[Side Y/異世界]Link: エルフ-07
七日目。
森の朝は静かだ。
静か過ぎると安心じゃなくて不安になる。
昨日まで聴こえていた鳥の声が今日は疎らだった。
遠くの水音だけが妙に大きい。
水音が大きいというより、他の音が削られている。
僕は歩きながら自分の足音を数えた。
数えている時点で集中出来ていないのだと思う。
だのに、目だけは勝手に先を追う。
隣を歩くシルヴィは、いつもと同じ速度で、いつもと同じ顔をしている。
だけど、視線の置き方が少しだけ違った。
見ていない振りで、ずっと見ている。
「今日は境界を見るだけ。近寄らない。分かってるよね?」
「分かってる。僕は近寄ったこと無い」
「うん。知ってる」
境界は線が引かれてる訳じゃない。
だけど分かる。
漂う空気がここから先、保証は無いって顔をしている。
きっと保証は顔が広いんだろう。
葉の色が濃くなっている。
濃いのに奥行きが薄い。
森が壁みたいに詰まっている。
詰まっているのは木じゃない、厚顔無恥な空気だ。
僕は立ち止まった。
地面の苔が所々黒ずんでいる。
黒ずみが濡れじゃなく乾いた色をしている。
「……焦げてる?」
「焦げじゃない。焼け──に近いかな」
シルヴィは屈み、指先で苔を軽く擦った。
白い手袋が汚れたのにシルヴィは気にしない。
そのための手袋なんだろうか?
「匂い、分かる?」
シルヴィの差し出す指に鼻を寄せた。
湿った森の匂いの奥に、酸っぱい様な鉄みたいな匂いが混じっている。
鼻の奥じゃなく、胃の方に落ちる臭いだ。
「嫌な臭いと──その奥にベッドで嗅いでる匂いがする」
「馬鹿。エルフの森は、ここまで」
『ここまで』が距離じゃない。
『ここまで』は線だ。
『だけじゃない』はテイジンだ。
少し先に背の高い草が不自然に倒れている場所があった。
風のせいに出来る倒れ方じゃない。
風なら、もっと雑になる。
『足跡?』と僕が言い掛ける前にシルヴィが首を振った。
首を振るのが早い。
早いから、考える時間が無い。
「見なくていい」
「……見たら、分かることもある」
「分かることが増えると、怖いことも増えるよ」
シルヴィの言い方は軽い。
だけど軽いまま、僕の足を止める。
止められるのが悔しいのに、止まる方が正しいと分かってしまう。
「確かに、シルヴィの怖さも分かってきた気がする」
負けっ放しも悔しくて、僕は反撃をする。
「ユウキを守るために怖くなる私は、嫌?」
キレキレのカウンタだった。
「コレが、サーフェスの面か」
「面は線の上に乗れるからね」
僕らは引き返した。
引き返しているのに背中から追われている感じが消えない。
途中、何度も振り返る。
振り返っても、森しか無い。
森しか無いのに、森が近付いて来る気がする。
帰り道で道が一つ消えていた。
昨日まで確かにあった分岐が木々に塞がれている。
自然の形をしているのに意図がある気がしてならない。
僕はその意図を言葉に出来なかった。
少し遠回りになる別の道を選ぶ。
選ぶだけで疲れる。
森の中での選択は、いつも次の『何か』に繋がってしまうから。
それが良いモノであっても悪いモノであっても──選択した自分の責任だ。
拠点の門が見える頃、門番の顔が硬かった。
硬い顔は、僕らの帰りが遅いことを責めているんじゃない。
森の方を責めている顔だった。
「巡回が増えてる」と門番が短く言った。
説明じゃない。
報告でもない。
現実だけを置いていく言い方だった。
その夜、寝付けないまま僕は森の音を聞いた。
聞いているのに、何も聴こえない。
何も聴こえないのが、一番怖い。
静けさの中で、僕の心臓の音だけがずっと仕事をしている。
暫くして、シルヴィがそっと起きた。
掛け布団が擦れる音。
シルヴィの重さが遠離かる。
シルヴィが花を摘んでいる音がする。
水音が短く続いて、直ぐに途切れる。
部屋の静けさが戻るのに、僕の耳だけが戻れない。
ドアが閉まり、コップで水を飲む。
暗くて見えなくても、シルヴィの気配と足音で僕には分かる。
目だけじゃ無く、耳もシルヴィを覚えたみたいだ。
掛け布団の端が少し持ち上げられ、滑り込む様にシルヴィの匂いがベッドに入って来る。
森の匂いに混ざる石鹸みたいな匂い。
耳だけじゃ無く、鼻もシルヴィを覚えたみたいだ。
シルヴィの手が僕の心臓辺りに置かれ、肩に頭が乗せられる。
重さは軽いのに、人の重さだ。
鼻だけじゃなく、僕の全部がシルヴィを覚えたみたいだった。
「起こした?」
「起きてた」
「嘘。息が起きてない」
「……じゃあ、半分」
笑い声は出さない。
でも、笑ったのが分かる。
分かるのが、今は安心する。
「眠れない?」
「……うん」
「大丈夫。ここは私の家だよ」
『家』という言葉が今は強い。
強い言葉は、優しい顔をして逃げ道を消す。
僕は返事をしないまま、息の数だけを数えた。
シルヴィの手は、胸の上に置かれたまま優しく胸を叩く。
その度毎に、シルヴィのブレスレットのベルが小さく鳴る。
五月蝿いのに止めたくない。
僕はその音の残りを頼りに夢に落ちて行った。
落ちて行くというより、落ちないように目を閉じた。
八日目。
朝から会議だった。
大きな部屋に人が集まるほど、言葉が減って行く。
減るのに、空気だけは増える。
増えた空気が息を重くする。
リュミエルは席に着くと、最初に言った。
「境界の動きが私の予想より早い様です」
早い。
それは予定が狂っている速度だ。
「巡回を増やしてください。境界の確認を優先に。無駄に近寄らないよう改めて全員に伝えてください」
無駄に、という言い方が引っ掛かった。
無駄じゃないなら近寄ることがあるという意味に聞こえたからだ。
年嵩のエルフが静かに口を開いた。
「外から入った者が居る。森の匂いが変わるのは、当然だ」
──僕のことを言っている。
名前を出さないのに、視線で矢を飛ばす。
エルフの矢は確実に獲物を捉える。
刺さる場所が分かるのに避けられない。
別の声が続く。
「原因を外に返せば良い」
リュミエルは止めなかった。
止めないという選択が場を落ち着かせるのを知っている。
僕は言い返さなかった。
言い返しが森の内側の秩序を崩す。
「返す、では足りない」
秩序が崩れたら、境界は守れない。
守れないと、全員が死ぬ。
僕の言葉のせいで、全員が死ぬ。
その形だけは耐えられない。
「森は森だ。外の者は外へ」
だから黙る。
リュミエルが止めないということは、僕も言い返すべきじゃない。
どれだけ周りが騒いでも決裁権はリュミエルが握っている。
会議は結論だけが前に進んだ。
言葉は丁寧で決定は冷たい。
リュミエルは淡々と決定のみを落としていく。
「子供の区域を内側へ。水源の守りを二重にするように。夜間の灯を落とさないこと」
安全策が積み上がるほど、危険が現実になる。
廊下に出た時、シルヴィが僕の袖を軽く引いた。
「今日は、一人で歩かないで」
「……どうして?」
「私のお願いに理由が欲しい?」
「ううん。要らない」
シルヴィは軽く笑った。
笑ったまま視線だけで僕の背後を示した。
誰かが居た。
居たのに、僕が振り向いた瞬間に消えた。
「……見られてる?」
「見られてる、じゃない。数えられてる」
数えられてる。
その言い方は、僕を『人』から『要素』に変える。
「誰に?」
「未だ言えない。言うと、余計に拗れるから」
夜。
家に帰ろうと準備をしていた。
廊下の奥で足音が一つだけ鳴った。
ドアの隙間から影が動くのが見えた。
ドアに近付く。
次の瞬間。
「そこから離れて」
背後にシルヴィが立っていた。
足音が無い。
いつ来たのか分からない。
声が低い。
いつもの軽さが無い。
ドアの向こうの影が動きを止めた。
「何をしている」
シルヴィの言葉は短い。
短いのに、逃げ道が無い。
ドアの向こうから男の声が返って来る。
「命令だ。森のために確認しているだけだ」
「誰の命令だ」
影が黙った。
黙った時点で答えている。
シルヴィはドアに近付いた。
近付いた瞬間、空気の密度が変わる。
「森のためって言葉を武器にして、ユウキを排除するつもりなら──あなたは今から『私』の敵だよ」
その言い方が優しくない。
でも冷静で正しい。
そして、怖い。
影は何も言わずに去った。
去り方が逃走だった。
シルヴィは僕を見た。
いつもの顔に戻っている。
戻っているのに、戻り切っていない。
「こう言うこと。分かった?」
「うん。遅ればせながら、ね」
「ごめん。見せるつもり無かった」
見せるつもりが無い『芯』ほど、残る。
僕は何も言えなかった。
九日目。
森の圧は外からだけじゃなかった。
中も詰まって行く。
リュミエルに呼ばれたのは夕方だった。
執務室ではなく、自室の方に呼ばれた。
リュミエルの雰囲気が明らかに今までと違う。
「ユウキ。境界をどう感じていますか?」
質問がリトマス試験紙みたいに聞こえた。
僕は出来る限り、アルカリ性の言葉を探す。
「怖い──明らかに、死の匂いがする」
「はい」
リュミエルは頷いた。
頷き方が青色で疲れている。
「外から来ているのは一体の魔物です」
「たった一体?」
「はい。たった一体です」
リュミエルは僕を見据えたまま頷く。
「剣王ブランシュ様が討伐したとされる──ヒュドラ」
シルヴィが応える。
僕はシルヴィに当然の質問を投げた。
「じゃあ、剣王にまた倒してもらえば?」
「ブランシュ様は、エルフの森には居ない」
シルヴィの表情に『これ以上は今、聞くべきじゃない』と書かれている。
「じゃあ……リュミエルは賢王なんでしょ?剣王と肩を並べるなら、魔法でドカーンとさ──」
「そのヒュドラの大きさが問題なのです」
「大きさ?」
「うん。私が対峙した時、伝説よりも二回りは大きかった」
「剣王ブランシュ様はヒュドラを討伐した功績で、剣王となったのです」
そこで、僕は漸く問題の大きさに気付いた。
「リュミエルでも……倒せない?」
シルヴィは黙り、リュミエルが応える。
「えぇ、森を守る策を何とか考えることしか出来ません」
守る。
その言葉が僕の中の線を揺らした。
線は、善悪の線じゃない。
琴線なんて綺麗なモノでもない。
──越えたら戻れない線だ。
リュミエルの目は真っ直ぐ強い。
表情からは疲れが見える。
こういう表情を僕は知っている。
そして、ふと思ったことを口にする。
「……森のために、誰かを犠牲にするつもりなの?」
僕は言ってしまった。
言ってから、遅かったと思った。
リュミエルの目は驚きを隠せなかった。
僕から視線を逸らさない。
「それを避けるために、様々な策を練り続けているのです」
「もし……その策が全て失敗したら?」
沈黙が落ちた。
シルヴィも何も言わないまま、目を伏せている。
落ちた沈黙が僕の肺を押す。
苦しくて息が出来ない。
「ユウキ。我々が守るべきは『森』です。揺れるのは、森では無く──『心』です」
慰めじゃない。
理解だ。
理解があるほど、逃げ道が無くなる。
守るって言う人は、どこか遠くの守れない現実を見ている。
僕は窓の外の森を見た。
近い。
今日も、昨日より近い。
来ているのはヒュドラじゃない。
『選択』そのものだと思った。




