人は、あの大聖堂で祈っていた彼女だ。
宛名は、もう書けない。
書けないまま、それでも想いだけが褪せずに遺っている。
瓶は開かれない。
瓶の中の言葉は誰にも届かない。
届かないまま、空の瓶だけがそこにある。
瓶のガラスに反射する彼女の涙は、もう乾いている。
乾いたまま、解けない。
解けないまま、今日も棚に並んでいる。
誰かに届かなかった言葉は、いつだって少しだけ遅れて、別の誰かの胸に残る。
残ったものの名前は──多分、祈りだ。




