[Side T/現代]Link: 人狼-02
二〇二六年四月四日の土曜日。
駅前の風が少しだけ柔らかい。
四月の匂いは、未だ冬の乾きを混ぜたまま少しだけ花に寄っている。
花の匂いじゃない。
花に寄ろうとしている匂いだ。
私は杜ノ宮駅の改札へ向かって歩く。
肩に掛けた鞄が小さく揺れて、文庫の重さが背中を叩いた。
土曜の朝の駅は平日より少しだけ嘘が薄い。
急いでいる人の歩幅が短くて、でも遅い訳じゃない。
皆、自分の一日を自分で決めている顔をしている。
足元を見る。
黒いタイツにショートパンツ。
DIANAのローファー。
迷った結果だった。
玄関でDIANAのローファーと白いCONVERSEのローカットを見比べた。
歩き回る日ならCONVERSEで良い。
遊園地とか、水族館とか……歩くことが目的の日なら。
でも今日は買い物をするだけだ。
私はローファーを選んだ。
迷って、いつもローファーを選んでしまう。
私にとってのファッションは、分からないままに出来るカテゴリだった。
ホームに立つ。
風がタイツ越しに膝を触って、離れる。
それだけで今日がちゃんと始まる気がした。
電車が来る。
扉が開く。
私は乗って、座って、文庫を開く。
──『容疑者Xの献身』。
私は東野圭吾と村上春樹が大嫌いだ。
映画を観て、感動した。
感動してしまったから、昨日から読み始めた。
それがもう、気に入らない。
少し読めば分かる。
完璧だ。
文章が綺麗で、トリックも綺麗で、登場人物の心がこちらに無理無く入って来る。
欠けているところが見当たらない──天衣無縫。
脱帽だ。
だから、腹が立つ。
この本は、二〇〇六年の第六回本格ミステリ大賞受賞作だ。
そういう事実を私は知っている。
同じ年の候補に、島田荘司の『摩天楼の怪人』が並んでいた。
私は島田荘司が一番好きだ。
理由は分からないけれど、ずっとそうだった。
きっと『異邦の騎士』のせいだと思う。
だから、二〇〇六年が気に入らない。
その年に、『島田荘司が負けた』という形で残っているのが気に入らない。
それまで島田荘司は『無冠の帝王』と呼ばれていた。
今は違う。
二〇〇九年に日本ミステリー文学大賞を受賞している。
それでも私の中では別だ。
二〇〇六年は終わっていない。
私はページを捲る。
紙の音は小さい。
小さいのに、頭の中だけが煩い。
良い。
巧い。
腹が立つ。
名作だと分かっているから、余計に腹が立つ。
島田荘司が好きなだけの自分が、子供みたいで嫌になる。
それでも読むのを止められない。
腹が立つまま、ページだけが先に進んで行く。
面白ければ面白いほど、この名作への怒りが込み上げて来る。
昨日の学食での出来事も八つ当たりだったのカモ知れない。
そんな苛々を解消するため、今日は買い物をする。
臨海ターミナル駅へ向かう。
臨海ターミナル駅の改札を出て、右に折れる。
西口のルミナス。
名前だけ光っている。
エレベータは好きじゃない。
箱の中に居るだけで目的地に着いてしまう。
ふらふらと色んなお店を見るのが好きだ。
不意に『匣の中の失楽』を思い出した。
エスカレータを上がって行く。
七階に着いた。
Dr.Martens。
「いらっしゃいませ。お探しのものはありますか?」
良かった。
女性だった。
「チェルシーブーツが欲しくて」
「ありがとうございます。よろしければこちらへ」
案内された棚にチェルシーブーツがあった。
私はそれを指差して言う。
「これ試着したいです」
「ありがとうございます。サイズはいくつですか?」
「二十一・五です」
言い切ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
大人の数字じゃない気がするからだ。
小ささが数字で確定してしまう。
店員さんは棚の札を見る。
表情は変えない。
「あ~……こちらのモデルですと、最小が二十二・〇センチからになりますね」
「そうですか」
このやり取りは珍しくない。
「じゃあ、二十二・〇。試してみたいです」
「畏まりました~。少々お待ちください」
店員さんが奥へ行く。
棚の黒だけが残る。
戻って来た店員さんは箱を抱えていた。
蓋が開けられて前に置かれる。
チェルシーブーツは処女みたいな顔で箱に収まっていた。
お腹の奥が急に熱くなる。
「こちらです。どうぞ」
試着をする。
ローファーを脱ぐ。
誰も入ったことの無い中に、つま先をそっと入れる。
踵を滑り込ませようとするが──革が固い。
ヒールループに人差し指を引っ掛け、強く捩じ込んだ。
立つ。
一歩、踏み出す。
「どうでしょう?」
「……少し、大きいカモ」
私は御手洗潔の様に行ったり来たりを繰り返す。
「インソールってありますか?」
「はい。ご案内しますね」
店員さんがインソールを持って来る。
「一旦、入れましょうか?」
「はい」
私は長椅子に腰掛け、ブーツを脱いだ。
店員さんが屈んで、ブーツの中にインソールを敷く。
私はもう一度、さっきより深く足を入れる。
立つ。
今度は私の足を包み込む様にフィットしている。
一度入れたから、中が私の形を覚えたみたいだ。
「どうでしょう?」
「大きい感じが減りました」
私は鏡に向き合い身体を左右に揺らす。
近付いたり、離れたり、振り返ったりする。
「似合いますか?」
私は店員さんに問う。
「とてもお似合いですよ」
鏡越しに脚を見られているのが分かる。
太腿の内側だけが騒がしい。
やっぱり女性で良かったと思うのと同時に、タイツを履いて来なければ良かったと後悔した。
タイツ越しじゃなくて、素足のまま入れたい。
「これください。インソールも一緒に買います」
「ありがとうございます。ではレジへご案内しますね」
私はチェルシーブーツを脱ぎ、ローファーを履き直す。
レジで支払いをする。
「お持ち帰りはどうされますか?箱もご用意出来ますが……」
「箱は結構です」
邪魔になるし、ゴミになる。
箱は綺麗なまま捨てられない。
捨てられないものを増やしたくない。
「承知しました。では袋にお入れしますね」
「このまま履いて帰っていいですか?」
「はい、勿論です。タグだけ外しますね。インソールも入れておきます」
タグが外れる。
外れる音は小さい。
私はローファーを脱いで、チェルシーブーツに履き替える。
店員さんがDr.Martensのショッパーを広げた。
ショッパーの中にDIANAのローファーが収まる。
革の匂いに混ざって、私の匂いがした。
自分の匂いを嗅いでいる時みたいに、頭の奥が少しぼうっとする。
私は踵を三回、軽く打ち付ける。
家に帰る時の魔法だった。
「お似合いですよ」
「そんなこと無いです」
江口さんに教えてもらった返事を返して、ショッパーを受け取る。
店を出る。
廊下の床に出た瞬間、自分の足音が変わったのが分かる。
変わっただけで、少しだけ落ち着く。
中が温かい。
買って良かった気がした。
臨海ターミナル駅へ戻る。
駅前のガラスに自分が薄く映る。
足元が黒い。
黒いだけで余計なことが減る。
電車に乗り、ショッパーを膝に置いて座る。
私は文庫を開いた。
家に着いて、鍵とチェーンを掛ける。
ショッパーからローファーを出して、チェルシーブーツと共に下駄箱に戻した。
戻す動作は片付けというより謝っているみたいだった。
でも謝る相手は靴じゃない。
自分の気分に、だ。
次の日、工業街口駅の改札を出ると、ショッピングセンターの床がそのまま続いている。
駅と建物が繋がっているのは便利だ。
便利な場所は、逃げ道も少ない。
でも、雨からは守られる。
私は丸善のバックヤードへ向かう。
開店前の店内は音が薄い。
音が薄いと、考えが浮く。
棚の間を抜ける。
いつもの道。
いつもの角。
いつもの匂い。
その棚にひっそりと檸檬が置いてあった。
果物の檸檬。
黄色い。
棚の色と喧嘩する黄色だ。
──檸檬が置いてある。
私はまた苛々する。
気持ちは分かる。
ここは丸善だ。
こういう周りを恐れないユニークさは嫌いじゃない。
でも、これは違う。
引用じゃない。
置き逃げだ。
主張のあるテロではなく、無差別通り魔だ。
ディテールが無い。
置き方に意思が無い。
選び方に責任が無い。
檸檬である意味も無い。
あるのは『自分』だけだ。
『ここに置いた自分』だけが残る。
ただの自己満足に梶井基次郎を巻き込むべきじゃない。
刃物じゃないのに、店の空気だけを切って本人は帰る。
意味を残さない。
主張もしない。
ただ、傷口だけを置いていく。
仕掛けるなら、仕掛ける礼儀が要る。
檸檬は丸善の京都本店に置くべきだ。
京都なら檸檬は勝手に意味を持つ。
街が言い訳を受け止める。
積み上がった時間が置き方の雑さすら物語にする。
でも、ここは違う。
ここでの檸檬は、ただの果物だ。
ただの果物のまま意味振っている。
意味振るなら、作法も一緒に置くべきだ。
私はそれを手に取り、落とし物棚に置いた。
棚の上に黄色が沈む。
沈むのに、目立つ。
「おはようございます」
バックヤードに入る。
壁のカレンダが目に入る。
──四月五日、日曜日。
苛々が止まらない理由もそこで分かった。
生理前だった。
分かった瞬間、苛々が静かになる訳じゃない。
苛々の輪郭がはっきりするだけだ。
バックヤードでエプロンを付ける。
鏡に映る自分の足元は、昨日買ったチェルシーブーツだ。
ローファーじゃない。
それだけで今日は少しだけ別の日になる。
昼前。
レジに並ぶ人が途切れた瞬間に私は息を整えた。
棚の奥から、一冊の本がこちらへ近付いてくるのが見えた。
黄色の背表紙。
私は遂にその時がやって来たと思う。
──『異邦の騎士(改訂完全版)』。
その本を持っているのは男性だった。
黒いアシンメトリのコート。
白いTシャツ。
黒いパンツ。
──黒いチェルシーブーツ。
私と同じ靴。
昨日買ったばかりの靴。
気付いた瞬間、足首が勝手に熱くなった。
熱いのに理由が無い。
彼はレジの前に立った。
同じ靴に足を入れた二人が向かい合う。
最も警戒しなくてはならない一番目の距離のお客さんだった。
私は「いらっしゃいませ」と言う。
言い慣れた言葉なのに舌が少しだけ遅れる。
彼の目が私の目を見る。
──胸じゃない。
胸の辺りに落ちて来ない。
目が、目に来る。
「君、凄く綺麗な髪だね。天使の輪が綺麗に出てる」
私は一拍置いてしまった。
置いた一拍が私の中で大きい。
「え?あ……」
戸惑いが先に出た。
警戒じゃなく、戸惑い。
何を聞かれたのか意味が受け取れない。
「そういうのってさ、美容院でやるの?それとも、毎日のお手入れの仕方にコツがあったりするの?」
少しゆっくり話されて、私の髪のことを言っているんだと理解が追い付く。
本屋のレジでされる質問じゃない。
でも嫌じゃない。
嫌じゃない理由が分からない。
「僕も、そんな風に艶々な髪になりたいな〜って」
髪を褒められたことは無い。
いや、髪を話題にして来る人が今まで居なかった。
「……あ、いえ。美容院とかじゃなくて、普通に家でトリートメントしてます」
彼の目が予想していなかった応えを受けたかの様に、少し開く。
「へぇ、何てやつ?特別なトリートメント?」
「普通に、どこでも売ってます」
「僕も欲しいから教えて」
「あ、はい。HIMAWARIってやつ──」
言うが早いか、彼は食い気味に被せる。
「僕と同じじゃん。流石にトリートメントは使ってなかった。シャンプとコンディショナだけだ。今度、トリートメントも買ってみるよ」
『同じ』という言葉が胸の奥に落ちた。
──他にも同じモノが私達の間にあるのを私だけが知っている。
それも一緒に落ちたのに、全然痛くない。
痛くないことが初めてで……少しだけ怖くて、反対にとても嬉しい。
「はい。ありがとうございます」
「ありがとうって……君、ディアボーテの営業さんだったっけ?」
彼は少し大袈裟に笑顔を見せる。
「あ……」
同じことが嬉しくて、仕事中なのを忘れていた。
「君は本屋さんなんだから、本屋さんの仕事をしてください」
「あ、すみません」
私は慌ててレジを打つ。
「ごめんごめん。揶揄っただけ、僕が関係無い話したんだよ。あ、カバー掛けてください。袋は不要です。PASMOで」
その慣れた台詞から、本屋に慣れているお客さんだと分かる。
「はい。すみません」
「だから謝らなくて良いって。寧ろ、僕は楽しかったよ。ありがとう」
私はカバーを掛ける。
手が丁寧になる。
丁寧にすると、落ち着く。
私と同じHIMAWARIを使う人が、私と同じDr.Martensのブーツを履いて、私の一番好きな『異邦の騎士』を読み……私と同じトリートメントを買おうとしている。
レジ横の栞を彼が選んでいる。
花の栞。
美術展の栞。
──私なら美術展の栞を選ぶ。
何年の何月頃にこの本に出会った。
そんな今日という記念の日に。
そして、彼は運命の様に当たり前に美術展の栞を取った。
「商品は、こちらです」
「綺麗にカバーしてくれてありがとう。お仕事頑張ってね」
彼は会釈して去って行く。
足音が残る。
チェルシーブーツの音。
私は自分の足元を見る。
私も同じ音を持っている。
落とし物棚の檸檬は『全部目撃しました』という顔で沈黙を貫いたまま、未だそこに居る。
足首が熱い。
頭が熱っぽく、ぼうっとする。
結局、彼の目は一度も私の目を離さなかった。
これは私『対策』では無く、私『特効』でも無く……私『銀弾』だった。
杜ノ宮駅の自宅に着くと、鍵を閉めて、チェーンを掛けた。
気が焦っていた。
ブーツを脱ぐのに手間取った。
玄関に腰を降ろし、片足を抜く。
もう片方も抜いて、ヒールループを持ち、下駄箱に入れようとして──革の匂いに混ざって、私の匂いがした。
新品の匂いじゃない。
私が素足で中に入っていた匂いだ。
子宮の奥がさっきより近い場所で熱くなる。
心臓が五月蝿いくらいに血液を身体に巡らせる。
太腿の内側が疼いて身体が先に準備を始めた。
一瞬、呼吸の仕方が分からなくなる。
肺じゃなくて、もっと奥が先に吸ってしまう。
靴の中は暗い。
暗いのに、私の体温だけが残っている。
それだけで、頭の中が静かに崩れた。
ブーツのつま先が下駄箱の板に当たる。
乾いた重い音がする。
その音が妙に生々しく聴こえた。
扉を閉めようとして、私は漸く自分の手が動いていることを思い出す。
頭が遠くに離れ、身体の熱を俯瞰する。
昼に来た彼の顔が浮かんだ。
輪郭じゃなく、順番に。
短い黒髪だった。
黒が密で、整え過ぎない束が残っていた。
生え際から額は隠していなかった。
店の蛍光灯を受けると額の面が先に立ち上がって、顔の印象が真っ直ぐに寄った。
輪郭は丸みが強かった。
頬の線が柔らかく顎は尖らない。
角が無いのにボヤけてもいなかった。
肌は明るめで、荒れた質感は見えなかった。
近付いても、目が先に情報を拾った。
耳は主張しなかった。
でも左だけ……小さなゴールドのフープが光っていた。
鼻筋は細過ぎなかった。
派手じゃないのに、顔の中心として形が崩れない。
口元は笑っていると言い切れるほど動いていないのに、冷たくも見えなかった。
眉は濃過ぎない黒だった。
角を立てずに静かに線を引いていた。
──そして私より二十センチほど高い位置にあった目。
私の目を真っ直ぐに捉えていた。
黒目が深く、光の返りが調度良かった。
覗き込んだ時、こちらの感情だけが先に映って、逃げ道がゆっくり塞がって行く様に感じた。
気付いた時には、惹き寄せられていた。
私は見詰め合った瞳を思い出しながら、玄関先でヘタり込んだ。
身体がガクガクと痙攣を起こして、中々止まらない。
濡れた下着とタイツ、ショートパンツを洗面台に置き、蛇口を捻る。
下駄箱を閉め、タオルで玄関先の水気を吸い、そのままゴミ袋に捨てた。
蛇口を閉めて、服を脱ぎ、浴室に入って身体を綺麗に洗った。
次の日、生理が来た。
子宮が待っている彼は来ない──そう結論付けてしまったみたいに。




